聖なる神の宮である教会(二)
主の取り扱いの目的
2011年3月15日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
ローマ
8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
ヘブル
1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
2:5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。
2:6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
2:7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、
2:8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
2:9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
2:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
2:11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
ヘブル
3:1 そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
3:7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、
3:8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。
12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
黙示録
12:5 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
このあいだ、話したように今のメッセージは、最近、準備したものではなくて、五十五年前に準備したけど、使わなかったのですね。どこで準備したのかというと、那珂湊(なかみなと)。その時、那珂湊でも、大洗(おおあらい)でも、教会を建てたし、おそらく、両方とも、もう(震災で)ダメになったのではないかな・・・と思います。連絡する人がいないんです。まったく、解からない。先週、大洗で喜びの集いをやるつもりだったんですけど、もちろん、まったく、不可能でした。使うべきホテルは、水もない、電気もない・・・ということになったのですから、もし、我々が居るあいだだったら、ちょっと、考えられないことになったでしょう。けども、主は、支配しておられます。
今、読みました箇所の中で、「私たちは、イエスを見ています」と、あります。これこそが、初代教会の兄弟姉妹の証しでした。私たちは、イエスを見ています。現実はどうであれ、関係ない。初代教会の人々は、どうして、当時、そのような強い影響を及ぼしたかと言いますと、彼らは、「私たちは、目に見えるものによらないで、信仰によって歩んでいる。」
私たちも、イエス様だけを見れば、本当に、すべてが必ず、祝福になるに違いない。このあいだ、始まったテーマを、ちょっと、今日も続けたいと思います。題名は、『主の取り扱いは、子供教育である。』けど、もし、私たちがいつまでも、霊的な赤ちゃんであったら、主は、喜ばないのです。私たち一人ひとりが、成長し、成人した神の息子、娘とならなければならない。そのために、教育が絶対に必要です。教育されるために、私たちは、いろいろな真理を経験しなければなりません。ヘブル書の中で書かれています。
ヘブル
5:8 彼は御子であられたにもかかわらず(・・・イエス様のことなんですけど・・・)、さまざまの苦しみによって従順を学(んだ。)
私たちも、この真理を経験しなければならない。苦しみと困難なしには、私たちは、決して、前進しないのです。けど、この教育の完成は、いったい何でしょうか。主の訓練の目的は、いったい何なのでしょうか。いかにして、神の子となることができるのでしょうか。いわゆるキリスト教の教えを受けることによってでしょうか。あるいは、イエス様の偉大さ、また、イエス様の救いを、心の眼(まなこ)で見ることによってでしょうか。『生けるまことの神の御子である主イエス様は、私のために死を味わい、私の代わりに罪とされて、十字架につけられた』ということを見たのでしょうか。勉強しましたからではない、あるいは、理解したからでもありません。救いを見たのでしょうか。これが問題です。
もし、主なる神が、御子イエス様を、我々の内に啓示なさると、私たちは、ただひとつのことをすることができるのです。すなわち、生けるまことの神を、崇拝せざるを得ません。いかにして、神の子となることができるのでしょうか。答えは、聖霊の啓示によって、イエス様の救いを、神の救い主を見ることによってのみ、可能でしょう。イエス様は、聖霊によって、お生まれになったと、聖書は言っています。マタイ伝、一章二十節ですね、『その胎内に宿っているものは聖霊によるのである(口語訳)』とあります。御子イエス様と同じように、一人ひとりの信者も聖霊によって、新しく創られて、新しく生まれた者です。
旧約聖書のもっとも主な人物の一人は、アブラハムでしょう。『信仰の父』と呼ばれている男で、けど、彼は、自分の力を尽くしても、息子を作ることができなかった。彼は、疑いもなく、非常に信心深い人でしたけど、それにもかかわらず、息子を作ることはできなかったのです。生まれたイサクは、徹頭徹尾、主から備えられた者でした。同じく、サムエルという預言者も、主から備えられた子供だったことは明らかです。聖書全体を見ると、これは、主の原則なのではないでしょうか。ヨハネ伝、三章六節に、『肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である(口語訳)』と、あります。また、一章十三節、神の子は、『血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである(口語訳)。』誰も、自分の力で神の子となることはできません。絶対にできません。これは、徹頭徹尾、主の働きであります。
けれども、これは、終わりではありません。私たちは、成長し、成人した神の息子、娘とならなければいけません。ところが、この教育は、苦しみを意味しています。
ヘブル(口語訳)
12:11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。
神のみことばは、この教育の目的は、主なる神の御座であるということです。いったい神は、私たちが、ここで語っている来るべき世界を、御使いたちに服従させることはなさらなかった。聖書は、ある箇所でこう証ししている。『人間が何者なので、これを御心にとめられるのでしょうか』とあります。一番、偉い使いたちではなく、人間が来るべき世界の支配を持つ者になるとあります。ヘブル書、1章2節、今も読んでもらいました箇所ですけれど、『神は、御子を万物の相続者と定められた』とあります。けども、御子イエス様だけではなく、私たちも、イエス様と共に、相続者となるべきです。だから、2章10節に、主イエス様は、多くの成人した息子たちを、『栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったから』であります。
主の座が問題なのです。来るべき世界の支配が、問題なのです。もし、私たちが黙示録の12章、本当は1節から12節までを読むと、同じことについて語っています。今、公人兄弟は、5節だけを読みました。
黙示録(口語訳)
12:5 女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。
彼は、鉄の杖をもって、すべての国民を治めるべき者であるというところは、主の子供教育の目的であります。この子が、神の御許に、その御座のところに引き上げられたとは、成人した息子の立場です。この黙示録12章の男の子について、ちょっと考えたいと思うんですけど、初めに、私たちは、この男の子は、イエス様ではないと言いたいのです。なぜなら、しばしば信者たちは、この女はイスラエルの民であり、男の子はイエス様であるという間違った考えを持っています。
けれども、黙示録は、イエス様の高く引き上げられたことの後で書いた書物です。そして、1章1節に、イエス・キリストの黙示とあります。この黙示は、主なる神が、すぐにも起こるべきことを、そのしもべたちに示すため、キリストに与えたとあります。黙示録は、したがって、将来に、起こるべきことについて書いた書物です。けど、イエス様は、もうすでに、天に引き上げられましたから、この黙示録、12章の男の子は、決してイエス様ではありません。
二番目の理由は、イエス様が昇天された時、悪魔は、まだ、天から地に投げ落とされたのではなかったのです。なぜなら、イエス様の昇天から、四十年あとで、パウロはエペソに住んでいる兄弟姉妹に、次のように書いたのであるから。エペソ書6章12節、皆、暗記している大切なことばです。
エペソ(口語訳)
6:12 わたしたちの戦いは、血肉(・・・すなわち、目に見えるもの、人間・・・)に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
父なる神は、イエス様を死人の中からよみがえらせ、ご自分の右の座につけた時、悪魔は、まだ、地に投げ落とされたのではなかったのです。
三番目の理由とは、この黙示録12章4節、5節を読むと解かるはずです。理由は、子を産もうとしている女の前に立ち、生まれたなら、その子を食いつくそうとかまえていた。女は男の子を生んだが、彼は鉄の杖を持って、すべての国民を治めるべきものである。この子は、神の御許にその御座のところに、引き上げられたとあります。
【参考】黙示録
12:4 その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
12:5 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
ここで男の子は、天に引き上げられたことによって、助けられましたけど、イエス様の場合、そうではなかったでしょう。悪魔は――目に見える現実を見ると――悪魔は、イエス様に対する勝利を得ました。イエス様は、十字架の上で死んでしまいました。殺されてしまった。けど、それは終わりではなかったのです。イエス様は、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼしたと、聖書は言っています。
さて、黙示録12章に出てくる女は、イスラエルの民でしょうか。いいえ、決して、そうではありません。この女は、天においては、栄光を持っており、地においては、苦しみと困難に満ちている者です。これは教会、主のからだなる教会です。すべての救われた兄弟姉妹です。エペソ書を開くと、これはすぐに解かるでしょう。
エペソ(口語訳)
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し(てくださった)。
2:6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
けれども、信じる者は、同じく、この地上で生活して、困難と苦しみを持っている者です。困難の最中(さなか)において、イエス様との生き生きとした交わりによって、栄光と、もろもろの祝福を持っているもの、それは教会です。イエス様のからだなる教会であり、聖霊の宮であり、神の宮であります。
続いて、この男の子はいったい、何を意味しているのでしょうか。「女は男の子を産んだが、彼は鉄の杖を持って、すべての国民を治めるべきものである。この子は、神の御許にその御座のところに引き上げられた」と、あります。だいたい同じことばが、黙示録の二章26節、27節に書いてあります。また、三章21節も読みます。
黙示録(口語訳)
2:26 勝利を得る者・・・には、諸国民を支配する権威を授ける。
2:27 彼は鉄のつえをもって・・・、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。
そして、三章21節に同じ表現が出てきます。すなわち、勝利を得る者・・・
黙示録(口語訳)
3:21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
この男の子は、どなたかということがお解かりになったでしょう。この男の子は、勝利を得る者です。イエス様の座が問題です。世界の支配が問題です。これは、子供の遊びではないのです。霊的な子供は、何も自分でできないのです。他の兄弟姉妹が、いつも、子供のために努力しなければいけません。子供は、自分の経験なんて、持っていないのです。霊的な赤ちゃんは、勝利を得る者ではないんです。したがって、諸国民を支配する権威を授けられません。主イエス様の座に着かせません。
私たちは、どうにかにして、主の定められた目的を達したいと思いませんか。ある人は、『集会に行かなくてもいい、聖書を読まなくてもいい、祈らなくてもいい、私は、イエス様を信じているから、それで充分です』と。確かに救われるためには、これで充分です。けど、そのような人は、日々の生活に、喜びがありません。主イエス様を、心から愛していません。救霊(きゅうれい)に対する熱意もないでしょう。このような人は、永遠に、自分の無関心さを後悔するでしょう。
私たちは、来るべき世界に、主なる神の成人した息子、娘として、ご自分の責任を持つことができるように、今、霊的な赤ちゃんから、成長によって、成人した息子、娘とならなければいけません。そうしたら、初めて、私たちは、自分で食べることができ、自分の生活のために働くことができるのです。成人した息子は、独立して、他の人の言うことや行いに拠らなくてもいいわけです。成熟したクリスチャンは、「私は、主の御心を知っている。私は、主を新しく見た。主の声を心の耳で聞いた。私は、新しい光を、新しい啓示を受けた」と、言うことができるのです。
生けるまことの神の目的とは、いったい、何なのでしょうか。自分の救いだけでしょうか。生まれ変わったら、それで、主のご満足でしょうか。それで、充分でしょうか。決して、そうではありません。それで充分だととらえている信者は、主に喜ばれない者です。
「私は何をやるか」と、考えている信者は、霊的な赤ちゃんです。主のご満足が第一のはずです。そして、生けるまことの神の目的は、イエス様の御座なのです。すなわち、私たちは、勝利を得た者として、成人した息子、娘として、主の座に着かなければいけません。この事実を、はっきりとした目的を、掴んでいただきたいのです。もちろん、私たちは、栄光、富、権威を、自分のものとするのです。けれども、それは、第一の問題ではありません。
今日の世界帝国を見ると、私たちは、この出来事のうしろに、悪魔が働いていると解かります。悪魔は、何とかして、生けるまことの神と、主イエス様を退けようと、努力しています。したがって、国々のねたみ、恨みは、この世の支配に対する戦いです。けれども、来たるべき世界の支配は、悪魔によってだまされた人間のためではなく、私たちのためです。私たち、主のからだなる教会は、すべての国民を治めるべき者のはずです。私たち、一人ひとりが、男の子、すなわち、成人した息子、娘として、主の御許に、その御座のところに、引き上げられるようにと、ひたすらに祈りましょう。
黙示録の十二章の女は、すべての信者は、主なる神の御許にその御座の所に、引き上げられるであろうなどとは、書いてありません。「女は男の子を生んだが、彼は鉄の杖を持って、すべての国民を治めるべきものである。この子は、神の御許にその御座のところに引き上げられた」と、あります。テアテラとラオデキアにある教会の信者たちは、疑いもなく、皆が新しく生まれた者として、永遠のいのちを持っていました。けど、皆が勝利を得る者ではなかったのです。勝利を得る者だけが、諸国民を支配する権威を授けられるのです。勝利を得る者だけが、主イエス様の座に着けるのです。
イスラエルの民を見ても解かります。イスラエルの民は皆、エジプトから出た時、小羊の血を受けました。新約聖書で言えば、これはイスラエルの民、全部が信者であったことを意味しています。皆、救われていました。エジプトの奴隷から解放されたのです。また、イスラエルの民、全部がカナンの地に入りたかったのですけど、二人だけ、ヨシュアとカレブだけ、カナンの地に入ったのです。残りの人々は全部、四十年の間、荒野で滅んでしまいました。イスラエルの民は、皆、救いを持っていましたけど、彼らは、霊的な生活において、成人しなかったのです。彼らは、霊的な感覚を持っていましたが、しかし、これらを使いませんでした。勝利を得る者はただ、二人だけでした。ヨシュアとカレブでした。
聖書の中で、何回も何回も、同じ表現が出てきます。すなわち、「今日、御声を聞いたなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」
パウロは、ガラテヤに住んでいるクリスチャンたちに書いたのです。
ガラテヤ(口語訳)
4:19 ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。
この信者たちは、疑いもなく、本当に救われた人々だったでしょう。けど、パウロは満足しませんでした。なぜなら、生けるまことの神も満足されなかったからです。改心は実に偉大なる経験でしょう。けれども、終わりではない。だからこそ、パウロは書いたのです。
ガラテヤ(口語訳)
4:19 ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。
『苦しい、戦いですよ』と。いったい、どうしてパウロは、そんなに苦しんだのでしょうか。主なる神の御許が、その御座のところが、問題であるからです。私たちは、火の中をくぐって来た者のように、救われるでしょうか。あるいは、主の御許に、その御座のところに、引き上げられるのでしょうか。
女は男の子を産んだが、彼は、神の御許に、その御座のところに、引き上げられたとあります。女ではなく、男の子だけが、神の御許に、その御座のところに、引き上げられたとあります。教会全体ではなく、成人した息子、娘たちだけが、主イエス様の座に着けるのです。勝利を得る者だけが、イエス様と共に諸国民を治めるのです。イエス様の座につかせることや、来るべき世界の支配は、実に、子供の遊びではない。だから、霊的な赤ちゃんは、子供教育によって、成長し、成人しなければいけません。
これを考えると、苦しみと困難の意味を解かるはずです。あなたがたの内にキリストのかたちが出来るということは、苦しみと困難を意味しています。おもに、これは、聖霊の苦しみです。パウロは、聖霊の支配のもとにいましたから、パウロはこの産みの苦しみを経験したわけです。
私たちの中で、『集会に行かなくてもいい、イエス様を信じていますからそれで充分です』と、考えている信者は、わりあいに楽な生活をするでしょう。けれども、もし、『私は、どうしても、主の定められた目的までに達したい、何とかして主イエス様の座につきたい』と思うと、苦しみと困難を経験するのです。私たちは、自分の生活と兄弟姉妹の生活を見ると、産みの苦しみをするでしょう。この産みの苦しみなしに、誰も、主の御許に、その御座のところに、引き上げられることはありません。産みの苦しみなしに、成人はありえないことです。産みの苦しみなしに、勝利を得る者なんて、ばかげたことです。
ヘブル(口語訳)
12:11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。
ヘブル書12章11節に書いてありますね。これは、事実です。けど、私たちは、パウロと同じように、あえて、次のように言いましょう。
ローマ
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
確かに、『諸国民を支配する権利を授ける』とあります。私たちをともに、わたしの座につかせようというのは、考えられない栄光です。これを目的として、掴むべきなのではないでしょうか。私たちは、金を儲けるために、あるいは、役割を演じるために、それとも、自分の名誉のために生活しません。主なる神の御許に、その御座のところに引き上げられることは、それこそが、私たちの目的です。
パウロは、主のからだなる教会に対する啓示を受けて、聖霊の支配のもとに一生懸命、働いたのです。けれども、パウロは、捕縛されて、何年間か、監獄の生活をしなければなりませんでした。これは、解かりにくいのではないでしょうか。確かにパウロにとっては、これは、喜ばしいものではなかったのです。しかし、その時、パウロは、エペソ書を書いたのです。この手紙は、パウロの苦しみと困難の結果でした。私たちの苦しみの結果は、いったい、何なのでしょうか。苦しみによって、私たちの内にキリストのかたちができるでしょうか。それとも、私たちは、希望なし、目的なし、失望してしまい、やめましょうと考えていますか。どっちでしょうか。
ガラテヤの信者は、新生によって、永遠のいのちを持っていましたが、けれども、前進しませんでした。パウロは、彼らに、「ああ、物分かりの悪いガラテヤ人よ、だれがあなたがたを迷わせたのですか」と、尋ねたのです。
ガラテヤ(口語訳)
4:19 ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。
パウロはこう叫んだのです。今の時の苦しみは、やがて私たちに現されようとする栄光に比べれば取るに足りない。覚えるべきことは、主の御許にその御座のところに引き上げられることは問題ですから、前進しましょう。
成人した息子の立場は、また、黙示録12章の男の子とは、苦しみの結果なんです。本当に大切です。すなわち、私たちが、どれほど主のために働くかは問題ではない。私たちがイエス様の満ち満ちた徳の高さにまで至るか、それが問題です。前に読んでもらいました黙示録12章9節、
黙示録(口語訳)
12:9 この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。
この出来事は、いつ起こるでしょうか。女から生まれた男の子が、神の御許に、その御座のところに、引き上げらた時なんです。勝利を得る者が、イエス様の座につかせられると、悪魔とその使いたちは、逃げざるを得ません。けれども、悪魔は、投げ落とされる前に、激怒して、主のからだなる教会を滅ぼそうと努めているのであります。
多くの国の兄弟姉妹を見ると、彼らの言い表すことのできない苦しみと困難によって、この男の子、成人した息子、娘たち、勝利を得る者が起こるのです。苦しみが来ると確かに多くの兄弟姉妹は、やめるかもしれない。多くの人々は、失敗するかもしれないけど、わずか、本当にわずかの人々が、主の満ち満ちた徳の高さにまで至るのです。彼らだけが、主の座に着き、イエス様と共に、来るべき世界の支配者になるのです。
最後に、ひとつのことばについて、ちょっと、考えたいと思います。黙示録12章5節の引き上げられたということばですね。
黙示録(口語訳)
12:5 女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。
この『引き上げられた』とは、携挙(けいきょ)を意味しています。たとえば、使徒行伝の8章39節、40節、コリント第二の手紙12章2節に、同じことばを使っています。
【参考】使徒
8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。
8:40 それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。
【参考】第二コリント
12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。
パウロは、ピリピ書3章10節、11節で言っています。
ピリピ(口語訳)
3:10 キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
3:11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
この『死人のうちからの復活』を経験することができるという目的を達するために、パウロは追い求めたのです。何とかして、死人のうちからの復活に達したいのである。
ピリピ(口語訳)
3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
パウロは、こういうふうに信じる者の成長について考えた時、言ったのです。
ピリピ(口語訳)
3:13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
これは、パウロの目的でした。我々の目的、我々の態度は、いったい、何なのでしょうか。
追い求めることこそが要求されています。成長は、実に、遊びではありません。産みの苦しみなしに、私たちは、この主の御許に、その御座のところに、引き上げられることを経験しません。苦しみによって、私たちの内に、キリストのかたちができるのでしょうか。それとも、希望なく、目的なしに失望してしまい、『やめましょう』と、考えていますか。パウロは、知恵、人気、権威、意見、財産などを、持っていたかもしれないけど、彼は、『それはどうでもいい』と思った。彼の証しは、ピリピ書3章7節、読みます。
ピリピ
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
『勝利を得る者は、わたしとともにわたしの座につかせよう』と、イエス様は言われました。これは、考えられない、想像できない栄光です。これを目的として、掴んでいただくべきではないでしょうか。全宇宙を支配するために、イエス様と共に、御座につくことは、パウロの目的でした。我々の目的とは何でしょうか。パウロは、『私の幼子たちよ。あなたがたの内にキリストのかたちができるまでは、私はまだ産みの苦しみをしている』と、叫んだのです。
私たちすべての者が、キリストの満ち満ちた徳の高さまで至るように祈りましょう。
おわり
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