23.悪魔の道具、地からの獣とにせ預言者
黙示録13章11節から18節まで
1.にせ預言者の十の特徴
[1]小羊のような二本の角
[2]ものを言う
[3]反キリストの権威を持つ
[4]獣をあがめる
[5]火を天から地に降らせる
[6]獣の像を造る
[7]像に息を吹き込む
[8]ものを言う像
「9」像を拝まない者をみな殺させる
2.まことの聖霊とにせ預言者
(11)また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。(12)この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。(13)また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。(14)また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。(15)それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。(16)また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。(17)また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。(18)ここに知恵がある。思慮のある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。(黙示13・11~18)
私たちは、黙示録13章の前半から、反キリストが悪魔の道具だということを見てきました。悪魔は常にその道具を捜しています。主イエス様もまた、ご自分が用いることができる器を、捜しておられます。悪魔の道具にされるか、イエス様の道具になるかは、私たちにかかっています。
主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。(第二歴代16・9)
私たちは、反キリストの国家を見てきました。パウロは、ローマ人の手紙の中で、国家の権威は神によって立てられたものだと言いました。
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ローマ13・1)
しかし、終わりの時代には、国家は神のしもべではなく、悪魔のしもべとなります。終わりの時代の国家は、神に帰せられるはずの栄光を、自分のものであると言うのです。
パウロの時代には、国家にはいろいろな問題がありましたが、まだ神のしもべでした。使徒の働きの16、18、19、21、22章には、パウロがその国の議会や法廷に引き出されたことが書いてありますが、彼は同時に保護されてもいました。また、パウロは次のように言っています。
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。(ローマ13・1~6)
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(第一テモテ2・1)
人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。(第一ペテロ2・13~17)
私たちは、その当時のローマ帝国の発展の歴史をよく理解しなければなりません。皇帝崇拝は少しずつ起こってきました。まず、地中海沿岸の各地、ローマの軍隊が来たところで、「正義が来た」と言われるようになりました。ローマの軍隊によって海賊も、強盗も、なくなると思われたからです。ローマ帝国による平和が称えられ、ローマ帝国の安全が伝えられました。ローマの軍隊が来たからにはもう安心だ、と思われました。ローマの精神は大変高いものと考えられました。このローマ帝国に対する感謝から、紀元前一九五年にスミルナでローマの女神に対して神殿が建てられました。これがさらに発展して、紀元前二九年にペルガモで、ローマ皇帝のために神殿が建てられました。このような感謝の表わしかたに対して、最初の皇帝は驚いたのです。
このために、皇帝は特別の許可がない限り、どのような神殿も建ててはならない、という命令を与えました。そして、神殿建造の許可を得るのは大変困難でした。なぜならローマ皇帝は、神殿を建てることは小アジアの習慣であり、真のローマ人はこのような礼拝の仕方をしないものだと考えていたからです。
しかし、それでも少しずつこのような神殿が建って、皇帝を敬うことがローマ帝国の各地で広まるようになりました。やがてローマ皇帝は、このような皇帝礼拝に、特別の価値を見出すようになりました。彼らはこのような皇帝礼拝を通して帝国の統一の強化ができると思うようになりました。そして、神殿による皇帝礼拝が皇帝自身によって命令されるようになったのです。しかし、初めのうちは皇帝を礼拝することは宗教的な意味よりも政治的な意味が強いものでした。
終わりの時代には、再興されるローマ帝国の皇帝、つまり海から出た獣である反キリストが、前にもまして強く皇帝礼拝を強制します。すべての者は、反キリストを礼拝しなければならないと言うのです。
ダニエル書の11章の中には、反キリストについての、興味深い記述があります。反キリストは、平和の人として、制限のない約束を与える者、巧言を使う者として、自分を現わしています。ユダヤ人たちは、反キリストと契約を結ぶのです。
彼に代わって、ひとりの卑劣な者が起こる。彼には国の尊厳は与えられないが、彼は不意にやって来て、巧言を使って国を堅く握る。(ダニエル11・21)
しかし反キリストは、その約束を破ってユダヤ人を攻撃するようになります。これは大きな苦難の時の始まりです。
彼は、同盟しては、これを欺き、ますます小国の間で勢力を得る。(ダニエル11・23)
やがて反キリストは、自分自身を神とする礼拝を要求し、すべての神的なものを否定します。
この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである。彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。(ダニエル11・36、37)
ここでまことの神であるキリストと反キリストの本質を、比較してみましょう。キリストは、上からのものであり、獣は下からのものです。キリストは神との交わりを持ち、神から遣わされたものです。獣はサタンとの交わりを持ち、竜から遣わされたものです。キリストは正義をもった真の支配者であり、反キリストは悪魔的な力をもつ独裁者です。キリストの特徴は、十字架と復活の永遠性です。そして、獣はその傷がいっときの間だけいやされるのです。
イエス様は、礼拝を当然受けるべきお方です。反キリストはそれを強制します。イエス様はあらゆる力を常に持っておられます。これに対して反キリストの力は、三年半に限られています。イエス様はまことの神であり、人を救うために人間の姿をとって地上に来てくださいました。反キリストは人間であり、自分自身を神とし、人間を滅ぼすのです。
次に私たちは、黙示録の11節から18節までを、くわしく見ていきましょう。この箇所で私たちは、悪魔の誘惑の道具を知ることができます。その誘惑の道具とは、地からの獣であり、にせ預言者です。これらは反キリストの教会のかしら、えせ宗教団体の指導者です。
預言者とは何でしょうか。それは他の人々のために、主から預かった言葉だけを語る人のことです。第二の獣、つまり地から出た獣は、黙示録の中で三回にわたって「にせ言者」と呼ばれています。
また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。(黙示16・13)
すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。(黙示19・20)
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(黙示20・10)
これらの「にせ預言者」は、常に反キリストとつながっています。また、「にせ預言者」と反キリストとは、それぞれ異なった人物です。
にせ預言者と反キリストが出て来たところは、同じです。底知れぬ地から、悪魔から出て来たのです。イエス様は、来るべき反キリストだけではなく、来るべきにせ預言者のことも語っておられます。
「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」(マタイ24・24)
「わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、「私こそキリストだ。」と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24・5)
「また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」(マタイ24・11)
そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。・・・・しかしエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。主の言われたとおりである。(出エジプト7・11、22)
1.にせ預言者の十の特徴
私たちは、この「にせ預言者」についても十の特徴を見ることができます。
[1]小羊のような二本の角
黙示録13章11節の後半には、地から上って来た獣に、「小羊のような二本の角があり、」と記されています。黙示録の中には、小羊という言葉が二十八回出てきます。小羊とは、イエス様のことです。しかし、ここで出てくる「小羊のような二本の角」を持った獣、つまりにせ預言者は、イエス様をまねた悪魔の姿です。このにせ預言者は兄弟愛を、また人間愛を強調します。
小羊イエス様の特徴は、静かでへりくだり、柔和なことです。
「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」(マタイ7・15)
にせ預言者の外観もこれに似ています。終わりの時代には、統一された国家権力と同じように、統一された宗教権力が現われてくるのです。にせ預言者は終わりの時代の教会のかしらです。にせ預言者は光の天使の姿を装って現われてきます。
こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。(第二コリント1・13~15)
[2]ものを言う
にせ預言者の特徴は、15節にあるとおり、「獣の像がものを言うことさえもできる」ことです。声は、その人を表わす特徴です。イエス様は、「わたしの羊は、わたしの声を知っている。」と言われました。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10・27)
イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。(ヨハネ20・16)
しかし、悪魔の声は、創世記3章にある蛇の声のように、誘惑の声です。蛇は、「・・・・どんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。・・・・それを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、・・・・。」(創世記3・1、5)と言いました。にせ預言者は、外面的には友好的で協力的に見えます。しかしその心の中は、反キリストの残虐そのものです。話の内容によって、語る人のほんとうの姿が表わされます。にせ預言者は、真のキリストではなく、反キリストを崇めさせようとします。神の霊ではなく、悪魔の霊が彼の中に宿っているのです。
にせ預言者は、イエス様に対する信頼と従順と献身とを伝えるのではなく、人に、「自分のことだけを考えて、自分自身を大切にせよ」と教えるのです。人を神から独立させることがこの預言者の目的です。彼は、悪魔のように欺く者です。にせ預言者も聖書のことばを用いますが、それは人を欺くためです。
[3]反キリストの権威を持つ
にせ預言者の特徴は、12節から15節にあるとおり、「反キリストの権威を持つ」ということです。12節にある「権威を・・・・働かせる」という言葉は、「神が天と地を創造された」という言葉と同じように使われています。しかしここでは、神の創造とは逆のことが記されているのです。
キリストの力は、神と、神のみことばと、愛と、信仰に基づくものであり、反キリスト、また、にせ預言者の力は、権力と、神から離れた国家に基づくものです。
キリスト者の目的は、神の栄光を現わすことであり、人のたましいが救われることです。にせ預言者の目的は、反キリストを崇めることであり、人を反キリストにつなぎとめることです。
[4]獣をあがめる
にせ預言者の特徴は、14節、15節にあるとおり、彼が「獣をあがめる」ということです。
私たちは黙示録のこの部分で、神の三位一体に対する悪魔の模倣を見ることができます。第一に「神に反する」竜、第二に「キリストに反する」海から上って来た獣、第三に「聖霊に反する」地から上って来たもう一匹の獣です。
聖霊がキリストを礼拝するように導くのと同じように、地から上って来た獣は、反キリストを礼拝するように導きます。そして反キリストを礼拝することは、実は悪魔そのものを崇めることになるのです。悪魔は、天を失った後で、地上の礼拝を求めるようになるのです。
イエス様は、悪魔によって「もしひれ伏して私を拝むなら、・・・・」と誘惑された時、ただ、「神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」というみことばをもって、これを退けられました。
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」と書いてある。」(マタイ4・10)
かつてローマ帝国がもたらした平和と富の黄金時代は、特に小アジアの各地の祭司たちによって高く評価されました。祭司たちのかしらには、大祭司がおり、その大祭司は皇帝礼拝を許すことによって教会組織全体を皇帝に従属させたのです。この大祭司は、皇帝がそれにふさわしい札拝を受けるように特に配慮したのです。
終わりの時代のにせ預言者の目的は、すべての人々の心の中から生けるまことの神に対する信仰を消し去って、一人の政治的な支配者が、イエス・キリストに代って立てられるようにすることです。
[5]火を天から地に降らせる
にせ預言者の特徴は、13節にあるとおり、「人々の前で、火を天から地に降らせる」ことです。同じことはモーセも、エリヤも、「ふたりの証人」も行ないました。しかし、まことの神への信仰が確かなものとされるための、神の啓示だったのです。
しかし、終わりの時代にこれらのことが起こるのは、反キリストが人々の心を混乱させ、誘惑するためです。
にせ預言者は、大きなしるしと奇跡を行ないます。しかも彼は、エリヤをまねて、「火をもって答える神がまことの神である」とさえ言うのです。エリヤは次のように言っています。
「あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい。」と言った。(第一列王18・24)
悪魔はまた、ヨブの時代に、次のようなことをしたのです。
この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」(ヨブ1・16)
黙示録13章13節で、にせ預言者は、11章の「ふたりの証人」の口から火が出たように、天からの火を地に降らせます。悪魔も奇跡を行なうことができるのです。
「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。」(マルコ13・22)
不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思識がそれに伴い、・・・・。(第二テサロニケ2・9)
奇跡というものは、必ずしも生けるまことの神がその背後におられるとは限りません。
「わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」」(マタイ7・21、22)
そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかし、アロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。(出エジプト7・11、12)
本来、天からの火は、真実と偽りが区別されるときに、たとえば、カルメル山におけるエリヤの場合のように主が降らされるものです。
「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。」と命じた。ついで「それを二度せよ。」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうちに、彼は、「三度せよ。」と言ったので、彼らは三度そうした。水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。(第一列王18・34~39)
パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。(マルコ8・11)
弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ9・54)
ところが13章の15節では、にせ預言者が火を天から降らして見せ、あたかも彼の行動の背後に、生ける神が立っておられるかのように見せようとするのです。現代の人々は証拠を見なければ信じようとしません。しかし今の時代は、生ける神のみことばの時代です。神はそのみことばを通して人々を招き、そして働かれるのです。私たちの時代は「見て信じる」時代ではなく、「見ないで信じる」時代です。
情報化時代にますます増えてくる各種のメディアによる映像の氾濫は、人々がただ見ることのみを望んでいる時代であることを表わしています。しかし聖書は、繰り返し神のみことばにのみ聞くべきことを示しています。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5・24)
[6]獣の像を造る
にせ預言者の特徴は、13章14節、15節にあるように、「獣の像を造る」ということです。これによって多くの人々は誘惑されます。誘惑は偶像礼拝と関係をもっています。偶像礼拝とは「像を造る」ということであり、主なる神が禁じておられることです。
「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、・・・・。」(出エジプト20・4、5)
あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。(申命記13・2~4)
この「像」は、黙示録の中で8回出て来ますが、いずれも神をののしるものであるとされています。また、聖書の他の箇所でも、同じことが記されています。
彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。(ダニエル11・31)
常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。(ダニエル12・11)
「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者」が、聖なる所に立つのを見たならば、読者はよく読み取るように。)・・・・。」(マタイ24・15)
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。(第二テサロニケ2・4)
反キリストの像を造るということは、神に帰すべき栄光を反キリストに与えるということです。
ネブカドネザル王は自らの像を造らせ、これを拝まない者を火の炉の中に投げ込みました。ダニエルの三人の友だちは、偶像の礼拝を拒否するという大きな信仰の試練を耐え抜きました。彼らは主に守られて、炉の中で燃えることがありませんでした。神の命令は、「神のみを礼拝し、獣を礼拝するな」ということです。
彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」(黙示14・7)
彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います。「わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。」(黙示18・10)
すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」(黙示22・9)
[7]像に息を吹き込む
にせ預言者の特徴は、13章15節にあるとおり、彼が「その像に息を吹きこんだ」つまり悪霊を与えたということです。これより以前の時代では、偶像はいのちのない素材で造られていたにすぎません。旧約聖書の預言者たちは、偶像は「見ることもできず、聞くこともできず、口を開くこともできない」と言ったのです。
「偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、「ああ、暖まった。熱くなった。」と言う。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って、『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。」とさえ言わない。灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。」とさえ言わない。」(イザヤ44・9~20)
彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。(詩篇115・4、5)
「国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」(エレミヤ10・3~5)
主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。それは、むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。(エレミヤ10・13~15)
これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。(黙示9・20、21)
しかし、黙示録13章の15節では、獣の像の中に悪魔の力が働きます。にせ預言者は、自分も反キリストもともに、神から遣わされていたのだと証明しようとしたのです。そしてこの像は、エルサレムの神殿の中に造られるのです。
彼は一週間の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。(ダニエル9・27)
そして、ユダヤ人たちは、この像を拝むように強制されるのです。
[8]もの言う像
にせ預言者の特徴は、15節にあるとおり、獣の像がものを言うことができるようにしたことです。このことによって、この像は地上に住む人々の礼拝を受けただけではなくて、「地上を超えた力」をも現わすようになりました。見えるものを崇めさせることを通して、悪魔はその力を現わすのです。
この獣の像は、新しい理想や思想を言いふらします。そして、新しい未来社会への考え方を宣伝しますが、実はそれは悪霊からくるものにほかなりません。多くの大衆がそれの考え方のとりこになってしまいます。テレビやインターネットを通して人々が無意識のうちに、獣自身を礼拝するようになり、強制されるようになる可能性は大きいのです。
[9]像を拝まない者をみな殺させる
にせ預言者の特徴は、15節の後半にあるように、彼が像を拝まない者をみな殺させる、ということです。このような時代が来たとき、かつてのダニエルや、エリヤの時代と同じように、バアルの前に、つまり像の前にひざをかがめない人々が出てくることでしょう。その結果、多くの人々が、国家の敵として、殺され、殉教の死を遂げることになると思われます。
にせ預言者が行なう宣伝の中心は、反キリストを礼拝させようとすることです。にせ預言者は、おもに三つの点をついてきます。第一は獣の傷、第二は獣の傷のいやし、第三は獣のすばらしさを強調することです。これらのことは、私たちにイエス様の十字架における死と、イエス様の復活と、イエス様が天に高く引き上げられたことを思い起こさせます。
聖霊の目的は、イエス様の十字架と復活と昇天とに人々の心の目が開かれて、イエス様の御名だけがたたえられるようになることです。
悪魔の目的は、にせ預言者にあらゆる力を与えて、獣の像が崇められるように人々を誘うことにあります。天からの火、傷のいやし、そして、獣の像がものを言うということ、これらのことを通して、多くの人々が、獣の像のもとへと引き寄せられるのです。
[10]獣の刻印
にせ預言者の特徴は、16節にあるとおり、彼が「刻印を受けさせる」ことです。刻印を受けていない者は、仕事も財産も奪われてしまいます。この刻印を持たない者は、のけ者とされ、異端者とされ、国の外へと追放されてしまうのです。
ヒットラーの時代には、その党員は、腕にヒットラーのしるしである鍵十字をつけ、その帽子にナチのしるしをつけていました。
古代においても人はしるしを持っていました。これによって人は誰の所有であるかを明らかにしたのです。奴隷は主人のものであり、兵隊は支配者のものであり、そして反キリストのしるしを持つ者は反キリストのもの、つまり、悪魔のものです。
ここに記されているしるしは、それを持つ者が、完全な反キリストの支配下にあることを表わします。このしるしは、黙示録7章の2、3節にある、神がそのしもべたちに押される印の完全な模倣です。
また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」(黙示7・2、3)
2.まことの聖霊とにせ預言者
この13章では、小羊の礼拝が反キリストの礼拝に対比されています。獣のしるしを持つ者に救いはありません。獣のしるしを持つことは、意識してイエス様を退けることです。獣のしるしを受け入れることは、悪魔を受け入れ、悪魔に従うことを意味します。
以上のことを簡単にまとめると、次のとおりです。まず、竜は神に反し、第一の獣はキリストに反し、にせ預言者は聖霊に反するのです。
にせ預言者の反キリストに対する関係は、聖霊がキリストに対する関係です。このまことの聖霊とにせ預言者について、七つに分けて簡単に比較して見たいと思います。
まず、イエス様がヨルダン川のほとりでバプテスマを受けられたとき、聖霊が、イエス様に下り、そしてイエス様にとどまったのです。そして、イエス様はすべてのことを聖霊を通して行なわれました。
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。(マタイ3・16)
反キリストは、つねに、にせ預言者のもとにとどまり、すべてのことにおいて、にせ預言者が反キリストを助けるのです。
また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。(黙示13・11)
次に、聖霊は神の霊です。
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。(詩篇51・10~13)
にせ預言者の口から出てくるのは、「汚れた霊」です。
また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。(黙示16・13)
三番目に、聖霊は「真理の霊」であり、すべてを真理に導く霊です。
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(ヨハネ16・13)
にせ預言者の霊は「偽りの霊」であり、誘惑の霊です。
四番目に、聖霊は自分のことを語らないで、イエス様に栄光が帰されることを求めます。
「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16・14)
それに反して、にせ預言者の霊は、反キリストに栄光を帰することを求めるのです。
この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。・・・・また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。(黙示13・12、14)
五番目に、聖霊は、霊とまことをもってまことの神を礼拝するように導きます。
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4・23、24)
にせ預言者の霊は、偶像礼拝へ、反キリストの礼拝へと、多くの人々を導くのです。
六番目に、聖霊は、永遠のいのちを与えます。
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6・63)
「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3・6)
これに対して、にせ預言者は、ただ、滅ぼすことのみを目的とするのです。
・・・・また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。(黙示13・15)
七番目に、聖霊は真の一致をもたらします。
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4・3)
なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(第一コリント12・13)
にせ預言者は、強制される、偽りの外面的な一致しか生み出すことができません。
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。・・・・この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。(黙示13・8、12)
にせ預言者の宗教とはどのようなものでしょうか。人間崇拝、人間礼賛、偶像礼拝、良心の抑圧、獣のしるしを持たない者への迫害。にせ預言者はこれらのものをもたらすのです。
最後に、18節の最後にある六百六十六という数字についてに考えて見ましょう。ヨハネは、「その数字は人間をさしている」と言っています。いっぽうで七という数字は完全な数字であって、神をさすものです。
さらに私は、御座──そこには、四つの生き物がいる。―――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。(黙示5・6)
これに対して六という数字は、人間をさします。たとえば、二十四人の長老、十二のイスラエルの部族、一万二千のイスラエル人、十四万四千人の大きな苦難の時に救われるユダヤ人、これらすべては六の倍数であり、それは人間をさしています。
六という数字はまた、七という数字に比較べると不完全な数字です。反キリストは恐るべき力を持ち、全世界を従えて自分に対する礼拝を強制しますが、にもかかわらず反キリストは不完全であり、無力です。ですから反キリストの数字として六という数字が三回繰り返され、「六六六」と記されてているのです。
六百六十六という数字はまた、人間の高ぶりのもっとも高いところを示しています。六という数字は、人間の進歩の最高の段階を示しています。六という数字は、人間の行動の高さ、広さ、深さの三つの次元を表わしています。六という数字は、人間が神のようになりたいという高ぶりを表わしています。したがって、六百六十六という数字は、「人間の進歩の偉大さ」を示していることになります。
しかし実際には、この数字は悪魔が神のようになることが不可能なこと、反キリストがキリストのようになることが不可能なこと、にせ預言者が聖霊のようになることが不可能なことを、表わしています。このようなことから、私たちは「六六六」という数字の中に、悪魔の三位一体を見ることができるのです。
イスラエルの敵であったペリシテ人の巨人、ゴリヤテの背の高さにも、六という数字が含まれています。
ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。(第一サムエル17・4・5)
ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」(第一サムエル17・45)
ネブカデネザルの建てた像は高さが六十キュビト、幅が六キュビトでした。
ネブカデネザル王は金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六十キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に立てた。(ダニエル3・1)
パロは六百の戦車をもって、イスラエル人を追いかけました。
そこでパロは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。(出エジプト14・6~8)
ローマの一軍団は六千人の兵士によって組織されていました。そしてまた、六十万人のイスラエル人がエジプトを脱出しました。
イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。(出エジプト12・37)
しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。」(民数記11・21)
六という数字は啓示の数字です。したがって、六という数字が三回繰り返されているということは、人間の中に何があり、人間が神に等しくなろうとして何を考え、何をするかが啓示されていると言えましょう。
反キリストが、たとえどれだけ偉大なことをなしとげたとしても、反キリストがなしとげることは、神の完全な七という数字に象徴される、神の完全さには到達することができないのです。しかし神は、この超人間的な反キリストを獣であると言われます。反キリストはまた不法の人であり、したがって彼の数字は六百六十六なのです。
イエスという名前をギリシヤ語のアルファベットで計算すると八百八十八(八八八)になります。イエス様は、かつて人となってこの地上に来られた永遠の神です。イエス様は完全に神に頼りきったお方でした。イエス様は十字架の死と復活によって、私たちを罪から贖い出されました。イエス様は新しい創造のかしらです。八という数字は、「新しい創造」の数字です。
六百六十六という数字は、明らかにある人物の名前を隠しています。ヘブライ語や、ギリシヤ語には数字はなく、代りにアルファベットが数字に使われています。ですから当時は、この数字を使って、逆にある人の名前を伝えました。ただその名前は、数字を解くことのできる人しか理解することができませんでした。
かつてポンペイの遺跡で「私たちは五百四十五という数字の女性を愛する」と記された壁が見つかりました。その人の名前を知っている人にとっては、その数字が理解できたのです。しかしその名前を知らない者は、その人が誰であるか、見当がつかなかったのです。
ある名前から数字を計算することは簡単ですが、逆に、数字から名前を再び読み解くことは大変困難です。なぜなら、その組み合わせは無限だからです。
この反キリストの数字を多くの人々が解こうとしました。教父であるイレナウスは西暦二百年の人でしたが、この反キリストの数字を解くために大変な努力をしました。しかし、彼ですらもその数字を正確に解くことはできませんでした。彼は、たとえば、「Latainos」という名称を六百六十六という数字から読み解いて、それをローマ帝国だと考えたのです。
また他の人々はこの数字を「Vicarius filii Dei」と解き、「神の子の代わりに遣わされた者」を意味するところから、それがローマ法王をさすと考えました。
ボナパルトという名前も、六百六十六という数字から読み解くことができるため、当時の人々はこれがナポレオンを指すと考えたのです。
ヘブライ語のアルファベットによって、「ローマ皇帝」ということばも、その数字が六百六十六になります。「Kaiser Theos――皇帝は神である」ということばも、同じようにその数字は、六百六十六になります。
驚くべきことに、皇帝ネロや、ムッソリーニ、ヒットラーという名前も、その数字は、六百六十六になります。
ヨハネの時代には、ドミティアヌスが支配していました。ドミティアヌスの称号は、「Autokrator Kaisar Dometianos Sebastos Germanikos」でした。しかし、この名前が非常に長いために、その当時のローマの貨幣ではこれを短くして、「A Kai Domet Seb Ge」と記しました。これも数字になおすと六百六十六になります。ドミティアヌスは神のごとき支配者であり、ローマの皇帝でした。ドミティアヌスが自らの唱えた名前は、真の神、真の主というものでしたが、これは神を汚す言葉です。ドミティアヌスは、自らを神であると宣言し、自らを神として拝むことを定めた最初の皇帝でした。
ヨハネが黙示録という形でパトモスから信者たちに手紙を送ったのは、このドミティアヌスに対する警告だったのかもしれません。あるいは彼は、当時小アジアで行われていた皇帝礼拝の宗教的指導者であった大祭司のことについて信者に警戒するように伝えたのかもしれません。ドミティアヌスは反キリストの先行者であり、皇帝礼拝の大祭司はにせ預言者の先行者だったのです。現在私たちは、反キリストの名前を知りません。そして、知らないことはそのまま、知らないと言うほうが賢明です。しかし私たちは、私たちの贖い主の名前を知っています。それは「イエス・キリスト」です。この名前の前に、天においても、地においても、すべての者がひざをかがめなければならないのです。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2・10、11)
イエス様は、きのうもきょうも、また明日も変わらないお方であります。
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル13・8)
救いも、赦しも、すべてこの御名にかかっています。イエス様は私たちのものであり、私たちはイエス様のものです。それは永遠に変わらない確実なことです。それは同時に永遠の栄光を現わしているのです。
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