2014年12月16日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
詩篇
32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ
32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
32:9 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。
32:10 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
32:11 正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。
今、読んできてくださった箇所は、本当にすばらしい約束です。3000年前にダビデに与えられた約束だけではない。我々一人ひとりに対する呼びかけであり、すばらしい約束でしょう。「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。
今日は、この救い主、主イエス様を見上げる大切さ、また可能性、すばらしさについて一緒にちょっと考えたいと思います。
確かに聖書は、神の子であっても救われた者であっても、救いの喜びを失う可能性がある。信仰が成長しない理由は、イエス様だけを見ずに、他人を見たり悪魔の惑わしによって耳を傾けたりするからに他なりません。
イエス様を見上げない者は、本当に気の毒です。間違った道に進んでしまうからです。けれど、いつかは必ず回復されると聖書は言っています。イエス様は、決して捨てないと約束してくださったからです。
ここで2つの導き方があると書かれていますね。一つは、目を留めて諭す導き方であり、もう一つの導き方は、くつわや手綱を持って押さえて従わせる方法です。イエス様の目、あるいはイエス様のまなざしによって、導くことのできない人々もいるでしょう。そういう人々に対しては、イエス様はやむをえず、仕方がなくてくつわや手綱をもって従わせざるを得ません。
それはしばしば、苦しみや悩みを伴いますけど、くつわや手綱を持って導かれる場合でさえも、主はその人々を捨てようとしない。愛し続けてくださるのです。それですから、いかなる状態にあってもイエス様の愛を覚えることによって、信じる者は誰でも安心して、前向き生活を送ることができます。
確かにくつわや手綱を持って導かれる時には、苦痛が伴います。我々が自己決定や自己支配を捨てて、イエス様だけを見上げて信仰生活を歩む方が、どれほど苦痛を伴わない簡単なものであるか解ります。
結局、我々の見上げる目の方向によって、喜びに満たされた者となるか、あるいは自ら墓穴を掘る結果になるかのどちらかです。皆さん、日光には、見猿、聞か猿、言わ猿という3つの猿があります。
すなわち、悪いものを見たり、聞いたり、話したりしなければ安全に保たれるという教訓を意味しているのではないでしょうか。すなわち、人間は見たり聞いたり話したりすることのない状態に置かれた時、たとえば、めくら、おし、つんぼは色々な事から確かに守られます。
今度も奄美大島で、やっぱりこの全く目の見えない兄弟に会いました。けど、輝いています。彼の祈りを聞くと、もう嬉しくなる。主はすごいとしか言えません。自分のお父さんと一緒に住んでいるし、お父さんは94歳。けれども二人は本当に主にあって一つです。
主は導き手であられるから、全部主から受け取ればもう問題ない。この態度を取っているから本当にありがたい。家族の人々みんなイエス様を知るようになったから、本当にありがたい。
目に見えるものだけに心を奪われて、イエス様を見失ってしまう時が、一番危険な時なのではないでしょうか。現実だけを見るか、主の約束に頼るかのどちらかです。旧約聖書の中で、イスラエルの民にすばらしい国が約束されていたのです。
この国とはどういうものか、やっぱり前もって見たい、調べたいと思われたから12人の人々が選ばれ、遣わされました。10人は、イスラエルの人々に次のように言ったのです。「私たちには、自分がいなごのように思われ、また彼らにもそう見えたに違いない。結局、無理だよ。あきらめましょう。」
けれども、2人だけ違う態度をとったのです。「主に背いてはなりません。その地の民を恐れてはならない。主が我々と共におられるから、彼らを恐れてはならない。」と二人だけ証ししたのです。
この事からも解るように、確かに目に見える現実は、遣わされた使者が言った通りだったのです。夢ではなかったのです。現実でしたけど、彼らは目に見えない現実を見失ってしまったのです。すなわち、主を見上げることを忘れてしまったのです。けれど、主を見上げる者は想像しなかったほどの力を体験します。
ヨハン・セバスチャン・バッハという音楽家は、多くのいわゆるカンタータを作ったのです。その中で「主を見上げる者は、新たなる力を得、鷲のようになる」という言葉を使って音楽を作ったのです。
言葉はもちろん事実そのものである福音そのものですけど、音楽を聞くと本当に踊りたい気持ちになる。直子さん知っているでしょ。あのカンタータは、本当にすばらしいものです。けども残念なことに、多くの信仰を持っている人も、鷲のようにじゃなくて、もぐらのような者になっているのじゃないでしょうか。
その意味は、結局、自分、自分、自分の事しか考えられないし、自分の事でがんじがらめになってしまい、主を見上げる事ができなくなっている状態です。主を見上げると、主のまなざし、すなわち主の愛に満ちたまなざしを見ることができます。ちょっと一箇所読みましょうか。
マルコ伝
10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
10:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
10:20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
彼よりもイエス様は、悲しんだんじゃないかな。この男は、少なくても飢え渇きを持っていた。結局、心は満たされていなかったのです。したがって、主の前にひざまづき、「永遠のいのち、いつまでも続くいのちを受けたいけど、どうしたらいいの」と尋ねました。
この人は確かに欲しいものを持っていたのです。財産家だった。けど財産にもかかわらず、心は満たされていませんでした。というのも、彼には目に見えるこの世のものが、移り行くはかないものであることが解ったために、永遠のもの、永遠のいのちをどういうふうに自分のものにすることができるかと尋ねました。
人間はすべて、永遠のいのちによってのみ、本当の意味で満たされるようになります。永遠のいのちを得るためには、自分の滅び行く状態を知って、救いの必要性を知ることはどうしても必要です。その状態を示すために、イエス様はこの若者に旧約聖書、出エジプト記の2章、いわゆるモーセの十戒を示しました。「殺すな。姦淫するな。盗むな。偽証を立てるな。欺き取るな。父と母を敬え。」と話された時、この若者は「心配しないで、そういう事は全部守っています」と言ったのです。
すなわち彼は、自分自身の本当の状態について、全くめくらでした。自分自身の罪を知らない者は、当然罪を告白することができない。そして罪を告白しない者は、罪の赦しをも得ることができない。さらに罪の赦しを得ていない者は、永遠のいのちをも持つことができません。
ヨハネ伝
3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
そうするともうおしまいです。多くの人々は、この若者のように「もうすべての事を守っています。間に合っています」これは取りも直さず、悪魔がその人々の心の目をくらまし、自分自身の本当の状態を見ることができないために、そのような事になってしまいます。ラオデキヤの教会に、主は言わざるを得なかったのは、本当に大変なことです。
黙示録
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
知っていれば、まだ良い方なんです。癌になった人は、まず何も感じないでしょう。健康そのものと思うかもしれない。けど医者は「気の毒、長くても3か月間しかもたない」知っていればいいよ、知らなければ悲劇的なのではないでしょうか。
イエス様は、今読んだ若者に、若者の心の状態を見ておられ、彼が悪魔によってめくらにされている事を、よく知っていましたが、決して彼を捨てようとしなかったのです。詩篇の作者であるダビデは、この主のすばらしさ、主の恵みをもちろん、何回も何回も経験したのであります。
詩篇
34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。
ダビデは、こういうふうに告白した。どうして?体験的に知るようになったからです。
詩篇
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
ダビデは、こういうふうに主の恵みを褒め称えざるを得なかったのです。
イザヤ
57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
66:2 主の御告げ。わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。
前に読みました金持ちは、自分自身の本当の心の状態を知らなかったにもかかわらず、イエス様は限りない愛を持って、彼を見つめられました。その時、イエス様は彼に向って「あなたは、一番大切なものが欠けている」と言われました。
「もしも、あなたがわたしに従って来たいなら、持っているものをみな売り払って、わたしの十字架を負って、わたしに従って来なさい」とイエス様は彼に答えたのです。イエス様は、この御許に来た人を心から愛しておられました。
まことの深い愛そのものが、すべてを売り払い、十字架を負って従うことを要求しました。この若者に向けられたイエス様の深い愛のまなざしは、もちろん今日来られた一人一人に対しても向けられている。イエス様は、まことの救いを、心の満たしを提供しておられます。満たすことだけでなく、イエス様に従って来るようにと招いておられます。
罪を赦された者こそ、永遠のいのちを持ち、救われている者です。イエス様は、いつも人間一人ひとりの事を思い、最高の目的を指し示そうとしておられます。その意味で救われたから、後で大したことはない、もう充分だと思っている人がいるなら、それはちょっと良くない態度です。
イエス様は、この若者を見て彼を愛した。イエス様のまなざしとは、愛のまなざしであります。もう一箇所ちょっと読んでみましょうか。なぜならば、イエス様のまなざしとは、愛のまなざしだけではないから。希望のまなざしです。あきらめる必要はない。前向き生活することができるからです。
ルカ
19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。」
イエスは、その場所に来られた時、上を見上げて言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」この背景になっている場所、すなわちエリコという町は、主なる神によって祝福された町ではない。呪われた町でした。
ザアカイは、この呪われた町に住んでいた男で、取税人のかしらで、金儲けに一生懸命になっていました。おそらく彼は、正しくない方法をも使って金を貯めたのではないでしょうか。
けれど彼は、豊かであるにもかかわらず、満足していなかった。心の平安、変わらない喜びを全く知らなかったからです。この男は、どういう訳か、イエス様によって自分の満たされない気持ちが満たされる事を、思うようになりました。それですから、イエス様を見たい、イエス様に会いたいと心から願ったのです。そして、こう書いてあります。
「イエスは上を見上げました。」そこで桑の木に登っていたザアカイと、視線がぶつかったのです。ザアカイは、イエスのまなざしを知った時、そこに本当の希望があることを知りました。ザアカイは、イエス様が自分の名前を呼ぶのを聞きました。そして、それと同時にイエス様が、自分に対して何らかの関心を持っていることも解りました。しかも、主イエス様はザアカイの家に泊まると仰り、ザアカイとの交わりをも提供してくださったのです。ザアカイは、イエス様を自分の家に受け入れる準備が出来ていました。イエス様を受け入れることこそが、最も大切なのではないでしょうか。
ヨハネ伝
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
第1ヨハネ
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
はっきり確信するためであると書いてあります。イエス様の近くにいることは、大いなる祝福を意味しているということを、ザアカイは知ることができました。
イエス様に出会った者は、決して闇の中に留まることはありません。なぜならイエス様は、光そのものであられるからです。ザアカイは、罪を告白せざるを得ませんでした。そして彼は、イエス様の口から直接、自分の罪が赦されていることを聞かされたのです。この事はザアカイにとって、一つの大転換を意味していたのです。
それまで彼は、自分中心の生き方をし、欲のかたまりでがんじがらめとなっていました。今や、イエス様を喜ばせ、イエス様に従って行きたいという願いだけを思うようになったのです。私たちもイエス様の希望のまなざしを必要としているのです。
将来の事を考えると、人間的には望みなく、慰めのない状態のように思われるかもしれない。焦ったり、失望したり、落胆したりすることがあるかもしれない。その時には、主イエス様を見上げてください。そうすれば、ザアカイのように、イエス様の希望のまなざしを見ることができます。
イエス様の希望のまなざしは、私たちがイエス様の交わりを持つように招いておられます。イエス様との交わりとは、どういうものでしょうかね。イエス様との交わりとは、イエス様が光の中を歩まれたように、私たちもイエス様と共に光の中を歩むことに他ならない。それだけではなく、イエス様との交わりとは、いのちそのものであるイエス様以外に、拠り所を持たない事を意味します。もう一つ、イエス様との交わりとは、ただイエス様に喜ばれる者になりたいという、心からの願いを持つことです。
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