2015年5月22日金曜日

イエスとは誰?

イエスとは誰?
2015年5月22日、稲毛海岸家庭集会
ゴットホルド・ベック

ルカ
7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
7:44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
7:45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
7:46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
7:47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

私たちが、何と何と何をしているかは、そんなに大切ではない。イエス様を知っているかどうか、これこそがもっとも大切なのではないでしょうか。今、読んできてくださった49節ですかね。

ルカ
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

この人は、いったい誰だろう。もう一箇所、読みます、マルコ伝6章の1節から、同じ言葉が出てきます。

マルコ
6:1 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
6:2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
6:3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
6:5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
6:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。

イエス様は少数の病人に手を置いていやしただけなんです。本当はみな、癒すつもりだったのです。けども、できなかった。どうして?彼らの不信仰のゆえです。人間にとって、一番ひどい罪は、不信仰じゃないかな。もちろん、『信じます』と、思ってもうまくいかないでしょう。イエス様なしには無理。だからイエス様とは、信仰の創始者、信仰の完成者と呼ばれています。この人はいったい誰だろう。

イエス様とは、いったいどういうお方なのでしょうか?いうまでもまく、人間によって作られた『キリスト教』という宗教を作った方ではない。イエス・キリストとは宗教とはまったく関係のないお方です。当時のシモンは、当時のいわゆるパリサイ人であり、聖書の研究者であり、疑いもなく、多くの人々に尊敬された人格者でした。けど、あらゆる宗教性において、彼にとっては、特定の立法や戒めを守ることが大切です。『ああしないで、こうしないで』とダメ。こういう考え方によって、結局、縛られていました。全ての宗教はこのことを共有しています。すなわち、中心点に立つのは、これやあれを行うことを要求する人間です。

ですから、人間が中心となれば、おのずから人間の努力が大切にされます。よく、『がんばって』という言葉が使われています。羽田の飛行場だったと思うんです。写真を撮りました。普通の飛行機だったんですけど、何をかかれていたかと言いますと、『がんばろう、日本。』結局、このスローガンは3年前でしょうか、よく使われたものでした。考えられないほど多くの人々が一辺に死んでしまったし、大部分は今日まで、見つかっていない。そのとき、『がんばろう、日本。』いったい、どういうはなし?全財産を一辺になくした人、家族を皆、亡くした人は、どういうふうにがんばったらいいの?ひどいよ。

がんばることをやめて、何でもできるお方に頼れば、楽になります。多くの人々は結局、人間の中にいいものがある。人間は本当は良い性質を持つものであると、考えています。だから、がんばれば、努力すれば救われます。けど、本当の救いとは、人間の努力の結果ではない。人間の手柄ではない。受けるに値しない生けるまことの主なる神の贈り物です。

この点で今、読みました箇所を見ると、イエス様とパリサイ人、当時の宗教家は衝突してしまったのです。イエス様はどうしようもないものとして(罪人として)、私のところに来ないものは、永遠の滅びに至ると言いました。私は、道であり、誰も、私によより頼むまなければまことの神のみもとに来ることはできないと、イエス様ははっきり言われました。これに対して、当時の聖書学者は自分たちこそ、救いを持っていると思いこんでしまったのです。というのは、彼らは、当時の聖書、もちろん、旧約聖書をよく、勉強したものであり、そして、聖書の中の律法を堅く守り、祈り、道徳的に高尚な生活を送っていたからです。

今、読まれた聖書の箇所には、パリサイ人、シモンがイエス様を食事に招待したことがあります。どうして、イエス様を招待したのか、まったく分からない。けど、イエス様は招待されたから、その招きに応じました。確かに、そのとき、この女性が許可を得ることなしに、即座に入って来てしまったのではないでしょうか。けど、それは彼女にとって、決して簡単なことではなかったのです。平気ではいられなかった。それにもかかわらず、彼女は心の奥底にたいへんな悩みを持っており、もはや、とても我慢できなくなかったので、恥ずかしさを乗り越えて、イエス様の御許にやって来ました。

ルカ
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、・・・・御足に口づけして、香油を塗った。

この婦人が高価な香油で、イエス様の御足を濡らした時、その部屋は、当然ですけど、良い香りでいっぱいになりました。そして、みんなの目はイエス様とその婦人の上に向けられました。シモンと言う男は、すべてを自分の目で見て、次のような間違った確信を持っていたのです。

ルカ
7:39 この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。

もちろん、イエス様はこの婦人について、すべての事をご存知でした。イエス様は彼女が犯した罪について、彼女が自分の身の上に招いた債務について、もちろん、知っておられました。そして、また、イエス様は彼女の本当の状態、すなわち、良心の呵責、心のむなしさ、満たされない状態、恐ろしいほどの孤独をも、イエス様はちゃんと知っておられたのです。もちろん、イエス様は彼女のことだけではなく、シモンという男のことも全部、知っていました。彼の傲慢さを知っていましたし、心の中で何を考えていたかも、もちろん分かったのです。ですから、イエス様は、ひとつの喩えを話され、実践的応用をなさったのです。この適応を通して、シモンは実際問題として、承伏せざるを得ませんでした。

それから、イエス様は罪深い女に向かって、みんなの前に言ったんです。48節、『あなたの罪は赦された、』50節、『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい』と、言われました。別の言葉を使うならば、イエス様は次のように言われました。『あなたの信仰と、あなたの信頼によって、あなたは救われた。あなたの罪は赦されている。あなたは、恵みとまことの平和を手に入れた』と。

ルカ
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

この人は、いったい誰なのでしょう。もっとも大切な質問のひとつは、それなのではないでしょうか。

イエス・キリストとはいったい、どういうお方なのでしょうか。現代人の多くは、キリスト教を作ったものではないか、と、思っているのです。もちろん、とんでもない話。イエス・キリストは宗教と関係を持ちたくなかったのです。今の世界は、めちゃくちゃな世界でしょう。一番、危ないのは原始爆弾ではない、宗教です。戦争になっても、必ず宗教戦争になる。人間は騙されやすいから、宗教は存在している。宗教はうまく行く商売に過ぎない。要求されています。何を要求されているか?まず、知識。もう少し勉強して分からないとダメ。いくら、勉強しても、分かりません。ウソ。

私は今、もうだめですけど、85才になってしまった。2種類の癌を持っているし、いつまでもつか分からないけど、別に心配はしていない。最善のときに召されるからです。けども、今は、ぜんぜんダメだけど、若いとき、よく聖書を勉強しました。どこで勉強したらいいかな?ドイツにもいろいろな聖書学校はあるし、けど、ドイツはやめたんです。スイスの神学校に入った。あの学校を作った人はすごい男、ユダヤ人です。7つの言葉を流暢に話すことのできた大学者でした。あの学校に入って何年間か勉強してから、卒業した後で、また、ドイツの聖書学校に入ってしまって、後でまた、イギリスの聖書学校に入って、そこで分かった。何を分かったかと言いますと、『分かるものじゃない』と、分かった。ですから、分からなくてもいいと分かれば正解だよ。

ですから、宗教は全部、間違っている、信じなければ、ああしなければ、こうしなければならないと言われているからです。それによって、人間は結局、束縛され、不自由になり、間違った罪悪感を持つようになります。幸いにまことの神は、人間から何も要求しない、主なる神の呼びかけとは、私はあなたを愛している。どうしてか、なぜかは分かりません。イエス様とは、どういうお方かといいますと、昨日も、今日も、いつまでも変わらないお方です。

イエスとはどういうお方でしょうか。3つの答えがあるんじゃないかな。第1番目、イエス様は、人間ひとりひとりを徹底的に知り抜いておられるお方です。2番目、主イエス様は、ただおひとり、人間のわがまま、人間の過ちを赦すことができるお方です。それから、3番目、イエス様は信じる者を救い、ご自分の平和を与えてくださるお方です。比類なく、すばらしいお方です。死んでからも、永遠に渡っても、キリストのすばらしさを把握することはできないのではないでしょうか。

イエス様とはどういうお方か。今、話したように、まず、人間ひとりひとりを徹底的に知り抜いておられるお方です。このことは、変わることのない事実です。信じられないけど、本当なのです。文字通り、どんな事でもすべてをご存知です。イエス様の前に、隠しおおせるものはなにひとつない。聖書は、次のように言っています。

へブル
4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

私たちは、すべてのことを正確にご存知であられ、それに対して我々が最後の責任を問われ、債務を負っているのですが、この神と我々が関わりを持っていると言うことを覚えましょう。私たちは宗教とか道徳とか、その他、これを利用したものとかかわりを持っているのではない。生ける唯一のまことの神とかかわりを持っているのです。このまことの神は、どういうお方か、いくら考えても分かりません。

この大宇宙を創造されたお方です。材料なし。それだけじゃない。でも、もうお手上げです。人間は材料があれば、いろいろなものを作るようになった。すごいよ。けど、材料がなければ終わり。主なる神は材料が必要ない。『光よ、あれ』と言ったら、光ができちゃった。簡単です。このヤマハのピアノを作るにはいろいろな人が苦労しましたよ。簡単には成らなかったよ。そんなに、新しくはないようですけど。

主なる神の造っているものは完全です。古くならない。そして全部、材料はなし。創生するお方です。ピンとこない。考えられない。私たちはすべてのことを正確に御存じであられる主を知ることこそが、幸せなのではないでしょうか。唯一のまことの神は、人間ががごまかすことができないお方です。軽視することのできないお方です。すべてのことを厳密に取り扱われるお方です。もちろん、それだけではなく、いかなる罪をも見逃すことができないおかたです。聖書は言っています。

箴言
15:3 主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。

旧約聖書の中の一箇所を、ちょっと見てみましょうか。

創世記
16:13 そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。

あなたが私をご覧になる神であると、ハガルという女性は言ったのです。いけるまことの神の前には何ひとつ、隠れおおせるものはない。主なる神は、心の思いや考えをご存知です。もう一箇所読みましょうか。今度は聖書の一番、後ろです。

ヘブル
4:12 神のことば(・・・結局、聖書・・・)は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

聖書とは、その意味でちょっと、危ないね。自分がダメだと分かるようになる。けど、それだけではない。聖書を通してのみ、希望が与えられます。前向きに生活することができるのです。どういう状況におかれても心配する必要はない。聖書は、神に与えられているすばらしい宝物です。

ルカ
7:39 この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。

もちろん、イエス様は、この女について全部、分かった。けども、彼女のことについてだけではなく、立派な生活を送った聖書学者についても全部、知っておられました。この聖書学者は心の中で思っただけで、何一つ、おおやけに言わなかったのです。けど、イエス様は、彼の心を見抜いて、すぐ、お答えになられたと書いてありますね。40節です。すると、イエスは彼に向かって、『シモン、あなたは私の愛の対象だよ。ただ、あなたは耳を開き、心を開いてください。』イエス様は、このパリサイ人の心の奥底にある思いと動機をご覧になり、また、イエス様は罪の女の心にある思いと動機もちゃんと知っていました。

両者の間には、なんという、越えがたい対立が存在したことでしょう。一方においては、自分を正しいと見なし、誇りに満ちた傲慢なパリサイ人があり、他方には、罪を意識して心が砕かれた罪の女、しかも、埃の中に横たわっている罪の女がいるのです。この両者を、ちょっと、少し比較してみましょうか。

社会的には両者はお互いにひとつになることはできません。聖書学者は、確実に、少し郊外の高級住宅街に住んでおり、広々として、豪勢な生活をしていたことでしょう。それは、最高級の人たちだけが行うことのできる生活でした。他方、罪の女は、罪が行われる隠れ場のようなところで生活していました。道徳的にも、両者はひとつになることはできませんでした。聖書学者は郊外で、立派な生活をしていましたが、罪の女は姦淫の女、売春婦でした。

金銭的にも両者はお互いに比較することができない関係だったんです。パリサイ人は高級生活者で、何の心配もありませんでした。けど、罪の女は、あまりにも貧しいので、収入を得るために、自分の体、自分の純血を犠牲にしたのです。

宗教的にも、両者は同じように正反対でした。このパリサイ人は、自分は宗教のために生きており、罪の女は、宗教とは、何の関わりを持つこともできず、また、関係を持ちたいとは思わなかったのです。

感情的にも、両者は比較することができないほどだったんです。パリサイ人は冷たく、計算高く、厳しい者でした。罪の女は、暖かい心の持ち主で、そのような心の持ち主だったので、大勢の人々のいるところでも泣くことが恥ずかしがらず、イエス様の御足に口づけすることをためらいませんでした。

このような両者は、全く違っていましたが、ひとつの点については、全く同じだった。すなわち、二人とも、債務を負った罪人だったのです。40節、イエスは、彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と、おっしゃいました。それから、イエス様はひとつの例えを彼に話されました。それを通して、シモンは神の光に置かれたのです。

ルカ
7:41 ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。

疑いもなく、その時、イエス様は話を続けながら、シモンの目をご覧になったにちがいない。二人のうち、どちらが余計に金貸しを愛するようになるでしょうか。この比喩のなかで、イエス様は次のようにおっしゃったのです。シモン、あなたも罪人であり、あなたもまた、自分の身の上に債務を負っている。確かに、罪の女は、500デナリの罪人であり、あなたは50デナリの罪人に過ぎないかもしれないけど、私の目で見れば、少しも区別は存在しません。

聖書は言っています、すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受ける事ができない。『律法全体を守っても、一つの点でつまづくなら、その人はすべてを犯した者となった』とあります。多くの人にとっては、立派で、宗教的で、道徳的にすぐれた生活をしている人が、姦淫の女や人殺しと同じように救われなければならないと言うことをなかなか理解できません。疑いもなく、その女は罪深い女でした。イエス様はこのことをもちろん、ご存知でした。否定しなかったのです。

彼女の人生は憎むべきほどであり、汚らしく、恐ろしいほどのものでした。彼女は贖われ、救われる必要があったのです。けども、パリサイ人も同じように救われなければ、もちろん、ならなかったのです。イエス様がいかなる罪人をも救うことがおできになると言うことは、大いに感謝すべきではないでしょうか。

主イエス様が許すことがおできにならないほど、ひどい罪はありません。けど、イエス様が、このシモンという男のようなものをもお救い下さると言うことは、いかに感謝すべきなのでしょうか。とくに、何ひとつ負債をもたらすようなこともせず、いわゆる立派な生活を送り、なにひとつ悪口を言われることのないような人でさえ、主の目から見れば、罪人、どうしようもないものに過ぎません。

多くの人々の生活は、シモンの生活のようなものでしょう。立派で模範的で、正直と思われるでしょう。けど、私たちが必要としていることは、生ける唯一のまことの神が、我々をご覧になるその見方ではないでしょうか。私たちが自分をそのように見るならば、自分がやはり不完全で、過ちを犯すもので、罪深いものであることを認めざるを得ない。失われたものであり、救われなければならないということを知るでしょう。

イエス様はシモンについて、また、罪深い女について、すべてのことをもちろん、分かったんです。けど、それにもかかわらず、イエス様は彼らを愛し、まことの満足を、与えたいと心から望んだのです。イエス様は自分の過去がどのようなものであろうとも、人間一人一人を愛しておられます。

世界の造られる以前に、もちろん、イエス様は生きておられ、人間一人一人の債務と犯す罪を知っていました。イエス様は私たちが、どれほど主なる神の救いを必要としているか、知っておられました。それですから、イエス様は父なる神によって定められたときに、天からこの地上に来てくださり、我々のためにご自身の命を、贖いの代価として捧げてくださったのです。けれども、イエス様は代わりに死なれただけじゃない。よみがえってくださり、生きておられるお方です。そして、恵もう、許そうと、望んでおられます。結局、イエス様は我々に父なる神の愛の全てを感じさせたいと思っておられ、御心にかなった人間にしようと望んでおられるのです。もう一箇所、読みます。

ローマ
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

この方はいったいだれだろう?イエス様は、今、話したように、我々を徹底的にご存知になっておられる、ただ一人のお方です。そして、限りない愛でもって、人間一人一人を、まったく個人的に、愛しておられるお方です。このイエス様を知っていることこそが、最も大切なのではないでしょうか。

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