1999年1月13日水曜日

あなたもあなたの家族も救われます

あなたもあなたの家族も救われます

1999年1月13日、春日部
ゴットホルド・ベック

ヤコブ
1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。

この箇所にあるみ言葉は、信ずる大切さについて述べられています。一つの教えを信ずることではなく、祈りの聞き手に信頼することこそが大切です。

日本にある多くの宗教も同じことを言います。同じことばばをよく使います。例えば文部省には、一万六千の宗教が登録されているそうです。それらの多くは、神様、神様と言っています。また、それらは皆、信仰の大切さを述べています。しかし、一つ一つの宗教の神の概念は違うので、分からなくなります。多くのの宗教の強調しているのは、一つの特定の教えです。この教えを勉強して、納得し、信じ込まなければならないと主張します。


一方で、聖書だけは違う態度をとるのです。神とは創造主、万物の造り主なるお方であり、宗教とは全く関係の無いお方です。また、人間はひとつの教えを信じ込むことによっては決して救われず、一人の方、すなわち、何でもできる方に頼ることこそが全てであると、聖書ははっきり言っています。

先日、ある方のところへ二回目の訪問にうかがいました。初めて会った時もよい交わりができました。彼女の尊敬している南ドイツの人と、僕は同じ出身でした。そのドイツの人は、六十余年間、日本に住んでいて、天皇陛下より勲章をもらったこともあり、非常に立派な方で、十数年前天に召されました。彼女は、私の国籍は天にありますが、主人にもどうしても同じ気持ちになって欲しいので、お話を聞かせてくださいということでした。このような彼女の必死な姿を見てとても嬉しく思いました、家族の永遠の幸せのために心配するのは御心です。

必ず皆、まだ救われていない家族や親戚を持っているし、それが重荷になっていなければおかしいのです。現代人は皆が自分のことしか考えないけれども、イエス様の救いに与かった人たちでさえも、自分自分のことだけ考えていたら、何か根本的に間違っています。信ずる者は家族の救いのために祈るべきで、ではどのように祈ればよいのでしょう。その答えは今、読まれた箇所にあります。

ヤコブ
1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。

いくら願っても、信じて主の約束を自分のものにしないなら、全く空しい努力です。家族の救いのために祈ることが、救われた者にとってもっとも重要な仕事でなければなりません。その訪問した姉妹は何年ものあいだ、病気で、いつまでもつか分からない状態で、ご主人のことを考えると心の平安を失っています。彼女は何にもできず、周囲の人のお世話になっているのですが、ご主人は気持ちはあっても、何一つ手助けすることもできず、ただベッドのそばに座っているだけです。

唯一の解放の道は、祈ることです。主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます。というすばらしい約束があります。これは誰に言われた言葉かといいますと、ピリピの刑務所の獄吏に言われた言葉です。決して疑わずに主の導きを受け取ったパウロとシラスは、無実の罪で刑務所に入れられても、どうして、なぜ、などと不平不満を言わないで、賛美し、祈りながら感謝の歌をうたったと記されています。獄吏がその歌を聴いたかどうかわかりませんが、彼は、「先生がた、私は救われるためにどうしたらよいのでしょうか」と尋ねるようになったのです。悪人として刑務所に入れられていた人が、急に、『先生がた』になってしまったのです。数時間前には、そのような気持ちを全く持っていなかったその獄吏が、困難な状況の下でも本当の喜びをもって、祈りながら感謝の歌を歌っている二人の姿を見て、「そのような喜びを得るためには、救われるためにはどうしたらよいのでしょうか」と尋ねたのです。より良い人間になるためにはどうすべきかと尋ねたのではなく、自分は本当の喜びを知らない、救われていない、どうしたらよいかと尋ねたのです。答えは、イエス様を信じること、信頼することです。そうすればあなただけではなく家族も皆救われます。

昨晩、宇都宮でも話したのですが、吉祥寺で開拓伝導を始めた頃、知ってる人は一人もいなかったし、信ずる人も一人もいなかったし、ぼろ家で十八年間くらい、三、四人の宣教師が住んでいて、集会を開いていたんです。でも一人も導かれませんでした。ですから、私たちがあの家に入った時、吉祥寺は買い物も便利で住みやすいところだけど、集会だけは持たないほうがいいよと、注意されたのです。

他の二つの集会で手伝ってもらいたいと言われ、言われた通りに毎週二、三回ひばりが丘や、世田谷へ行って手伝いました。そうしているうちに、近所の奥さんたちが導かれ、救われてしまったんです。日曜の午後、コーヒーを飲みに誘って、イエス様のことを紹介しているうちに導かれたのです。それで仕方なく、そのような計画は全然、無かったのに、始めなければならなくなった。それから、主に法政と早稲田の学生たち、大学院生たちが導かれ、救われるようになり、他の教会のようなことをしなければいけないと思ったのです。

普通の教会は、年に二、三回特別伝導集会を開いているけど、吉祥寺は人口が多いのでそれでは物足りないから、毎月やりました。毎月二万枚のトラクトを印刷してもらい、一軒一軒歩いて、大きな看板をつくり、今はもう無いから残念なんですけど、それに次のように御言葉を書いたんです。

イエス・キリスト以外に救いはない。聖書、わたしはいのちなり道なり。

その看板を持って、駅の前に立ち、皆でトラクトを配ったりして、身体の運動にはなったんですけど、いくらやっても何にもならなかった。毎回、特別なメッセンジャーを招いて、話をしてもらうと、みんなよろこんで聞いているように見えたけれども、誰も導かれなかった。

結局、現代人は聞く耳を持っていないという、間違った結論を出したんです。けれども、ある会社が作った製品が全然売れなかったとしたら、やっぱり考えなければ!そのまま続けていたら、お終いになるだけということに、あるとき、気がついたんです。考えてみると、私たちは自分の知らない人たちにだけ、がんばるつもりだった。でも知らない人によりも、まず、自分の家族に、親戚、知り合いに伝えるだけで充分ではないかと、示された時から変わりました。

特別な話し手を招く必要はない、誰一人自分はできるという自信はなかったけど、とにかく、自分たちでやろうではないかということになりました。だいたい、姉妹たちが先に救われることが多く、兄弟たちが救われても充分な知識がまだ無いし、祈りも上手くないし、あれもこれも全然だめ、でもそのような人たちが話すようになったのです。姉妹たちは必死になって祈り、兄弟たちはどうしようもなくて、ただ聖書に頼るしかなかった。結局、自分ではできないと確信したから、祝福があったのです。それから次々と、人々は導かれるようになりました。

知らない人によりも、まず家族、親戚、知り合いの人たちのために祈って、戦かうのが、それで精一杯、それでさえも充分にはできないからです。家族の救いこそが主の御心です。確かに知らない未信者に、イエス様のことを紹介するのは比較的に楽です。家族や親戚に紹介するのは、本当に大変です。でも約束があるのです、知らない人は、導かれるかどうかわからないけど、家族の救いは約束されているから、だから、確信を持って安心して、イエス様のことを紹介することができ来るのです。

聖書の中で、導かれた家族についてたくさん書き記されています。

使徒行伝、一章十四節、この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、および、イエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。マリヤはもちろん、イエス様が生まれる前に主を信じ、イエス様のことについて、わが救い主なる神と言ったのですが、イエス様の弟妹たちは、全く聞く耳を持っていなかったようです。

イエス様は、十字架につけられた時、残して行かなければならない自分の母親を、弟、妹たちに委ねられなかった。彼女は一人ぼっちになってしまったので、仕方なくヨハネを見て、あなたの母親です、お母さんこれはあなたの息子です。血のつながりはないけど、ヨハネに面倒を見なさいよと言ったのです。イエス様の弟妹たちは、そのようなひとたちだったのです。

しかし、彼らは後に見事に救われました。おそらく、ヤコブが最初に導かれたのではないかと思います。第一コリント十五章に、イースターの朝、キリストはヤコブに現れた、とあります。それで、二、三日以内に、皆、悔い改め信ずるようになったのだと思います。そして、五旬節の日に、皆がそろって心を合わせ、祈りに専念していたとあります。言えることは、妥協しているところに救いはない、イエス様は妥協しませんでした。家族は皆、導かれるようになったのです。

どのような態度で、家族の救いのために祈るべきなのでしょうか。

使徒行伝
20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

パウロはこう、証ししています。知ってる人々が導かれ、救われれば、いのちも惜しいとは思わないほど嬉しいと言ってるのです。パウロと一緒に働いていたエパホデについて、聖書は次のように言っています。彼は、キリストの仕事のために、命の危険をおかして、死ぬばかりになった。自分はどうでもいい、周りの人が救われればという心がまえが大切なのではないでしょうか。

マタイ、十七章十四~二十節には、どんなことでも、あなたがたにできないことはありませんと、記されています。聖書の中でも、考えられないようなもっともすばらしい約束です、信仰、信頼があれば、イエス様とつながっていれば・・・・。この父親は どうしてイエス様のところに来たのでしょうか、祈るようになったのでしょうか、それは悪霊に憑かれた息子を持っているという、自分ではどうすることもできない重荷を背負っていたからです。夜も昼も息子のことが頭から離れず、悩みの種、そのものでした。しかもこの息子のことは、単なる重荷ではなく、絶望をも意味していたのです。けれど、この父親は、とても賢い者とされていたので、悩みを全部、イエス様のみもとに持ってきて、ひざまずいて祈り、ありのまま話しました。

本当の祈りとはそうであり、多くの人は義務的に祈っているのです。祈るのは良い行いだから、報いとしてなんとかなるのではないかと、思っているのですが、聖書の中で言われている祈りとは、そのようなものではないのです。ただ心からの叫びです、それしかできないからです。

その父親は叫びました、イエス様に自分の悩みをありのまま話した結果、助けられたのです。イエス様は答えました、「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」当時の人々は、そういう者だったのです。風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようなものだったのです。

信じ信頼すれば、主は必ず答えて下さいます。

ルカ
8:38 ・・・・イエスはこう言って彼を帰された。
8:39 「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。

彼は命令どおりにし、イエス様を紹介するようになったのです。人間にできるのはそれしかありません。結果はどうであれ主の責任です。信ずる者は聖書の中でいつも、イエス様の証人と呼ばれています。イエスさまの弟子たちは、五旬節の日につぎのように告白しました。『神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみなそのことの証人です。』どうして証人になったかといいますと、この目で復活なさったイエスさまに出会ったからです。彼らは俗にいうキリスト教のために宣伝したのではありません、イエスさまを紹介しただけです。初代教会の場合は、いわゆる特伝というのはなかったので、どのようにして人々は導かれたかといいますと、全く個人的に知り合いの人々に案内され、導かれたのです。一つの実例としては、

ヨハネ
1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。
1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
1:41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。
1:42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」

アンデレはイエスさまに出会って、このイエスさまとは、救い主であり罪を赦すことができ、希望を与えるお方である。イエスさまは、旧約聖書に約束されている救い主であると確信するようになったのです。その時から、ただ一人で喜んでいたのではなく、彼は肉親に対して、無関心ではいられなくなり、兄弟であるペテロを見つけた時、今、我々は約束された救い主に出会ったよと、言ったのです。四十二節に、イエスさまについて語ったばかりではなく、アンデレはペテロをイエスさまのみもとに導いた、とあります。私たちもアンデレと同じ喜びを味わいたいものです。ペテロはその後、初代教会の中心になる者となり、多くの人々に慰めを与えました。

第一ペテロ
5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
5:11 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。

アンデレがペテロを主のみもとに導いたことが、豊かに報いられました。確かに聖書を見ると、悲しいことも記されています。人間は自動的には救われないので、家族が滅びるということもあります。クリスチャン・ホームで育てられた子どもが、必ず導かれるとは限らない、神は孫を持っていない、子どもしかいないから。これは、初めての親であるアダムとエバが経験しなければならなかった事実です。

長男カインは弟であるアベルを殺してしまい、そのカインがのち後に悔い改めたと聖書はいっていません。逃げてしまったと書いてあります。そうするつもりではなかった、とんでもないことになってしまった、ごめんなさいと、親の前にいったのなら、主は恵んでくださり、主の前にも言えるようにされたでしょう。彼の回復について、聖書は何もいっていない。彼は罪の自覚をもっていなかった、従って救い主も必要ないでしょう。弟を殺したあとで、彼は、「私は弟の番人でしょうか?」と言うような、ひどい考えでした。

エゼキエル
3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
3:18 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
3:19 もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。

家族が救われても、用いられない可能性もあると聖書は、はっきりいっています。その例は、ヤコブのお兄さんのエサウで、彼は主の資産を受け継ぐことができなかった。人間として彼は、弟よりも正直な男だった。弟はずるくて、大うそつきで、平気で父親をだましたりしたが、最終的に神はヤコブの神と呼ばれるようになったのです。エサウは回復されたと、聖書はいっていません。彼は長男として、家族の救い幸せのために祈るべき使命を持っていたのに、祈らず全く無関心でした。この無関心から妥協が生まれ、彼は異邦の女性と親しくなって結婚したのです。生涯の終わりに彼は後悔したが、反省ぐらいで悔い改めまではいかなかった。その結末はどうだったでしょう。

ヘブル
12:16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。
12:17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。

しかし、聖書の中で、このような例は少なく、家族が救われる例の方がずっと多いのです。例えば・・・・

使徒行伝
16:14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
16:15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。

彼女は、パウロの述べ伝えた福音は本物だと信じ、悔い改めるようになり、救いに与かる者となったのです。しかし、主のみ心は決して、それだけではない。家族も導かれなければならないと確信し、見事に家族、皆が導かれたのです。始めに話したピリピの刑務所の獄吏も、同じような経験をしました。

使徒行伝
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

この獄吏は自分が救われただけではなく、全家族が救われ、ともに心から喜ぶようになったのです。家族の救い、これこそが御心です。家族を救いなさいとは、聖書に書かれていません。できるものではないからです。けれども、証ししなさい、イエスさまを紹介しなさい、彼らの救いのために祈り感謝しなさいと、あります。

創世記
37:15 彼が野をさまよっていると、ひとりの人が彼に出会った。その人は尋ねて言った。「何を捜しているのですか。」
37:16 ヨセフは言った。「私は兄たちを捜しているところです。」

兄たちは十一人で、ヨセフは兄たちを捜しているあいだ、憎まれ、妬まれ、売られ、侮られ、大変な道のりでした。それでも最後に、ヨセフは、兄たちを救いに導くことができたのです。私たちも、どこにいるときでも、私は家族を初め、失われゆく魂を捜しているのですという真剣な気持ちを、外に表して行きたいものです。主イエスを信じなさい、そうすれば家族も必ず導かれます。

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