2014年12月12日、奄美大島家庭集会
ゴットホルド・ベック
詩篇
23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
聖書の中でもっともよく知られている箇所のひとつが、今、読んで来てもらった箇所です。私たちが、よく葬儀の時もよく読む箇所です。
誰によって書かれたかと言いますと、ダビデという男です。彼は、イスラエルを治めた王様でした。彼は、こういうふうに言うことができたから、結局、幸せでした。
今の世界を見ると、言わざるを得ないのは、今の世界は、大きな病院のようなものです。人間は悩んでいるし、重荷を負っているし、失望もしているものです。どうしたらいいかさっぱり分からないのが人間なのではないでしょうか。結果として、人間は孤独であり、さまよう羊のようなものです。さまよう羊の救いとは、もちろん、羊飼いの近くにいることです。そうすれば、守られますし、導かれますし、不安、心配から解放されます。
三千年前に、ダビデは、こういうふうに言うことができた、『主は私の牧者であるから、私には乏しいことがない。』意味は、幸せです、心配する必要はない、私は不安から解放された。
結局、このダビデは、私そのものは確かに大したものではない、助けのない、おろかで無力な羊にすぎません。だからこそ、羊飼いを必要とします。自分自身の弱さ、自分自身のみじめさを知っている人は、よき羊飼いのところに来て、全てをその羊飼いにゆだねられます。よろしく、お任せいたします。結果として、楽になりますし、また、安心して前向きに生活することができます。
よき牧者である主イエス様は、徹頭徹尾、自分を無にして、羊たちである我々人間、一人ひとりの幸せを考えています。二千五百年前に書かれたことばをよみます。すばらしい約束です。
エゼキエル
34:15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――
34:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。
これは、羊飼いなる主の呼びかけ、また、約束です。また、おもしろくない知らせとして、聖書はなんと言っているかといいますと、
イザヤ
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。・・・・
しかし、それだけではなく、喜びの訪れも書かれています。しかし、父なる神は、私たちの全てのとがを十字架につけられた主イエスにおわせた。
イエス様の弟子のひとりであるペテロは、また、次のように告白しました。
第一ペテロ
2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
これこそ、まことの救いです。イエス様は、ご自身のいのちを与えてくださったよき牧者だけではなく、今日もなお、確かに目には見えませんけど、どこでも臨在しておられます。そして、人間一人ひとりのために生きておられ、人間一人ひとりのことを考えていてくださり、人間を配慮しておられるのです。そして、聖書の呼びかけとは、ありのままの状態で、まさに、そのままの状態で、私たちは祈ることができる、すなわち、イエスさまのみもとに行くことを許されています。イエス様は待っておられ、決して、拒むことを、誰一人に対してもなさいません。
イエス様は赦してくださり、解放してくださり、本当に新しくしてくださいます。見方も変わります。
唯一の救い、すなわち、人間の誤ち、人間のわがままの赦し、主なる神との平和、また、永遠のいのちを与えようと望んでおられる主はどういうお方でしょう?言うまでもなく、宗教家ではない。非常に考えるべきことですね。聖書の中で、『宗教』という言葉は、一回も出てきません。したがって、聖書は宗教と関係のないものです。けれども、キリスト教もこの宗教を使うようになってしまったから、本当は困る。結局、人間が何を言っているか、何を考えているかは別にどうでもいい。聖書は何と言っているか。それだけなんです。
人間が作った宗教とは、人を惑わし、間違った仕方で安らぎを与え、人を惑わして、お金を取るものです。
宗教家ではなく、イエス様を知ることによって、変わらない喜びを知ることができる。確かに現代人の多くは、しっかりしなさい。がんばって!と言うのです。けど、いくらがんばっても疲れます。がんばることをやめて、降参して、何でもできるイエス様に任せたら楽になる。
イエス様が要求したものは、本当は何もない。ただ、わたしは、あなたを愛している。祈れば、聞く耳を持っているよ、祈った通りにしますよと。
十字架上におけるイエス様の代わりの死、すなわち、我々の身代わりとなって、我々のわがままを贖ってくださったイエス様こそが、はっきりと啓示された父なる神の愛、そのものです。どうして愛されているかと言いますと、イエス様が遣わされたから。遣わされただけではなく、代わりに罰せられたのです。
万物は創造主なる神によって造られ、この偉大なるお方は、ご自分の被造物のことを配慮してくださいます。そして、この主は、我々一人一人に対しても、関心を持っておられます。考えられないことではないでしょうか。私も、この主なる神によって、心から愛されているということ。
悩んでいる人間は絶望しなくてもいい。なぜならば、孤独から解放される可能性があるから、あらゆる重荷から解放される可能性も存在しているから、そして、債務からの解放も提供されているのであり、主なる神はすべての罪、過ち、わがままを赦そうと望んでおられます。
今日のこの集いは、何千年前に約束され、そして、預言どおりに、この世に来られ、人間の代わりに十字架の上で、我々の本来、受けるべき天罰をお受けになり、復活し、救いの道を開いてくださり、昇天なさり、そして、再び、また、お出でになる主イエス様を紹介するための集いです。
我々にとって、もっとも大切なのは、いったい何なのでしょうか?肉体上の健康でもなければ、たくさんのお金を持つことでもありません。また、多くの友だちを持ったり、権力や名誉を持つことでもありません。そういうものがあっても、心は満たされない。
大切なことは、人間が債務の重荷から解放されること、そして、救い主なる神が自分のわがままを赦してくださり、自分に永遠のいのちを与えてくださったという確信を持つことです。こう言う確信を持つ人々とは、本当の意味で前向きに生活をすることができる。その意味は、いつ死んでも、行き先は決まっている。
初代教会の人々とは、当時の社会の中で、いわゆる異分子でした。迫害され捨てられた人々でした。けれど、彼らは、別に、捨てられても、憎まれても、我々の行き先は決まっている。死は終わりではない!死んでから生きる。彼らはこの確信を持っていたから、もう、不安から、心配から解放された人々だったのです。
イエス様を受け入れて、そして、その後で後悔した人は、この世に一人もいません。なぜならば、イエス様は、限りなく豊かに恵んでくださるお方であるからです。本当の救いとはなんでしょうか?すなわち、あらゆる心配、あらゆる恐れ、あらゆる思い煩いからの解放です。
ダビデはこの救いを経験しました。『主が私のものですから、乏しいことがない』と喜んで、言うことができたのです。
聖書の言っている救いとは、いったいどういうものでしょうか?救われるということは、主なる神の愛を体験的に知ることです。人間によって作られた宗教に入ることによって、あるいは、人間に作られた神々を拝むことによっては、何の愛も体験できず、何らの救いも与えられません。
傷ついた心は解放され、癒されるべきです。かたくなになった心は、イエス様の愛によって克服され、新しくされるべきです。満たされない心は、この世に来られたイエス様によって、満たされるべきです。
今日の小さな集いがきっかけとなって、私たちは皆、イエス様を知ることができ、何でも、任すことができれば、本当にありがたい。その結果は何でしょうか?悩みながら喜ぶことができる。問題を持ちながら、平安に満たされます。それだけではなくて、生き生きとした希望を持って、将来に向かうことができます。
だいたい、二千年前に大きな地震があったんです、この地震を通して、本当の救いを得た事実についても、聖書は言っています。
使徒の働き
16:19 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。
16:20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、
16:21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」
16:22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、
16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。
16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
聖書の中で、もっともすばらしい約束のひとつではないでしょうか?主イエスを信じなさい。結果として、あなただけではなくて、家族も救われます。イエス様は家族の中の一人の幸せを考えようとしない。家族みんなの永遠の幸せしか考えられないお方です。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。
このピリピの獄吏は、『救われるためには、何をしなければならないの?』ときいたのです。この疑問の叫びから、ひとつの言葉を取り出して考えましょうか。『私は』という言葉です。『私は救われるために何をすべきでしょうか。』ここで言っている『私は』とは、誰でしょうか?この『私は』とは、失われている人であり、悩んでいる人であり、孤独になった者です。彼は、主を見ることのできないメクラでした。霊的に死んだ者でした。主なる神から出るいのちから、遠く離れていた者でした。
いわゆる霊的な死とは、いったい何でしょうか。霊的な死とは、生まれながらのいのちを持っていることです。この刑務所の責任者は、もちろん、霊的に死んでいたのです。なぜなら、救い主を知らなかったから。彼が救われた時、彼は、自分が罪人であることを認めたんです。また、し救われたいと思えば、自分が失われている者であり、霊的に死んでいる者であるという事実を避けてはいけない。
次に、観察したい言葉は、『救われる』という言葉です。『私は救われるために何をすべきでしょうか。』獄吏は、『自分が良い人間になるために何をすべきか?』と訊いたのではない。『自分は、救われるために何をすべきか』と、訊いたのです。彼は、私はいかにしたら、奴隷の身から解放されることができるのか、私はメクラの身から、目開きの身になることができるの?私は、死の様から生きることができるのでしょうか。
三番目の言葉は、『成す』という言葉です。『する』という言葉です。私は救われるために何を成すべきでしょうか。鎖で縛られている奴隷が、自分の身を自由にするのに何ができましょうか。もちろん、何もできません。メクラが見えるようになるために、自分で何ができましょう。死人が自分で生きることが、どうしてできましょう。もちろん、絶対に何もできません。
聖書を通して提供されている救いとは何でしょうか。まことの救いの本質とは、いったい何なのでしょうか。最後に、三つのことに、ふれましょうか。
第一番目。本当の救いは、創造主なる神、万物の支配者なるなる神の満足される充分なる救いでなければならない。
人間がいかにして、誰によって救われるかは、主なる神しか分かりません。獄吏は、自分の身を救うために、自分の道を行くことは許されなかったのです。ただ、主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。獄吏は、この言葉によって導かれ、救われた。自分を救うために、自分勝手な道を選ぶことはできなかった。我々の救いの道は、十字架、十字架の上で代わりに犠牲になられた主イエス様です。
二番目、救いは、罪とともに罪の結果も消滅してしまうような、完全なる救いでなければならない。救いは、人の罪を消し去り、その人に新しいいのちを与えるものでなければなりません。獄吏の場合も、獄吏の罪が赦され、獄吏の内に新しい創造が、信仰によって成されなければならなかったのです。我々の過ち、わがままも、十字架で贖われ、我々の内に新しい創造が始められなければなりません。
最後にもうひとつ、救いとは、罪に対して成された死刑の執行でなければなりません。主なる神は、一度、罪を犯した魂は、必ず死ぬと言っておられます。罪の刑罰を受けなければならない。刑罰は、執行されなければいけません。獄吏は、イエス様の身代わりの死を信じました。もし私たちが、イエス様の救いを自分のものにしようと思うならば、十字架の上で代わりに死なれたイエス様のもとに来なければならない。
イエス様の呼びかけとは、『おいで。わたしのところに来なさい。わたしは決して捨てません。』弟子のひとりは、もう年配になってから――おそらく百歳になってから――、ヨハネは書いたのです。
第一ヨハネ
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
赦された。永久的に受け入れられた。行先は決まっている。すなわち、天国だという確信こそが、最高の宝物なのではないでしょうか。
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