2013年3月5日火曜日

あなたの口を大きく開けよ

あなたの口を大きく開けよ
2013年3月5日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

詩篇
81:1 われらの力であられる神に喜び歌え。ヤコブの神に喜び叫べ。
81:2 声高らかにほめ歌を歌え。タンバリンを打ち鳴らせ。六弦の琴に合わせて、良い音の立琴をかき鳴らせ。
81:3 われらの祭りの日の、新月と満月に、角笛を吹き鳴らせ。
81:4 それは、イスラエルのためのおきて、ヤコブの神の定めである。
81:5 神が、エジプトの地に出て行かれたとき、ヨセフの中に、それをあかしとして授けられた。私は、まだ知らなかったことばを聞いた。
81:6 「わたしは、彼の肩から重荷を取り除き、彼の手を荷かごから離してやった。
81:7 あなたは苦しみのときに、呼び求め、わたしは、あなたを助け出した。わたしは、雷の隠れ場から、あなたに答え、メリバの水のほとりで、あなたをためした。セラ
81:8 聞け。わが民よ。わたしは、あなたをたしなめよう。イスラエルよ。よくわたしの言うことを聞け。
81:9 あなたのうちに、ほかの神があってはならない。あなたは、外国の神を拝んではならない。
81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

81:11 しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。
81:12 それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。
81:13 ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。
81:14 わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」
81:15 主を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。
81:16 しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」

聖書とは、人間に与えられている最高の宝物です。どうしてであるかと言いますと、主のことばだからです。確かに、主は人間を用いたのです。どういう人々が用いられたかと言いますと、聞く耳を持つ人々でしょう。

「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」聞いているだけではなく、従いたい。みことばですから、受け入れます。また、宣べ伝えます。だいたい、四十人の人々が、この態度をとったから、聖書ができたのです。そして、今、読んでもらいました箇所も、確かに人間の書いたものですけど、主の呼びかけです。

10節、「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」主は、満たしたいと望んでおられます。けれど、そのために必要なのは、開いた心を持つことなのではないでしょうか。私たちは、何によって、満たされているのでしょうか。我々を動かす力とは、いったい、どういうものなのでしょうか。私たちの支配者は、誰なのでしょうか。

いわゆるヒューマニズムの立場に立つ人々の考えは、決して、聖書的ではない。なぜならば、彼らは、人間の心の中に、なかなか良いものがあるという考えが、基礎となっているからです。これらの人たちは、人間の環境が改善され、そして、人間が自分で努力をするならば、必ず、うまく行く。より良いものになることができるという考え方です。

けれども、神のみことばである聖書は、全く違うことを言っているのです。すなわち、人間の心は、はなはだしく悪に染まっている。その中に何一つ、良いものはないと、聖書は言っています。もうすでに、いちばん初めの書である創世記の中で、八章二十一節、「人の心の思い計ることは、初めから悪である。」人間は、罪を犯すから罪人になるのではない。罪人として生まれてくると、聖書は言っています。エレミヤも同じことを書いたのです。

エレミヤ
17:9 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。

すなわち、心は、よろずのものよりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっていると、神のことばは言っているのです。もちろん、聖書だけではなく、イエス様の口から、同じ真理が語られました。

マルコ
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。

聖書は、『内側から』と言っているのです。外からではない。そして、人ということばの代わりに、人間と言ってもよいのではないでしょうか。全人類と言ってもいいのではないでしょうか。『未信者だけではなく』と、聖書は言っているのです。これこそが、人間が誰でも、心の中に抱いている思いです。

私たちを取り囲んでいる世のもの、つまり、週間雑誌や、テレビの番組や、人々の愛のない結婚生活や、異常な経済的な状況、また、未来の低下している政治の時代などを考え合わせてみると、誰でも認めざるを得ない。すなわち、聖書の指摘している事柄が本当なのです。真実であることを認めざるを得ない。伝道者の書、当時のソロモンという王様が言ったことです。

伝道者
9:3 人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。

エゼキエルという預言者も、同じようなことを書いたのであります。

エゼキエル
9:9 この国は虐殺の血で満ち、町も罪悪で満ちている。

これらのことばは、まさに、現在の状態に対して、語られているのではないでしょうか。人間の心がいかに悪に染まっているかということを、ちょっと、新約聖書から三つの例を引いて、考えてみたいと思います。

まず、使徒行伝の十三章をみると、一人の魔術者がいました。エルマという名を持つ男でした。パウロは、彼について、次のように言ったんです。

使徒行伝
13:10 ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。

厳しいことばです。どうして、そう言ったかといいますと、彼は、意識して、真理に敵対した男でした。真理のみことばの特徴は、ありのままであること、また、素直であることです。けど、このエルマという男は、これと、ちょうど反対に、偽りのもの、また、よこしまなものと言われています。

二番目の例は、当時、ナザレという町に住んでいた人々です。ルカ伝、四章から見てみると解かります。イエス様が、ナザレ、自分の故郷の人々に、もちろん、福音を宣べ伝えました。そして、彼らがはじめて示した反応は、イエス様を褒め称え、その口から出て来る恵みのことばに驚きましたと、書いてあります。しかし、イエス様が、彼ら自身について、すなわち、彼らの悪に満ちた心について、真実をありのままに語られた時、彼らの反応は、いっぺんに変わってしまいました。

ルカ
4:22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。(・・・・だけではなくて・・・・)そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。

4:28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、
4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。

ナザレの人々は、ひどく怒り、つまり、怒りに満たされ、イエス様を追い出して、それだけではなく、殺そうと思ったのです。彼らは、自分自身では、敬虔な者であると思い込んでしまいました。安息日ごとに必ず会堂に集い、神のみことばを聞きました。けど、自分自身の心を真っ直ぐに見つめて、悔い改めようとする気持ちが、全くなかったのです。

悔い改めたくなければ、いくら信じると言っても、嘘です。悔い改めのない信仰は、全く役に立たないものです。その結果、彼らの心を満たしていたものは、主にある喜びではなく、怒りでした。

三番目の例は、使徒行伝、五章に出て来る夫婦なんです。アナニヤとサッピラという夫婦であります。

使徒行伝
5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。」

ここで、「どうしてあなたはサタンに心を奪われたのか」と書かれていますが、原語によれば、ここは、「サタンに心を満たされたのか」という意味になっています。アナニヤとサッピラは、初代教会に属する者であり、自分の財産の大部分を捨てて、主に仕えようという気持ちを持っていました。彼らは、うわべでは、自分の持っているもの全部を捧げて、主に仕えてるいるのだという態度を取りました。

事実は、そうではなかったんです。それゆえ、彼らの心には、サタンがつけこむすきがあったんです。彼らの心を満たしていたものは、イエス様の真実ではなく、悪魔の偽善でした。それゆえ、主なる神の裁きが、直ちに彼らの上にくだされました。

私たちも、また、主のことばによって、常に吟味されていなければなりません。我々の言葉と行ないとのあいだには、隔たりがあるのでしょうか。私たちはいったい、何によって満たされている のでしょうか。聖書を読むとき、単なる習慣か、義務的な気持ちから読むのであるか、あるいは、サムエルのような態度を取るか、すなわち、サムエルは、「しもべは聞きます。聞く耳がある。主よ、お語りください。」こういう態度をとって読むと、大いに祝福されます。

主の御前にへりくだり、自分自身は、粉々に砕かれてもかまわないという心の用意があるのでしょうか。

これまで、私たちは、主なる神が人間に対して、どのような判断を持っているかについて、ちょっと見てきました。この事柄を要約することばは、ローマ書なのではないかと思います。ローマ書、三章に出てくることばは、次のようなものです。全部、詩篇から取ったことばなんですけど、パウロは集めて、次のように書いたのです。

ローマ
3:10 義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。
3:13 彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、
3:14 彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。
3:15 彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 また、彼らは平和の道を知らない。
3:18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない。

私たちは、本当の意味で主を恐れているのでしょうか。主を恐れないと、祝福がないし、家族、知り合いの人々は導かれ得ない。主の祝福がなければ、平安もないし、喜びもあり得ません。主に恐れを持つ必要性について、聖書は、たくさん言っているのです。ひとつの有名な箇所は、詩篇、百十一篇の十節です。

詩篇
111:10 主を恐れることは、知恵の初め。

『主を恐れることは、知恵の初め』と聖書は言っているのです。

今の世界で求められているのは、頭の良い人たちでしょうね。優秀な人々です。能力のある人々です。金を持つ人々です。主なる神の求めているのは、全く違う種類の人々です。すなわち、心を砕かれ、みことばにおののき、主を恐れている人々です。

主を恐れなければ、もうおしまい。祝福がない。砕かれている心を持たない人は、祝福されない。みことばにおののかない人は、決して、祝福されない。主を恐れない人は、何があっても、祝福され得ないのです。

主を恐れたアブラハムという男は、告白しました。すばらしい証しです。すごい告白です。短いけど、意味のあるものです。「私は、ちり、灰にすぎません。」ちり、灰を集めても、金持ちにはならないよ。捨てるべきです。全く役に立たないものです。

アブラハムは、それを言っただけではなくて、心から、そう思ったんです。捨てられても、当然です。けども、この態度をとる者は、決して、捨てられません。ちりと灰は、全く価値のないものであり、本当に捨てられるべきものです。『捨てられてもいいものです』という態度をとる人は、必ず、祝福されます。

アサフという詩篇の作者も、同じようなことを言ったのです。

詩篇(口語訳)
73:22 わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。

彼は、こう告白したのであります。結局、私はどうしようもない者です。主を恐れる兄弟姉妹は、へりくだって、心砕かれた人々です。そして、また、主の光によって、自分のみじめさと空しさを知るようになった兄弟姉妹です。今日、主は、いったいどういう人々を、必死になって、探し求めておられるのでしょうか。イザヤは応えたのです。主の御告げを宣べ伝えたのです。

イザヤ
66:2 ――主の御告げ。―― わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

主の救いにあずかるようになった人々に、パウロは書いたのです。

ガラテヤ
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。

いうまでもなく、信じる者に書いたことばです。なぜ、まだ滅びに向かう多くの人々が、一度もイエス様のことを聞かないまま、歩み続けているのでしょうか。これはみな、我々、信じるものの罪のゆえです。

私たちが、自分のことを、大切にするからなのではないでしょうか。なぜ、イエス様のからだである我々の兄弟姉妹は弱く、力なく、悪の霊に戦うのに弱いのでしょうか。それも、私たちが、自分のことを大切にするからなのではないでしょうか。なぜ、多くの人は、生ぬるく、不熱心で、自己満足しているのでしょうか。それも、やはり、自分のことばかりを求めているのではないでしょうか。

私たちは、主の器となるために主に仕えるために救われたのではない。したがって、しばしば、我々の内の古き人が我々を支配し、指導してきたのではないでしょうか。

我々の心の中に浮かぶ願いは、イエス様の目的にかなっているのでしょうか。私たちは、主を見上げ、イエス様にご自分の形を内に形造っていただく。我々の思いは、清められているのでしょうか。パウロは、御霊によって、私たちが神と共に働く者であるということができたのですが、けど、私たちは、本当に御用にかなう者なのでしょうか。

イエス様が、ご自分の思うとおりに我々を用いることができるのでしょうか。それとも、我々は、自分の思うことばかりをやっているのでしょうか。コリント第一の手紙は、パウロがコリントにいる兄弟姉妹に書いたことばですけども、大切なことばです。

第一コリント
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

イエス様が、我々を値(あたい)を払って買い取ってくださいました。ヤコブは、救われた主の恵みを受けた人々に、たいへんなことばを書いたのです。パウロは、だいたい、「愛する兄弟」ということばを使ったのです。ヤコブは、たいへんなことばを使った。「貞操のない人たち。」彼らはもちろん、イエス様を信じ、イエス様のために生きたいと思った人々ですけども、現実は違いました。

ヤコブ
4:4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

知らないうちに、神の敵になる可能性が充分あるということです。

主の祝福を得る道とは、いったい、どういうものでしょうかね。初めに、自分の汚れた様を見て、自らの物足りない様を知り、飢え乾くことが必要です。

何と多くの人々は、自分にではなく、他の人々に不満を投げかけています。批判したり、裁いたりします。他の兄弟姉妹にどんなに不満を持っても、喜んでいるのは、悪魔だけです。他の兄弟姉妹を不満に思うのではなく、まず、自分自身を物足りなく、思わなければならないのではないでしょうか。

我々信じる者として与えられている使命とは、いったい、何でしょうか。神の宮であることです。私たちは、自分のものではなく、主のものです。ヨハネは、黙示録の中で、次のように書いたのです。これを読んで、終わります。

黙示録
2:4 あなたには非難すべきことがある。・・・

これは、いちばん立派な教会だったんです。エペソにある兄弟姉妹です。

黙示録
2:4 ・・・・非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

滅ぶようになるのではないけど、用いられ得なくなるということです。

おわり

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