21.神とその民に対する悪魔の迫害
黙示録12章13節から18節まで
1.神の民に対する迫害
[1]選ばれた民に対する迫害
[2]救い主に対する迫害
[3]支配者に対する迫害
2.神の民の荒野への道
[1]大きなわしの二つの翼
[2]そなえられた逃れ場
[3]定められた期間
(13)自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。(14)しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。(15)ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。(16)しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。(17)すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出ていった。(18)そして、彼は海べの砂の上に立った。(黙示12・13~18)
この箇所のテーマは「神とその民に対する悪魔の迫害」です。それはまた、「キリスト者への守りと攻撃」、「女に対する竜の怒り」、「地上での激しい戦い」、「荒野での女」と言いかえることもできます。
ここに記されていることが起きる期間は反キリストの時代の後半の三年半に相当します。まことの神に対する悪魔の反抗は、この後で破滅的な終わりを迎えます。悪魔の主張は、まことの神なしで、悪魔と人間とで、より良い世界を作り出せる、というものです。それが、この混乱した世界です。まことの神を無視してこのような結果を招いた悪魔と人間は、神の前にどのような弁明もできません。
さて、この箇所を三つの部分に分けて見ていきましょう。まず、13節の「神の民に対する迫害」、14節の「神の民の荒野への道」、15~17節の「神の民の守り」です。
1.神の民に対する迫害
黙示録12章13節には、「神の民への迫害」が記されています。神の民は常に攻撃を受けるものですが、終わりの時代には特に激しい攻撃を受けます。
悪魔は自分の時が短いことを知ったため、ますますその攻撃を激しくします。しかし、いかに攻撃が激しくても、その「時」が限られていることは、私たちにとって大きな慰めです。十字架の上のイエス様の死によって悪魔が滅ぼされたこと、そして、最後のその判決がまもなく下されることを私たちは知っているのです。
打ち滅ぼされた竜は、色々な方法で、またあらゆる力をもって抵抗しようとします。かつて悪魔は、イエス様の十字架と復活によって滅ぼされたことを、あらゆる嘘と偽りで否定しようとしました。当時、悪魔は祭司たちを通して「イエスは復活しなかった」と言わせました。しかし、これに失敗したので、悪魔は信者たちを迫害し、捕らえ、そして殺害したのです。
現代における悪魔の武器は、独裁国家にあってはその武力であり、他の多くの国々にあっては人間中心の、人間の欲望のために組織された宗教です。そしてこの二つのうち、後者の方がはるかに危険です。原理運動やエホバの証人、ローマ・カソリック教会の教義を通して、悪魔はその目的を達成しようとしているのです。
黙示録のこの箇所において、「竜」は「女」を追いかけます。つまり、悪魔はイスラエルを追いかけるのです。ではなぜ、悪魔の怒りはイスラエルに向けられるのでしょうか。その理由を、三つに分けて考えてみましょう。
[1]選ばれた民に対する迫害
まず迫害の第一の理由は、イスラエルが神によって選ばれた民族だからです。すべての国民がイスラエルをとおして祝福される、と聖書に記されているからです。イスラエルの民に対して、主はご自身を啓示されました。律法と聖書全体とは、まずイスラエルの民に与えられました。すべての国民に対してイスラエル民族こそが、「生けるまことの神の生きた証人」となるべきでした。これが彼らの使命でした。ですから悪魔は、イスラエルを滅ぼそうと試みたのです。
[2]救い主に対する迫害
第二の理由は、イスラエルから約束されたメシアが出現したためです。それで悪魔は迫害したのです。
先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。(ローマ9・5)
聖書は「救いがユダヤから来る」と述べています。悪魔はいつものことに反抗し、イエス様がお生まれになった時には、ヘロデ王を通してイエス様を殺そうとしました。
[3]支配者に対する迫害
第三の理由は、悪魔が支配している地上が、後にイスラエルによって支配されることになるからです。ですから悪魔はイスラエルを迫害するのです。千年王国において、イスラエルはイエス様とともにその中心となり、地上を支配するのです。
「迫害される」ということは、イエス様との交わりをもっている証拠です。1節から17節までに述べられている「女」とは、イスラエルの中でまことの神を信じる残りの者です。イスラエル民族全体は、イエス様の再臨の時に初めて心が開かれるのです。
2.神の民の荒野への道
私たちは、神がエジプトにおける四百年の奴隷生活からイスラエルの民を贖い出され、荒野で四十年間養われたことを知っています。黙示録12章14節に記されているイスラエルの残りの者たちの荒野での生活は、これと似ています。
エジプトは竜の国と言われています。なぜならエジプトは、イスラエルを滅ぼすための悪魔の道具だからです。
その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。」(エゼキエル2・3)
「人の子よ。エジプトの王パロについて哀歌を唱えて彼に言え。諸国の民の若い獅子よ。あなたは滅びうせた。あなたは海の中のわにのようだ。川の中であばれ回り、足で水をかき混ぜ、その川々を濁らせた。」(エゼキエル32・2)
出エジプト記によると、かつてイスラエルの男児はナイル川に投げ込まれました。悪魔の怒りが神のひとり子であるイエス様に向けられたからです。また黙示録によると、終わりの時代には、悪魔の怒りはイスラエルの残りの者たちに向けられます。
かつてイスラエルの人々は、パロの憎しみから逃れました。終わりの時代には、イスラエルの残りの者たちが竜の怒りから逃れます。パロがイスラエルの人々を追いかけたように、竜はイスラエルの残りの者たちを追いかけます。しかしその昔、「紅海」がイスラエルの民に害を与えなかったように、竜の吐き出す「水」も、イスラエルの残りの者たちに何の害も与えることができないのです。
かつて主が、イスラエルの人々を四十年間マナをもって養われたように、終わりの時代にも、主はイスラエルの残りの者たちを養われます。
14節にある「荒野」とは何を意味するのでしょうか。それは、貧しさと孤独、へりくだりです。主は、国を出てさまよっている民に、何を与えられるのか。次にそれを見てみましょう。
[1]大きなわしの二つの翼
主は、1章14節にあるとおり、女に「大わしの翼を二つ」与えられました。わしは、ひなが育ってくると、飛ぶことを学ぶように巣から外へ追い出します。ひながうまく飛ぶことができずに落っこちようとする寸前、親のわしは羽を広げてひなを救い上げ、再び巣へと持ち帰るのです。イスラエルの民はこれと同じことを体験しました。
「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。」(出エジプト19・4)
わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。(申命記32・11、12)
黙示録7章3節には、イスラエルの残りの者たちに印が与えられることが述べられています。
「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」(黙示7・3)
黙示録11章1節には、彼らが測りにかけられることが記されています。
それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。」(黙示11・1)
そして今学んでいる節で、イスラエルの残りの者たちが「翼を与えられる」と記されています。
しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。(黙示12・14)
これらのことは、同じことを意味しています。それは、彼らが神の所有物であり、神の守りを受ける、ということです。
主に頼るイスラエルの残りの者たちが守られ、翼を与えられるのはなぜでしょう。彼らがすべてのものの上に立つためです。翼に守られて、彼らは障害や危険を乗り越えることができるのです。どのような深い淵も、高い山も、わしはその翼でやすやすと飛び越えていきます。イスラエルの残りの者たちも同じことを経験するのです。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40・31)
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(第二コリント12・9)
「わし」は主の守りの象徴です。終わりの時代にあるイスラエルの残りの者たちは、安全に早く飛び行くことができ、また逃げることができるのです。
次の詩篇の作者のように言えれば幸いです。
神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。(詩篇36・7)
あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。(詩篇63・7)
次に、イスラエルの残りの者たちは、いったいどこへ向かって飛ぶのでしょうか。
[2]そなえられた逃れ場
14節には、「・・・荒野に飛んでいって、そこで」と書いてあります。「そこ」とは、神によってそなえられた守りの場所のことです。人々が迷いながら偶然見つけた場所ではなく、あらかじめ主によってそなえられた場所です。
さあ、わが民よ。あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。(イザヤ26・20)
その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。(イザヤ27・1)
イスラエルの人々は、その昔、罪人が逃れることのできる「逃れ場」を与えられていました。そこでは罪人が血の復讐を受けることがなく、どのような敵からも攻撃を受けることがなかったのです。主は、終わりの時代にもこのような「逃れ場」を荒野にそなえられるのです。
竜は反キリストとともに、イスラエルの残りの者たちを迫害します。しかしその結果はどうでしょうか。かつてパロはイスラエルの民を追跡し、紅海で滅ぼされました。ですからイスラエルの残りの者たちも、神によって守られ、千年王国を支配することになるのです。
[3]定められた期間
この荒野の期間は、14節にあるとおり、三年半続きます。そこで彼らは飢えることも渇くこともなく、主によって養われるのです。
かつて主は、イスラエルの民を四十年間マナと水をもって養われました。将来においても、主はご自分に属する者を見捨てられることはありません。しかもこの期間は短く、主によって定められています。これはイスラエルの民にとっては大きな慰めです。
また14節には、「蛇の前をのがれて」とあります。これは、次のみことばを思い出させます。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。(詩篇23・5)
これはダビデの体験したことですが、イスラエルの残りの者たちも将来同じ体験をすることになります。悪魔である敵は、彼らに対して何もできません。なぜなら主が彼らを守られるからです。
3.神の民の守り
最後に、「神の民の守り」について考えてみましょう。創世記には次のように記されています。
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3・15)
女の子孫と蛇の子孫との間の戦いは、さらに続きます。十字架において、このみことばのとおり悪魔はイエス様の「かかとにかみついた」のです。また、イエス様がご自身のいのちをささげられ、これによって「悪魔の頭が踏み砕かれ」たのです。
勝利はかちとられました。しかしその勝利の宣告は後になって初めて下されるのです。その時まで悪魔は偽り者、また殺人者として全人類を迫害します。そして悪魔の主な攻撃の目標は、イスラエルの残りの者たちに向けられるのです。
さて、15節で竜は女を迫害します。そして、竜の力は女の力とはくらべものにならないほどに強力なのです。イスラエルの残りの者たちは、水の流れに流されそうになります。この「流れ」とは何を意味しているのでしょうか。
「それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼は、あなたの国の幅いっぱいに広がる。」(イザヤ8・7~8)
主はこう仰せられる。「見よ。北から水が上って来て、あふれる流れとなり、地と、それに満ちるもの、町とその住民とにあふれかかる。人々は泣き叫び、地の住民はみな泣きわめく。(エレミヤ47・2)
この「流れ」とは、イスラエルを滅ぼそうとしている、大きな力をもつアッシリヤの王を意味しているのです。また、この「流れ」はこのような外側からの攻撃のみでなく、内面的な誘惑をも意味しています。
あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。(詩篇42・7)
死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。(詩篇18・4)
それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。(詩篇32・6)
そのとき、大水は私たちを押し流し、流れは私たちを越えて行ったであろう。(詩篇124・4)
あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。(イザヤ43・2)
イエス様は「いのちの水の川」をくださいますが、竜は「死の水の川」を流れ出させます。竜が出す「流れ」とは、間違った教えであり、ユダヤ人に対する憎しみです。悪魔は全世界を反ユダヤ的にさせていきます。ですから、イスラエルにとっては大変な苦難の時代となるのです。しかし、ちょうどノアが洪水から救い出されたように、イスラエルも終わりの時代に洪水の中から救い出されるのです。
この世の支配者である悪魔には大きな力が与えられており、この力によって悪魔はイスラエルの者たちを滅ぼそうとしています。しかし、15節、16節では、海の竜が川のように水を吐き出し女を迫害しても、地が女を助けてその水を飲み干してしまうのです。これが、終わりの時代に竜に起こることです。
私たちは、主が終わりの時代にどのような守りを与えられるか知ることはできません。しかし16節に「地がその口を開いて川を飲み干す」と書いてあるように、その時、主の救いが実現するのです。
かつて主に逆ったコラの一族は、民数記16章の31節から33節にあるとおり、地の中にのみこまれてしまいました。同じように反キリストの軍勢も、たとえば砂漠の竜巻などによって、地にのみこまれてしまうかもしれません。また悪魔は多くの国々をそそのかし、イスラエルを攻撃させるかもしれません。ところがその最中に突然、「自国が攻められている」という急報が入り、攻撃を中断せざるをえなくなるかもしれません。
かつて、ダビデを殺そうとしたサウルも同じことを経験しました。ダビデは捕らえられ、殺されそうになりました。ところがその時、サウルに、自国が攻められているという知らせが入りました。そこでサウルはダビデを殺すことを中断し、敵と戦うために国へと引き返したのです。将来においてどのようなことが行われるかは、大して重要ではありません。肝心なのは、主が必ず竜の攻撃から彼らを守り、保護されるということです。
かつてエデンの園で、蛇は女を誘惑することに成功しました。しかし終わりの時代には、女が蛇に打ち勝ちます。竜のあらゆる攻撃は無益です。主が彼らを守られるからです。
主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。(申命記32・10)
黙示録12章17節によると、悪魔の怒りはイスラエル、つまり女の子孫の残りの者たちに向けられています。
すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出ていった。(黙示12・17)
これら残りの者たちは明らかに、黙示録11章3節にある「ふたりの証人」の証しを通して信仰に入った人々であり、主の戒めを守り、イエス様の証しを保っている人々です。彼らは神によって愛され、選ばれ、そして救われた人々です。彼らは神の所有として守られるのです。竜は彼らに対して激しく戦いますが、彼らを動かすことはできなかったのです。
彼らが弱いにもかかわらず、悪魔は彼らを動かすことができませんでした。なぜなら、人の弱さの中に神の力が明らかにされるからです。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んでわたしの弱さを誇りましょう。(第二コリント12・9)
なぜイスラエルの残りの者たちは、大きな苦難の時に荒野へと導かれなければならないのでしょう。そこには主の目的があります。主はご自身に属する民をきよめようとしておられるのです。
それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて、荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。(ホセア2・14)
シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清める。(イザヤ4・3、4)
全地はこうなる。――主の御告げ。――その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民。」と言い、彼らは「主は私の神。」と言う。(ゼカリヤ13・8、9)
ですから、悪魔は神の手の中にある単なる道具にすぎないのです。
最後に、私たちはよく考えてみましょう。私たちはイエス様のものでしょうか。あるいは、まだそうなっていないでしょうか。私たちは「罪の赦し」の確信、「もはや、さばかれることがない」という確信をもっているでしょうか。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5・24)
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8・1)
「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」(ヘブル8・12)
主を信じない人々にとっては、未来は暗闇であり、絶望です。しかし主を信じる者にとっては、未来はイエス様が来られるというすばらしい希望です。私たちは、未来に大きな苦難が待ち受けているのではありません。イエス様が来られることをを待ち望んでいるのです。
私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。(第一テサロニケ1・9~10)
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ3・20)
祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。(テトス2・13)
そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。(第一ペテロ5・4)
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3・2~3)
一日一日、喜びをもって心からイエス様を待ち望んでいる人々は、幸いです。
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