2023年5月3日水曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】39.小羊の妻である花嫁、新しいエルサレム

39.小羊の妻である花嫁、新しいエルサレム

黙示録21章9節から22章5節まで

1.聖なる都
2.聖なる都の記述
[1]神の栄光の輝き
[2]高い城壁と門
[3]大きさと形
[4]都の材料
3.聖なる都での生活
[1]神殿がないこと
[2]太陽、月がないこと
[3]3地の王たちの礼拝
[4]都にはいれる者
4.約束の楽園
[1]いのち
[2]都の市民

この章の主題は、「小羊の妻である花嫁」あるいは「新しいエルサレム」です。これを「聖なる都」、「聖なる都の記述」、「聖なる都での生活」の三つの点に分けて考えていくことにしましょう。まず、聖書の箇所を見ましょう。

(9)また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」(10)そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。
(11)都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。(12)都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。(13)東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。(14)また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。(15)また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。(16)都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。(17)また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。(18)その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。(19)都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、(20)第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。(21)また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
(22)私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。(23)都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(24)諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。(25)都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。(26)こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。(27)しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。
22(1)御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、(2)都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。(3)もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、(4)神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。(5)もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。(黙示21・9~22・5)

1.聖なる都


私たちはこの前の21章1節から8節までの箇所で「新しい神の世界」の「永遠の状態」を見ました。つまり、「神がすべてのすべてである」ということです。ここ9節からは「永久に続く聖なる都」について記されています。しかもそれは黙示録17章と対立したものとして記されています。17章5節でヨハネは「大バビロン」を見せられましたが、ここでは「新しいエルサレム」を見せられています。

バビロンは一つの都ですが、一人の女にたとえられており、それは「淫婦」に他なりません。この都にいるのは、獣である「反キリスト」を拝む人々すべてです。一方エルサレムもまた一つの都で、同じく一人の女にたとえられていますが、それは「小羊の妻である花嫁」、つまり主イエス様に属するすべての人々です。このことについては、すでに21章2節に述べられています。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。(黙示21・2)

2.聖なる都の記述


黙示録21章11節から21節にこの都についての記述があります。

この都はすべての時代を通して、あがなわれた者の「永遠の故郷」です。あらゆる時代の信仰者は、このような都を霊において見ていました。

彼(アブラハム)は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。(ヘブル11・10)

しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル11・16)

私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。(ヘブル13・14)

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14・1~3)

[1]神の栄光の輝き


この都には神の栄光が満ちています。旧約時代の信者たちすべて、そして携挙によって天に引き上げられた人々すべてがこの都に住みます。神のご臨在を示すものは栄光です。旧約時代に神はしばしば雲の中にご自身を現わされましたが、この都では表現することのできないほど明るい光の中にご自身を現わされます。この都が天から下ってくるということは、神によって実現されるのですから、神こそがこの都の建設者です。この都は聖なる天的な都です。

旧約時代、至聖所には灯りがなかったので信仰者たちは見通すことができませんでした。しかし聖なる都は光に満ちていて、すみずみまでも見通すことができます。旧約時代には神は姿を隠しておられましたが、聖なる都ではご自身を現わしてくださいます。何と幸いなことでしょう。

[2]高い城壁と門


都の城壁は七十メートルの高さがあります。この城壁によって全ての悪は閉め出されています。それはとりもなおさず悪からの絶対的な分離と絶対的な安全を意味しています。

都には東西南北の四方向に三つずつ、あわせて十二の門があります。つまり、すべての方向に向かって、この都から「光といのち」、「義と平和」が出ているのです。都の名前は「エルサレム」であり、ここにこそ平和の場、「神の御座」、「神の住まい」があります。十二の門には十二人の御使いが、都の聖なる天的な性質を護るため、またそこに住む人々を護るためにいます。

14節を見ると、城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の名前が書いてあることがわかります。これは、この都に住む人々が主イエス様の血潮によって洗い聖められていることを意味しています。

[3]大きさと形


この都の規模を私たちは想像することが出来ません。エゼキエル書によるとこの都の大きさ、縦、横、高さ、(深さ)はそれぞれ二千二百二十キロメートルあり、それは巨大な立方体をなしています。

このうち、縦横五百キュビトの正方形を聖所に当て、その回りを五十キュビトの空地にしなければならない。(エゼキエル45・2)

その大きさは次のとおりである。北側は四千五百キュビト、南側は四千五百キュビト、東側は四千五百キュビト、西側は四千五百キュビトである。(エゼキエル48・16)

ソロモン王が建てた至聖所も立方体をしていました。

内堂の内部は、長さ二十キュビト、幅二十キュビト、高さ二十キュビトで、純金をこれに着せた。さらに杉材の祭壇にも純金を着せた。(第一列王6・20)

この聖なる都の立方体は、完全な形をしています。

その高さは世界最高峰エベレスト山(八千八百四十八メートル)の約二百五十倍もの高さを持ち、それは私たちの想像を絶する大きさです。もちろんここではどのくらいの数字の大きさであるかを知ることが問題なのではありません。私たちの想像を遙かに超えた、神の栄光と神聖さを持った大宇宙が存在するのを知ることが大切です。

[4]都の材料


都に使われている材料の輝きは、私たちがかつて見たことがないほど燦然とした輝きです。例えば、城壁は七十メートルの高さがあり、全部で八千八百八十キロメートルの長さがありますが、その全体はすべて宝石で出来ています。あまりにも輝かしくて、その美しさはほとんど想像不可能です。都の大通りは純金でできており、ガラスのように透き通っています。そのような金は、今日まで発見されていません。このことは私たちにとって、次のことを意味しているのではないでしょうか。私たちもまた純金のように聖められなければならず、私たちの信仰が一層精錬されなければならないということです。

見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。(イザヤ48・10)

信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(第一ペテロ1・7)

「聖くなければ、だれも主を見ることができません」(ヘブル12・14)と聖書に記されています。ところが私たち信仰を持つ者の間にも、なんと多くの間違い、不寛容、さばき、不純、どん欲、心配、不信仰、恨みなどがあることでしょうか。

どのような罪も光の下に出されなければなりません。そうでなければ聖められることもなく、主との交わりもありません。

もちろん、主を信ずる者は誰でも神の子どもであり、イエス様にあって義とされています。そして永遠のいのちをもっています。しかし私たちの内側には、まだ罪の性質が残っており、私たちを取り巻く環境は悪魔の支配下に置かれています。それによって主との交わり、ほかの信者との交わりがどれほどしばしば断たれてしまったことでしょうか。ですから私たちは自分自身を吟味し、日々、主に明け渡すことのできない自分を聖めていただくことが必要です。

「新しいエルサレム」の道が、透き通ったガラスのような純金でできていることが意味するものは、「交わり」です。つまり、新しいエルサレムにおいては神と人との、また、信者同士の完全な交わりがあり、決して妨げられることがなく、中断されることもない、従って終わることのない交わりが実現されます。

都が宝石でできているという記述は、神の栄光に満ちた都の輝かしい美しさについて、その一部を私たちに想像させてくれます。そして、尺度の一致と材料の多様性の記述は、実際の姿を示唆するものにすぎませんが、「統一」と「多様性」という、神の誉れ、神の栄光を反映するものです。

3.聖なる都での生活


最後に黙示録21章22節から22章5節に記されている第三の点、「都の中での生活」を見ることにしましょう。

[1]神殿がないこと


21章22節を見ると、この都には神を礼拝する場所としての神殿がありません。地上でのように、祭壇のある宮を通って神に間接的に近づくことはもはや必要がなくなったからです。というのは、贖われた者たちは神へ直接接する道が開かれ、それを許されているからです。全能なる神と小羊なるキリストは、彼らと共に住んでくださいます。

贖われた者たちは、地上において神の住みたもう「神殿」であり「聖霊の宮」でしたが、「新しいエルサレム」においては「至聖所」のような存在であり、神ご自身がここに住みたもうからです。

「小羊の花嫁」こそ、神の宮、つまり神殿です。神は幕屋も覆いもなしに神殿の中心におられます。神ご自身が神殿です。この都の聖所はイエス・キリストを通して明らかにされた神であり、霊とまことをもって礼拝されるお方です。

この「新しいエルサレム」こそが、すべてのすべてであられる神がご自身を啓示してくださる場であり、ここだけが啓示の場です。そして、次のみことばが成就します。

しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。(第一コリント15・28)

まことに、水が海をおおうように、地は主の栄光を知ることで満たされる。(ハバクク2・14)

「新しいエルサレム」において完全に一致した人類は、たゆまず贖い主と創造主を賛美し、心から主を愛し、絶えず主を仰ぎ見つめています。ですから神殿はもはや必要ありません。

[2]太陽、月がないこと


都には光の源としての太陽も月も要りません。太陽と月はこの世界にとっては、現在のところ昼と夜の支配者であり、間接的な神の秩序を護るしもべです。しかしこの状態はなくなります。なぜなら、神ご自身が光としてすべてを照らされるからです。そして、主が中心におられる新しい都から、千年王国の期間中の地上もまた照らされ、いたる所に神の栄光が照り渡ります。

[3]地の王たちの礼拝


24節の光景は前に見た17章と対比することができます。17章では「大バビロン」に支配される王たちがいましたが、ここ21章には、真心から主なる神を拝む地の王たちが記されています。すべては主なる神の栄光を誉めたたえるために行なわれます。神の権威があがめられ、賛美されるのです。

また「新しいエルサレム」の門は閉められる必要がありません。というのは、敵はすべて滅ぼされたからです。主なる神は永遠に人間と結びついておられます。

新しい都においては、キリストにあって一つにされた人々のみが存在し、彼らは自由の身とされ、喜んで救い主に仕えます。

[4]都にはいれる者


27節を見ると、小羊のいのちの書に名前が書かれている者だけが、この新しい聖なる都エルサレムに入ることができる、と再び書かれています。

私たちは世の罪を取り除くために来られた「小羊なるイエス・キリスト」のことを思い起こします。この小羊にこそ、礼拝が捧げられるべきです。主イエス様はご自身を捧げることによって、私たち人間の罪を取り去ってくださいました。

主なる神が遣わされた「小羊なるイエス・キリスト」を救い主として信じ、十字架で行なわれた救いのみわざを信頼するものはすべて、自分の名前が小羊のいのちの書に書き記されているという確信を持つことができます。このことは、彼らに新しいエルサレムで栄光の座に着く権利を与えます。

主なる神は絶対に罪と関係を持つことができません。しかし、主なる神は、罪人を赦したいと願っておられます。ただ、罪から離れ、罪を去り、罪を憎むことだけが条件とされます。罪は「新しいエルサレム」の外におかれます。

私たちは罪から離れて新しいエルサレムへの入口を見いだすことができるでしょうか。それとも罪の中にとどまり、聖なる都から閉め出されてしまうことになるのでしょうか。

今日、罪を告白して主イエス様を受け入れる人は、自分の名前が小羊のいのちの書に記録されており、決して消されることがないのを知ることができます。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1・12)

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5・24)

4.約束の楽園


22章1節から5節は、最後の場面の描写です。「新しい都」において、主なる神の目的が達せられたのであり、人間は生ける神のもとに立ち返ったのです。その神は今や人間と共に住んでくださいます。失われた楽園に対する人々の郷愁は、今や全く満たされています。

[1]いのち


「新しい都」の特徴が「光」と「神聖」であることは今まで見てきたとおりです。ここにもうひとつ付け加えられる特徴は「いのち」、つまり永遠のいのち、神のいのち、新しいいのちです。「光」と「いのち」はいっしょになっています。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネ1・4)

1、2節には「いのちの水」と「いのちの木」について記されています。神が約束された楽園は、実は千年王国ではなく、「新しい都」です。「新しい都」とは、神と人間との完全な交わり、そして、人が妨げられることなく神と共にいることを意味します。

主イエス様は、来るべき聖霊のことを「いのちの水」にたとえられました。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7・38)

ですから私たちはここで、「三位一体」なる神が前面に出てこられるのを見ることができます。つまり「神」と「小羊」と、いのちの泉である「聖霊」です。

黙示録4章5節に、神の「御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。」と記されていますが、それはとりもなおさず、さばきのことを意味しています。しかし、それはもはや過去のこととなり、さばきは終わりました。今からは、「絶えることのないいのち」が神の御座から流れ出るのです。「原罪と堕落」以来、人間は楽園から追放されました。そして、「いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣が置かれ」(創世記3・24)ました。しかもこの剣は、主イエス様の心を刺し通しました。そのことによって、主イエス様は、全人類の罪の債務をご自身の上に負ってくださり、十字架の上でいのちを捨ててくださいました。主イエス様の贖いの死によって、へだてとなっていた幕が裂かれ、御座に近づく道が開かれ、いのちの水が、つまり、罪の赦し、神との平和、永遠のいのちが、提供されるようになったのです。

「その木の葉は諸国の民をいやした」(黙示22・2)と言う表現は何を意味しているのでしょうか。ヨハネが見たのは、全く新しくされた創造であり、そこにはもはや古い物がないことは明らかです。もう、死も、嘆きも、苦しみ、叫びも、呪い、涙、飢え渇きも不自由も、病気も夜も存在しません。

諸国民は新しい都の光を享受します。諸国民は喜びながら、新しい都の与える光の内を歩み、新しい都のいのちを持ちます。

しかし、「永遠のいのち」は人間が自分の所有物として受け取り、神から離れて享受できるものではありません。「永遠のいのち」はいのちの泉そのものに対する絶えることのないより頼みです。ですから大切なことは、神と小羊の御座から出てくるいのちの水を、絶えず恵みにつぐ恵みとして受け取ることです。

聖書の中には、「健全な」教え、「健全な」ことば、「健全な」信仰という表現が出てきます。諸国民がいやされたということは、諸国民が「健全に」なったということです。もはや神から離れている人間は一人もなく、すべてが神との調和の中におかれています。ここに私たちは、楽園が回復されたことを見いだすことができます。実際私たちは、楽園以上のものを持っているのです。というのは、そこにはもはや、誘惑してくる蛇や死ぬ可能性、神の神聖さを損なうものは何も存在しないからです。

黙示録21、22章と創世記1、2章は、驚くほどよく似ています。ここにおける人間は、罪を知らない人間であり、いのちの木やいのちの水があり、人間が支配し、神が人間と共に住みたもうと記されています。しかし、異なる点もあります。創世記には、罪の危険、悪魔の攻撃、神の戒めと禁止がありますが、黙示録21、22章には、人間が罪から守られていること、悪魔は火の池に投げ込まれてしまったこと、救われた人々が喜んで神に仕えていることなどが記されています。創世記における楽園が確かなものであったと同じように、黙示録の楽園も同じ確かさをもって現実となります。もはや、罪も呪いも存在しません。新しいエルサレムは、新しい地へと天から下ってきて神の御座の場となるのです。

[2]都の市民


聖なる都の市民について、五つの特徴が述べられています。

・神に仕える

3節に「そのしもべたちは神に仕え、」とあります。つまり、彼らはただ神にだけ仕えるのです。これは大切なことです。私たちの心も、今、すでに、ただ主イエス様だけに向けられているべきです。

いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。(ガラテヤ1・10)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。(コロサイ3・23)

祭司として仕える役目は大切ですが、最も重要なことは、主なる神を心から崇拝することです。神様だけを主としてあがめる時、人間は罪と自我と悪魔の支配から完全に解放された状態におかれます。主にだけ仕えることができる特権を持つとは、何というすばらしい生き甲斐でしょうか。それによって人間は初めて、本当に人間らしいものとなり、全身全霊を尽くして神に仕えることができます。これが「ヘブル人への手紙」4章に約束されている「安息」であり、何の心配もなく、主に仕えることが許されている状態です。

その奉仕は神と小羊に対してなされるものですが、仕える対象の「神」が単数形になっていることに注意しましょう。つまり、神と小羊とは密接不可分の関係にあって、神の御座はとりもなおさず小羊の御座であり、そこで一つとなって支配しておられるのです。

・御顔を仰ぎ見る

4節に、しもべたちは「神の御顔を仰ぎ見る。」とあります。今の世の中で、目に見えるものにではなく、目に見えないものに目を留めることはなんと難しいことでしょうか。「主だけを見る」ということは、すべての真の信者が抱く心からの願いです。今、私たちは主につながり、主と同じいのちを持ちながら生きることが許されており、それはこの世の何物とも比べようもないほどの喜びです。

しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。(詩篇17・15)

その時、主なる神との交わりはすこしも妨げられることがありません。黙示録20章11節によると、先に創造されたものは「地も天もその御前から逃げ去ってあとかたもなくなり」ます。そして、新しく創造されたものが主なる神の御顔を仰ぎ見ます。

・額に神の名がついている

4節後半には、「彼らの額には神の名がついている。」と書かれています。

今、私たちの周囲にいる多くの人々の顔は心配と罪の影を宿しています。至る所で、望みがなく喜びのない顔に出会います。しかし、聖なる都の市民の顔には神の栄光が反映しています。今日も、そのように信者の顔を通して神の栄光を見ることができるはずです。私たち信者から、言葉においても、行ないにおいても、イエス様が明らかに読みとられなければなりません。イエス様がお考えになるように考え、イエス様がお信じになるように信じ、イエス様が望まれるように望む信者であるべきです。神の名前が私たちの額につけられているということは、深い意味をもっています。というのは、名前は本質を現わすものだからです。私たちは主の似姿に変えられるのです。

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。(第一ヨハネ3・2)

ここで、この聖句と創世記3章5節とを対比させて見てみましょう。創世記3章5節では、蛇である悪魔が女をそそのかして、「あなたがたが神のようになる」と言ったことが記されています。悪魔の言葉は、「被造物なる人間が神になり、神の御座に着く」ことを意味しています。これは悪魔の惑わしであり、偽りでした。

一方、第1ヨハネ3章2節のほうは、「私たちはキリストに似た者となる」と告げています。これこそが神のご目的です。「キリストに似た者となる」というのは、私たちが神にふさわしい相手となること、主と交わりを持ち、主イエス様と一つになることを意味します。

悪魔の誘惑と偽りの言葉は、神の目的と似ていますが、本質的に正反対のものであることに注意しなければなりません。

・主が彼らを照らされる

5節を見ると、「神である主が彼らを照らされる」とあります。もはや夜は存在しません。神の都には夜がありませんし、神のしもべたちを見ても暗い面がありません。

今の時代は聖書で次のように言われています。

夜はふけて、昼が近づきました。(ローマ13・12)

まもなく、神のしもべたちは神の御顔を拝し、神の御顔が彼らを照らされるのです。これは次の聖書のみことばが成就することを意味しています。

それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。(申命記6・24、25)

主イエス様との永遠の純粋な交わり。それは何という幸いでしょうか。

・永遠の王

5節の終わりに、「彼らは永遠に王である」と記されています。つまり神のしもべたちは永遠に主と共に支配するのです。

また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。(黙示1・6)

私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。(黙示5・10)

彼らは地上を治めるというのは、人間に対する支配ではなく、自然に対する支配であり、これこそが常に神の目的でした。罪によってアダムはこの権利を失いましたが、それはいつか実現されるものです。その条件は、人が救われて神の御姿に似た者とされることです。

21、22章で、私たちは新しい自然法則を持った新しい世界を見ます。夜と闇はすべてなくなります。主イエス様がいのちを与え、それを豊かにするために来られたことが、このとき明らかにされます。もはや反抗や苦労、虚しさはありません。主を見ること、主に仕えることは、自らを主に捧げ、喜んで主に仕えるしもべに永久に与えられる特権です。「永遠のいのち」は、光の中を歩む人生、また本当の幸せに満ちた生涯、そして、神との交わりの中にある人生です。

ここで、今まで見てきた「新しい都」について、もう一度まとめてみることにしましょう。

第一に、「新しい都」は、人類が願って止まない、一致と交わりに対する憧れの実現です。人間は一致と交わりに憧れています。すでにバベルの塔の建設の歴史が、そのことを語っています。しかし、人間のあらゆる努力は呪いと分裂に終わりました。今日に至るまで、人類は不一致と分裂の歴史を克服できていません。

第二に、人間は公明正大さに憧れています。しかし今日、すべては曖昧であり、嘘と偽善が人間を支配しています。教会でさえ、多くの場合は、救いの道を人間に指し示す山の上の光ではなくなってしまっています。これに対して「新しい都」ではすべてが神聖で主に捧げられており、すべては公明正大です。というのは、神ご自身がその中に住んでおられるからです。

第三に、人間は神の栄光をほめ替えることに憧れています。しかし、私たちの自己追求によって主の栄光は覆い隠されてしまっています。「新しい都」には、暗い物や、隠されたり秘密にされている物はありません。宝石で作られた城壁は光りを通すことができ、都は大通りも透き通ったガラスのような純金でできています。つまり、すべてが露わにされています。「新しい都」の住民はもはや主を悲しませることをせず、主から出てくる光を反映させながら神様の栄光を表わします。彼らは本物であり、光の中を歩む者です。

今、私たちもそれを望んでいるでしょうか。透き通っていて、私たちの考えが明らかにされ、隠されているものは一つもないような状態を望んでいるでしょうか。

一体、そこに至る道はどのようなものでしょうか。どのようにしてダイヤモンドはあのように硬くなるのでしょうか。また宝石類はどうしてあの様に色とりどりの輝きを放つのでしょうか。どうやって金は純粋なものとなるのでしょうか。真珠の美しさはどこから生まれるのでしょうか。

それはこうです。ダイヤモンドは恐ろしいほどの圧力によって硬くされ、宝石は削られることにより輝きを生じ、金は火によって精錬され、真珠は傷つけられることによって美しさを身につけます。つまり、悩み、戦い、辱められ、憎まれることに耐え抜いて、私たちは透き通ったものになるのです。これらのことを通して、私たちは神の公明正大さ、恵み、栄光の証人となるのです。現在の悩み苦しみを、やがて主のみ姿に変えられる手段と見なし、それらのものを感謝しつつ主の御手から受け取る人は幸いです。

私たちの濁った状態にある自我と不純そのものは、否定されなければなりません。そうでなければイエス様と共に暮らす生活はありません。

イエス様は、小羊として私たちのために虐げられ、傷つけられ、火で精錬されるような経験をなさり、神に見捨てられる絶望の深みにまでも行ってくださいました。なぜなら、それによって私たちが永久に「新しい聖なる都」で主と共に住まうようにという目的をイエス様が持っていてくださったからです。ですから、イエス様なしに楽な道を行くよりは、イエス様と共に悩みと攻撃を受けることの方が望ましいのです。もっとも恐れるべきは、現在イエス様なしに生きることです。そして「新しい聖なる都」の外にとどめられてしまうことです。

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