2013年3月12日火曜日

主イエスはご自分の栄光をあらわされた

主イエスはご自分の栄光をあらわされた
2013年3月12日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。


11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

このあいだの土曜、日曜日、茨城県の大洗で喜びの集いがありまして、一人の姉妹が、次のように、ミニ証しのようなものだったんですけど、話しました。「私は、降参してイエス様が好きになった。」これはやはり、良い証しなのではないでしょうか。降参したから、イエス様を、前よりも大好きになった。イエス様は、こういうふうに働いてくださり、ご自分の栄光を現すお方です。もう一箇所、ちょっと読みます。ヨハネ伝の二章、イエス様が、自分のご栄光を現された記事です。

ヨハネ
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。・・・・

『お母さん』ではなくて、女の方。

ヨハネ
2:4 ・・・・わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

イエスの名前は、救い主です。弟子たちは、イエス様こそ約束された救いを与えるお方であると、信じるようになりました。聖書を読むと、多くの人々は、水が葡萄酒になるなんてことは不可能ではないかと言います。けれども、それは、聖書に書いてありますから、疑うことのできない事実です。

しかし、多くの人々は、この奇跡がやはり、大切だと思っているのですけど、もっと大切なのは、十一節なのではないでしょうか。「イエスはその栄光を現された」と。これが問題です。イエス様が栄光を現されることが問題です。私たちの生活が、イエス様の栄光を現しているかどうかが問題です。

生きておられる主なる神が、私たちの暗い生活の内に入ってこなければならない。イエス様は水を葡萄酒に変えることができる。それを見る必要はないかもしれない。ただ、イエス様だけを見るべきです。すなわち我々の生活が、主の栄光を現さなければならないということです。我々の生活は、鏡のように主の栄光を受け入れ、また、外に現していかなければならない。イエス様の栄光を、鏡のように反射していなければならない。コリント第二の手紙、よく引用されるすばらしい箇所ですけども、パウロは、コリントにいる人々に書いたのです。

第二コリント
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

我々の生活が、主の栄光を現しているかどうかが問題です。今日のテーマは、「主イエスは、ご自分の栄光を現された。」三つの問いについて、簡単に考えたいと思います。第一番目、イエス様は、今日でも、ご自分の栄光を現されるのでしょうか。二番目、どうしたら、私たちはイエス様の栄光を現すことができるのでしょうか。そして、三番目、どうして、イエス様はご自分の栄光を現されるのでしょうか。

イエス様は、今日、この時代にもご自身の栄光を現されるでしょうか?どうでしょうか。いいえ、イエス様はご自分の栄光を現されませんと、言わなければいけないのではないでしょうか。

初代教会においては、イエス様はご自分の栄光を現されました。それは確かです。なぜなら、土台が必要であったのであり、また、その上に築き上げる必要があり、福音を全世界に宣べ伝える必要があったのです。ところで、今のこの終わりの時に臨んではどうでしょう。

二番目、そうしたなら、どうしたら私たちは、主のご栄光を現すことができるのでしょうか。

そして、三番目、イエス様は、どうしてご自分の栄光を現されるのでしょうか。それは、我々のためではなく、主ご自身のためです。それは、計り知れない愛なのではないでしょうか。

イエス様は、今日、この時代でもご自身の栄光を現されるでしょうか。ある人は、今日はイエス様は、ご自身の栄光を現せない、奇跡を行なわないと言います。また、ある人は、イエス様の生きておられた時も、イエス様は実際には奇跡を行なわなかった。あれはただの童話にすぎない(と言っています)。

けども、今日(こんにち)もイエス様は、奇跡を行なうお方です。今も、イエス様の奇跡を見たり、経験したりと確信する人も、もちろんいます。私たちの主は、今日でも、奇跡を行なうお方です。救われた人々を見ると、それがもちろん解かります。

どんな信者も、「私は、今まで罪のうちに死んでいた者だが、今は悔い改めて、信仰と主とのあわれみによって、新しく生まれ変わった」と言えます。これは、奇跡です。確かにこの奇跡は、説明できません。しかし、事実です。

ところが、今日、イエス様は信者たちの生活のうちに奇跡を行なっておられるのでしょうか。この問いに答える前に、違う問いを設けましょう。すなわち、イエス様は、いかにしてご自分のご栄光を現すのでしょうかという問いです。イエス様は、人間を通して、ご自身の栄光を現します。問題は、主イエス様が我々を使うことができるかどうかです。悪魔は、自分に賛成する者は、それがどんな人であれ全部、用います。

今日、問題となるのは、イエス様が栄光を現せるかどうかということです。今日、来られたお一人お一人を通して、ご自身の栄光を現すことができるかどうかです。イエス様は、今日でも奇跡を行なうのでしょうか。はい、行ないます。イエス様は、どこでご自分の栄光を現されるのでしょうか。イエス様は、我々の生活の困難のさなかにおいて、ご自身の栄光を現します。

今日でも、天は開かれています。イエス様の洗礼、変貌、よみがえり、昇天、五旬節、これらは皆、今日でも、天が開かれているという証拠です。天は、もうすでに開かれていますから、我々の祈り、熱情、献身などが、天を開くのではありません。

高められて、我々の救い主は、あらゆる力をお持ちですから、私たちは開かれている天を持っています。したがって、我々の生活を通して、私たちはイエス様の栄光を現すことができるわけです。

ですから、私たちは、申し訳を言うことはできません。「私の荷は重すぎる。私の状態は希望がない。私の家は暗い。私の職場はダメだ」などという申し訳はできないはずです。もし、イエス様が、一言、語りかけるなら、私たちの暗い生活に光が差し込みます。イエス様は今日でも、「光よあれ」と言えるのです。イエス様がそう言われれば、我々の生活は、主の栄光を現します。今日のテーマは、「主はご自分の栄光を現された。」ちょっと、三つの問いについて、考えてみようと言いました。

第一番目、イエス様は、今日でも、ご自分の栄光を現されるのでしょうか。

二番目、どうしたら、私たちは主の栄光を現すことができるのでしょうか。大小にかかわらず、奇跡が問題ではなく、主の栄光が問題です。

ところが、イエス様は、いかにして、ご自分の栄光を現されるのでしょうか。このカナの婚礼は、確かに、ちょっと変わった奇妙な婚礼でした。普通の結婚式では、花嫁、花婿が大切ですけど、ここでは、あまり重要視されませんでした。中心人物はイエス様でした。もしイエス様が、我々の生活の中心になければ、それは、我々の困難の原因となってしまいます。

もしイエス様が、我々の内に住み、私たちと一つになるなら、イエス様は我々の生活の中心点となります。そうならば当然、私たちの生活は、主の栄光を現すことになります。イエス様は、この婚礼に招かれたのです。

イエス様は、単なる客ではなく、婚礼の中心でした。イエス様が、我々の生活の中心におられなければいけません。イエス様は、私たちとひとつになろうと思っておられます。私たちがイエス様とひとつになったら、私たちの生活に奇跡が行なわれます。

これは恵みの奇跡です。もしイエス様が、我々の生活の中心になければ、それは、私たちの困難の原因となってしまいます。もしイエス様が、我々の内に住み、本当に我々とひとつになるならば、イエス様は中心点になり、そうならば、当然、我々の生活は、主の栄光を現すことになります。

いかにして、イエス様の栄光を現すことができるのでしょうか。それは、もちろん、イエス様を通してのみです。主イエス様が、我々の生活の中心になるなら、ひとつの兆候が現れます。我々の欠乏が見えてきます。葡萄酒はなくなってしまいました。

人間は、いつも何か役割を演じようとします。主の前でさえそうです。自分を空しくすれば、主が何か行なうことができます。逆に自分で何かをやろうとすれば、イエス様は、遠のいてしまいます。イエス様のご臨在に伴い、我々の欠乏が現れます。私たちが、自分の生活を富んだものと思っている限り、イエス様は栄光を現すことができません。

私たちは、いったい、どうしたら主の奇跡の力を経験できるのでしょうか。イエス様が、我々の毎日の実際生活の中心点となったら、私たちは、それを経験します。私たちは、困難のさなかで、カナの婚礼の時のイエス様の母のようにふるまいますか。

彼女は、花婿や料理頭に困ったことを告げないで、すぐに、イエス様のところへ行きました。彼女はゆるぎない確信を持って、イエス様のところへ行きました。それは、『イエス様はできる』、また、『イエス様はそれをやってくださる』という確信でした。

私たちは、同じようにこの確信を持って、主に近づくのでしょうか。私たちは、イエス様はできるという確信とともに、イエス様は間違いなくやってくださるという確信を持っているのでしょうか。どうかイエス様が、十字架でなされたことに対して、もう一度、目を開かれたら幸いと思います。イエス様が、十字架にかけられる前になされたことは、全部、十字架を見て行なわれたのであり、十字架の後で成されたことは、十字架の結果、成されたのです。

いかにして、主の栄光を現すことができるのでしょうか。イエス様の母の是認(ぜにん)されたことを、私たちも是認しなければいけません。イエス様の母は、イエス様の愛のないように思われる答えを是認しました。「婦人よ、あなたはわたしと何のかかわりがありますか。」これは、あなたとわたしの考えは、全然、違うという意味です。あなたは、そう言いますが、わたしはそれを行ないませんという意味です。これは非常に厳しい、強いことばです。イエス様は、ご自分の母とのあいだを分ける線を、はっきりと引かねばなりませんでした。「あなたはわたしのお母さんですから、そうしましょう」と、イエス様は言わなかったのです。

ルカ
14:26 わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

これは、イエス様のご命令です。このカナの婚礼で、イエス様はご自分のこのことばを証明されました。「わたしとあなたの自然の関係は大切ではない」と、イエス様は、母に言われました。

イエス様は決して、私たちのために栄光を現されません。ご自分のためにのみ、栄光を現されます。イエス様と主のお母さんの自然関係のゆえに、イエス様は栄光を現しませんでした。同じように、イエス様は、私たちの困難、苦しみ、祈りのゆえに栄光を現しません。イエス様は、主であられますから、ご自分のために栄光を現されるのです。

私たちは、どうしたら主の栄光を経験することができるのでしょうか。イエス様が、我々の生活に入ることによって、主の栄光を経験することができます。イエス様は、私たちを矯正しなければいけません。自分は大丈夫だ・・・・と思っている人は、災いです。

「わたしの時は、まだ来ていません。」「忍耐しなさい」と主は言われました。忍耐を学ぶことが問題ではなく、忍耐を持つことが問題です。なぜなら、忍耐は決して、学ぶことはできません。忍耐とは、イエス様の下に仕えることです。イエス様の母は、それをしました。私たちは忍耐を持っているのでしょうか。

私たちは、イエス様の下に仕えているのでしょうか。「あなたがたに必要なのは忍耐である。」と、ヘブル書の著者は書いたのであります。最後まで耐え忍ぶ者は、主の栄光を経験することができます。「わたしの時は、まだ、来ていません。」主イエス様のときは来ます。私たちは、待たねばならないかもしれない。しかし、イエス様のときは、必ず来ます。イエス様は、必ずご自身の栄光を現します。

いかにして、イエス様の栄光を経験することができるのでしょうか。私たちが、信仰の従順を学べば、主の栄光を経験することができます。イエス様でさえ、従順を学んだと、聖書は言っているんですね。

ヘブル
5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
5:9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり・・・・、

イエス様の母であるマリヤは言ったのです。「この方が言われることを、何でもしてください。」ここでは、使徒信条や教義が大切なのではなく、生きていることばが大切です。

「あなたがたに言いつけることは・・・・」という、このイエス様のことばが大切です。祈りながら、聖書を読み、イエス様のことばを聞き、それを私たちの行為に移さなければなりません。「この方が、あなたがたに言いつけることは、何でもしてください。」また、イエス様は言われました。「かめに水をいっぱい入れなさい。」この命令に従うことは、そんなに難しくなかったでしょう。

もうひとつの命令、「さあ、くんで料理頭のところへ持って行きなさい」というイエス様の命令を実行するのは、ちょっと、違うものでした。これは、私たちにも言えることです。一方の命令は簡単です。もう一つの命令は、しり込みします。

かめに水を入れることは考えられることですね。当たり前のことですけど、それを料理頭のところへ持って行くのは、ちょっと考えられない、おかしい、ばからしいことです。葡萄酒ではないからです。しかし、彼らは、その水を料理頭のところへ持っていきました。主の命令に従いました。そこで、イエス様は、ご自分の栄光を現すことができたのです。この栄光を現す秘密は、イエス様のことばに対する従順にあったのです。

今日のテーマは、「イエス様は、ご自分の栄光を現された。」三つの問いについて今、いっしょに考えてまいりました。一番目、イエス様は、今日でも、ご自分の栄光を現されるのでしょうか。そのとおり。二番目、どうしたら、私たちはイエス様の栄光を現すことができるのでしょうか。もちろん、それは、主のあわれみの現れです。

三番目、どうして、なんのため、イエス様はご自分の栄光を現されるのでしょうか。

答えは、私たちが主イエス様と似る者となるためです。イエス様は、我々のためには、栄光を現しません。ご自身のために、栄光を現しました。しかし、主のみことばは、私たちが、主イエス様の姿に似た者となることです。ですから、イエス様は栄光を現しました。「私たちは栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていかなければならない」と、聖書は何回も言っているのです。

何のために、イエス様はご自身の栄光を現されたのでしょう。弟子たちの信仰を強めるために。最後に書いているのですね。「弟子たちはイエスを信じた」と。弟子たちが、新しく献身するために、イエス様の栄光を経験した者には、ただひとつのことができます。すなわち、自分の命を新たに主に捧げることです。

弟子たちが、新しくイエス様を礼拝するために、「自分のからだを持って、神の栄光を現しなさい」と、パウロは書いたのであります。私たちは、自分の全生涯を今日、あらためてイエス様に捧げようと思わないでしょうか。我々の生涯を通して、イエス様がご自身の栄光を現されたら、本当に幸いです。

おわり

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