昭和62年後半のテープから聞き取り
故・酒井千尋兄
ヨハネ
14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
今日はたいへんいいお天気で、こちらに私は自転車で来るんですけど、来ます時にモクセイの花が咲いておりますね。この辺の住人の方は非常に花だとか、木だとかがお好きなようで、自転車で走っておりますと、いろんな花だとか、また、木ですとか、その辺の何ていうんでしょう、自然の恵みというのがいろんなお庭から漂って来ます。
モクセイの花というのは、年に二回、咲くわけですけれども、皆さんはモクセイの花は匂いで分かりますね。通りがかりに匂いで分かります。あの香りをかいで何か思い出されると思うんです。モクセイというのは、年に二回咲きますから、何か非常にこう、人間の何ていうんですか、思い出を刺激するような花だと思うんです。
私は何を想像するかといいますと、親父がね、「ああ、モクセイが咲いたよ」って、ニコニコしてた顔を思い出します。僕が小学校四年の時に死んじゃった訳で、たくさん思い出を持ってるわけじゃないんだけれども、親父が、「ああ、モクセイが咲いたね」っていってた時をですね、年に二回、必ず思い出します。
家内に、「あなたはモクセイの花で何を思い出す?」って言ったらですね、トイレだと言うんですね。家内が育った子どもの時の家には、モクセイがトイレに咲いていたんだそうですね。だから、何かそういうことを感じる。その他いろんな人に聞いてみると、みんなそれぞれ、いや、子ども時代だとか、それから、その何ていうか、いろんな思い出がこの花にまつわって、年に二回、出て来るような気がいたします。
私は、二十歳頃にある一つの考え方を持ったわけですね。というのは、僕は学生時分に非常に食うに困るような立場になりまして、戦後のどさくさですとか、それから、母親が非常に人が好過ぎたために、いろんな人に騙されたりとかして、大学に入ったのはいいけど、食うに困るような状況になって来たわけですね。
私は3日働いて、3日学校へ行き、また、3日働いて、3日学校へ行くということを3年間やって、何とか学校を出たわけです。そのような苦労の最中にあって、僕はその頃は、東京でもまだちょっと郊外に出ますと麦畑がありまして、裏通りにふっと、こう麦畑なんかがあるわけですね。
そのところに出ますと、こういうことを考えたんですね。人間というのは、この麦と一緒だなって考えたんです。結局、何だかんだと騒いでもこの麦と一緒だ。これは二十歳過ぎの人間が考えるのはちょっと不健康だと当時、考えたんですけど、何かそういう空しさみたいなものが、すでにその頃心の中にあったわけですね。これが人間なんて、みんなこの麦だっていう一つの考えがどっかにあったわけですね。
この間、何の気なしにテレビをひねっておりますと、音楽をやっていたわけですね。ベルリン・フィルが、カラヤンの指揮でドイツレクイエムをやっておりました。この中に音楽の好きな方、いらっしゃるかと思いますけど、その第二曲、これがスーパーで流れていたわけですね。これが実にすばらしい言葉で、これは聖書から取った言葉、ブラームスはプロテスタントなんですね。プロテスタントの人が書いたレクイエムですから、詩篇ですとか、そういう言葉から取られているわけですね。
これがペテロの手紙第一の1章24節、こういう言葉なんですね。
第一ペテロ
1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
これが非常に皆さん、もしお聞きになってなければ、お聞きになれば非常にすばらしい旋律で出てまいります。
第一ペテロ
1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
この後、聖書の言葉は、こう続くわけですね。
第一ペテロ
1:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」
同じ言葉はイザヤ書の40章6節から8節にこういうふうに書かれていますね。
イザヤ
40:6 「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
40:7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
私は、35年前のことを思い出したわけです。35年前は人間なんてみな草に過ぎない、というふうな言葉が、35年経って、私は信仰を持って、その言葉が再び返って来たわけですね。帰って来た時には、ちゃんとその後の、主の言葉はとこしえに変わることがないという確信をもって、この言葉に接することができたわけですね。
私はこの35年という歳月を振り返りまして、「ほんとによかったな」と思いました。さもなければ、人間なんてみなこの草のようだと。時が来れば、枯れ果てて行くような存在にしか過ぎないという、諦めとも絶望ともつかないような気持ちの中に人生を終わるのではなくて、「しかし、主の言葉は、とこしえに変わることがない。」「私たちの神の言葉は永遠に立つ」という言葉を知って、天に召されて行くということは、ほんとに幸せなことではないかなあ、と思いました。私は35年という歳月は、ほんとに無駄ではなかったなと。備えられた35年であったな、というふうに考えました。
それで、今日学びたいところは、聖書のみことばに立ったら、どれだけすばらしいことになるかということを、ヨハネの福音書の14章から少し、時間いっぱい学んでみたいと思います。聖書にはご承知の通り、非常にすばらしいところがいっぱいあります。
例えば、創世記の初め、それから、アブラハムの部分、それから、ヨブですね。それから、詩篇、それから、マタイの福音書6章、山上の垂訓ですね。それから、ローマ人への手紙の7章のとくにおしまいのところ、24節から25節の間、僅か1ミリの間にですね、天地が爆発するようなすばらしい展開がありますね。それから、慰めの書と言われるヘブル人への手紙、それから、「愛について」のヨハネの手紙第一。
いずれもすばらしいところで、私はいずれもたいへん好きなところでございますが、このヨハネの福音書14章というのは中でも、イエス様が直接、「いずれ、わたしは十字架にかかる」と、そういう道に出発して行くと、いずれお弟子さんたちと、この世的な意味で会えなくなると。それで、遺言としてお弟子さんたちに、これからこうなります。わたしはそういうふうにします。あなたがたはこうなります・・・・ということを、非常にはっきりと、言葉でお伝えになったところですね。
この14章の前に、実は、13章というのがございまして、これはイエス様が、お弟子さんたちの足をご自分で洗われるというふうな行為を通して、「お互いに愛し合いなさい」ということをおっしゃるわけですが、その後に、この14章がまいります。今日は、それを少しずつ読みながら、皆さまとご一緒に学んで行きたいと思うわけでございます。
ヨハネ
14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
こういうふうに始まります。この14章は、私は信仰を持つということが、いったいどういうことなのかということを、イエス様ご自身が語られたということで、非常に大事な章ではないかと思いますね。
イエス様を信じた者には、いったい何が起こるか、そして、どういう恵みが与えられるか、それをご自身が、ご自身の言葉を通して、たとえ話でなく、はっきりとお話になったところがここだと思うわけです。
最初は、やはりいちばん大事なところから始まるのですね。ヨハネの福音書14章1節、あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさいと。このイエス様のみことばは、神を信じ、また、イエス様を信じるという、ここに出発点がある、すべての出発点がここであるということを示しています。心を騒がすということは、実際、多くの場合は神様、それから、主の存在、そういうものを認めないところから心が騒ぎます。
私は実は、先週ある人に会ったわけです。僕とほぼ同年齢の方です。ある非常に大きな石油会社の秘書室長を務めている人ですね。その人に会うと、「あなた、秘書室長でいいじゃないですか。僕らは毎日毎日、汗かいて走り回っているけど、あなたはふんぞり返ってればいいでしょう」と、こう言えば、彼は、「いや、とんでもない」って言うんですね。
「実は、この会社には、58歳までしかいられないんだ」と。「あなたぐらい偉くなれば、重役さんになれるでしょう」と言ったら、「いや、とんでもない」って言うわけですね。彼が言うには、「自分はむしろ今、小さな会社で誘われているところに飛び移って、60歳以降も仕事が続けらるようにしたい」ということを思い悩んでいるわけですね。そっちへ移った方が将来、自分のためにいいんじゃないかと。
「あなたは、なぜそうしたいんですか」と訊くと、「60歳以降の収入を確保したい」と、この世的にはもっともな答えが返って来るわけです。
それで、僕は一つの質問をしたんです。「あなたは、確か40歳の時も、50歳の心配をしていたと。それで、50歳になったら60歳の心配をしますね。60歳になっても70歳のことを心配をするでしょうと。しかし、あなたはそうやって生きることを心配しているけど、死ぬっていうことについてあなたはどう考えますか?」ということを問いかけたわけですね。その人は、「いや、死ぬというのはそこですべての終わり」だという考えを持っているわけです。
心が騒ぐというのは、やはりイエス様から離れ、そして、ほんとうの信仰に立っていない限りは、いつまで経っても30歳なら30歳の悩みがあり、40歳になれば50歳の心配をし、50歳になれば60歳を心配し、60歳になれば70歳を心配し、70歳になったらですね、体が利かなくなったらどうしようと心配し、そして、死ぬことを心配し、というふうに、永遠に心の騒ぎが続いて行くわけです。なんて言うんですか、こういう心配は神様の御心ではないんです。
神様は――マタイの福音書6章にありますけれども――、イエス様は、あなたがたは何も心配することはないと。それよりも、まず、神様の天の御国に至る道を真っ先に見つけなさいということをおっしゃってるわけです。そうしたら、食べること、それから、着ること、そういったことは、すべて自ずから備えられます、と。
そこで、雀のたとえが出てくるわけですね。雀だってあんなに元気にやっているじゃないですかという有名なところがありますね。ちょっと、私の言葉が不味いので、マタイの福音書6章のおしまいの方を、時間のある時にぜひ、ごらんになればいいと思います。そういうふうに、人は多くの場合に、イエス様を信じない、神様を信じないというところから、ありもしない不安ですとか、疑いですとか、それから、取り越し苦労に取りつかれます。
イエス様は、「神を信じ、またわたしを信じなさい」と、こういうふうに、そこからすべてが始まると話されるわけです。この段階で、いや、私は信じない、私は信じません、信じられません、つまり、『ノー』と答えた人は、これは双六じゃないけど、「また振り出しへ戻る」でね、また、心騒ぐ、永遠に心の騒ぐ繰り返しの地獄の中に戻ってしまうわけです。
ある日、「神を信じ、また、わたしを信じなさい」という言葉を素直に受け取って、「はい」と答えた人は、そこからまったくすばらしい世界が広がって行くわけです。どんなにすばらしい世界か、それは、この後の2節以下でイエス様は少しづつ解き明かされて行きますので、その後をたどってみたいと思います。
ヨハネ
14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
こういうふうにおっしゃってるわけですね。『父の家には、住まいがたくさんあります。』父というのは、この天地をお造りになった全知全能の神様ですね。天地の創造主、主です。そのひとり子がイエス様です。このお二方は一つなんです。三位一体と言いますが、聖霊と合わせて、三つは一体なんです。その神様のところには、住まいがいっぱいある。イエス様は、私たちのために住まいを備えに、そこへ行ってくださるわけです。
話は変わりますけど、もう東京には、僕たちが住む場所なんて無くなって来ているのではないでしょうか。これだけ地価が高くなって、この世的な意味では、ほんとに地価が上がって来ますと、もう今から若い人が東京都内に家を買うということは、ほとんど不可能になって来ますね。こんなことはどうでもいいのですが、天には私たちの住まいがいっぱいあるそうです。そこは、ほんとにすばらしい限定されたこの世のような場所では、どうもないようですね。イエス様はそういう場所を、ちゃんと備えてくださってくださっているわけです。
それから、『わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいるところにあなたがたをもおらせるためです。』こういうふうに約束してくださっているわけです。これは、天の御国、天、また、天の国、天上の世界、神の国、いずれの表現もできましょうが、イエス様のいらっしゃる天に、私たちはいずれ、迎えられるという確約がここで与えられているわけです。
ピリピ人への手紙を読みますと、『私たちの国籍は天にあります』とはっきり出ております。ほんとに私たちは、国籍は天にありまして、今こうやって集まっておりますけど、一人、天国に行き、二人、天国に行き、どんどん天国に行って、また新しい人が入って来て、二、三十年すれば、一巡しているのではないでしょうか。
そういう意味では先ほどのブラームスではないけれども、草は枯れ、花は散る。しかし、みことばは永遠に立つと。ある意味では、私たちはここに集っておりますけれども、麦畑と一緒なのではないでしょうか。ですけど、私たちはいずれ天の御国に迎え入れられるということが、非常にはっきり約束されておりますから、安心していられるわけです。
さっき、私は父の思い出を、ちょっと話しましたが、私事で恐縮ですが、私の父は、昔は多かったんですけど、肺結核だったわけです。私の住んでいた家というのは、丘の上にございまして、親父は午前中は花を作り、午後は本を読むという、今から考えると贅沢、不埒千万の生活をやっておったわけです。そのようなこの世的に言えば、いい生活の中で、彼は肺結核に捕らわれたわけですね。
当時は、肺結核というのは療法がないわけです。ストレプトマイシンとか、そういうものはないわけですね。従って栄養をつけて、安静にしているという以外に、療法がまったくありませんでした。それと、もう一つは伝染するものですから、隔離される方がいいっていうことです。東京でいえば、清瀬に結核療養所がありました。
僕たちは神戸ですから、やはりそういうところがあったわけですね。そこに、しばらく行っていたわけですね。親父は、温室の中にいっぱいサボテン等を並べていたんですけど、誰も面倒を見る者がいないから、温室のサボテンは真っ茶色になって、全部、枯れてしまいましたね。親父はその療養所でも見放されて、顔色は土色、ある日、帰ってくるっていうんです。帰るってことは、どういうことかといいますと、もう療養しても仕方がない、先が見えているから、せめて自宅にいなさいってことなんです。
僕はまだ、あまり事情は分かりませんが、連れられて電車の駅まで迎えに行ったわけです。親父は電車から降りて来て、丘の上だから、なかなか坂が上がれないんです。僕たちは子どもですから、ある意味で残酷ですから、親父がのろのろ上がって来るのを待っているのを、何ていうんでしょう、いらいらしているような素振りをしたかも知れませんね。親父は、『もういい』って、『あんたたちは先に上がりなさいって』と、こういう仕草をしたんですね。それもはっきり憶えております。それから親父は、とぼとぼと歩き始めたわけです。それから半年ぐらいで死んでしまいました。
多くの人は、死ぬ前にだんだん歩けなくなって行きます。親父のその姿を見た時に、今、思うともうほんとに自分の人生が、終わりかけてるんだなってことを、ほんとによく分かっていたんだと思うんです。もう、長くないなってことも分かっていたと思うんです。しかし、彼にとって、どこに行くあてもなかったんだろうと思うんです。あてのない人の歩みだったように見えたんです。目的を持たない人の歩みだったように見えたわけです。
この集会からも天に召される方が、やはり、年に何人かいらっしゃいます。この方々に共通しているのは、目的地がはっきりと分かっているということなのではないでしょうか。足腰は立たない。それから、身体はもう言うことを聞かない。しかし、目的地ははっきりと分かっている。だから、真っ直ぐに首を上げて、ひたすらその道を歩いて行かれますね。私たちの先人は、みんなそうやって死んで行かれました。
私はそれを見るたびに、「僕はあれができるんかいなあ」と。僕はあまり立派じゃないし、それにだいたい弱虫だし、いざとなたったら、泣きわめくんじゃないかなって気がしてしかたがないんだけれども、それは、自分がやることではないんですね。恐らくその段階になれば、イエス様は手を差し伸べて、ちゃんと間違いなく目的地に運んでくださって、そうしてすばらしい天の御国に住まわせてくださるということが、このヨハネの福音書14章の3節までに、はっきりと約束されております。
天というのはやはり、本来、私たちがいるべき場所ではないでしょうか。ですから、私たちはこのお約束に立ちますから、安心して、いつでも死を迎えられるのではないでしょうか。私たちは、もちろん死ぬことは怖いです。とくにいろいろその前に苦痛があるんじゃないかなということを考えると怖いですね。怖いけれども、それを通り越した向こうにもう、何にもない滅びの世界と思うのと、その向こうにすばらしい世界が待っていると思うのとは、もう雲泥の差ですね。イエス様の大きな恵み、また、私たちにくださっているものが、どれだけすばらしいことかということがひとつあると思います。
ヨハネ
14:4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。
イエス様はここで、こうおっしゃいます。トマスという、ひとりのお弟子さんはイエス様に言うんです。
ヨハネ
14:5 「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
この後、有名なイエス様の言葉が続きます。
ヨハネ
14:6 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
こういうふうにお答えになるわけです。このトマスの言葉は非常に暗示的なんです。
ヨハネ
14:5 「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
イエス様が、どこに最終的にただり着かれるのかを、私たちは知らないから、その道が分からない。これは人間の思いです。大部分の人間というのは、人生をどこへ行くのかを知らないで、ただ道だけを歩いているということが言えるのではないでしょうか。目的地が分からないんです。どこかへ出るだろう。もう、出たとこ勝負だと。
ただ、こっちの道の方が、そっちの道よりいいから、こっちに変わろうかとか、もしくは、こっちの道はどうも、茨と石で、歩みにくそうだから、そっちにしようかとか、もしくは、子どもをそっちの道に進めさせたいと。道のことばかり心配していますね。
早い話が子どもを塾に通わせます。塾ってのは、ちょっと見たら茨と石の道だろうと。子どもにとって決して、楽しい道ではない。ただ将来、何ていうんでしょう、こう広いアスファルトを引いた楽な道に出るんじゃないかってんで、一生懸命、子どもを塾に通わせて、いい学校ですとか、いい就職先に入れようとします。それでは、その広い道をどんどん歩いて行ったら、いったいどこに出るのかこれは分からない。お母さんにも分からない。お父さんにも分からない。だけども、ひたすらその道が具合がいいかどうかだけ、一生懸命、考えているんですね。人間というのは、そういう意味では真に愚かな者なんですね。
我が社は今、たいへん忙しい状態になっておりまして、私たちの若い同僚は、12時残業なんていうはざらになっております。土日は、もちろん仕事。休めて家に帰ったとしても、頭の中では仕事をしているというふうにたいへん忙しい。というのは、ちょっと私事に亘りますけど、非常に大きな会社の仕事を進行中で、それが近日中に発表になるもんですから、もうあらゆることが、ドドッーと降りかかって来て、そこに別のお得意さんの大きな仕事が入って来まして、もうまったくどうしようもない。とにかく、これで泳ぎ渡れるかなあというふうな感じのところへ、差し掛かっているわけです。
我が社の社長は、集会の兄弟ですが、この方が非常におもしろいんですね。もう、そうやって、もう仕事、仕事でいろんなところから、いろんなことを言われて、いろんなことを頼まれてますから、このあいだも大笑いをしたんです。彼はね、車でどこかへ行かなければいけないってんで、車にパッと乗るんですね。ダアーッと出ちゃうんですね。で、走り出すんですけど、その相手の会社がどこにあるか、知らないで走り出すんです。
非常にたいへんな事態になっております。僕も一度、取引先の会社に行ったことがあるんですけど、蒲田にあるんですよ。僕は兄弟がてっきり知っているんだと思って一緒に車に乗りましたら、彼はどんどん、どんどん銀座の方へ走って行くんですね。おかしいなあと思って、「蒲田ってこれ、品川の向こうなんですけどね」と言ったら、「あ、そうですか」って言うんですよね。
そんな状態でどんどん走って行く。というのは、ある意味で僕たちの、言わばそのひとつの姿でもあるわけですね。何ていうか、人生の目的地がちゃんと分かっていて、それから走って行くというのと、その目的地が分からないで、道だけをどんどん、どんどん走って行くというのと、この二つがありますね。兄弟は、その会社がどこにあるかを知らないけれども、彼はしっかりと、自分が最後にどこに辿り着くか、天の御国に辿り着くという確信を持ってます。
これは、我々以上に、しっかりとした確信に立っていらっしゃいますから、逆に言えば、お得意先がどこにあろうと、それはどうでもいいようなことだろうというのが彼のすばらしいところでもあるわけです。そういうことを感じましたんで申しました。これは余談でございます。
イエス様は、そういったトマスの言葉、「どこへ行くのかわからないというのに、どうして道がわかりましょう。」これは、ぜひ、僕は多くの方に、まだ福音に接していらっしゃらない方に、「どこへ行くのか分からないのに、どうして、あなたは自信も持って、道を選択できるんですか」っていうことを聞いてみたいんですね。
A大学の方がB大学よりもいい。もしくは、A社の会社員の方が、何かわけの分からないアルバイトよりいい。それは確かにそういうことが言えるかも知れません。しかし、目的地がはっきりしもしないのに、なぜそういうことが言えるのか、もっと、本当はその前に心配すべきことが、いっぱいあるんじゃないかということを、このトマスの言葉から啓示されますね。
イエス様は、それに対して、直接にはお答えになりません。イエス様は、非常に、ここでは珍しく断定的にお答えになりますね。
ヨハネ
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
もうこれは、文字通り、この通り。これはもう、ほとんど断定であり、命令ですね。
ヨハネ
14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
この第1節にあるこういう命令と、もう一つのものですね。「神を信じ、またわたしを信じなさい。」、そして、「わたしが道であり、真理であり、いのちである」と、わたしこそ天に至る道であり、唯一無二の真実であり、そして、死によって終わることのない、すべてを生かす生命の源であると、こういうことをおっしゃるわけです。
それよりも、もっと深いことをおっしゃったわけですね。これを説明しようとすると、だんだん意味が狭くなって来て、非常に不味いんです。私が今、言ったことよりも、むしろ、「道であり、真理であり、いのちである」と、こういうことの方が、はるかにすごいですね。
「わたしを通してでなければ」と、出てまいりますが、わたしというのは主のひとり子であるイエス様、そのイエス様が十字架のみわざ、これはもう、皆様がご存知の血の贖罪ですね。一人一人の罪、神様に背いていた罪、それから、いろいろな重荷、そういったものを、十字架を通してご自分が血を流すことによって、十字架にかかられて、一人一人を招いてくださった。
一人一人を洗って、真っ白にしてくださって、神様の国に行けるようにしてくださった。それは、何もその本人の、私たち一人一人の努力だとか、そういうことではないんですね。イエス様の十字架のみわざによって、2,000年前にそれが成就してしまったわけです。そうして血の贖罪という十字架のみわざを通して、つまり、わたしを通してでなければ、だれひとり、天地万物を造られた父のもとに来ることはありませんと。イエス様を信じなければ、天の御国に行くことはできませんと、こうはっきりおっしゃっているわけです。
イエス様を受け入れ、信じればということは、これは言い直せば、十字架の贖罪を素直に受け入れれば、これで天の国に何の問題もなく、迎え入れられますと、こういうお約束であると、それが、「道であり、真理であり、いのちである」と、ここで非常にはっきりとイエス様は、このことを私たちに明言なさいました。
ヨハネ
14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。
14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
ここに出てまいりますのは人間の弱さです。ピリポに代表される人間の弱さですね。人間というのは妙なものを信じます。そうして、ほんとに信じなければいけないものを、なかなか信じようとしません。人間の弱さというのは、人間の間違いというのは、疑いですね。確かにこの世的な意味では、私たちはいろいろと世の中で揉まれますと、だんだん人を信じることをしなくなって来ます。
私の経験からいいましても、学生時分にそういうふうにいろんな人に騙されたり、それから、人がお金を使って遊んでいる時代に、自分は三日働いて、三日学校に行く、というふうな余裕のない生活をしましたから、人と付き合うということが非常に苦手になって来て、それが未だに私の後遺症となって残っております。
私はこういうところに立って、話をするということはそんなに苦手ではないんです。ですけど、いちばん苦手なのは、パーティーなんですね。こういう人もいるんです。いるということをひとつ、皆さん分かっていただきたいんだけども、この集会では、僕はある意味では困ることに出くわすんです。というのは、パーティーでしょう。パーティーが多いでしょう、ある意味では。だから、「あいつは非常に人付き合いが悪いなあ、あいつはなんだ」と思われているんじゃないかなと。
ところが、私自身は非常にそれについてコンプレックスも持ち、それから、申し訳ないと思い、なんかこう人に対して素直にお話できないことを申し訳ないと思っているんだけれども、そういう形で後遺症が残っているんです。
もう一つは、親父ってのも、丘の上に人との接触を絶って、お花を弄るって生活をやるんですから、元々、人嫌いだったんですね。その血があるもんだから、真に、ここで一つ皆さんにお詫びをしておきますけど、僕はこう、何ていいますか、あのうほんとに申し訳ないと思います。
どこまで行きましたっけ。何か分からなくなっちゃったけど、人間の弱さですね。疑り深さから出るんです。疑りだしたら、何もかも全部、灰色になって、どうしようもない世界になりますね。これはほんとに地獄ですね。
実は、僕の友達が、ポメラニアンという非常に可愛い犬を飼っておりまして、こいつは、小さいけれどもお客さんに絶対、人見知りをしないんです。もう、自分が愛される存在であるということを、絶対、信じきっているというか、そういう犬っているんですね。そういう犬ってのは、誰にでも尻尾を振って行くし、その人に全身を預けるし、そういう態度に出られると、人間というのはもう、その犬を愛せざるを得なくなって来るんだと思うんです。
かたや、やっぱりその、野良犬で、しょっちゅうこん棒で殴りつけられたりなんかしている犬は、やっぱり縁の下辺り――縁の下って今ないけど――、ビルの陰辺りから、上目遣いに人をじろっと見て、「こいつは何か自分に、悪いことをするんじゃないだろうか」と。どっちが可愛いかということです。人間だって同じですよね。僕たちの周囲にいろんな人がいるけれども、やっぱり開けっぴろげで、いつもにこにこして尻尾――尻尾はないけども、そういう感じの人は誰にでも好かれるし、僕みたいに、大分、こん棒でどやされたのは、なんかこう物陰からじっと見ているような、そういう人ってのは好かれない。そういうことがございます。
同じことは、やっぱり神様に対する態度にも、そういうことが言えるのではないかと思います。もう、何が何でも神様、神様と尻尾を振って、もう絶対、信頼しきっている人と、「ひょっとして、神様が何か悪いことするんじゃないかな」というような疑いの目を、もしくは心を持っている人と、どちらが神様にとって可愛いか、ということは、一つあると思います。
もう一つ、更に言うならば、人間は、ほんとに信じられないものを信じます。
例えば、私たちは預金通帳を持っているでしょう。あれは紙の上に数字が並んでいますね。あれは電話回線によって、どこやらのセンターに送られて、そこで何かカードを入れてちょっちょっとやると、パッパッパッとお金になって引き出したり、また、預け入れたり、そういうことができますね。これはもう絶対、皆さん信じていますね。
それからもっと言うなれば、お札というのを信じていますね。それから、今度、政府が減税するというような話をしている。これは眉唾だとか何とか言っても、基本のところではみんな、ひょっとしたら、うまく行くんじゃないかってことで、そういう政府に代表される一つの政策を信じています。それからまた、自分が5年先、10年先に、ちゃんとここに生きて存在しているということを信じていますね。
こういうことを人間は簡単に信じるんです。いずれも目に見えないものを信じるんですね。電話回線に流れる電気信号は目に見えませんね。それから、政府の減税案なんて目に見えませんし、お札の金額というのは、あれは約束事に過ぎない。それから、自分が10年先に生きてるかなんて、これは目に見えません。そういうものを信じているくせに、人間は目に見えない神様を信じないんです。信じなくてはいけないものを信じないで、よくあんなものを信じるなあというものを信じるようになっていますね。
これが人間の一つの問題ですね、心を騒がす、また、いろいろと問題が出てくる基本のところではないでしょうか。人間の弱さではないでしょうか。
ピリポは、やはり同じような意味で、「見せてください。そうすれば満足します」と。「見たら私は信じます」と。こういうことを言ったわけです。これに対して、イエス様のお答えというのは、このヨハネの福音書に記されているイエス様の言葉を読んでみますと、「お前たちは歯がゆいなあ」って感じが如実にが出てますね。本当にもう、「お前たちは長年わたしと一緒にいて、まだこんなこともわからないのか。歯がゆいやつだなあ」っていうのがほんとに出てますね。
ですけど、イエス様はこのお弟子さんたちを愛していらっしゃいますから、それに対して噛んで含めるように説明をなさっております。
ヨハネ
14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
わたしが言うのを信じさい、ということなんですね。これでまた、振り出しに戻ります。
ヨハネ
14:1 神を信じ、またわたしを信じなさい。
ここで、「NO」と言った方は永遠に迷いの世界に逆戻りしてしまいますけれども、そこで、「YES」と答えた方はすばらしい世界が、そこから開けてくるわけです。ここのイエス様の言葉も、「信じなさい。さもなければわたしのわざによって信じなさい」と。これをそのまま、素直に受け入れればいいのではないでしょうか。
わたしのわざというのは、これから十字架にかかられるわざですね。言い訳もしないで、みんなの罪を一身に背負って、十字架に引かれて行くイエス様。そうして、十字架のみわざによって、一人一人を救われたイエス様。もっと簡単にいうなれば、その前にいろいろと奇跡を行なわれたイエス様。
それから、現在これほど福音が広まっていること。決して十分ではありません。ほんの僅かです。日本では何パーセント?3パーセントですか、何かそれぐらいですね。現在、これほど福音が世界各国で求められているというこの業ですね。それから、イエス様のために、どれだけの人が、どういうことをしたか。これも一つの業でしょう。これも、過去いろいろな私たちの先輩、これはプロテスタント、その他、過去どれだけの人がイエス様の名のもとに、どういうことを行なって来たか。それが、どれだけすばらしいことであったかということも言えるかも知れませんね。
「わたしの言うのを信じなさい。さもなければわざによって信じなさい」のわざとは、そういうふうに受け取れるのではないでしょうか。更にいうなれば、今日、軽井沢ですとか、吉祥寺ですとか、高知ですとか、高松ですとか、その他、全国、多くのところで、私たちの兄弟姉妹がこのように集まって、礼拝が持たれ、また福音が宣べ伝えられているわけです。これは、イエス様の御心が人々を通して、人々のわざを通して現れていることですね。
ヨハネ
14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
わたしを信じる者は、イエス様の器となって、大したことはできません。私たち一人一人は大したことはできませんけども、それが何百人、何千人、何億人と集まって、そのわざをやっているわけです。
それから、イエス様ご自身は、「わたしが父のもとに行くからです」と、全能の神としての立場に立たれて、今日も生きておられて、そうして本来の、神のひとり子としての性質を、完全に振るっていらっしゃいます。それが、私たちの集会にも、今日いらっしゃって、一人一人の目には見えませんけれども、一人一人のその心の中に生き、また、それを動かしていらっしゃるわけです。時間も無くなりましたので、あと、2節ぐらいにしましょう。
その後、ほんとに私たちは躍り上がりたいくらいすばらしいお約束が次の13節、14節に述べられています。
ヨハネ
14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
「あなたがたがわたしの名によって、何かをわたしに求めるならわたしはそれをしましょう。」すばらしいですね。これは、おまけに二回、繰り返されて、イエス様はお話になっておられます。
ここを、実は「名によって」というところを、変に人間的な狭い意味で、「わたしの名によって」と書いてあるから、これは、例えば霊的な問題でなければいけないのではないかとか、それから、「わたしの名によって」というのは、これは伝道のことでなければいけないのではないかとか、それから、人が救われるのを祈ることでなければいけないのではないかというふうな、人間の都合や思いで考えることは、私は良くないのではないかと思うんです。
ここに書かれている言葉は、正にこの言葉のまま、真っ直ぐに、せっかくイエス様が二度も繰り返してお話になった言葉だから、真っ直ぐにそのままの意味で、素直に受け取るべき言葉ではないかなあと思います。
ヨハネ
14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
「わたしの名によって、何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」こういうお約束ですね。これは、ほんとにそのまま、実際にまた、私たちが信仰を持ってからの立場を振り返ってみますと、イエス様はどれだけ多くのことをしてくださったでしょうか。それを思い起こして見る必要があると思うんです。
それからまた、こういうことが言えるんでしょう、文字通りそのまま受け取ればいいんですけど、何でもイエス様に求めてお願いすればいい、ということなんですね。変に背伸びをして、カッコをつけることなんか一切ないんで、もう書いてある通り、何でもイエス様に求め、お願いすればいい。
広島にいる兄弟は、5年ぐらい前にこの集会にも来てくださって、お話をしてくださいました。兄弟は、「私は何でもイエス様にお願いするんですよ」と。タクシー呼ぶのも、イエス様にお願いするんですよとおっしゃるんですね。で、そのタクシーに乗らなきゃ、どこやらの集会に届かないと。遅刻してしまうって時は、平気で、「イエスさ様、どうぞ早くタクシーをよこしてください」と祈られるそうです。
こういうことじゃないかなと思うんです。それは、「わたしの名によって」だから、なんかすごいことじゃなければいけないとか、そういうことは一切ないんです。ただ、こういうことは言えるのではないかと私が思いますのは、祈り手が成長して来ると、イエス様の名によって祈ることの内容が、少しづつ変わって来るというのも、また事実ですね。
信仰を持って初めの頃に祈っていた内容と、それから、5年、10年経って祈っていた内容と、30年経って祈っている内容とは、やっぱり違って来ていると思うんです。例えば、その一つはどういう形を取って来るかというと、段々と愛によって祈ることが多くなるのではないかと思うんです。
救われた当初は、手前勝手なお祈りばかりをしているんです。何やら、やらせてくださいとか、子どもの受験をうまく行かせてくださいとかね。御心ならばA大学に合格させてくださいとか、こういうことばかりお祈りしていますね。最初は自分のこと、それから、次は家族のこと、そうじゃなくなって来るんじゃないかと思うんですよ。少しづつ。私なんか、まだこの段階に留まっておりますれけども、段々とね、愛によって祈るということができるようになって来る。できるようにさせられて来るんじゃないかと思うんです。
それから、もう一つ言えるのは、やはり段々と、自分より他人について祈ることが多くなってくるんじゃないかなあ。これは誰か言いましたね、ベック兄だったかな?誰かがここで、同じようなことを言われたことがありますね。
祈りってなんだか、その内、自分のことはあんまり祈らなくなって来るものですということを聞いた憶えがあります。確かに、そういうことはあります。そういうことはありますが、イエス様がここでお約束してくださっているのは、「何でもそれをしましょう」と、こういうお約束です。ここに、私たちはしっかりと立つことができるということは、非常にすばらしいことだと思います。
もし、イエス様を信じていなければ、本当に独りぼっちでしょう。何かそういった、お祈りとか、それから願い事とか、そういうことは全くできない世界です。自分の世界に自信のある人は、まだそれでもやって行けるけど、自信なんて、そうそう続くものじゃないですね。病気になることだってあるし、失業することだってある。そして、自分がほんとうにどれだけのことができるかということを本当に考えたら、端的に言えば、髪の毛一本、白くも黒くもできない。自分という者を本当に見つめたら、そういう世界は耐えられない世界ではないかと思うんです。
自分にすべてを拠り頼む世界というのは、耐えられない地獄です。NHKで放映されたBBC製作の「失われたヒーローたち」というお話、これについては他の兄弟も話し、私も、実は祈り会の時にお話いたしました。ここに出てくる凄まじい世界というのは、祈りを知らない人の世界です。それからまた、十字架の本当との血の赦しを必要な人が、それを受けることを拒否して彷徨っている世界です。これは、時間もありませんので、省略いたします。
本当に私たちは、イエス様に何でも祈り求め、助けを呼ぶことができるということは、ほんとにすばらしいことです。ほんとにすばらしいことなんです。
それでは、14節までで終わりますけど、実は、私の家内が主を受け入れてから、家内はステンドグラスの加工を教えておりますから、いろんなところで、そのお弟子さんとの間でとかで、イエス様の話がよく出るそうです。そして、そのお弟子さんの一人が、実は家内にこれはすばらいいって持って来た詩が、ここにありますので、今日はそれを最後に読んでおしまいにしたいと思うんです。
原文は、「FOOTPRINTS」、足跡ですね。PRINTSですから複数ということです。英語の詩なんですが、著者不詳となっています。上手く訳するということではなく、できるだけ内容を忠実に訳しました。『彼』ということになっていますが、もちろん、『彼女』でも一向に差し支えありません。
足跡――FOOTPRINTS――ある夜一人の男が夢を見た。彼はイエスと共に海岸を歩いていた。空に、彼の人生のいろいろな場面が、浮かんでは消え去っていった。そのどの場面にも、砂の上にふた筋の足跡がついていた。ひとつはイエスのもの、もうひとつは彼のもの。最後の場面に来た時、今まで見た砂の上の足跡を思い起こしてみた。彼の人生の至るところに、ひと筋しかついてないところがある。しかも、それは彼の人生の中で、もっとも悲しく困っていた時である。そのことは非常に彼を悩ませた。彼はそれについてイエス様に聞いてみた。イエス様、私はあなたに付き従うと決めた時、あなたは、いつも私と共に歩んでくださるとおっしゃいましたね。しかし、わたしは人生のうちで、もっとも苦しかった時にそこにはひと筋の足跡しかありませんでした。私があなたをいちばん必要とする時に、どうしてあなたは私と一緒にいてくださらなかったのですか。するとイエス様は答えられた。わたしの大事な大事な子どもよ。わたしはあなたを愛するし、わたしは決してあなたを見捨てない。あなたの試練と受難の時に、あなたはたった一つしか、足跡を見なかったね。それは、わたしがあなたを背負って歩いた足跡なのだ。
どうもありがとうごさいました。
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