故・酒井千尋兄、すごく古いテープ聞き取り
ローマ人への手紙
9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
今日は、平安がなくなる時っていうことについて少し、ご一緒に聖書から学んでみたいと思います。平安がなくなる時ってのはどういうことかなって...、結構、ぼくたち普段、多いと思うんですよ。主にあって、主を確信してて、救いの確信も持っていて、永遠のいのちの確信も持っていて、それでも、何かした拍子に平安がなくなるっていうことは、日々、経験することではないかなと思います。
で、どういうときになくなるのかなっていうことを、少し考えてみますと、五つほど考えられます。
まず第一に、自分が何かこう、優先して何かやろうとか、自分が中心になって前へいこうというときに、平安がなくなっていくような気がするんですね。
仕事のことでも、家のことでも、自分の思いとか、自分の考えで計画して、やっていこうというふうにした時には、何だか知らないけれど、ほぼ思う通りいきませんから、イライライライラしてきて、平安がなくなってくる。仕事、学校、家族のこと、それからご奉仕のこと、それからいろんな計画――そういったことで平安がなくなるのは、自分が中心でやっていこうという時に、神さまを忘れて、こういうふうなことになると思うんです。
ここで問題になってくるのは、お仕事をなさってる方ですね。もう仕事のことで、日々、大変ですから、平安がなくなると思うんですよ。むしろ、平安に仕事をしてて、仕事が務まるかっていうくらい厳しくなってきてますから、もう追い込まれて追い込まれて仕事をしなきゃいけない。このときに、いちばん大事なことっていうのは、まず祈ることじゃないかな。それから、祈るだけではとてもダメですよね。この世の仕事ですから。だから、仕事は仕事できちんとやる。主は聖書の中のいろんなことを通しても、きちっとやることについては多く言ってらっしゃいます。で、誠実にきちっとやる。そして、あとは祈って忘れてしまう。この忘れてしまうというところが、もっとも大事ではないかなと思います。
平安になるためには、仕事は仕事で、祈ってきっちりやって、祈って忘れてしまう。これができれば、本当にいちばん平安ではないかな。結果は、神さまがおやりになることです。で、そのように、あらゆることは、自分がやろうとするときに多くの問題にぶち当たります。ですけど、主に任せてしまえば、平安でやっていける。
もうひとつは、自分がやろうとするときというよりも、自分ではなくて、はたしてこれがイエス様が喜ばれるか、喜ばれないか。これは静かに考えて、祈って待つということが非常に大事ではないでしょうか。ただ祈って、待つ、待つ、待つというのも正しいやり方でしょうし、また、動いてみて、その結果によって、イエス様の御心を知っていくということも、また大事ではないかと思います。
祈って、ワーっと前へいってみる。そうすると、主が必ず喜ばれるものであれば、そのまま、何となしに前へいくけれども、そうでない場合は、次から次へと、「ノー」が入ってくる。
これもまた、主の御心ではないかなというふうなことで、祈って待つということは、とっても大事だと思います。祈って待つ場合は、「イエス様、教えてください。この鈍い私を。」大体、自分がこうと思い込んだら、そっちばっかりいくほうのタイプだから、イエス様が、「こっちだよ」と言ってるのに、聞こえない振りして、こっちへいってしまうということは、しょっちゅうあることでございますから、「分かるように教えてください」と。「もういっぺん、繰り返して教えてください」、「もう一回、しっかり教えてください。」と言って、お祈りすれば、必ず分かるような形で教えてくださいます。
だから、そこまでイエス様に甘えてみるのも、非常にはっきりするんじゃないかな。「どっちですか?」、何か仕事でも、何であれ。そういうことをやれば、本当に平安になってくる。主が答えをくださるから、平安になってくるということが言えるのではないでしょうか。自分ではなくて、イエス様を第一におくということです。その全能の力に頼るということです。これ以上、平安になれる道は他にないでしょう。
平安がなくなるときの二番目は、試みにあったとき。これって、突然パッとくるんですね。その試みは大きな試みもあるし、それから小さな試みもあるでしょう。日々、小さなことで試みられることもあります。
そして、少し心の持ち方が緩んできている場合は、自分の高慢さとか、愛のなさをパッと知らされるというふうなことにぶち当たることがよくございますし、それから、つい、やっぱりこの世に生きているうちに、この世的な判断がいっぱいいっぱい体中に、ぜい肉として着いてしまった場合は、それを削ぎ落とされます。主は、削ぎ落とされます。
これってけっこう痛いんですけども、「あっ、削ぎ落としにあってるんだなぁ」と思えば、長い一生、そんなことは何度もございますから、分かってくるんですね。「あっ、これはこういうことだな。」と分かってくれば、主は、必ず脱出の道も備えてくださるから、それが確信できているから、そんなに心配することもないし、平安でいられるのではないかなと思います。たいへん有名なところです。
コリント人への手紙第一
10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
『脱出の道も備えてくださいます。』このみことばにより頼めば、目の前が真っ暗になるっていうことはない。
ローマ人への手紙
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
これはパウロが言ってるんですけども、なかなか私たち、これを読んで、「ふんふん。なるほど」とは思うけども、この通りにはなかなかいかない。患難を喜ぶということは、たいへん難しいことでありまして、人間の力ではほとんどできないのではないかなと思います。しかも、それでも患難を喜んでいれば、忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出しっていうことは、先が見えてくるっていうことなんですよね。
患難に会いながら、主の愛の御手がいつかおりてくるということを確信していられるから忍耐できる。で、それを待っているという、練られた品性が希望を生み出すと知っているからですと、こうパウロは言い切ることができました。ですから私たちも、試練に会うことをとおして、このように少しずつ少しずつ、主によって変えられていく。
私は同じようになったと申し上げましたけれども、とてもじゃないけど、この水準からいえば、ここまではいけない。ただこう聖書に書いてあると知っているから、そこに信頼をおいているから、主は愛をもって私をそのようにしてくださると信じられるからいいんですね。こんな者でも、ほんの少し忍耐があったり、ほんの少し希望を持つことができたりするということは、大きな恵みであります。また、同じことはヨハネの黙示にも、「わたしは愛する者を叱ったり、懲らしめたりする、だから熱心になって、悔い改めなさい。」
つい、私たち普段、慣れちゃうっていうのか、イエス様の愛に慣れちゃう。ですから時々、パッと叱られること、それから懲らしめられたりするっていうことがございます。
これは主が、私たちを子どもとしていらっしゃることの証拠でございまして、子どもは野放図に育てたら、ろくな子どもにならないのと同じで、ぼくたちも野放図に育てられたら、本当にろくな者にはなりません。口では、「イエス様、イエス様」と言いながら、実は、心も体も、主の名によって、何か図太くなっちゃって、何か、傍若無人な人になってしまう性質をもっているもんです。
で、本当に試みに会ったときは、平安がなくなるのですけれども、私たちはその先を見ることができます。
三番目に平安がなくなる時っていうのは、目先のことばっかりで、心思い煩うことじゃないかなと思うんです。
「ああ、こうなった。どうしよう。こうしようか。」それは実際、無理もない。本当に厳しい局面に立たされますと、みんなそうなります。パニックになります。そして、オロオロして、どうしていいか分からなくなってしまう。
ですけど、主は常に、その先も含めてすべて備えていらっしゃる。ですから、そのことを思い出しますと、私たちは平安を取り戻すことができます。
私たちは、今、この瞬間しか、感じることができません。しかし、次の瞬間以降は、神さまの領域なんですね。私たちがどうのこうの思って、できるようなものではない。できると思ってるのは錯覚にすぎない。自分がこうやった。ああやったと思ってるのは錯覚にすぎない。
そうでなくて、主はあるとき、本当に驚くようなことをなさいます。それを知っていれば、私たちは平安でいられる。つまり、一時の不安をマクロで見る必要があるのではないでしょうか。人間の短い時間を神さまの長い時間で見る必要があるのではないでしょうか。
今、大きな試みを受けているけれども、今、大きな問題をもっているけれども、今、何か大きな争いとか、そういうものを抱えてるかもしれないけれども、主の目から見れば、それは一時(いっとき)にすぎない。その次に主が何を用意してくださっているか。主を信頼して、みんなで祈って待っていれば、必ず、3ヶ月、1年、3年先、主の思うところに、修正されてくるわけですね。
そして、3年後に私たちはそれを見直したときに、「えー!さすが、主がこうやれば、こうなるんだな。」ということがわかるようになります。解決されます。
ですから、一時は不安ですけども、パニックになりますけども、それは僕らの体の中、心の中に持っている性格だからどうしようもない。どうしようもないけれども、この主の永遠ということを心の片隅にもっていれば、希望があるし、そして、それは日々、実証されてくるわけです。
確信をもって永遠を見る、確信をもって永遠を信じるということが、とっても大事ではないでしょうか。神の御手にあるときを信じる――これが、神の御手にある平安、計画を信じる平安の、一つの大きなポイントじゃないか。テサロニケ人への手紙第二にはこうあります。
テサロニケ人への手紙第二
2:16 どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、
2:17 あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。
『あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように』と、こういう祈りが載っていますが、本当に、私たちの主なる神が、私たちを慰め、強めてくださいます。僕は、試みに会って、主に文句を言ってもいいと思うんですよ。いちばんまずいのは、疑っちゃいけないと思うんですよ。疑っちゃね。
「イエス様、何でこんな目にあわされるんですか?」、「私は本当に耐えられない、弱い者です。」、「どうかイエス様、あわれんでください」って祈るのは、これは本当に心から出る叫びだと思うんですよ。
だけど、そのイエス様を、将来、私たちにくださる大きな愛の恵みに対して、疑ってしまうようなことは、これは不信仰だと思います。これは罪だと思います。ですから、どんなことがあっても、イエス様を信じ通すことが大事ではないでしょうか。
それから、平安がなくなる四番目、これは人を見るとき。主を見るときでなくて、人を見るときです。分かりやすく言えば、さばき合うっていうこと。私たちの心の中には非常に、人の欠点をあげつらったり、すぐさばいてしまう、批判してしまう、そういう心の働きをもっています。これって、やっぱりなくならないものでしょ?
何か、人がこう言ってるのを聞くとやっぱり、あの人は信仰が足りないとか、何だかそういうことをつい思ってしまったりしがちでしょ?それって、本当に自分の心の中を正直に見ると、本当にそうだなぁ。だからイエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがさばくとおりにあなたもさばかれ、あなたがはかるとおりに、あなたもはかられます。」
同じことは、ローマ人への手紙にもあるんですが、こう言ってらっしゃるんですね。どうでしょう?本当にこの集会はうまくいってるから、そういうことはあまりないんじゃないかなと思いますけど、さばき合いが始まった集会ってのは、どうにもならなくなってくるんで、どっちも正義に立ってるから困っちゃう。正義っていうのは、自分が立つ正義なんていうのは、ほとんど何にも分からないで立っている正義じゃないかなと思うんですよ。
人の話を聞いて、この人の言うことは正しい。で、もう一方、その反対の人の言うことは間違ってると決め付けることは、とんでもない思い上がりじゃないかな。何ほどのことも、私たちは知りえません。ですから、そういうことで、「こっちを正しい、こっちを悪い」というふうに判断すること自体、間違いだなということ、年々、私たちは知らされてきます。
これは、前にも話したと思うけど、夫婦喧嘩の話で、お嫁さんの話ばっかり言うと、もう本当に、ご主人も、「しょうがない!もうあいつはけしからん!」と思っちゃってたのが、ご主人のほうから話を聞くと、「ええー!あの奥さん、実はそうだったの?!」っていうことになって、で、「奥さん、けしからん!」と、今度は逆にこうなっちゃうでしょ?
それで、二人いるときに一緒に話を聞いたら、実はそんなに大したことではなくて、「あなたたち、そう言ってちゃんと話し合いするの?」って言うと、いつも喧嘩しますって言うから、「どこでするの?」って言ったら、「一緒にお風呂に入って喧嘩します」って。それを聞いてぼくはがっくりきたんですけども。
それだったら、何の問題もないじゃないってね。そういうことがよくありまして、本当に、つまんないことで、誤解に誤解が積もって、お互いに、何かこう、突っ張り合ってというふうなことが、集会の中でもよく見られるんじゃないかなと思うんです。
それは人を見ないこと。それから、誤解のもとはすぐ正すことっていうことが大事ではないかなと思います。ヤコブの手紙には、こういう言葉が書いてある。
ヤコブの手紙
2:13 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。
あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。さばきよりもあわれみっていうことがどれだけ大事か。やっぱり、これの基本的な問題は、人を見ないことだと思うんですよ。人を見ると、必ずおかしくなってくる。で、どんな人でも人間なんです。義人はいない。ひとりもいない。ひとりの例外もなく、みんな私たちと同じ、本当につまらない羊であり、迷う者であり、すぐ何か、良からぬことを考え、すぐ何か、変な方向へ走り、人をさばきっていうそういう性格、いっぱいもってるんですから、ただ、自分と主だけを見ているという関係を、しっかりと確立する必要がある。
主だけを見る。これこそが信仰の要諦ではないでしょうか。それも、誰かから見られた私とか、それから、私が見た誰かっていうのが、そういうふうな相対的な評価っていうのは全く意味がない!
これはもう無視してしまう。考えないこと。気にしないこと。ただ、イエス様がどう思われるか。イエス様はこの問題をどういうふうに解決されるか。それだけを見ていれば、私たちはいつも平安です。どんなにひどく言われても、どんなに誤解を受けても、イエス様だけを見ていれば、限りなく平安でいられるのではないでしょうか。
それから、あとひとつだけ。平安を失うこと。これは、十字架を忘れる時。
私たちは、日々、罪に沈む者でございます。自分の罪の性質に沈む者ですから、そういうときって、平安がなくなってくるんですね。これがいちばんの最大の原因かもしれませんね。平安がなくなってくる。で、十字架のことを忘れてしまって、自分の罪は赦されているっていうこと自体――これはとっても大事なことなんですが――、それ自体も忘れてしまうっていうことは、平安がなくなる大きな問題です。
私たちはひどい人間です。ひとりひとり本当に正直に、自分に向かい合えば、それがどれだけひどいかっていうことは明白です。
そういった罪の中にある私たちですから、たとえ信仰を持ったって、その性質はなかなか改まらないし、そこから逃れられないでしょう。ですから、信仰をもってしばらく経った方は、この問題にぶち当たってしまうのですね。「ああ、イエス様が大好きだ。私はもう本当にイエス様の言うとおりにしよう」と思うけれども、そこにはどうやったって、イエス様の仰ってることと違うことをやっている自分を発見してしまいます。
こうしようと思ってもできない。イエス様の言ってることはできない!そのときに、自分を責めますね?これが実は、いちばん平安がなくなって、信仰自身から離れていってしまう人までいるぐらいの、大きな問題なんですが、実は、この部分を通らないと、信仰は本物にはならないって言われてるんですよね。
「イエス様を信じます!イエス様の仰るとおりにします!できない。ああ、私はこんな、ひどい人間だ」という、かつて、ペテロが、「私はあなたのためなら、いのちを捨てます!」って言いながら、コソコソ逃げ出して、そういう存在にしかすぎないっていうことを、骨身に沁みて知ったときに、私たちは初めて、「ああ!これを意味してくださるために十字架についてくださったんだ。いのちを捨ててくださったんだ」ということが分かる。
ということは、十字架について、いのちを捨てて、私たちの罪の性質を贖い出して、救ってくださったんだから、その段階で、もう自分の罪の性質についてとやかく思うのは、イエス様に対して、とても失礼なことだ。本当に失礼なことだ。「何のために、わたしはあんたたちのために、十字架に架かって死んだんだ。」あなたたちの罪を赦すためではないか。あなたたちの心の中の罪を赦すためではないか。あなたたちが悪い人であり、義人でないってことは、わたしは百も二百も知ってるよ。わたしは人の姿をとって、この世を歩いて、そんなこと、百も二百も知ってるよ。
だから、わたしが十字架についたのではないかって仰ってる。それに対して、まだ自分を責めるっていうのは、とんでもない思い上がりであり、イエス様の心を無視する行為なんですね。
ですから、私たちはもう本当に罪のことを忘れ去る――これがイエス様に対して、いちばん喜ばれること。もちろん、罪の中に沈むんです。日々いくらイエス様を信じたって。そのときはすぐ、「イエス様、ごめんなさい。私はこんなことをしました。ごめんなさい」って言って、「ああ、赦してくださってありがとうございます!」って言って、パッと明るくなってね。
そこでもう、その問題はおしまいにしてしまう。これが、この罪の自意識から脱出する一つの方法でありましょうし、この聖書を神さまがくださった、もっとも大きな恵みの一つではないかと思うんですよ。他の、いわゆるこの世の宗教にない、「罪の赦し」っていうのはそういうことではないかな。
イエス様が十字架についてくださったから、私たちは喜んで生きていられる。これが本当に最大の恵みではないかなと思います。ですから、あらゆる平安は十字架にあります。
もう、そしり、しいたげ、心の痛み、それから、別れ、そのほか、多く多く多くの問題、そのときに、イエス様がどうなさったかなっていうことを考えたら、十字架を受けられる前に、主はどういうふうになさったか。もう私たちが考えうる、もっともひどい状態になってくだっさった。しかし、イエス様は、一言も口を開かずに、それを耐えてくださったわけです。
それだけでなくて、トマスには、手で傷跡を触るようにしてくださった。そうしますとトマスは、「私の主。私の神」って言いました。これそが、私たちの本当の平安に至る言葉ではないでしょうか。「私の主。私の神。」
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