2015年10月6日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
ヨハネ
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
3:21 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
創世記
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
簡単にできたようですね。
第二コリント
4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
私たちは今まで、主なる神は人間を、肉体的にも、霊的にも完全な者として造られたことを見てきました。主なる神は、この人間をとくにご自身の形に似せて造られたと、聖書は言っています。主なる神は、人間を神の性質に与かるために、神の愛に応えるように、そして、永遠のいのちを宿すために創造されたのです。
私たちは、この大きな恵みの提供、大きな災いとなった選択、そして、重大な結果を引き起こした破局も見てきました。初めての人間であるアダムは、考えも及ばないほど絶望的な状態に落ちたのです。彼は、主なる神との交わりを断ち切り、悪魔と結びつき、霊的に死んでしまったのです。
また、私たちは、書き表すことのできないほど難しい問題という題で観察しました。主なる神は、聖なるお方ですから、罪人を罰し、追放せずにはおられません。そして、主なる神は、愛のかたまりです。ですから、人間を救いたく思っておられますけど、そのために、神の聖さが損なわれることがあってはいけません。
主なる神の救いの計画が完全に果たされたことも、すでに今まで、一緒に考えてまいりました。主なる神は、神の人となることを預言され、また、実際に神の御子である主イエス様が、この地上に生まれ、神性を軽視され、人間性を現されたのです。
イエス様は人間の債務を自分の身に背負い、十字架で死ぬことができるように、人間としてお生まれになりました。イエス様の犠牲の死は、言い表すことができないほど、すばらしい救いの道です。
前に一緒に考えてまいりましたように、イエス様の墓は、悪魔の見せかけの勝利であり、そして、これに対して、イエス様のよみがえりは、主なる神の目に見える勝利でした。イエス様は昇天しましたし、また、イエス様の高められたことは、主なる神のすばらしい勝利を物語っています。
これらのことにより、主なる神の救いの計画は、完全に成就されました。ヨハネ伝19章30節、「完了した」とあります。すべては、主の側から起こったのです。すべては、成就されたのです。また、主なる神の提供されている救いを、人間が受け取るかどうか、人間に残されているだけです。ですから、今日はちょっとだけ、次のテーマ、題名について考えてみたいと思います。「自分のものとされ得る神の救い」と。
まず、主なる神の計画とはいったい何でしょうか。私たちは、いったい何を自分のものとしたら良いのでしょうか。イエス様の行われた救いの事実を、私たちの救いの経験とすることができるのでしょうか。霊的に死んでいる人間が、どうしたら生き返ることができるのでしょうか。失われている人間が、いかにして救われることができるのでしょうか。これらの質問が、設けられなければなりません。
主なる神のご計画は、私たちが神の性質に与かるようになることです。私たちは、イエス様のいのちを受け取るべきです。
ヨハネ
1:4 この方にいのちがあった。
私たちは、高められた神の御子イエス様の持っておられるいのちを持たなければなりません。造られたことのないいのちが、イエス様のうちに、我々のために、用意されています。もし、イエス様を受け入れるならば、それによって、私たちは、永遠のいのちを自分のものとすることができます。ヨハネ第一の手紙、この事実が明らかに書き記されています。
第一ヨハネ
5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
存在しているかもしれないけど、永遠のいのちを持つことこそが、もっとも大切です。
今日、二つの世界があります。ひとつは、アダムの内にある罪と死の世界です。もうひとつは、イエス様の内にある永遠のいのちの世界です。
イエス様の流された血潮によって、罪の赦しを受けていない人々は、誰でも罪と死の世界に住んでいるのです。これに対して、イエス様を救い主として受け入れている人々は、永遠のいのちを持っている。結局、本当の意味で生きているのです。イエス様を受け入れた人々は全部、パウロのように告白することができます。パウロはコロサイ地方にいる人々に書いたのです。
コロサイ
1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
いつか移されるかもしれないのではない。ここで過去形で書かれています。「移された。」イエス様を受け入れた人々は、過去を見て、闇の力の中にいたと言い、現在を見て、今は愛する御子の支配下に移されたと、告白することができます。
闇の内を心地よく思っている人は、憐れむべき存在です。イエス様の光の内を歩む人々は、これに対して、幸福な人々です。光と暗闇のあいだ、すなわち、罪と死の世界と永遠のいのちの世界のあいだに、十字架が立っています。十字架は、これら違った二つの世界を分けています。
もう一箇所、よく知られている箇所ですけど、旧約聖書の中で、もっとも大切な箇所の一つです。多くのユダヤ人は、この箇所を絶対に読もうとしない。この箇所が本物だったら、イエス様のことを指していれば、たいへんなことになるからです。
イザヤ
53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
53:2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は(・・・・自分の罪のゆえに・・・・)罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
十字架は、人間の肉を神が否定しておられる場所です。多くの人は、自分の努力、また、善行、宗教によって、永遠のいのちの世界に渡ろうとしますけど、主は十字架によって、それら人間の努力は、全く益のないものであることを言っておられます。けれども、それと同時に、十字架――永遠のいのちに至るものです――十字架は、アダムにある古き人の生活の終点を表わし、イエス様にある新しい生活の出発点を表わしています。
人間は、いったい何を自分のものとしなければならないのでしょうか。私たちは、イエス様の内にあるいのちを必要としているのです。
それでは、いったいいかにして、それを自分のものとすることができるのでしょうか?聖書は、これに対して、はっきりとした回答を与えています。すなわち、新しく生まれ変わることです。
ヨハネ
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」
10:10 わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
イエス様は、こう言われました。私たちにとっては、いのちが問題なのです。霊的に死んでいる人々は、生き返らなければいけません。悪魔の奴隷から解放されなければいけません。滅び行く人間は救われなければなりません。
けれども、これらはいったいどうしたら可能なのでしょうか。十字架につけられ、よみがえられたイエス様によってのみ、それが可能です。けれども、この救いはいかにして実現されるものなのでしょうか。
父なる神は、この救いの計画を永遠の昔、お作りになられました。そして、御子なる神であるイエス様が、この救いの計画を実行されたのです。また、聖霊なる神によって、罪人はこの救いを自分のものとすることができるのです。
前に問いを設けましたが、その問い、「いかにして救いを自分のものにすることができるか」に対する第一の答えは、聖霊、神の御霊によってですと。形なく、空しい地球を覆っていたように、聖霊は今日も、人の上を覆い包んでいます。聖霊は、神のことばの道を備えます。主なる神が、「光よあれ」言われた前に、聖霊の働きがあり、神のことばの道を開いたのです。
霊的に死んだ人間は、生き返らなければいけません。すなわち、主なる神との交わりが、作り出されなければなりません。神との交わりは、聖霊とみことばによって作り出すことができるのです。聖なる神が話される時、それは、罪人の死を意味しています。これに対して、救いの神が話される時、それは、いのちを意味しています。ですから、人間が主なる神のみことばを読むこと、また、聞くことはどんなに大切な意味を持っているでしょうか。これを考えると、私たちは、できるだけ多くの人に、イエス様を紹介することの必要を痛切に感じるのです。
主のことばは、まず、人間の感覚に触れます。見るか、聞くかされます。次に、このみことばは、魂の力によって、人間に受け入れられます。魂の働きは、考え、感じ、志すことです。人間は聞いた神のことばを熟考します――よく考えます。そして、このことばは、この人の生活に影響を及ぼします。
人々は、みことばを信じ、受け入れる場合もありますし、拒む場合もあります。多くの人々は、十字架のことばを見たり聞いたりしたはずです。そして、その人たちは、みことばを聞いて、よく考え、自分の悩みに気づきました。聖霊の働きによって、自分の憐れむべき、滅び行く姿を見たのです。この自分の憐れむべき状態を認めた人は、聖霊の働きによって、イエス様を信じるために必要な力を、必ず与えられます。
その瞬間に、自分の生活をイエス様に明け渡すべき意思が強められます。十字架につけられた救い主は、罪から永遠の世界に引き移すことを可能にします。このみことばを、人が聞き、認め、また、その人の本質に、このことばが触れるならば、まことに、このことばは、霊であり、また、いのちです。
最初に、罪人は、イエス様の死が、身代わりの死であることを認め、イエス様は私のために死んだ!と、喜びの声を上げます。その人の意思は、「主よ、あなたの血は、私のために流され、あなたは私のために亡くなられた。私のいのちは、すべて主のものです。私はあなたの赦しを感謝いたします」と言います。人間が、それを告白する時、主なる神も、永遠のいのちをその人の霊に宿します。これが聖書の言っている新生であります。
パウロは、ローマ書の八章の中で次のように書き記したのです。
ローマ
8:10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
人の霊は、もはや、死んだものではなく、聖霊の後(あと)になることによって、生きたものとなったのです。
第二コリント
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。(・・・・そこには新しい創造がある・・・・)古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
新しい創造とは、主イエス様との交わりによってのみ、可能です。イエス様との交わりを得ることによって、人間の見方、考え方、価値観、目的は変わります。パウロだけではなく、ペテロも、この事実について書き記したのであります。
第二ペテロ
1:4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
イエス様を受け入れることによって、また、聖霊の宿になることによって、人間は、主なる神の性質に与かる者となります。今や、その人の霊は、永遠のいのちを持っています。永遠のいのちが宿っています。このいのちは、決して、死なないいのちです。人の霊は、死からよみがえります。生まれ変わります。生まれ変わった人間の霊は、聖霊の宿となりました。聖霊は、すべての救われた者に宿っています。
これまでに、二つの疑問を持ってきましたね。そのひとつは、何を自分のものとしたらよいのでしょうか。答えは、イエス様にある永遠のいのちでした。二つ目の質問は、いかにして、それを自分のものとすることができるのか。この答えは、新生によってです。
新生とは、決して、改善や改良、あるいは、外観や虚飾、あるいは、修養ではありません。新生とは、まさに、新しく造り変えられることに他ならない。主なる神は、根本から造り変えたく、思っておられます。主なる神は、宗教的狂信者を望んでおられるのではなく、全く新しくされる人間を望んでおられます。
前に読んでもらいましたヨハネ伝三章を見ると、ニコデモという男が、すべてを打ち明けるためにイエス様の所へ行ったことが記されています。昼間、個人的にイエス様と会おうと思っても、必ず無理だったのです。そうすると、夜中だったら、失礼かもしれないけれども、他の道がないと思って行ったのです。彼は、いわゆるパリサイ人だったのですが、当時、パリサイ人たちと呼ばれている人々は、全生涯を主なる神の御心を実現するために捧げた人々を意味しておりました。彼は、イスラエルの指導者、認められた教師、また、非常に信頼された人でもありました。
けれども、彼はまだ、救いの確信を、救いの喜びを持っていなかったのです。すなわち、彼は変わらざる本当の喜びを、まだ、知らなかったのです。どういう訳か、彼は、いつとはなしに、イエス様に惹かれたようです。確かに彼は、いろいろな人から、イエス様のことを聞いたに違いないけど、それだけでは、彼は満足しなかったのです。どうしても、イエス様と個人的な交わりを欲しいと、切に望んだため、イエス様のみもとにやって来たのです。
人間が必要としているものは、決して、倫理的、道徳的な基準や宗教ではない。イエス様ご自身との直接の交わりを持つことです。このニコデモに向かって、イエス様は、単刀直入に新生の必要性を述べ、新しく生まれ変わらなければならない――そうしないと、神の御国を見ることができない、結局、救われないとイエス様は断言したのです。
神の国を見るとは、すなわち、救われることに他ならない。まことの救いは、ただ改心することによってのみ、与えられます。改心することなしには、救いも、解放も、希望も与えられません。
多くの偽りによって、金持ちになった取税人、ザアカイだけではなく、また、五回も結婚をして、同棲の生活を続けたサマリヤの女のみならず、非常に尊敬され、人望の厚い、模範的な教師、すなわち、ニコデモでさえも、永遠に滅びたくなければ、新生を経験しなければならなかったのです。
一度(ひとたび)、この世に生まれてきた者は、必ず二回、死を体験しなければならない。すなわち、第一の死は、肉体的な死であり、これは普通、言われる死です。第二の死は、神の臨在から離れ、喜び、慰め、平和の泉から離れて、永遠に存在しなければならないことを意味しています。これに対して、二回、生まれた者は、一度しか死を体験しないのです。換言すれば、肉的に生まれてきただけでなく、イエス様と出会うことによって改心し、新しく生まれ変わった者は、一度しか死を味わわないということです。
イエス様によって、新しく生まれ変わった者は、肉体的な死だけ体験しますが、その後は、永遠に主なる神と共にいることを許されていると、聖書ははっきり言ったのです。
主なる神は、絶対的な純粋さ、真実さ、そして、絶対的な愛を要求しております。けれども、この主なる神の要求を満たすことのできる人間は、一人もいません。この水準に到達することのできる人間は、もちろん、一人もいない。新しく生まれ変わっていない人は、おのずから、罪と悪魔に支配されざるを得ないのです。この結果は、永遠の滅びです。それから逃れる、ただひとつの逃れ道は、頭を下げること、自分のわがままを主なる神の前に認めること、また、言い表すことです。
使徒行伝
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
この事実を経験してくださったハマザキ・ノブオ兄弟が、今から証しをしてくださいます。
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