2011年3月22日火曜日

聖なる神の宮なる教会(三)その上にある信仰

聖なる神の宮なる教会(三)
その上にある信仰
2011年3月22日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

エゼキエル
43:1 彼は私を東向きの門に連れて行った。
43:2 すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。

43:4 主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。
43:5 霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。

43:7 その方は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。


エペソ
1:12 それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。

3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

コロサイ
1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

第一ペテロ
4:14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

へブル
10:37 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
10:39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

このあいだ、話したように、最近のメッセージは、古いものです。五十五年前に準備したけれども、使わなかったんです。茨城県の那珂湊(なかみなと)にいるあいだに準備しましたけど、使うものがなかったんです。けれども、みことばについて話すと、もちろん、時代遅れにならない。

今、那珂湊も水がないんですって。電気が入ったかどうか、ちょっと、解からないけど。日本は急に世界の中心になっているのです。おそらく、今までよりも、日本のために祈っている人が、非常に多くなっているのではないかと思います。けれども、どうしてか、何故かと考えても、誰も答えられません。我々は、祈りの材料として使うと、主は支配しておられると考えると、やっぱり、ありがたいのではないでしょうか。

今の時代で、イエス様を知らない人は、本当に気の毒だよ。今度、何があるのか、やっぱり皆、不安定になっています。けれども、主が許さなければ、何も起こらない。そして、主はもちろん、最善をなしていてくださるお方です。五十五年前に、何を考えたか、準備したかと言いますと、主なる神の目的は、個人個人の信者ではなくて、主イエスのからだである教会です。過去の時代と、未来の時代も、今、私たちが生きている時代にかかっています。この特別な時代は、五旬節から、教会の携挙までにかかるのです。

過去の信者たちは、皆、この状態のために待ちました。永遠から永遠に渡る神のご計画は、からだなる教会です。そして、私たちは、この一番、大切な時代に生きています。この永遠からの計画が実現するために、私たち皆、主の同労者として、お召しを受けた者です。だから、私たちは何回も、霊なる神の住まいである教会というテーマをもって考えてまいりました。

教会であるイエス様のからだという真理は、単なる拘束されていない随意の真理ではない。決して、そうではありません。もし、私たちが、神の目的を達したいと、悪魔の力を滅ぼそうと思うと、私たちは、なんとかして、この教会に対する啓示が必要なのではないでしょうか。もし、私たちが、本当に新しく生まれた神の子であるならば、私たちは、生ける石となって、霊の家に築き上げられたのです。そして私たちは、この霊の家のいろいろな面を観察して、また、この面は、我々、一人ひとりの際立っている特徴にならなければいけないということも、知ることができます。

今日の題名は、『その上に(ある)信仰』です。まことの主なる神のからだなる教会の特徴は、いうまでもなく信仰です。前に昇天された、高く引き上げられたイエス様について、毎日、考えるべきなのではないでしょうか。

教会は、どうして存在しているのでしょうか。教会の目的は、いったい何なのでしょうか。イエス様の高く引き上げられたことを、明らかにすること、それなんです。初代教会のあらゆることの始まりは、高められた主イエス様でした。したがって、初代教会は、主の栄光を現して、周りの人々に深い印象を与えたのです。けれども、単なる教えや教理ではなく、この霊的な事実が、人々に強い影響を及ぼしました。五旬節の日に、ペテロは、喜びに満ちて、次のように証しました。

使途行伝(口語訳)
2:36 ・・・あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったので(す)。

2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。

2:41 そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。

五旬節は、新しい教えではなく、イエス様の高く引き上げられた事実が問題です。五旬節の日に聖霊が下り、そして、聖霊の証しによって、天において現実となったイエス様の支配は、弟子たちの生活において、現実となりました。弟子たちの生活と奉仕によって現れた、高く引き上げられた、主イエス様のいのちと力は、この霊的な現実の証明でした。

同じように、私たちの内に、何か起こらなければならない。けれども、それは生き生きとした信仰の問題です。

五旬節の日、イエス様の高く引き上げられたことを述べ伝え、証しすることは、あまり難しいものではなかったのです。どうでしょう。私たちは、イエス様に出会って、救われた時、証しすることは、喜びに満ちて、「イエス様は生きている。イエス様は高く引き上げられた」と、言うことができたのです。けど、私たちは今も、大喜びで証しすることができるのでしょうか。自発的な証しがあるのでしょうか。もっとも大切なのは、それなのではないでしょうか。

悪魔は、主にある兄弟姉妹に対する、何と大きな力を持っているでしょう。悪魔は力を持っています。それは、友だちや両親、習慣や自分の目的がなく、その後ろに、結局、悪魔が働いているのです。それを、絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。我々の戦いは、『血肉、見えるもの、人間に対するものではない。諸々(もろもろ)の支配と権威と闇の世の主権者、また、天上にいる悪の霊に対する戦いである』とあります。

私たちは、それを本当に解かったのでしょうか。間違いなく、私たちの戦いは、人間に対するものではない。諸々の支配と権威と闇の世の主権者に対する戦いです。悪の霊、悪魔の力を滅ぼすことが問題です。実に、私たちは、イエス様の高く引き上げられた事実を、はっきりと掴まなければいけない。

けれども、この信仰は、何も見えないのです。この信仰は、少しも感じないのです。我々の力や知恵に勝る困難が起こるのですけど、イエス様は、父なる神の右に上げられたことを、絶えず覚えるべきです。このような信仰によってのみ、問題を解決され、悪魔の力を滅ぼされ、私たちは勝利を得る者として、すばらしい解放を経験することができるのです。

私たちは、最後の時に生きていますから、ますます、難しくなります。多くの信者は、悪魔の力を感じながら、イエス様は本当に高く引き上げられたのかと、疑問視するのです。私たちでさえも、このようなことを経験したでしょう。その時、私たちは、何もすることができない。ただ、悪い感じがあっても、もうダメだという考えがあっても、それにもかかわらず、イエス様は、ダメだという考えがあっても、必要ない。信仰によって、大切です。勝利者とは、いったい何なのでしょうか。どうしたものでしょうか。勝利者とは、ただ信仰によってのみ、勝利を得ることが明らかになります。

そして、信仰は、もちろん信仰です。私たちは、イエス様の高く引き上げられたことを、信仰によって、掴まなければなりません。生き生きとした信仰なしに、偉大なる事実があっても、役に立ちません。多くの困難があるかもしれないけれども、このような困難の最中(さなか)に、信仰の目によって、高められたイエス様を見ることは問題です。

たとえば、このような集会の準備は、そんなに楽なものではない。幾人かの兄弟姉妹は、『集会に出席しなくてもいい、少しだけ妥協しても大丈夫じゃないか』などと考えているかもしれない。けれども、それにもかかわらず、イエス様は、勝利者だという確信を持って、このような集会の準備をすることができるのです。

事務所の仕事、学校の学びなどは、いつでもできますけれども、信仰なしに、生き生きとした信仰なしに、勝利を得ることはできません。勝利を得ることの秘密は、高く引き上げられたイエス様を、心の目で見ることです。他のことばで言えば、「我が義人は、信仰によって生きる」とあります。

二番目、教会は、主のからだなる教会です。主のものとなった一人ひとりが、イエス様の高く引き上げられたことを、明らかにすることばかりでなく、主に奉仕することが、絶対に必要です。

教会は、どうして存在しているのでしょうか。我々の生活の目的とは、いったい、何なのでしょうか。私たちの生活によって、生けるまことの神は、満足されるべきです。私たちによって、父なる神に、栄光が世々限りなくあるように。我々の奉仕の結果はそれでしょうか。私たちが、信者になった時、イエス様は我々の喜びでした。そして、私たちは、必ず主の心にかなう者だと考えたことでしょう。けど、後で、主の導きによって、私たちは、いわゆる荒野(あらの)に入ったのです。なぜなら、霊的な赤ちゃんは、荒野の経験によって、成長しなければいけないから。

初めの経験というのは、ガラテヤ書5章17節にあります。

ガラテヤ(口語訳)
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。

どなたか、今までに、この経験を持っていたでしょうか。我々は、信仰によって救われたかもしれないけど、私たちは、信仰によって、自己から解放されたのでしょうか。私たちは、導きなしに毎日生活しているのでしょうか。私たちは、自分で考えたり、自分で決定したりして、生きますか。支配者は、どなたでしょうか。自分か、イエス様か、どなたでしょうか。

パウロは、『私の肉の内には、善なるものが宿っていないことを私は知っている』と、書いたのです。私たちも、これを知っているのでしょうか。これは、『私は、何と言うみじめな人間なのだろう』と、叫んだことがあるのでしょうか。もし、そうしたら、私たちは、『私は、決して主の御心にかなう者じゃない』と考えたでしょう。その時、私たちは、パウロと同じように言うでしょう。そのために、また、私たちは、このような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、私は、自分の信じてきた方を知っている。また、その方は、私にゆだねられているものを、かの日に至るまで守ってくださることができると確信しているからです。

こういうふうに私たちによって、生けるまことの神は、満足されるのです。救いを経験したイスラエルの民は、エジプトから荒野に入ってきました。荒野を通らなければ、決して、ヨルダン川のところへ行くことができなかったのです。そして、ご存知のように、ヨルダン川は、死の川であり、だから、十字架の象徴です。

十字架は、私たちに、『あなたがたの肉の内には善なるものが宿っていない』と言っているのであります。どうでしょうか。私たちは、一度、主の前に、自分の考え、自分の欲すること、自分の思い、自分の志すことをはっきりと知りましたでしょうか。そして、暗闇に入って、苦しんだのでしょうか。どうか、その時、信仰によって、言ってください、『私は、自分の信じてきた方を知っている。また、その方は、私にゆだねられているものを、かの日に至るまで守ってくださることができると確信している』と、主に言ってください。

イスラエルの民は、荒野を通った時、いつも、民の真ん中に会見の幕屋がありました。すなわち、幕屋の中で、神の箱があったのです。その箱は、生けるまことの神の御臨在の象徴でした。主なる神は、いつも、ご自分の民と共にいたのです。けれども、神の栄光を、外からいつも見ることは、できなかったのです。かえって、幕屋の屋根は、少しもすばらしくなく、荒野に出ていたのです。けれども、一番、大きな問題にぶつかっても、一番、暗い日でも、失望的な状態であっても、瞬間、瞬間に、この主の栄光があったんです。隠れても、主の御臨在は、確実でした。

イスラエルの民にとっては、全部、信仰の問題でした。けれども、イスラエルの民は、彼らの環境と状態を見て、失望してしまいました。「私たちには、主の臨在が見えない。この旅は、あまりおもしろくない。栄光が見えない。止めましょう」という気持ちになったのです。何回も。

主は、厳しい警告をもって、言っています、「彼らが入ることができなかったのは、不信仰のゆえでした。」イスラエルの不信仰は、いったい、どういうふうに表したのでしょうか。イスラエルの民が、「主は、我々の内におられるのかどうか」と言いました。その結果、民は荒野で滅んでしまいました。なぜなら、イスラエルの民は、主は、私たちの内におられるのかどうかと、疑問を持っていたからです。けど、どうして、そう疑ったのでしょうか。困難と苦しみがあったのですから。主の栄光は、しばしば、隠れたのです。けど、隠れても、主の御臨在は、確実でした。イスラエルの民にとっては、全部は、信仰の問題でした。イスラエルの民は、「主は、私たちの内におられるのかどうか」と疑って、結果として、荒野で滅んでしまいました。我々の場合はどうでしょうか。

私たちに当てはまるみことばは、コロサイ書1章27節です。「あなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みである。」困難、苦しみ、誤解、攻撃、試みが実にあるのですけれども、これらのことは、外側のことだけです。あなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みである。見える望みは、望みではないんです。というのは、これも信仰の問題です。私たちは、いつも我々の内にいますイエス様を感じないでしょう。そして、私たちは、私の内に、イエス様が住んでいるという確信をいつも持っていないでしょう。けど、それにもかかわらず、あなたがたの内にいますキリストであるということは、確実です。

イスラエルの民は、一番、大きな問題にぶつかっても、主の栄光があったんです。隠れても、主の御臨在は、確実でした。同じように、あなたがたの内にいますキリストであるという事実は事実です。

ヘブル人への手紙、13章の5節の後半、すばらしい約束のみことばがあります。

ヘブル(口語訳)
13:5 主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。

信仰は、これを信じます。私たちは、『私は決して、主の御心にかなう者ではない』と考えるかもしれない。けど、それにもかかわらず、信仰は、パウロと同じように言っています。

第二テモテ(口語訳)
1:12 わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信している・・・

これは信仰です。そして、こういうふうに主は満足され、栄光をお受けになります。イスラエルの民によって、主は、満足されませんでした。

ヘブル
3:18 神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者(・・・原語では、不信仰の者・・・)に向かってではなかったか。

主はいったいどうして、不満だったのでしょうか。イスラエルの民が、主がゆだねられているものを、かの日に至るまで、守ってくださることができるということを信じなかった。信じたくなかったのですから。

イスラエルの民は、見えないもの、すなわち、神の御臨在によらないで、不信仰によって、歩いていた民でした。私たちは、逆に見えるもの、すなわち、困難、苦しみ、悩み、自分の弱さと罪、誤解や攻撃によらないで、信仰によって、歩んでいるものなのでしょうか。

あなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みであるという事実を知っていただきたいのです。また、そのために、また、私たちは、このような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、私たちは、自分の信じてきた方を知っており、また、その方は、私たちにゆだねられているものを、かの日に至るまで、守ってくださることができると、確信しているからです。こういうふうに、主は、満足され、栄光をお受けになります。

三番目。聖霊、主の宮であるまことの教会の第三番目の面は、世界の選ばれた者の解放と、すべての信じる者に対する奉仕です。教会は、どうして存在しているのでしょうか。我々の生活の目的とは、いったい、何なのでしょうか。私たちは、他の人々に奉仕するのでしょうか。それは、大切なすばらしい使命です。

第二コリント(口語訳)
4:12 こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働く・・・。

士師記、6章の39節、40節に同じことについて書いてあります。ここに、『羊の毛だけかわいて、地にはすべて露があった』とあります。

【参考】士師記(口語訳)
6:39 ギデオンは神に言った、「わたしをお怒りにならないように願います。わたしにもう一度だけ言わせてください。どうぞ、もう一度だけ羊の毛をもってためさせてください。どうぞ、羊の毛だけをかわかして、地にはことごとく露があるようにしてください」。
6:40 神はその夜、そうされた。すなわち羊の毛だけかわいて、地にはすべて露があった。

私たちは、同じことを経験しなかったでしょうか。何としばしば、私たちは、この羊の毛と同じように、徹頭徹尾、渇いた者でしょう。その時、私たちは、いのちに満ちて、他の人々に奉仕している者ではないと思うでしょう。けど、後で見ると、ちょうどその時、私たちによって、他の人々に奉仕されたということが解かります。こういうふうに、主は栄光をお受けになります。いったい、どうしてでしょうか。

第一コリント(口語訳)
1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。

もし、私たちが、いい気持ちを持っていて、いのちに満ちた者であるということを確信しながら、他の人々に奉仕しようと努力すると、そして、、その人たちが、実に祝福されたら、私たちは非常に誇るのではないでしょうか。必ずそうです。だから、私たちは、どうすることもできない者だ。渇いた、渇いた者だ。他の兄弟姉妹に奉仕することができないという告白までに、私たちは来なければいけないのです。

このような導きは、どんな人間でも、主なる神の御前に誇ることがないためなのです。というのは、他の兄弟姉妹に対する奉仕も、徹頭徹尾、信仰の問題です。そして、信仰は信仰です。失望と絶望だけがあるかもしれない。私たちは、少しも感じないかもしれないけど、このような困難の最中に、信仰の目によって、高められたイエス様を見ましょう。こういうふうに主は、栄光をお受けになり、他の人々に、祝福されます。

激怒した悪魔の攻撃があるかもしれない。けど、それにもかかわらず、強行な信仰を持ちましょう。信仰によって、前進しましょう。

詩篇(口語訳)
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくる・・・。

涙を流すことがあるかもしれないけれども、信仰によって、前進しましょう。そして、信じる者は必ずや、喜びの声を上げることができるのです。

四番目、霊なる神の住まいである教会の第四の面は、どこにおいても、教会は、主イエスの代理、代表であるべきです。私たちは、「二人、三人、我が名によって、集まるところには、わたしもその内にある」というみことばを皆、覚えるでしょ。このみことばの真理は、主イエス様のからだの事実を示しています。

すなわち、教会とは、イエス様だけではなく、あなたの内にいる、わたしの内にいるイエス様です。だから、二人、または、三人の信者が集まると、彼らは、イエス様の代理なのです。これも、しばしば、信仰の問題です。もちろん、「二人、三人、我が名によって、集まるところには、われもその中にある」という約束がありますけれども、私たちは信仰によって、この約束を自分のものとしなければいけません。もし、二人、三人、イエス様の御名によって集まっても、しかし、その時、主の御臨在を感じないかもしれない。どうしてでしょうか。なぜなら、わたしたち一人ひとりが、信仰を持って、集会へ来なければならないから。「我イエスキリストもその内にあるなり」という真理をつかみ、信仰によって、感謝しましょう。二人、三人の信者は、イエス様のからだを意味しています。

そして、からだがあるところには、頭(あたま)、かしらであるイエス様も御臨在しておられます。この事実をいつも、つかんでいただきたいのです。信仰によって、私たちはこのすばらしい事実を経験することができるのです。もし、私たちが、お客様として来、まだ、私たちは、中途半端な立場を取ろうと思うと、私たちは決して、主の御臨在を経験することができません。信仰を持って、集会に出席していただきたい。

我々の集会は、単なる説教すること、また、聴くことではなくて、イエス様との交わりとすべきです。もし、私たちが、生き生きとした信仰を持って、集会に出席すると、私たちは、ただの説教を聴きたいのではなく、イエス様ご自身を見たい、イエス様の御声を聞きたいでしょう。そうしたら、初めて私たちは、主に会うのです。もし、私たちの態度がそうだったら、必ず、主の御声を聞き、主との交わりを持つことができるのです。

どこの場所でも、信者たちは、イエス様を共同的に現すべきです。けど、共同的な生活の価値は、信仰なしに解からないのです。

イエス様のからだなる教会の五番目の面は、悪魔の敗北に対する証しです。からだなる教会は、どうして存在していますか。私たちの生活の目的は、いったい、何なのでしょうか。イエス様が、悪魔に対して、完全な勝利を得たという事実は、我々一人ひとりの生活を通して、明らかにならなければいけません。十字架の上で、イエス様は、悪魔に打ち勝ったのです。

イエス様は、ヘブル書、2章14節のように、「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼした」とあります。そして、五旬節の日に、弟子たちは、聖霊の力を持って、大喜びで、この偉大なるイエス様の勝利を述べ伝えました。その時、弟子たちは、疑問や疑いを少しも持っていなかったのです。けど、すぐに悪魔の攻撃によって、兄弟姉妹が殺されて、大きな苦しみと困難なしには、福音を述べ伝えることができませんでした。

その時から、弟子たちは、強固な信仰によって、彼らの勝利者であるイエス様を見て、主の支配を述べ伝えたのです。我々にとって、主の勝利は、戦いの信仰の問題であります。私たちの戦いは、何回も何回も言いましたし、血肉に対するものではない。この目に見える世界ではない。もちろん人間に対するものではない。諸々の支配と権威と闇の主権者、また、天上にいる悪の霊に対する戦いであるとあります。だから、パウロは、『神の武具を身に着けなさい』と言っています。そして、この神の武具について、詳しく語っています。この主の武具については、このエペソ書の中で詳しく書いてあります。

エペソ(口語訳)
6:16 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができる・・・。

パウロはこう証ししています。ローマの兵隊たちは、ただひとつの盾を持っていませんでした。頭を守るために小さな丸い盾があったり、そして、体全体を守る長い盾もあったのです。パウロは、この長い盾を思っていたのです。その上に、信仰の盾を手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるのです。主のからだなる教会の戦いの信仰によって、悪魔は、自分の名誉、立場、王国を失ってしまいます。

もちろん、この悪魔に対する勝利は、イエス様にとっては、過去に行われた事実であり、けれども、我々にとっては、未来のことです。あるいは、信仰によって、現在に経験すべき現実です。私たちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。その上に信仰の盾を手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火矢を消すことができるとあります。そうしたら、初めて、主イエス様が、悪魔に対して完全な勝利を得たという事実が、私たちひとり一人の生活を通して、明らかになります。

最後に、私たちは、今まで話さなかった、教会の六番目の面について、ちょっと考えて終わります。

教会は、来るべき栄光の日をあこがれて、待ち望んでいるのです。けど、信者ひとり一人が、この栄光の日の光を、今日(こんにち)、今、明らかにしなければなりません。もう一度、エゼキエル書43章に戻ります。

エゼキエル(口語訳)
43:2 その時、見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から来た。

東は、日の出、新しい日、すなわち、来るべき栄光の日を意味しています。

エゼキエル(口語訳)
43:4 主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。

霊なる神の宮である教会は、栄光の日にあこがれて、待ち望んでいます。私たちは、エペソ書6章12節のように、神の栄光をほめたたえる者となるはずです。

ヘブル(口語訳)
10:37 「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。
10:38 わが義人は、信仰によって生きる。

信仰は、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確信することであります。これは、信仰の問題です。私たちは、信仰によって、来たるべき栄光を賛美しましょう。信仰は、望んでいる栄光を確信し、まだ見ていない栄光を確信することです。

教会の存在は、何の意味を持っているのでしょうか。信仰によって、救われたひとり一人が、この栄光の日の光と栄光を今日、今、明らかにしなければなりません。けども、これは、いったい、いかにして可能なのでしょうか。単なる教えや教理によってではなく、この栄光は、我々の内に現実とならなければいけない。そしたら、初めて、他の人々は、私たちから出る栄光によって、深い印象を与えられるのです。

けれども、これは信仰によってのみ可能です。私たちは、来たるべき栄光の日を、心の目でみなければいけません。この点にとっても、霊的な啓示が必要です。啓示がなければ、民はこわし、人々は散らばりますとあります。啓示がなければ、救われた人々は、一致しないし、健康や普遍や権威を失います。来たるべき栄光の日は、単なる教えではないんです。私たちが、啓示を受けると、この来たるべき栄光の日は、我々にとって、自由を得させる力や、一致させる力や、我慢する力を意味しているのです。もし、信者たちが集まり、そして、この来たるべき栄光の日について考え、賛美すると、この栄光を感じることができるのです。なぜなら、聖霊なる神は、時間なんて、ご存知ないからです。だから聖霊は、いつも終わりの栄光を見るのです。聖霊は、栄光の霊であり、したがって、私たちは、この栄光について考えると、栄光を経験することができるのです。

聖霊なしに、栄光と喜びはあり得ないことです。けれども、聖霊の支配のもとに、私たちは、周りの困難と苦しみを忘れ、喜びに満ち足りるのです。私たちは、来たるべき栄光を感じないかもしれない。けど、信仰は、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確信することです。もうしばらくすれば、来たるべき方がお見えになる。遅くなることはない。我が義人は、信仰によって生きる。

信仰は、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない栄光を確信すること、信仰はそれなのです。

おわり

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