2014年12月27日、佐久家庭集会
ゴットホルド・ベック
エペソ
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
聖書を読むと、だいたい、単数形ではなくて複数形が使われています。今の箇所もそうでしょう。『私たちは、』この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けている。単数形で読むことができれば幸せ。『私そのものは、』御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち、罪の赦しを受けている。これを確信をもって告白することができる人は、本当に幸せです。
イエス様と我々の違いは何ですかね?私たちは生きるために生まれた。イエス様は、死ぬことができるために生まれた。神としては死ねません。死ぬためにイエス様は奇跡的に人間の体を持つようになったのです。死ぬため。けれど、この死とはどういう恐ろしいものであるか、我々は想像できません。イエス様の死とは結局、全人類の犯した罪に対する、いわゆる天罰でした。
イエス様はいかに悩んだか、苦しんだのか、(私たちには)生きている間に、つかめませんし、理解できません。十字架につけられたイエス様はすべての人間の過ち、わがままを一人ぼっちで犯したものとして取り扱われたのです。
イエス様の教えによっては、残念ですけど、誰も救われ得ない。イエス様の教えを守ろうと思っても、できるものではないからです。確かにイエス様はいろいろなことを教えたんです。けど、守るためではなくて、破るため。たとえば、イエス様の変な命令があります、『あなたの敵を愛せよ。』はい、かしこまりました!と思っても、笑い話だよ。敵を愛する人間はいません。許すことができたら、せいいっぱい。けれど、愛せない。
イエス様はどうして、こういうことを教えたかといいますと、結局、人間は、自分のむなしさ、力の無さ、罪深さを知るためです。ですから、イエス様の戒めとは、守るためではなくて、破るために与えられているのです。
宗教は確かに要求します、人間から。まことの神は要求しません。まことの神の呼びかけとは、『私は、あなたをありのままで愛している。』どうして、愛されているのか、いくら考えても分かりません。愛される理由がないんです。人間はみんな、捨てられて、ゴミのように捨てられて、永遠に光のない、希望のない地獄で過ごすようになっても、誰も文句を言えないよ。当然ではないか!けども、そうならないようにイエス様は、犠牲になった。死にました。けど、死ぬために必要だったのは、生まれることです。
確かに、我々はマリアを拝みません。カソリック教会の場合はやはり、ちょっと違う。けども、マリアはすごい女性でした。『あなたは、あなたの主人と関係なしに、子供を産むようになる』と、伝えられた時、普通の人だったらショックを受ける。いちばん、大きなショックを受けたのは彼女、それと、ヨセフだったのです。親しい関係がなかったのに、どうして妊娠するの?もちろん、彼にも、天の使いが現れて(言った)、『心配しなくてもいい、彼女は男と関係を持っていなかった。特別な器になる、産む子供は、何千年も前から約束された救い主ですよ。』
イエス様はどうして生まれたか?結局、死ぬため。ですから、聖書の中心とはイエス様の代わりの死。イエス様の流された血です。ですから、今の箇所は、本当に大切です。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち、罪の赦しを受け取るのです。これは神の豊かな恵みによることです。
アメリカの初代の大統領は、ジョージ・ワシントンだったんです。どうして大統領になったか、それも偶然ではなかったでしょう。彼は、立派な人格者よりも、生けるまことの神に頼ると間違いない、主に頼る、自分の力でがんばっても何もならないと、はっきり分かったのです。
けども彼は、若いと言ってもいいかな、67歳で死んだのです。本当は、丈夫そのもので、病気を知らない男でした。けどもある日、ちょっと喉が痛い、どうしよう。近くのお医者さんのところに行って、彼はとんでもないことをやってしまったんです。風邪を治すために、何リットルもの血を取ったんです。4~5リットル。そうすれば、いくら健康な人であっても死ぬんです。けども、当時のやり方とはそういうものでした。血を取ると人間は病気になる。今だったらもう、裁判だけではなくて、刑務所になる。人殺しです。けども、当時の医者はそういうことを、もちろん、分からなかったし、考えられなかったし、けども、ワシントンの時代にも本当は、許されないことでした。
どうして?大統領がなくなった時、ベッドのそばに聖書が置かれていましたよ。彼はもちろん、聖書は神の御言葉であると疑いませんでした。信じたのです。けども、血の大切さを全く分からなかったようです。今日は、時間がないんですけど、ある意味で面白くない聖書の本があるんです。レビ記、家でお読みになれば、確かにおもしろくない。
レビ
17:11 肉のいのちは血の中にあるからである。
17:14 すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。
聖書はおそらく、血液学の教科書を除いて、他のどんな本よりも、血とその大切さについて、多くのことを語っています。確かにワシントンの時代、血液の知識はまったくなかったでしょう。けど、聖書を信じることはできたはずです。無知と迷信のために、何千年来、伝えられてきた単純明快な神のみことばを、少しも信じようとしなかったために、犠牲となった命の数は、とても数え切れない。
医者は、血を取ると人間は元気になる(と信じた)。逆。血の中に命がある。血がなければ誰でも死にます。
聖書では、内面的な生活や主なる神とのあいだ、主なる神との永遠の関係とに絡んで血の大切さを解いております。この場合、大切なのは人間の血ではなくて、別の血です。すなわち、我々のために流されたイエス様の血です。
確かに多くの人には、信じがたいことでしょうけど、本当なんです。聖書のもっとも大切な言葉のひとつは『血』です。血を流すことなしには、罪の赦しはない、という言葉が何回も出てきます。結局、代わりに死ぬ人がいなければ、救われる道はない。けれども、聖書はもうひとつ、すばらしいことを言っているんです。「イエス・キリストの血が、すべての罪から私たちを清める。」
罪の報いは死であると聖書も言っています。ここで問題になることは、これは単に宗教的な迷信か、科学的な事実かということなのではないでしょうか。もし、事実としたら、それは全宇宙でもっとも大切な事実です。結局、人間の永遠の運命は、この事実を受け入れるか、拒むかであります。
みことば、聖書は、今、話したように、大切なことを伝えるために与えられています。聖書の中でもっとも大切な事実は、言うまでもなく、イエス様の代わりの死です。イエス様の流された血です。
第一ペテロ
1:18 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
当時の信じるものを励ますために、ペテロはこういうふうに書いたのです。イエス様の血は、尊いものであるから、流された血は、大いに愛されていることを意味します。考えられないほど愛されている証拠そのものです。イエス様の流された血とは、単なる教えというよりも、唯一の救いの道です。
もう少し後です。今度はペテロではなく、ヨハネは次のように書いたのです。
第一ヨハネ
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
ニュースを見たり、テレビを見たりすると、毎日、ニュースが出てくる。けど、いいニュースはない。今の文章は良いニュースです。『御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』
この世でもちろん、いろいろな宗教があります。宗教は、どうしてあるかといいますと、人間がだまされ易いから。どういう宗教であれ、全部、うまく行く商売に過ぎません。イスラム教は、何と言っているかといいますと、神は子供を持っていない。けど、御子がなければ救いの道はない。なぜならば、イエス様は、「わたしは、道そのものであり、真理そのものであり、いのちそのものです」と、自分自身を明らかにしてくださいました。
最近はあまり聞いていないけど、昔は統一教会が非常に盛んだったんです。彼らはもちろん、聖書を使おうとしなかった。自分の作ったものを持っていったんです。『原理講論』だったんですね。主に東京の早稲田大学で非常に盛んだったし、一度、頼まれたんです。統一教会の間違いについて、学生に話してください。当時のサカイダ先生という非常に立派な人格者に頼まれて、けども、やっぱり、統一教会について話すと、『原理講論』、彼らの聖書を読まないと問題だと思ったんですけど、日本語はめんどくさい、ドイツ語だったら読むと約束したんです。そして、彼らは持ってきたんです。ドイツ語だったら読むと約束したから、仕方がなくて、読んでしまったんです。けども、注意しながら、もちろん読んだんです。「血」という言葉は、一回も出てこなかった。そうすれば、救いの道がない。にせものです。
なぜなら、人間の代わりに罪のない者が死ななければ、罪の赦しはあり得ないからです。イエス様の血はすべての罪から清めてくださる。これこそ、最高のいいニュースなのではないでしょうか。永遠に渡って、私たちはそのために、感謝せざるを得なくなるに違いない。
ヨハネ
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て(・・・・結局、私を見て・・・・)信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。
良い行ないをして、一生懸命、努力する者なのではない。信じると救われます。信じることとは、御言葉をそのままで受け入れることです。パウロは、自分の信仰生活において、『勝ち得て余りある』ということができたのです。『私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となる(ローマ8:37)』と、あります。
パウロという男は、勝利の秘密を握っていました。『私はキリストとともに十字架につけられた。もはや私が生きているのではない。キリストが私のうちに生きておられる』(ガラテヤ2:20)と、彼は言うことができたのです。大切なのは自分ではないイエス様です。代わりに死なれた、血を流されたイエス様です。
聖書の中心とは、言うまでもなく、人間のどうしようもない状態、罪にまみれた状態、それから、イエス様の流された血です。パウロはローマにいる人々に書いたのです。よく知られている箇所です。
ローマ
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
3:26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
いちばん幸せな人間はどういう人間であるかといいますと、私はイエス様の血によって義と認められた、良しとされた、永久的に受け入れられたと、告白できる人々なのではないでしょうか。
主なる神も、人間も、悪魔も、罪の事実を認めています。罪の働きは三つではないかな?
第一番目、主なる神に対して、隔ての壁ができたのです。大部分の人間は、罪とは悪い行いであると思っているんです。聖書の言っている罪とは違う。罪とは主なる神と人間のあいだの隔ての壁です。それだけなんです。人によって、その壁の厚さが違う。もう、自我の塊で、自分、自分、自分のことしか考えていない人々の場合、この壁はずいぶん厚い。1メートル53センチ。真面目に生活して、一生懸命、がんばって、大丈夫だろうと人間は考えていますけれど、壁があるんです。今度は5センチだけの壁です。けども、壁は壁だよ。厚さは関係ない。救いとは、この壁が取り除かれることです。
イエス様が、初めて紹介されたとき――バプテスマのヨハネだったんですけど――、彼はこう叫んだんです。皆さん、見て、見て!世の罪を取り除く神の子羊。イエス様は罪の問題を解決してくださいました。イエス様の代わりの死によって、主なる神と人間のあいだの壁が取り除かれたのです。
イザヤ
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
従って、主なる神は、全人類はことごとく罪の下にあると言っています。有名なローマ書3章、皆、何回もお読みになった個所と思いますけど、次のように書かれています。
ローマ
3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
(二番目)罪によって、主なる神に対して、隔ての壁ができてしまっただけではない。自分に対して、良心の呵責が重荷となりました。罪を犯し、神とのあいだに隔てができたために人間は良心の呵責がある。
主なる神の霊である聖霊が人の心に働くと、全人類はみんな例外なく、罪の下にあることを悟り、自分はやはり、悪口を言ったことがあるし、わがままそのものである、どうしようもないものですと認めるようになります。いわゆる放蕩息子は、言ったのです。思ったのです。
ルカ
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」
帰るととんでもない話になると、悪魔はささやいたでしょう。けども違う。この父親は喜んで、赦してくださったし、受け入れてくださったし、たいへんなお祝いになってしまったのです。
クリスマスはあちこちでお祝いされています。テレビでも、軽井沢の教会の中のテレビ番組もあったし、けど、イエス・キリストの名前は出てこなかったよ。ひどい!これは悪魔の業です。キリストのないクリスマスは全く、的外れなのではないでしょうか。
イエス様は我々のために来てくださった。キリスト教を作るためではない。代わりに死ぬためです。イエス様の代わりの死を通して、隔ての壁が取り除かれた。それだけじゃなくて、今、話したように、自分に対して良心の呵責が、重荷となったんです。罪を犯し、主なる神との間に隔たりができたために、人間は結局、『悪かった』・・・・良心の呵責が生じる。
罪の働きは、今、話したように三つですね。第一番目、主なる神に対して、隔ての壁ができた。第二番目、自分に対して、良心の呵責が重荷となった。
第三番目、悪魔に対して、訴えの根拠になってしまったのです。
我々は、良心の呵責を持っていますが、悪魔はそこにつけ込み、『もう、あきらめなさい、わがままでしょう。罪を犯したでしょう』と、悪魔は、訴えてくるのです。けども、黙示録の中で次のような箇所があります。将来のことです。まだ、実現されていない。黙示録の中で我々が体験するのは、黙示録の一章から三章までです。あとは全部、将来のことです。そして、12章の10節を見ると、次のように書かれています。
黙示録
12:10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」
前に言いましたように、主なる神も、人間も、悪魔も罪の事実を認めている。だから三つの事柄、すなわち、主に対する罪、良心の呵責、そして、悪魔の訴えを解決することが大切です。
けど、どうしたらこの三つの問題を解決することができるのでしょうか。先に言いましたように、人間のあらゆる困難、あらゆる苦しみに対する創造主なる神の答えは、いつもひとつしかない。ご自身の御子であるイエス様です。
そして、今、話した三つの問題も、もうすでにイエス様によって、イエス様の十字架の犠牲によって、解決済みなのです。すなわち、主なる神と人間とのあいだを隔てている罪という壁は、イエス様の血によって、もうすでに取り除かれたのです。主なる神と人間との交わりは、できるようになりました。祈ると、助けを求めると、助けられます。祈りは聞かれるようになります。
イエス様が十字架で流された血の力は、無限に価値あるものです。主なる神に対し、我々の良心の呵責に対し、また、悪魔の訴えに対し、十二分の効果を持っています。イエス様は我々のためにお生まれになった。もちろん、死ぬだけのために。イエス様は死なれたから、だから、イエス様の流された血の働きはすごい。
もう一回、言いましょうか。第一番目、壁の廃棄。主なる神との交わりは可能となった。二番目、罪の赦しが提供されています。結果として、喜びと平安に満たされます。三番目、十字架の犠牲こそが、悪魔に対する勝利を意味しています。
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