2023年5月6日土曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】40.高く引き上げられた方のあとがき

40.高く引き上げられた方のあとがき

黙示録第22章6節から21節まで

1.啓示されたみことばの信頼性
2.啓示されたみことばを宣べ伝えよという命令
[1]再臨の備え
[2]アルファであり、オメガである主
・主の地位
・主の創造性
・主の贖い
・主の身体である教会
・主の比べるもののない卓越性
・主と信仰
・主の栄光
[3]啓示、約束、警告
[4]内と外
3.啓示されたみことばの成就のあかし
[1]イエス、ダビデの根、また子孫、輝く明けの明星
[2]「来てください。」
[3]みことばを変更することへの禁止
[4]「しかり。わたしはすぐに来る。」

黙示録の最終章は、天から下ってくる神の「聖なる都、新しいエルサレム」についての描写で締めくくられています。しかし、私たちが将来のことだけではなく、現在についてもよく注意するように、最後にもう一度呼びかけられています。私たちは黙示録を通して、新しい展望、新しい力づけ、新たな慰め、戦いのための装備、あらゆる混乱の中での正しい導きについて、よく知るべきです。

黙示録が書かれた目的の一つは、「すぐに起こるべきことを、そのしもべたちに示すこと(黙示22・6)でした。黙示録は、夢想家や迷信家が自分たちの空想をたくましくするために書かれたものでは決してありません。神がご自分のしもべたちを力づけ、喜びに満たすために書かれたものです。つまり、永久に闇を知らない将来の世界、キリストとそのしもべたちによる永遠の支配が、多くの戦いと苦難の後に必ずやって来ることを告げているのです。

イエス・キリストの勝利のすばらしさと偉大さを、これほど明らかに記述した文書は他にないと言っていいでしょう。しかし大切なことは、将来起こるべき事柄だけではなく、今日、主は私たちにご自身を啓示したいと願っていらっしゃるということです。すべてのものが帰着する中心点は神と小羊の御座ですが、まず、この地上における神と御子イエス・キリストのご支配を明らかにすること、神が人と共に住みたもうということを明らかにしたいと願っておられるのです。

黙示録22章6節から始まる聖書の主題は、次のように言うことができるでしょう。「高く引き上げられた方のあとがき」、あるいは「再臨なさる主の啓示に対する証印」、または「主の三回にわたるみことば。私はすぐに来る。」、あるいは「終わりにあたってのあかし」です。

これから、その部分を三つに分けて考えてみましょう。はじめは、6節から9節までで、「啓示されたみことばの信頼性、または権威」についてです。言いかえるなら、黙示録のみことばを聞き、それを守る者は祝福される、という内容です。次に、10節から15節で「啓示のみことばを宣べ伝えよという命令」、あるいは「決心して再臨の備えをする者は祝福される」ということです。三つ目は、16節から21節で「啓示されたみことばの成就のあかし」についてです。これは「再臨なさる主を待ち望むようにとの招き」でもあり、「主のみことばを偽って伝える者に対する呪い」についても言及されています。

それでは本文に入って行くことにしましょう。

(6)御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。(7)「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」
(8)これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。(9)すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」
(10)また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。(11)不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
(12)見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。(13)わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(14)自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。(15)犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。(16)「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」(17)御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(18)私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。(19)また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(20)これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。(21)主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。(黙示22・6~21)

1.啓示されたみことばの信頼性


はじめに啓示の信頼性について見ましょう。黙示録のみことばが「真実で確かである」ことは6節の他に、21章5節、19章9節にも述べられています。それは神のみことばです。そこで決定的なことは、聞いて救われるか、救われないかということです。すべての預言者を導かれた主なる神が、ヨハネをもお導きになってこの黙示録を書かせたのです。

預言者モーセ、サムエル、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ゼカリヤの内に働かれた同じ神が、ここでご自身を啓示なさっておられます。預言者は自分が望んでいることではなく、御霊を通して神が預言者に語られたこと、つまり、預言者が語らなければならないことを語っています。

黙示録で取り扱われていることは幻想や偽りではなく、神の厳粛なみことばです。そして神のみことばであることこそ、記されたことが真実であるただ一つの確実な根拠です。もし神のみことばを信じない者は、偽りを信じ主を否定することになります。神のみことばに対する態度は、すなわち主イエス様のみことばに対する態度です。ですから、みことばはただ単に読むだけで済むものではなく、自分のものにし、守るべきです。

6節の後半に出てくるみことば、「すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされた」は、ここに啓示されたことが必ず起こる、という必然を表わしていますが、それはとても大切な事柄を示しています。というのは、黙示録の中では、目的が重要な意味を持つというよりは、「神のご計画の成就」が主題とされているからです。

主は、「わたしはすぐに来る。」(7、12、20節)言っておられます。このみことばへの確信が、奉仕するための慰めと勇気となり、再臨を準備するための支えになります。私たちが今、どんな行動をとるかはそれによって決められます。

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3・3)

主の再臨を待ち望み、自分の生涯をそこに向け、そのための備えをしている人は幸いです。みことばに頼ることは、イエス様に頼ることを意味します。フィラデルフィヤの教会はこの点で模範的でした。

「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」(黙示3・10、11)

7節の後半「この書の預言のことばを堅く守る者は幸いである。」の「幸いである」ということばは、黙示録の中には全部で7回出てきますが、ここが6回目になります。この箇所以外に次のところに書かれています。(黙示1・3、14・13、16・15、19・9、20・6、22・14)

さて、8節で、ヨハネはこの書が正しいものだということをもう一度あかししています。

彼は自分が見たこと、聞いたことを書き記しているのであり、他の人の力を借りて黙示録を書いたのではありません。ヨハネが見せられたこと、聞かされたことの前にひれ伏し、御使いを拝もうとしたとき、そうすることを禁じられました。なぜなら、主なる神お一人だけが礼拝されるべきだからです。被造物を崇拝したり礼拝したりすることは、結局、創造主を侮辱することになります。カトリック教会はマリアや聖徒たちの像を作って拝み、モルモン教はヨセフ・スミスを崇拝し、統一教会は文鮮明を拝み、そして何と多くの人々が祖先崇拝をしていることでしょうか。こういうことはすべて、聖書を通して厳しく禁じられています。主なる神の第一の戒めは「わたしのほかにほかの神々を拝んではならない」(出エジプト20・3、4)というものです。神以外の被造物が拝まれるとき、たとえ御使いといえども拝まれるとき、この神の戒めが破られることになります。礼拝されるべきは神お一人だけだからです。この戒めを否定するものは悪魔に利用されることになります。この方以外を対象にして、礼拝や崇拝を認めたり進めたりする者は決して神に仕える人ではありません。

黙示録の中に出てくる御使いは、自分が礼拝されることを拒み、それによって神の真の使者であることを証明しました。神お一人だけが礼拝されるべきであるという態度をとり続ける者こそ真のしもべです。神を心から礼拝する人々を、主なる神は求めておられます。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4・23、24)

ヘロデは自分を崇拝することを許したために、神のさばきが下りました。つまり、彼は死ななければならなかったのです。

そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない。」と叫び続けた。するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。(使徒12・22、23)

2.啓示されたみことばを宣べ伝えよという命令


さて、10節以降に進む前に、ダニエル書に記されているみことばを見てみましょう。

「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」(ダニエル12・4)

彼(主)は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。」(ダニエル12・9)

かつてダニエルに示された事柄は、封じられなければなりませんでしたが、黙示録においては、みことばは「封じてはいけない」ものとして、宣べ伝えるように命令されています。この命令は緊急命令です。なぜなら、終りの時が近づいているからです。

小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。(第一ヨハネ218)

ペテロやヤコブもことのことをはっきりと語っています。

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(第一ペテロ4・7)

兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。(ヤコブ5・9)

[1]再臨の備え


私たちの主は、もうすぐ再臨なさいます。主の再臨は、明確に宣べ伝えられなければなりません。そうしなかったら、それは主への不従順です。私たちは意識的にはっきりとした態度をとることが大切です。

11節には恐ろしいほど、厳しいみことばが記されています。恵みの時は終わりに近づき、その後ではもはや回心の可能性はなくなります。終わりが近づけば近づくほど、人間が回心することは困難になります。そして恵みの時が終わると、人間は永遠にそのままの状態にとどまります。つまり「永遠のさばき」か、「永遠のいのち」かの、どちらかの状態にとどまることになります。

もはや闇から光へ、あるいは悪魔の支配から神の支配へと移れる可能性はまったく存在しません。主の再臨の後は、私たちの状態と性質は、永遠にそのままです。伝道者の書11章3節のみことば「木が南風や北風で倒されると、その木は倒された場所にそのままにある。」の通りです。

死後にはもはや救いの機会はありません。カトリック教会がいうように「煉獄」というものを通って救われる可能性は決してありません。死後に来るものはさばき以外の何物でもありません。

人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが決まっている・・・・(ヘブル9・27)

この地上に生きている間に、人間は回心と聖めとを経験しなければなりません。死んでから報いを受けるか、あるいはさばきを受けるかのいずれかであるということは、永久に不変の事実であり、このことは世界中の人々に、はっきりと、至急、宣べ伝えられなければなりません。

「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」(ヨハネ12・47、48)

黙示録全体は一時間半もあれば読むことができます。重要なのは、そこから一つの結論を引き出すことです。

「あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」(黙示3・15)、「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。」(黙示22・11)という聖書のことばは一体何を語ろうとしているのでしょうか。それは、「この黙示録を通して与えられる警告を受け入れたくないならば、悔い改めをせず、不従順な生き方を続けなさい」ということです。その結果は滅びです。

もちろんすべての背後に、「回心」と「悔い改め」をすすめる心からの訴えがあります。悔い改めて神に立ち返る勇気を与えるために、主は「わたしはすぐに来る。」、少しの時も無駄にすることはできないと叫んでおられます。

ギリシャ語には「時間」を意味するために二つのことばが用いられます。一つは「クロノス」であり、もう一つは「カイロス」です。「クロノス」というギリシャ語は、私たちが日常普通に使っている意味での「時間」を表わします。つまり、主は「すぐに来る」とおっしゃったのに、なぜまだいらっしゃらないのか、どうしてその時を延ばしておられるのかという意味での時間を表わしています。この問いに対しては、ペテロが次のように言っています。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3・9)

一方、「カイロス」というギリシャ語は「神によって定められた時」を意味します。つまり、神のご計画の成就と実現の時を意味します。

今日こそ、決断のときです。

悔い改めたくない人はますます心をかたくなにしてしまいます。しかし、悔い改めの備えがある人は、回心と主を受け入れる恵みを経験することができます。

主イエス様に背を向ける人は、ますます汚れに入っていきます。しかし、主イエス様に従う人は、さらにイエス様に似た者へと造り変えられていきます。

黙示録のみことばを宣べ伝えることによって、はっきりとした線が引かれます。善と悪の二つが明確にされ、それぞれが成長していくのです。

「再臨の主」が宣べ伝えられると、その結果、主に反対の態度をとり、ますます不義を行なうようになるか、あるいは主にすべてを明け渡し、主なる神の義と栄光をますます表わすようになるか、いずれかに分かれます。

12節には、「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えてくる。」とあります。主イエス様はすぐに来られます。そして人々に報おうとしておられます。「報い」とは手柄ではなく、恵みです。「報い」とは人が何かをもらって、それから後は自分勝手な道を行くことではなく、とこしえに神と共にあること、そして神との深い交わりに入ることを意味しています。いつも主と共にいられることこそ、最も大きな報いです。主との交わりは「恵み」によって与えられる贈り物です。そのために支払わなければならないものは何もなく、またそれは自らの力で獲得されるものではありません。イエス様ご自身が報いてくださるのです。

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(第二コリント5・10)

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3・11~15)

競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技ているでしょう。ですから、あなをする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(第一コリント9・24~22)

[2]アルファであり、オメガである主


13節に「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終りである。」とありますが、そのすべてが神の名称です。イエス・キリストは主であり、神であって、すべての前にあったものであり、すべての後に存在するお方です。そして今もなおすべてを導いておられます。「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこういわれる。『わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示録1・8)、「また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。』(黙示21・6)にも同じみことばが記されています。

主イエス様と父なる神とは一つです。主イエス様は創造主であり、救い主であり、完成者です。主イエス様は永遠に神です。このことについて、さらに七つの点に分けて考えてみましょう。

・主の地位

聖書はイエス・キリストの地位について何と語っているのでしょうか。主イエス様はすべての前に存在しておられ、すべてはイエス様によって造られました。

この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。(コロサイ1・6)

イエス様の御座は永遠から永遠に至ります。

御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。」(ヘブル1・8)

主イエス様は「人間」としては完全なお方であり、「預言者」としてはすべての預言者にまさる預言者であり、「祭司」としては比類なき祭司、つまり永遠に臨在したもう祭司であり、「王」としては王の王です。

このようなイエス様が、私たち人間のために、人の姿をとり、いのちを捨て、「苦しみの人」となってくださったとは何という慰め、何という恵みでしょうか。

・主の創造性

聖書はイエス・キリストの創造のわざについて次のように言っています。

主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。(ヘブル1・10)

すべては主イエス様によって、主イエス様のために創造されました。主イエス様は初めも終わりもない、偉大なる創造主です。

・主の贖い

聖書はイエス・キリストの「贖い」のわざについて何と言っているでしょうか。

地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。(黙示13・8)

主イエス様は世が造られる前から、「ほふられた小羊」と呼ばれています。創世記3章15節はイエス・キリストの贖いと救いについての最初の預言です。また旧約時代に行なわれた、すべての全焼のいけにえ(燔祭)は主イエス様の犠牲の象徴です。

「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3・15)

世の造られる前から、主イエス様は「いのはじめ」であり、そして、十字架の上で「完了した」と叫ばれたとき、主イエス様は「贖いの終わり」となられました。

・主の身体である教会
聖書はイエス・キリストの「身体である教会」について何と言っているでしょうか。

主イエス様は教会の「土台」です。

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(第一コリント3・11)

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。(エペソ2・20)

主イエス様はご自分の血潮によって教会を贈ってくださいました。それは主の身体である教会が「新しい都」であり、とこしえにイエス様と共にいるようになるためです。教会という「真珠」をご自分のものとなさるために、主イエス様はすべてを捧げてくださいました。主イエス様は教会の「礎の石」です。

「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。」というのはこの方のことです。(使徒4・11)

・主の比べるもののない卓越性

聖書はイエス・キリストの「比べるもののない卓越性」について何と言っているでしょうか。

イエス様は聖書全体の中心点です。イエス様を無視すれば、聖書はまったく無意味なものとなります。聖書を通して私たちは主イエス様の偉大さを知ることができます。

イエス・キリストは十字架につかれたあと、エマオに向かう弟子たちに対して、いかにして聖書の約束がご自身を通して成就されたかを明らかにしてくださいました。イエス様は聖書のみことばを通して、ご自身を現わしてくださいました。ですから、イエス・キリストを求める者は誰でも、聖書を通して主を見いだすことができるのです。

・主と信仰

聖書は「信仰」について何と言っているでしょうか。

主イエス様がただお一人、信仰を与えてくださるお方であり、信仰を完成させてくださるお方です。

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1・6)

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12・2)

主イエス様は、ただ単に信仰の「創始者」であるだけではなく、「完成者」でもあります。主イエス様は私たちを赦してくださり、いやしてくださり、勇気づけてくださり、完成してくださいます。

・主の栄光

聖書は「主の栄光」について何と言っているでしょうか。

主は世が造られる前からおられ、栄光を持っておられました。そして、新しい聖なる都の栄光の創造主でもあられます。すべてにおいて主イエス・キリストは初めであり、終わりです。そして、このすばらしいイエス・キリストは私たちのものであり、私たちの「主」です。

「私はイエス様のもの、主は私のもの」と心から主を賛美できる人は幸いです。

[3]啓示、約束、警告


21章の6節には「神の啓示」が記され、次の7節に「神の約束」、それから8節に「神の警告」という順で続いています。22章13節から15節も同じ順序で「神の啓示」、「神の約束」、「神の警告」が記されています。

啓示としての主のみことばは、ご自身が「アルファであり、オメガである」(13節)ということです。次に「自分の着物を洗って」(14節)とありますが、ここのギリシャ語は現在形と進行形が使われています。つまり、一度だけ聖められるのでは不十分であり、絶えず聖められて、光の中を歩むことが大切だということを意味しています。最後に至るまで主イエス様と結びついていることが重要です。罪を赦され主イエス・キリストとだけ結びついている者が、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、新しいエルサレムに入ることを許されます。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3・16)

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2・8、9)

私たちには幼子のような信仰だけが要求されています。そして主に頼り続けることが必要です。

主と共にある幸いを得る人々に対して、15節には不幸な結果を招く人々のことが描かれています。これらの人々は主と主のみことばを受けいれず、主に従わなかった人々です。彼らは永遠に外に出されると警告されています。これらの人々は「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者」と呼ばれています。

これらの「幸いを得る人」と「不幸な運命に陥る人」との間には、何という大きな違いがあることでしょうか。一方はいのちの木の実を食べる権利が与えられ、新しい聖なる都に入ることが許され、他方は外に出なければならず、火の池に投げ込まれることが決まっています。ここですべての罪人は、もう一度自分の罪のこと、自分の結末を思い起こして悔い改めるように呼びかけられています。

[4]内と外


最後に、聖書に出てくる「内」と「外」が意味するものについて、七つの実例から考えてみたいと思います。「外」は暗やみです。

「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ25・30)

第一の実例は「ノアの箱舟」です。

信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。(ヘブル11・7)

ノアは近づいてくる神のさばきについて教えられたみことばを信じ、箱舟を造りました。ノアとノアの家族は神の命令に従って箱舟の「内」に入って救われました。しかし、箱舟の「外」にいた人々は皆滅びました。

「そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24・39)

主イエス様はまことの救いの箱舟であり、イエス・キリストと共にいる者だけが救われます。

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6・37)

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3・36)

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8・1)

二番目の実例は「ソドム」です。創世記19章を見ると、さばきはすでに決定されていました。そこでアブラハムは祈り、御使いが救いのために遣わされました。それは本当に救いを求める人々のためでした。人々は、どうしてもソドムにとどまりたいか、そこから離れて救われたいと思うかのどちらかでした。他の人々も警告を受けましたが、救われたいとは思わず滅びました。

そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。(創世記19・14)

信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。(マルコ16・16)

第三の実例は「過越の祭り」です。出エジプト記12章を見ると、どの家の門柱にも小羊の血が塗られていなければ救われることはありませんでした。救いと安全はただ、ほふられた過越の羊の血によって与えられました。血が塗られた家の「内」にいた者は皆救われ、その「外」にいた者は皆さばきと死を味わわなければなりませんでした。

第四の実例は「ラハブの家」です。

あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。(ヨシュア2・19)

このときエリコに対する神のさばきが近づいていました。しかし、遊女ラハブは神から遣わされた者たちが告げた神のことばを信じて救われました。彼女は確かに罪深い女性でしたが、信仰によって救われました。

信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。(ヘブル11・31)

彼女は神のことばを信じ、多くの人に向かって彼女の家に入るよう呼びかけました。そして彼女と共に彼女の家の「内」にいた者は救われました。

ヨシュアはこの地を偵察したふたりの者に言った。「あなたがたがあの遊女に誓ったとおり、あの女の家に行って、その女とその女に属するすべての者を連れ出しなさい。」斥候になったその若者たちは、行って、ラハブとその父、母、兄弟、そのほか彼女に属するすべての者を連れ出し、また、彼女の親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。(ヨシュア6・22、23)

ラハブといっしょにいる者以外は、皆、さばきによって滅びました。

第五の実例は「十人の乙女たち」です。マタイ25章を見ると、五人の乙女たちは賢く、他の五人は愚かでした。それによって花婿であるイエス・キリストを「内」で待つか、あるいは「外」で歯がみしなければならなくなるかのどちらかが決まったのです。そうなってからいくら泣き叫んでも、戸を叩いても、何の役にも立ちません。

外側の形式だけの信仰では十分ではありませんでした。愚かな五人の乙女たちも、賢い五人の乙女たちと同様にランプを持っており、小羊の婚宴に招かれたいと待っていましたが、ランプの中には油、つまり聖霊が入っていませんでした。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8・9)と書いてあります。あなたは小羊の婚宴のとき、出席できるでしょうか。

第六の実例は「いのちの書」です。

「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10・20)

いのちの書に名前が書かれているということは、まことの喜びの根拠です。いのちの書に名前が記されている人は「新しい聖なる都」の市民となります。しかし、このいのちの書に名前が記されていない人は「火の池」に投げ込まれます。

いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示20・15)

「永遠の幸せ」か、「永遠の滅び」かは、いのちの書に名前が書かれているかいないかによって決まります。あなたの名前は、いのちの書に記されているでしょうか。

第七の実例は「新しい聖なる都」です。

その「新しい聖なる都」にいるのは、小羊の血潮によって洗い聖められた人々です。

彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」(黙示7・14)

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、・・・・(黙示1・5)

ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(ヨハネ13・8)

あなたは、ご自分の罪がイエス・キリストの血潮によって赦されていることを知っておられるでしょうか。

3.啓示されたみことばの成就のあかし


次に、黙示録22章最後の部分、16節から21節の内容について見ていきましょう。ここに別の題名をつけるとしたら「再臨なさる主を待ち望むようにとの招き」、そして「主のみことばを変更することへの禁止」とすることができるでしょう。

[1]イエス、ダビデの根、また子孫、輝く明けの明星


黙示録の重要性は、この書を書かせようとしてヨハネに御使いを遣わしたお方が、ご自分を三つの呼び名で明らかにしたことによって、確かなものとなります。その第一は「イエス」であり、第二は「ダビデの根、また子孫」、第三は「輝く明けの明星」です。

イエス様は神の御子としてマリヤから生まれる以前に、すでに「イエス」という名を与えられていました。

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(マタイ1・21)

「イエス」という名前の中には私たちの罪の赦しがあります。「イエス」こそ私たちの救い主であり、私たちの崇拝する方としてふさわしいお方です。

第二の呼び名「ダビデの根、また子孫」は、次のことを意味しています。主イエス・キリストは全宇宙が造られる前から存在しておられ、当然ダビデが生まれる前からおられました。それでダビデはイエス・キリストを「主」と呼んだのです。

また、主イエス様は「ダビデの根」であるだけではなく「ダビデの子孫」でもあります。

「ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」(マルコ12・37)

イエス様は、ダビデにつながる家にお生まれになりました。そしてイエス様は、ユダヤ人の王でもありました。

ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。(マタイ2・2)

また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。(マタイ27・37)

シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。(ゼカリヤ9・9)

次に「輝く明けの明星」と呼ばれるイエス・キリストについて考えたいと思います。

「明けの明星」は新しい一日が始まる前に見られるものですが、それと同じようにイエス・キリストは人類に夜のない日を与えるためにまもなく来られます。

都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。(黙示21・25)

もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。(黙示22・5)

「輝く明けの明星」である主イエス・キリストは、一日の始まる前に、花婿として花嫁である教会を迎えるために来てくださいます。空中で主と教会は相まみえることとなります。

「また、彼に明けの明星を与えよう。」(黙示2・28)

そのあとで主イエス様はまことの王として来てくださいます。恐ろしいさばきの後、目に見える形で、今度は花婿としてではなく、「義の太陽」として、千年王国を建てるためにこの地上に来てくださいます。

[2]「来てください。」


17節に「花嫁」ということばが出てきますが、それは一体誰のことでしょうか。それはイエス様の御霊を持っている人すべてのことです。

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(ローマ8・9)

「花嫁」の特徴は、「花婿」であるイエス・キリストを慕い、待ち焦がれていることです。花嫁は目に見えるものには満足せず、それに惑わされることはありません。主お一人だけが花嫁の愛と憧れの対象です。

主からいただいた霊は希望の霊であり、イエス様を待ち望む霊です。イエス様に対する愛は、私たちを主を意識的に待ち望む者へと変え、イエス・キリストの再臨に備えるようにさせてくださいます。イエス様に対して「来てください。」と、聖書に何度も重ねて書いてあるのは、大きな福音です。

イエス様も人間を招いておられます。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11・28)

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6・37)

この招きに気づいたとき、17節にある次の三つの大切なことばを心に留める必要があります。第一に「これを聞く者」、第二に「渇く者」、第三に「求める者」です。

ある人々は聞き、ある人々は聞きません。主の御声に耳を傾けることは私たちが当然すべきことです。しかし、福音をさらに宣べ伝えることも、私たちの責任です。というのは、まだ、今は「恵みの時」だからです。

ある人は永遠なるものを渇望し、ある人は過ぎゆくこの世のものを求めます。みことばを聞くことによって、飢え渇きが生じます。渇いている者は、イエス様の元に来て渇きをいやすことができます。

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6・35)

何というすばらしい招きでしょうか。

御霊と「花嫁」は、つまり、つまり神の霊と救われた人々は、「イエス様、来てください」と天に向かって叫びます。パン裂きのたびごとにいつもこの叫びが心の底からあふれ出てきます。

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。(第一コリント11・26)

いつも主と共におり、主と結びついているということこそ「花嫁」の憧れです。しかし、その一方で、御霊と「花嫁」は滅び行く人々に向かって、「イエス様のみもとに来てください」と心からすすめます。

いつの時代でも恵みの神を信じる人は、受け入れられ、解放され、満たされます。

イエス様は一体、誰に呼びかけておられるのでしょうか。飢え渇いている人、罪にあえぎ苦しんでいる人、罪人、そして「罪の赦しと平安とを持ちたい」と思っているすべての人に向かって呼びかけておられます。「花嫁」もまた主と同じ願いをもつ者です。

いままで「聞く者」、「渇く者」について見てきましたが、最後に「求める者」について見ることにしましょう。救われるかどうかは、人間の意志が決定的な意味をもっています。「求める者」は来て飲むことを許されています。主イエス様の救いは無償であり、これこそ、恵みによる贈り物です。

ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。(イザヤ55・1)

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3・24)

「飲むこと」はまた、信じることを意味します。サマリヤの女は自分の持っていた桶をそのままおいて、イエス様が提供してくださったものを受けました。ルカの福音書第7章、ヨハネの福音書第8章に出てくる罪人の女も、ニコデモも、「飲んで」新しい人間になりました。

「いのちの水」は、イエス様による完全な救いです。きょう、まだそれを受け入れていない人は、ルカの福音書16章19節以下に出てくる金持ちのように、永遠に渇かなければなりません。

あなたは、もうすでに神の招きに答えられたでしょうか。

あなたは、罪人としてイエス様のみもとにひれ伏したでしょうか。

あなたは、自分の罪が赦されているという確信を持っておられるでしょうか。

あなたは、永遠のいのちを持っておられるでしょうか。

永遠のいのちを持っている人は、聖霊に押し出され、まずイエス様に向かって「来てください」と叫び、それから世の人々に向かって「イエス様のみもとに来てください」と叫ぶことでしょう。

[3]みことばを変更することへの禁止


18節、19節には主のみことばを変更することへの禁止が厳しく書かれています。みことばには欠けている所も、余分なものもありません。神のみことばを勝手に変えると18節、19節にある通りさばかれます。自分の考えを差し挟むことは許されません。部分的に修正したり、削除したりすることも許されていません。

現代の神学、特に聖書を神のことばとして認めない現代神学やエホバの証人、統一教会などはみな、神のさばきを受けなければなりません。

いずれにしても、私たちは権威あるみことばに服従しなければなりません。謙遜にみことばに服従することと、聖い恐れをもって献身することがどうしても必要です。

この態度をとらない人は「いのちの木と、聖なる都からその人の受ける分を取り除かれる。」(19節)のです。

ここで大切なことは、神のことばを霊的に理解するかしないかではなく、「みことばを受け入れたい、そして永遠のいのちを持ちたいと思うか、思わないか」ということです。

「永遠のいのち」とは何でしょうか。

まず第一に、それは初めも終わりもない神のものですから「永遠」と呼ばれます。神のいのちは神である御子イエス・キリストを通して明らかにされました。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネ1・4)

それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。(ヨハネ5・26)

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――(第一ヨハネ1・1、2)

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(第一ヨハネ5・12)

しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(第一ヨハネ5・20)

第二に、この神の永遠のいのちは主イエス様を受け入れるすべての人に与えられます。主を自分の救い主として受け入れた人は、イエス様を通し、内住の聖霊を通して永遠のいのちをもっています。

第三に、主を信じる人が聖霊によって受ける永遠のいのちは、その人間を根本的に変えます。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5・17)

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6・15)

第四に、信者のうちにある神の永遠のいのちは、永遠から永遠まで、主イエス様のうちにあるものですから、主イエス様とは切り離すことのできない、イエス様とまったく同じいのちです。

そのことを主イエス様は「ぶどうの木と枝」のたとえ(ヨハネ15・1~5)によって分かりやすく説明してくださいました。

また「頭とからだ」も同様に同じいのちを持っています。

ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。(第一コリント12・12~14)

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2・20)

神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ1・27)

そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(第一ヨハネ5・11,12)

[4]「しかり。わたしはすぐに来る。」


いよいよ聖書の最後の5行、黙示録22章20、21節に入ります。

主イエス様はここでもう一度、黙示録の内容は真実で、信じるに足るものであることを説明し、「しかり。わたしはすぐに来る。」と三回目のみことばを繰り返して語っておられます。これは御霊と花嫁なる教会の叫びに対する主の応答です。主イエス様は必ず、来てくださいます。主イエス様はご自分の花嫁をご自分のみもとに引き上げられるために来てくださいます。

「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14・3)

「しかり」という主のみことばは「アーメン」という意味であり、この二つはすでに1章7節に並べて記されています。

見よ。彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。(黙示1・7)

主ご自身が「アーメンなる方」です。

主は必ず来てくださいます。これは主を愛する人々すべての確信です。彼らもまた「アーメン。主イエスよ、来てください。」と言うのです。本当に主のものとなっている人はすべて「主にお会いしたい」という切なる願いを持っています。しかもありのままの状態で、主と顔と顔とをあわせ相まみえたいと願い、また主のおられるところにいたいと心から望んでいます。

最後の部分では、ヨハネは自分が「聖霊の器」としてこの本を書いたことを強調し、さらに自分の願いと御霊の願いとを付け加えています。

主イエスの恵みがすべてのものとともにあるように。アーメン。(黙示22・21)

私たちが必要としているのは主の恵みです。主が来られるまで、日々主の恵みを必要としています。主の恵みによって私たちは救われ、主はご自身の恵みによって私たちを人生の荒野を通して導いてくださり、恵みによって私たちを栄光にまで導いてくださいます。今日、私たちは主の恵みを経験することを許されており、まもなく天の御国において主の栄光にあずかることをも許されています。私たちは主を見つめながら、主により頼み、徹頭徹尾主に従い、主の再臨を待ち望むことが許されています。

最後に、三つの問いにより、私たち自身に光をあててみましょう。

第一の問いは、主イエス様は完全な贖いを成就してくださいましたが、私たちは果たして救われた者なのでしょうか。そして、神の子として神の相続人、またキリストとの共同相続人だと言えるのでしょうか。

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ8・17)

第二の問いは、主イエス・キリストは必ず再臨なさるのですが、その主を私たちは本当に待ち望んでいるでしょうか。もし主がきょう来られるとしたら、私たちは喜ぶことができるでしょうか。

第三に、主イエス様は真の完成をもたらしてくださいますが、私たちの人生は完成の方向に向かっているでしょうか。あるいはイエス様から離れた道を行っているのではないでしょうか。

これまで黙示録全篇を通して主の御心を学んできましたが、今、心から「マラナタ(われらの主よ、来てください)。」と心から叫ぶことができればまことに幸いです。

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