2007年6月17日、アイドリンゲン(ドイツ)
ゴットホルド・ベック
去る五旬節にアイドリンゲンで行われた若者の集いで、二つの文章が引用されました。まず、最初の文章は次のものです。
「イエス様は真実なお方です。役に立たない者の人生に対しても、イエス様は真実を尽くされます。イエス様は、私たちが知っていると思っているお方とはまったく違ったお方であり、私たちが勝手に望んでいるのとはまったく違ったお方です。主はみこころのままに、あなたの人生に介入されます。」(ハインツ・スピンドラー)
先週の日曜日にも、ここアイドリンゲンでお話したように、私たちの主は、私たちとは、まったく違ったお方です。私たちが苦しい逆境を乗り越えるには、ただイエス様からの新しい啓示だけが役に立ちます。なぜなら、主の中にのみ、光といのちがあるからです。
聖霊にあふれておられたイエス様は、いつもご自分の考えを否定なさいました。「わたしはどうでもよい。父である神よ、あなた様は何をお望みですか。わたしは何を語り、何をするべきでしょうか。わたしの思いではなく、わたしの判断ではなく、あなた様のみこころ、あなた様の判断だけがなりますように。」
主だけが、すべての決定権をお持ちです。イエス様は目立たない存在でおられたかったのです。十字架の意味するところは、自分の思いや感情を十字架につけてしまうことです。日々自分の思いや感情を十字架の下に持っていかなければなりません。主だけが私たちのかしらとして、すべての決定権をお持ちです。
次の疑問を、自分に問いかけてみましょう。私はいつも、主のご支配の下にすべてを明け渡しているでしょうか?私はいつも、主の思い通りに動かされているでしょうか?
主は、ご自身のご栄光で満たすことのできる器を求めておられます。私たち自身は一度、死ぬ必要があります。死んで、自分で生きることをやめ、主無しで生きることをやめるのです。そうすれば、主の御支配、開かれた天を体験できるでしょう。
イエス様にとっては、父である神のみこころだけが決定的でした。サタンや家族、弟子たちから幾度も意見や提案を受けられましたが、その通りになさったことはありませんでした。ただ、父のみこころにかなうことだけが、イエス様の行動の決め手でした。
聖霊は、私たちのすべての自主性、すべての思いを取り除かれたいのです。その上で、すべての責任を負いたいと思っておられます。私たちは自分自身の思いを否定することによって、主の満たしを体験できるのです。私たちは幸いにも、主に依存することが許されており、それによって主の満たしにあずかることができるのです。満たしは主の中にしかありません。心のうちにおられるイエス様は、とにかく、私たちとは違います。ですから、私たちは自分自身を否定することによってのみ、満たしを体験できるのです。
私たちにも良いと思われる考えがあるかもしれません。しかし、それが主のみこころであるか、私たちの思いであるかを、主に尋ねなければなりません。主とともに歩んでいるかどうかが大切なのです。主の霊が働いている中には、あふれるいのちがあり、主がどこにおられ、どのように働こうとされているのか、また、私たちに何を要求しておられるのかがわかります。何が起きようとも、主のもとにいつも身を避け、十字架の血潮の覆いに身をおくことが許されています。神様は、ご自身の目標を達成するために、私たちをも参加させられるのです。
さて、若者の集いで語られた第二の引用は、次の文章です。
「神様は、ご自身の目標を達成するために、私たちをも参加させられるのです。あらゆる国家、部族、民族、言語の人々が集まって主を礼拝します。」(シドニー・ウイトブーイ)
私たちの使命は、イエス様を宣べ伝えることです。私たちの望みは、まだ救われていない人々が、イエス様を知って救われることです。主への愛、そして、失われている人々への愛ゆえに、私たちは、真理の問題に関して、異説を聞き入れてはなりません。人々を地獄に行かせたくないからです。この世にある、いわゆる宗教というものは、人間を生ける神のもとにではなく、滅びに導きます。ただひとり、主イエス様だけが、ご自身が生ける神への唯一の道であると明言しておられます。
今の時代はほんとうに深刻です。イエス様を信じる者は、協力しあうべきです。しかし、その協力とは、すべてを犠牲にし、すべてを妥協して協力しあうことでは決してありません。聖書の真理を犠牲にした誤った超教派的な動きは、解決策にはなりません。ただ主イエス様を信頼し、信じ切ることだけが、問題を真の解決に導きます。
たとえば、私たち主を信じる者は、次のような人々と交わることはあり得ません。
- 聖書を絶対的なものと考えない人々。
- マリヤや聖人、死者に向かって祈る人々。
- 聖書に基づいた相談でなく、心理学的なカウンセリングを求める人々。
- この世的な方法で、教会を繁栄させようとする人々。
- ローマ法皇を、すべてのキリスト者の代表として認める人々。
- 聖書の神とイスラム教のアラーを同等に位置付ける人々。
- 集会の規律を時代遅れとして、受け入れない人々。
- 罪や地獄について、もはや語らなくなった人々。
- 『神はすべての宗教の中にいる』と言う人々。
- 人々の賛同を得られないので、神をもはや主とは呼ばない人々。(この項はフリーゲ氏によるドイツの教会の大会における発言)
- 神は、父でもあり母でもあるので、もはや主とは呼ばない人々。
- イスラム教徒とともに祈ろうとする人々。
- 洗礼を罪の赦しとして認識する人々。
今の世の中は、神を認めようとしない社会になっています。不信仰と愛の欠如が蔓延しています。ヨーロッパの国々の憲法において、もはや、神の理念はなくなってしまいました。罪を罪と呼べず、異端を異端と呼べなくなると、宣教も福音伝道も不可能になります。過ちと罪があって初めて、神様の真理、義とあわれみが宣べ伝えられるからです。主は言われます。
ヨハネ
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
私たちは、主イエス様だけが真理であり、他には真理が存在しないということを、はっきりとこの世に向かって示さなければなりません。ともすると、聖書は、今の時代に向けた神の言葉として宣べ伝えられなくなっています。もはや真理は存在しないかのようです。
二つの異なった意見があります。一つ目の意見は、「間違いのない聖書のみことばに耳を傾け、現代の思潮から離れるように」と警告します。二つ目の意見は、「聖書批判を許し、現代の思潮と仲良くしよう」というものです。
しかし、私たちは、この終りの時代において、次のことをゆるぎなく確信する者です。すなわち、「聖書のみ、イエス様のみ、恵みのみ、信仰のみ。」また、「次の事実から離れることは不可能です。聖書の間違いのなさ。神である主イエス様。処女マリアからのイエス様の誕生。十字架上におけるイエス様による犠牲の贖い」。
ところで、南アフリカでいったい、何が起きているでしょうか。神に関係あることは憲法から除外されています。すべての宗教は同じ価値であるとされ、学校教育の中で、魔法や魔力の習慣が教えられます。堕胎が容認され、親が知ることなく、十二歳の少女が中絶することが許されています。
日本には、今日、プロテスタントの教会が7,961ヵ所あります。教会の会員が512,111人(人口の約0.4パーセント)ですから、一教会あたりの会員は平均64人、そのうち、日曜日の礼拝には約36人が参加するという計算になります。
日本最大の教団に属する200の教会では牧師が不在で、十年後には500ヵ所の教会で牧師がいなくなると心配されています。後継者が育たないのです。このような事実は衝撃的であり、信者の覚醒をうながします。
「ワタシは誰でしょう」という宣教の印刷物に次のことが記されていて、私は未だにそれを覚えています。
『ワタシは地上のどの軍勢よりも力強い。ワタシはどのような爆弾や大砲よりも大きな破壊力がある。ワタシはすべての戦争よりも多くの人間を殺す。ワタシは年々、多くの男女を不具者にしている。病気、長患い、そして、死をもたらす。ワタシは子どもも老人も、家屋敷をも見逃さない。何も与えず、すべてを取り去る。あなたはワタシのことを十分に警戒すべきなのに、ワタシのことを忘れている。ワタシとは、あなたの最大の敵、「無関心」である。』
『来て。ご覧なさい。主がいかなる救いを成し遂げられるのかを。』
日本における宣教活動について考えると、私たちは、単に主がなさったことの報告者に過ぎません。報告者は決して、重要ではありませんが、「来て、ご覧なさい。主がいかなる救いを成し遂げられるのかを」というみことばが成就するのを体験できたことは幸せであり、感謝です。
自分が立てた貧しい計画で無駄なエネルギーを消耗することなく、ただ主が恵んでくださること、主のなさることを感嘆しながら見ているだけでいい者は、何と幸いなことでしょう。恵みの中で成長するということは、自分が衰え、主が盛んになり、ただ、主がなさることをそばで見ていることに他なりません。
第二歴代誌
20:12 私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。
イスラエルの民は、優勢なアモン人の軍勢に怯えていました。どうすればよいのか。人間的に見れば、何もできません。しかし、自分自身の無力さを知り、それを認めた上で主に従おうとするなら、すべてのことが可能なお方、万能の主を体験することができます。自分の無力さを意識し、主を仰ぎ見る者は、何と幸いなことでしょう。これは、『無関心』とは全く異なります。
主の命令で、ヨナは、「ニネベの人々が滅ぼされる」ことを、大声で叫びまわりました。それで、何千人もの人々が悔い改め、主に立ち返ったので、主はニネベを滅ぼすことを思い直されました。それを見て、ヨナは怒りました。「あなたが恵み深い神であられるのを、私は知っていました。だから最初に命じられたとき、私は反抗したのです。私が告げて回ったことをこんなふうに反故になさるのなら、私のいのちなど取ってください。」
【参考】ヨナ
4:1 ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、
4:2 主に祈って言った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。
4:3 主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」
そして、彼がふてくされて町を見ていると、主は一本のとうごまの木を備え、彼に日陰を与えました。が、その木は枯れました。彼は再び、怒りました。ヨナは不従順であり、また、町の人々に対して愛の心がなく、無関心だったのです。しかし、主は最後に、こう言われました。
ヨナ
4:11 まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。
いったい、ここでは何が問題なのでしょうか。主が何を与え、どのように助けてくださり、私をどこに置かれるのか、それを主からどのように受け取るのかが問題なのです。
ある家族に、治療が不可能と言われている病気の子どもがいました。その子が三十歳になったとき、集会の人々が集まってお祝いし、この病気の子のために、主に感謝が捧げられました。招かれた人々はこのような体験をしたことがなかったので、たいへん驚きました。普通なら、病気の子は隠されるべきものであり、神に感謝されることなど、考えられないことだったのです。ある人は、次のようなことを告白しました。飼い犬が病気になり、安楽死のための注射がされたとき、この忠実な犬は最期に飼い主をもう一度じっと見つめました。飼い主は庭に出て、この一匹のために泣きました。
ヨナは、人間に対して無関心でしたが、神様はそうではありません。ヘルマン・ベツルは次のようなことを言いました、『街を見てまわると、人々は破滅に向かっているにもかかわらず、有頂天になり、歓声をあげている。その姿に私の心は痛む。』
ドイツの雑誌で、祈りが少なくなってきていることに警鐘を鳴らす、興味深い文章を見つけました。今の時代、教会、集会を問わず、多くの場合に当てはまるのではないかと思い、痛烈で風刺的な文章ですが、あえてご紹介します。その底に流れる著者の危機感をご洞察ください。
故「祈り会」氏の死亡通知
『「祈り会」氏は、かねて長期療養中のところ、逝去されました。「祈り会」氏は数十年前、リバイバル(信仰復興)の時代に生まれ、生き生きした証しや賛美があふれる中で大きく成長されました。とくに長年、教会で重要な役目を果たされましたが、ここ数年は、膝の硬化症で(祈りのために)ひざまずくことが少なくなり、衰弱しておられました。
「祈り会」氏の妻の「学び会」夫人は、数年前、同じ病気で衰弱し、死亡しておられます。主治医は、この世との親交を重視する某学派の巨頭でしたが、病気の治療のため、「組織」注射法や、「お茶飲み会」刺激法を考案、改善を図るべく他の新療法も次々と試みましたが、結果は見るべきものもなく、空席の目立つ教会に騒々しい音楽がこだまするだけで、何ら病状は改善されませんでした。
「テレビ熱」も、患者のいのちを奪う要因です。死後の解剖の結果、多くの患者は娯楽番組の見すぎで心の栄養失調状態にあることが判明しました。「テレビ熱」はまた、悔い改めや祈りを著しく減少させ、神への恐れ、真の信仰を欠如させたので、死は不可避でした。また、兄弟姉妹の愛のない環境が死期を早めたことも否定できません。それを反映して、生前に残された遺言は、冷たい事務的な内容でした。なお、参加者が極端に減少しているので、教会の水曜日の「祈り会」は、以後、中止いたします。ただし、若者の「福音劇団」が上映する日は、祈り会ではないので教会を開けます!』
こういう状態になってしまわないよう、私たちはしっかりと主に祈り求めていく必要があります。
さて、次にご紹介するのは、よく知られているH・E・アレクサンダーの詩です。今のときの大切さ、今、私たちが何をなすべきかを、強く促しています。詩の内容に該当する聖句は、エレミヤ書8章20節、「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない」です。なお、詩の中の「私たち」は信者のことではなく、イエス様の救いを伝えられなかった人々、福音を宣べ伝えられなかった人々のことを表わしています。
『恵みのときは終わりに近づいている。
広い世界に、いまや静かに、終わりの日が近づいている。
遠い砂漠の底から、不安な叫びが聞こえてくる。
私たち(・・・・イエス様を知らない人々・・・・)の真っ暗な夜には、決して光がさし込まない。
私たちを照らす神の恵みがなければ、
私たちは苦しみと闇の中、暗い道を行かねばならない。
永遠に、永遠に。
あなたがた主を信じる者は歌い、喜びに満ちて、
「自分は神の子である」と言う。
しかし私たちは、死のいけにえとなり、
恐怖に満ち、ひどい苦しみに満ちている。
あなたがたはなぜ、立ち止まっていて、夜の始まる今、私たちを救おうとしないのか。
あなたがたはなぜ、主がそのひとり子を遣わして、
私たちを愛してくれていることを教えないのか。
あなたがたのおかげで、私たちはそれを知らずに、希望もなく滅びいく。
私たちは死ぬために生まれたのであり、
死は、永遠から永遠にいたる我々の運命なのだろうか。
私たちには星が輝かない。約束の光も照らされない。
遠くの方にさばきの雷が聞こえる。
なぜ、なぜ、あなたがたは急がないのか。
神が「行って、全世界に、十字架の勝利者を宣べ伝えよ」と言っているのに。
あなたがたは、私たちのあわれな心のための「喜ばしい知らせ」を持っている。
傷を癒す薬を、苦痛を永遠に癒す薬を持っている。
それなのに、なぜ、そんなに長く、沈黙しているのか。
早く、主を信じるあなたがたの、
信仰の岩に至る道を、信仰の言葉を、私たちにも聞かせてほしい。
神があなたがたに与える慰めを、私たちにも与えてほしい。
私たちの涙をぬぐってほしい。
私たちが、永遠のいのちを持たず、死んでいくのは、あなた方のせいだ。
どうか私たちをも祝福に導いてくれ。私たちは罪に悩み、夜は近づいている。
私たちは、自分のたましいを、悪魔の力に与えなければならないのか。
永遠に。永遠に。
近くの国から、遠くの国々から、何千万という人々が、主を求めて叫んでいる。
主よ。私たち主を信じる者に、新しい恵みをお与えください。
私たちの罪をお赦しください。
あなたのためにのみ、私たちをお用いになり、
私たちを使者としてお遣わしください。
あなたを待ち焦がれているたましいの所へ、
十字架の言葉を運ぶ者としてください。
彼らが永遠に、永遠に、滅びることがないように!』
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