2026年5月27日水曜日

何を捧げましょうか

何を捧げましょうか
2015年10月21日、市川家庭集会
ゴットホルド・ベック

ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

ある方は、次のように言ったことがあります、『イエスが、あんまりにもすばらしいので、頭を上げられません。』別の人は、『私のすべてを主に捧げます』と、言われたのです。

福音書では、イエス様との出会いが、不可欠なものであると強調されています。そして、イエス様のところに来た人々は、ほとんどすべて、99パーセント以上、何らかの問題を持っていた人たちでした。例えば、病気、孤独、絶望などのために苦しんでいるような人々だったんです。そして、イエス様との出会いによって、やっぱり、変化があった。癒し、解放、助け、健康、喜びと本当の幸福を、その人たちは得たのです。イエス様のところに行ったけど、何も得られなかったと言える人はひとりもいなかった。行ったのは良かったと皆、共通して言うようになったのです。だいたいの人々は、イエス様から何かを得ようと期待して、イエス様の御許に行ったのです。もちろん、イエス様は今日もなお、重荷を負って苦しんでいる人は、『おいで、私のところに来なさい』と招いておられます。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

ザアカイという男は、お金、お金、お金としか考えられなかったのです。そして、成功したのです。大金持ちになったけど、心は満たされていなかった。イエス様は、彼の家に行って、何と何と何を話されたかは分からない。天国へ行って楽しみです。必ず、聞くことができる。イエス様との出会いによって彼は変わりました。そして、イエス様は、『私は失われた人を探すために来たのです』と、言われました。イエス様の御許に来て、何かを得ようと考えている人は確かに大勢、いました。けど、イエス様に何か、捧げようと願った人は、あまりいなかったんじゃないでしょうか。その少ない人々の中で、ベタニアのマリヤは模範となるべきではないでしょうか。

マルコ
14:3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
14:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
14:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

その意味で今日は記念会ですね。彼女のための記念会。

14:10 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。
14:11 彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。

どうしてイエス様を信じる者の間に、成長の違いがあるのでしょうか。すべての救われた人々は、イエス様の愛を体験したのですけど、真実の深い愛をイエス様に捧げる人はどうでしょうか。少ないのではないでしょうか。私たちはしばしば、自分がイエス様に対して、どのような関係にあるかということよりも、自分が何を成すべきかということを大切にする者なのではないでしょうか。私たちが、通り良き管になるためには、イエス様との密接な交わりが必要です。主との愛の交わりがなくなれば、使命感が薄れ、祈りが少なくなり、祈りをしたくなくなり、余裕を失い、神経質になります。今の箇所を見ても分かります。マリヤは、高価なナルドの香油をイエス様に注ぎ出したのです。この行ないは、もちろん、心からの愛の現れでした。すべてをイエス様に捧げたいというのが、彼女の心からの願いでした。

彼女ほど、イエス様に褒められた人は他にありません。「この女は、できることをしたのだ」と、イエス様は言われたのです。この言葉は、イエス様が全く満足されたことを表しているのではないでしょうか。彼女は、ただイエス様だけが真の幸福と本当の平安を与えられるということを、自分で体験しました。ですから彼女は、イエス様からの愛のしるしとして、この高価なナルドの香油を捧げました。彼女の心は、感謝と愛でいっぱいだったのです。

聖書の中心は、もちろん、十字架につけられたイエス様であり、我々の罪滅ぼしのために、犠牲として屠られた小羊なるイエス様です。この十字架につけられたイエス様について、聖書はなんと言っているのでしょうか。

イザヤ
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

まことの喜びの根拠、また、みなもとは、今、読みました最後に書き記されています。聖なる神は、我々のすべての咎を十字架につけられたイエス様に負わせた。罪滅ぼしのために、イエス様は代わりに罰せられ、呪われ、捨てられたのです。ひどいとしか言えません。もっとひどいことはないのではないでしょうか。馬鹿らしいと考えてもいいでしょう。なぜなら、イエス様の流された血潮は、結局、イエス様の命だったのです。私たちのようなつまらない、どうしようもない者のために、このような代価を払うのは、ちょっと考えられないことではないか。例えば、キャラメル一箱のために、十万も払うのは確かにおかしい。変です。けど、イエス様の命は、父なる神にとって、この大宇宙よりも尊いものでした。

けども、我々の大部分は、イエス様に出会った人々は皆、言えます。ありがたい。『イエス様が代わりに罰せられたから、私たちは裁きに会うことがなく、死からもうすでにいのちに移されている』と、確信できるからです。十字架につけられたイエス様から、目を離してはなりません。失望から、また、孤独からの解放は、イエス様を仰ぎ見ることです。ヘブル書の中で、この事実について強調しています。よく励ましのために読まれる箇所なのではないでしょうか。

ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

十字架につけられたイエス様から目を離してなりません。前に読んでもらいました箇所に、ちょっと戻りましょうか。

ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

弟子たちと違いまして、ベタニヤのマリヤは、イエス様の埋葬の用意にと、イエス様の身体に、愛をもって、油を塗ってくれたのです。彼女の心は、感謝と愛でいっぱいでした。彼女は、ただひとつの考え、すなわち、いかにしてイエス様に対する愛を表したらいかか、いかにして、自分のイエス様に対する感謝を表したらよいかという考えだけを持っていたのです。その時、彼女はナルドの香油のことを思い出したでしょう。

ナルドの香油は、非常に高い、高価なもので、一人の人が一年間、働いて得る所得に等しく、7500人分のパンを買うことができたほど高価なものでした。それですから、彼女は、自分自身のためですら、それを使うことがもったいないと思っていましたし、まして、他の人々のためにそれを使うことはできなかったのです。けど、突然、彼女は、イエス様ならば、その香油をちょうどふさわしいものと考え、それによって、自分の愛を表すことができると考えました。そして、イエス様はこのマリヤの行ないを非常に喜ばれたのです。全き愛だけが主を充分に喜ばせることができるのではないでしょうか。けど、他の人々の反応はどうだったでしょう。

マルコ
14:1 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。

隠された妬みは、憎しみに変わり、イエス様を殺そうという決心になったのです。一方の人々は、いかにしてイエス様を殺すかと考えており、けども、このマリヤは、いかにしてイエス様に対する自分の愛を示すべきかと考えていたのです。彼女は、自分のすべてを捧げざるを得なかったのです。ここに、一人の弟子と呼ばれたユダは、それに対して、結局、文句を言ったのです。彼女の行ないは、全くおかしい、馬鹿らしい、無駄な事だと非難しました。もっとうまい使い道があるのではないか、もし7500人の貧しい人々に食事をさせる方が良いのではないか。もちろん、例えばユダは、貧乏人に対する同情や思いやりの心でそう言ったのではない。貪欲な守銭奴だったからです。

いかなる理由で人々は、それぞれ異なった態度を主イエス様に対して取るのでしょうか。当時の宗教家たち、律法学者たちは、彼ら自身の名誉を求めただけなんです。彼らは、自分たちが尊敬されなくなるのではないかという恐れでいっぱいだったでしょう。妬みは、今、話したように憎しみに変わり、イエス様を殺すということに至ったのです。ユダという男は、金だけを欲しがり、もっともっと多く欲しいと思っていました。彼は盗みをし、それから、偽善的になり、そして、裏切りをして、最後に自殺をしてしまったのです。

けど、マリヤは、いかにして自分の愛をイエス様に示すことができるかと、真剣に考えたに違いない。イエス様を愛することができるのは、イエス様に罪を赦された者だけです。罪を赦された者は、自分の罪を認め、告白して、それを捨てる者だけです。このような態度を取らない者は、自分中心的な生き方をし、自分のことだけを考えるのです。自分が充分に考慮されない、あるいは、ちやほやされなければ、すぐに自分の殻に引きこもる人々、あるいは、離れる人もいます。ですから、私たちは、次の問いについて考えるべきなのではないでしょうか。

私たちはイエス様に対して、本当の愛を持っているのでしょうか。私たちはイエス様との交わりを持とうとして、主の御許に近づきたいと願っているのでしょうか。私たちの考えや関心の中心は、イエス様なのでしょうか。私たちは、義務感でイエス様に仕えるのか、あるいは、愛によってイエス様に従いたいのでしょうか。我々にとって、祈りはなくてはならないもの、あるいは、心から願っているものなのでしょうか。

マリヤという女性は、心からの愛をイエス様に捧げたから、イエス様は彼女を非常に喜ばれたのです。しかし、私たちはいかにして、イエス様を喜ばせることができるのでしょうか。マリヤは、イエス様の足もとに座って、主のみことばを聞きましたと、聖書は言っているのです。ただ聞くだけではなく、みことばに服従する心がまえで聞きました。彼女は、時間がなかったけど、主のみことばを聞く時間を作り出したのです。

私たちは、聖書を読むだけではなく、聖書に聞かなければなりません。聖書に聞く時間を作らない人は、イエス様を愛していない人なのではないでしょうか。主は、みことばに対して開かれている耳を期待されます。イエス様を愛することの第一歩は、イエス様のみことばを聞くことであり、祈りながら主に近づくことです。すべてその他のことは、枝葉の問題です。

マリヤは、単にイエス様のみことばを聞いただけではなくて、イエス様に話しかけました。イエス様のところに行って、みことばを聞き、イエス様に話しかけることだけが彼女の願いでした。我々の場合には、我々の祈りの中心は、私たち自身の考えや計画が問題ではないでしょうか。私たちは、イエス様ご自身よりも、イエス様が我々に与える祝福の方を好むのではないでしょうか。そういうのは、決してマリヤの持っていたような愛ではありません。彼女は、まず初めに主のことばだけを聞きたいと願い、次に、イエス様だけに語りたいと願い、そして、最後に主にすべてを与えたいと願いました。

彼女は、イエス様の足もとに座って、みことばに耳を貸したのです。彼女がしたように、主の足もとに座り続けることなしに、祈りの生活は成り立ちません。彼女は、イエス様が自分を全く、欠けたところなく愛しておられることをよく知っていたので、彼女もイエス様を、少しも裏切るところなく愛していたのです。彼女は、非常に値の高いナルドの匂い油を、イエス様の頭に惜しげもなく降り注いだのです。すなわち、ためらうことなく、余すところなく、匂い油をイエス様に降り注ぐことにより、イエス様に対する愛を示したのです。

ナルドの匂い油の匂いが、家全体に満ちたと聖書は言っています。それと同じように、愛の雰囲気が我々の心、家、また、各集会を包んでいるのでしょうか。黙示録の中で、厳しいことばが書かれています。

黙示録
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

初めの愛というのは、イエス様との交わりのことです。イエス様なしに何事も欲せず、何事も成し得ないということです。もし、日々、主のみことばである聖書が、我々の泉となり、我々の慰めとなり、私たちの力となり、私たちの知恵となっているならば、そして、私たちの考えと行ないの中心に、イエス様がおいでになるならば、それこそ、私たちの初めの愛が保たれていることを表しています。

当時のエペソの兄弟姉妹の心は、もはやイエス様との親しい交わりの中にはなかった。だから、『あなたには非難すべきことがある。初めの愛から離れてしまった』からですと。主の足もとに静まることを忘れてしまった。その結果、イエス様は、『わたしはあなたと共にいるということができない。わたしは、あなたに対して対立する』と、言わざるを得ないことになったのです。

初めの愛とはなんでしょうか。初めの愛というのは、二心の無いイエス様への愛であり、本当の謙遜であり、直ちに従うことであり、そして、イエス様の再臨を心から待ち望むことであり、また、兄弟姉妹に対して、真心からの愛を持つことなのではないでしょうか。

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