22.聖徒の忍耐と信仰
黙示録13章1節から10節まで
1.獣である反キリストの十の特徴
[1]十本の角と七つの頭、十の冠
[2]ひょう、熊、しし
[3]竜の力と権威
[4]打ち殺され、直った頭
[5]獣と竜への礼拝
[6]けがしごとを言う口
[7]限られた期間
[8]ののしり
[10]反キリストの支配の時
2.いのちの書に名前がしるされている人々
(1)また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。(2)私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。(3)その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、(4)そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。(5)この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。(6)そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。(7)彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。(8)地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。(9)耳のある者は聞きなさい。(10)とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。(黙示13・1~10)
黙示録13章は、二つの部分からなっています。1節から10節までと、11節から18節までです。1節から10節には、「海から上って来る獣」、つまり反キリストのことが書かれています。この反キリストは悪魔の力の道具であり、悪魔の国で高い地位に就いています。そしてまた、反キリストの国は、全世界を支配している国です。
11節から18節には、「地から上って来る獣」、つまり「にせ預言者」のことが書かれています。このにせ預言者は、悪魔の誘惑の道具であり、反キリストの教会のかしらであり、世界の宗教を支配する者です。
今まで私たちは、黙示録12章で、悪魔が地上に投げ落とされたことを見てきました。終わりの時代には、悪魔は特別な憎しみを抱いて神の民であるイスラエルを迫害します。神に対する悪魔の最後の戦いがくりひろげられるのです。そしてその戦いの時に、悪魔は自分の道具となる者、自分の意志に全面的に服従する者を捜し求めます。悪魔の道具となり、服従する者こそが、反キリストであり、にせ預言者です。
終わりの時には、神の三位一体に対して、悪魔の三位一体が形づくられます。なぜなら悪魔は、まことの神を常にまねようとするからです。「父なる神」に対しては悪魔である「竜」が、「イエス・キリスト」に対しては第一の獣である「反キリスト」が、そして「聖霊」に対しては第二の獣「にせ預言者」が、それぞれ対応するのです。
私たちはまず初めに、悪魔の力である第一の獣、「反キリスト」について考えてみたいと思います。
1.獣である反キリストの十の特徴
「反キリスト」は、世界の国家の政治的な支配者としての地位に就いています。そしてこの獣である反キリストは、十の特徴を持っています。それらを見ていきましょう。
[1]十本の角と七つの頭、十の冠
13章1節には、獣が「十本の角と七つの頭」そして「十の冠」を持っていることが記されています。そして、その頭には、「神の名をけがす名があった」とあります。これらは何を意味しているのでしょうか。
黙示録第13章は、黙示録のなかでももっとも恐るべき章です。この13章では、イエス様がこの地上に千年王国を打ち立てるために再臨される前の三年半の期間のことが記されています。悪魔が用いる道具は人間ですが、その悪知恵のことがここでは「獣」と表現されているのです。この「獣」は、ギリシア語では「野獣」という言葉になっています。
反キリストの国、悪魔の国は、地上のあらゆる権力、あらゆる支配権を持っています。竜である悪魔が十本の角と七つの頭を持つように、第一の獣である反キリストも同じ物を持っているのです。このことは、「獣」が人間を超えた知恵と世界の支配権を持っていることを意味しています。
十の冠とは、政治的な力のことです。この冠は頭の上にあるのではなく、角の上にかぶせられているのです。それらは、大きな力と比類ない権力を意味しているのです。
次の神をけがす「名」ですが、これこそ当時の支配者であったローマ皇帝にもっとも当てはまる呼び名です。ローマ皇帝はみずからを神、神の子、救い主、また主などと呼ばせていたのです。けがす、とは、神の栄光を奪い取るという意味です。
また、近代では、ドイツの第三帝国で、ヒットラーが「彼はきのうも今日もいつまでも変わらない者だ」と言われていました。これが、神をけがすということです。反キリストは自分を、比べられるもののない者と称してはばかりません。自分は失敗を犯すことがなく、完全な者だと言うのです。すべての反キリストは、自分のことを究極の権威を持つ者だと言うのです。
そして反キリストは、全人類に対する支配権を要求します。すなわち、全人類に無条件の服従を要求するのです。これが全世界を支配する反キリストの特徴です。人が力を持って服従を強いる時、そこには必ず悪魔的な力が働くのです。
表面だけを見れば、このような時代には、科学と技術が大きく進歩し、最も偉大な業績を上げる時でしょう。強力な政治家たちが反キリストとともに政治を支配し、全世界に活気がもたらされる時でしょう。人類の最後の黄金時代が到来する時になるでしょう。そしてこの時代には、あらゆる手段をもって、神の御名がけがされるようになるでしょう。この時代は悪霊が造り、支配する時代であり、そのせいで神に対する憎しみが高まるのです。
またこの時代には、小羊であるイエス様の支配が意識的に退けられるようになります。イエス様の御名の栄光を奪い取り、その栄光の代わりに、反キリストが自らの名を誇るようになります。
さらにこの時代には、反キリストが、十の連邦国家の支配者となります。この十の国家は古いローマ帝国の領域の中に打ち建てられることになると思われます。十の角は十の国家と十の国王、つまり支配者を意味しています。
あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。(黙示17・12)
1節にある「十の冠」は、政治的な大きな力を意味しているのです。
[2]ひょう、熊、しし
二番目の特徴は、2節にあるとおり、この獣が「ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のよう」だということです。同じような記述として、私たちはダニエル書の7章の4節から6節を思い起こします。
第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。また突然、熊に似たほかの第二の獣が現われた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。するとそれに、「起き上がって、多くの肉を食らえ。」との声がかかった。この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現われた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。(ダニエル7・4~6)
反キリストの国は、古い帝国の特徴を備えています。「ひょう」のように速く、「熊」のようにどん欲で、「しし」のような力を持っています。これは、ギリシヤのようであり、ペルシャのようであり、バビロンのようだと言えます。ダニエルはヨハネと違って、世界の帝国の順序を見たのです。ダニエルはその帝国の順序を未来に向かって見たのですが、ヨハネはそれを過去に見たのです。
ヨハネの時代の帝国とは、ローマ帝国です。黙示録17章の8節に、「昔はいたが、今はおらず、やがて現われる」という表現が出てきます。この「昔はいたが」という表現は、ヨハネの時代のローマ帝国に相当します。その後、ローマ帝国は滅亡するのです。しかし、このローマ帝国はやがて再び、別の形で諸国民の間に起こってくるのです。
聖書はイエス・キリストの神聖を否定する者は、反キリストの霊を持つ者であると述べています。
小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。(第一ヨハネ2・18)
偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。(第一ヨハネ2・22)
反キリストの国は、獣の国にあるあらゆる残虐性を持っています。反キリストは「ひょう」のようにす早く、「熊」のように戦い、「しし」のように叫びます。神の名を汚すように叫ぶのです。
かつてローマの皇帝たちは、神の栄光を自分のものにして、奪い取りました。皇帝ドミティアヌスは、自分を「神であり、また、主である」と称えました。また皇帝の一人だったアウグストスの名は、「高められた者、神聖な者、最高の者」という意味です。
[3]竜の力と権威
三番目の特徴は、反キリストは4節にあるとおり、竜から力と権威とを与えられます。つまり反キリストには、この世を超えた力が与えられるのです。野獣の特徴は非情です。反キリストは「ひょう」に似て恐るべきものであり、ひょうによって、つまり反キリストによって、人類は恐れと不安につき落とされます。
さらに反キリストは「熊のように」自らに逆らうすべての者を打ち倒します。将来出現するであろう統一国家は、いかなる反抗をも許さない国家です。
反キリストは絶対的な力を持っており、同時に、大きな口をも持っています。「しし」の叫びによって、すべての者が恐れおののくのです。この国の宣伝の力は異常に強力です。悪魔はこの国にすべての力を与えるのです。その力は、悪魔がかつてイエス様を誘惑して、自らを拝ませようとした時の力です。また反キリストは、悪魔が装ったにせキリストでもあります。十字架で死なれたキリストは、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28・18)と言われたお方です。「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。」(マタイ11・27)と言われたお方です。しかし、反キリストも悪魔が装ったにせキリストとして、大きな力を振るうことができるのです。神のキリストがその権威を明らかにされる前に、悪魔のにせキリストが力を現わすことになります。反キリストは、意識して、悪魔の力の提供を受け入れたのです。
悪魔は・・・・言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。(マタイ4・9)
反キリストはイエス様が試みの時に退けられた、その悪しき権力のすべてを受け入れるのです。
悪魔は・・・・こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」(ルカ4・6)
反キリストの特徴を、パウロは「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、・・・・」(第一テサロニケ2・9)と記しています。
神がキリストを遣わしたように、悪魔である竜は反キリストを遣わすのです。反キリストを通して悪魔はその力を打ち建てようとするのです。
「それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示12・12)
悪魔の怒りは力と権力の中に現われてきます。しかし、この力と権力は、天から落とされた無力な悪魔の力にすぎません。
黙示録6章において、私たちは、反キリストの現われについてすでに学んできました。その時は、古いローマ帝国が再興される時であり、反キリストは平和の神として馬に乗って現われるのです。
この反キリストを、ダニエルは三つの違った言葉で記しました。一つは、ダニエル書7章7節にある「その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現われた。」です。反キリストは「第四の獣」です。二つめは、ダニエル書2章40節、「第四の国は鉄のように強い国です」です。反キリストは「第四の帝国」です。さらにダニエル書9章26、27節には、「やがて来るべき君主」とあります。反キリストは来るべき「君主」でもあります。
反キリストの時代の国はまた、ダニエル書2章33節で「鉄と粘土でできたすね」として記されています。鉄と粘土とは混ぜ合わせることができません。その時代の十の国々も、互いに何の関係も持つことのできない国々なのです。
さらにこの時代には、一人の権力者が立てられ、悪魔はこの支配者にすべての知恵と権力とを与えます。反キリストは絶対的な独裁者になるのです。反キリストは永遠の統一国家を目指して国々を集めようとしますが、その支配の期間はわずか七年間だけで終ります。そしてこの期間は、反キリストの意志だけが働く時代です。その国の国民は、あらゆる自由を抑圧されることになります。すべてのものが、反キリストの支配の下に置かれるのです。人々は、反キリストの許可を受けることなく、売ることも、買うこともできなくなります。
黙示録では、反キリストが権威を「与えられた」という表現がよく出てきます。
この獣は、敖慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。(黙示13・5)
彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語を国民を支配する権威を与えられた。(黙示13・7)
また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がものを言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。(黙示13・14、15)
それは、悪魔から反キリストに力が「与えられた」ことを意味しています。しかし、その悪魔でさえもつながれた犬のようであり、神には近づくことができません。悪魔は、ただ限られた力、限られた自由しか持っていないのです。
[4]打ち殺され、直った頭
四番目の特徴は3節にあるとおり、「その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われた」反キリストの「致命的な傷が直ってしまった」ということです。反キリストの頭の一つは攻撃を受けて一度は打ち殺されます。全世界はそのことによって恐れます。しかし、反キリストは再び「致命的な傷も直り」、生き返らされるのです。
イエス様について私たちは、「イエス様がほふられた小羊」であり、「よみがえられた」ということを知っているのですが、この点においても、悪魔は神をまねようとします。そして神をまねながら、反キリストはそれを隠して、「イエス様は死に、よみがえらず、世界はますます悪くなった」と言いふらし、その上で「世界を良くするものは、自分である」と主張します。反キリストの見せかけの、仮の復活を見て、多くの者が悪魔を信じるようになるのです。
多くの人は、奇蹟をなすのは神だけであると信じています。しかし、悪魔もまた、奇跡を行ないます。多くの人々はその時、反キリストの仮の復活によって、世界の支配権が神から反キリストに移されたと思いこむのです。
反キリストの「致命的な傷が直った」というそのことが、反キリストの礼拝の根拠になります。反キリストは「致命的な傷を与えられますが、悪魔によって復活させられるのです。そして多くの者が彼を信じるようになります。
今からまもなく起ころうとしていることは、ローマ帝国の復興とでもいうべきことではないかと思われます。それを知る意味で、簡単に古代ローマ帝国の歴史に触れておきたいと思います。
紀元前一四六年にローマ帝国はコリントを滅ぼしました。これによって、ギリシャ帝国は滅びたのです。そして紀元三九五年に、東西ローマ帝国が分裂し、東ローマ帝国と西ローマ帝国が生まれました。紀元四七六年に、西ローマ帝国はオドアケルによって滅ぼされました。一四五三年に、東ローマ帝国はトルコによって滅ぼされました。
私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。(ダニエル7・8)
十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。(ダニエル7・24)
ダニエル7章8節、24節によると、十の国とともに一つの小さな国が、つまり一つの角が起こることが記されています。この一つの国は三つの王国を滅ぼします。十の国の中から、七つの国だけが残されるのです。ダニエル書におけるこの国、この小さな角は、黙示録における「海からの獣」に相当します。パウロによれば、この海からの獣は罪の人間、不法の人なのです。
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。(第二テサロニケ2・4~8)
[5]獣と竜への礼拝
五番目の特徴は、13章4節にある、「獣と竜とが礼拝される」ということです。
反キリストが死から復活することによって、人々は反キリストの力を否定できなくなります。人々は実は悪魔を拝んでいるとは知らずに、反キリストを礼拝することになります。反キリストの国は、ちょっと見ると、比べるものがなく、永遠のように見え、まさに神の国のように見えるのです。ですから、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言われるようになるのです。
真の礼拝、正しい礼拝へと人々を導くものは、「だれがまことの主に比べられるでしょうか。」という問いかけです。ミカエルという名は、「誰が神に等しいか」という意味です。
わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。(詩篇40・5)
さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。(黙示12・7、8)
しかしこの4節では、まことの神ではなく、獣が礼拝されています。ここで、悪魔は最後の切札を出したのです。悪魔は、そのすべての力を反キリストに与えました。
イエス様を信じる人々は世の光であり、地の塩です。しかしイエス様は、まもなくすべての信者を天に引き上げられます。それとともに、やみがこの地上をおおい隠すのです。人々はめくらとなり、反キリストをもって、悪魔の力をもって、平和の国を建設しようとします。しかしノアの洪水の前の時代のように、事態はますます悪くなるのです。
教会の携挙によって、信者は神のさばきの座に立たされます。この時悪魔は、信者たちを訴えようとします。しかし、悪魔は神によって追放されます。
地上では、悪魔はイスラエルの残りの者たちの上に、その怒りをもたらします。すべての人が、反キリストを礼拝する時は、それは「荒らす憎むべき者が聖なる所に立つ」時です。反キリストを拝まない者は殺されます。この礼拝は決して心からのものではなく、人々の恐れから出てくるものです。
その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。(黙示13・3、4)
人は心からの愛によって反キリストの前にひざまずくのではなく、ただ恐れの心からひざまずくのです。反キリストを礼拝する者は、悪魔の前にひざをかがめる者です。そして、誰もあえて反対しようとしなくなります。獣ほどに強いものはいないからです。これによって、獣はいつわりでありながら神と呼ばれるようになります。全世界が反キリストをほめたたえます。反キリストはいつわりの平和と復活とを約束します。そしてすべての者が、それを信じてしまうのです。全世界は今すでに、このような統一国家をもたらす一人の強力な人物を待ち望んでいるのではないでしょうか。人々は、愛と光であるまことの神を退けて、いつわりと殺人者である反キリストを拝むようになるのです。
[6]けがしごとを言う口
六番目の特徴として、13章5節にあるとおり、獣に「ごう慢なことを言い、けがしごとを言う」口が与えられています。
私がその角を注意して見ていると、その間から、もう一本の小さな角が出て来たが、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には、人間の目のような目があり、大きなことを語る口があった。(ダニエル7・8)
ごう慢なことを言うのは、まことの神を低くすることです。反キリストは世界に活発な宣伝をして人々を惑わします。巨大資本による世界の経済支配とか、大自然の改造計画とかが、人間の知恵と力に頼って行なわれます。神聖なものを汚れたものに変えることは、きわめて簡単なことです。これが、終わりの時代の特徴の一つです。
反キリストは、自己の力が限られていることを知っています。それでも悪魔は、神の地位につこうとするのです。反キリストは、「神はいない」と言います。反キリストはごう慢なだけでなく、神からその栄光を奪い取る者です。なぜ、反キリストにこのような力が与えられるのでしょうか。それはイスラエルの民が栄光へと成長するためであり、また反キリストを拝む者たちがさばきに向かって成熟するためです。
さばきを通して、人間の心のなかにあるものが明るみに出されます。イスラエルの残りの者たちは、火の炉の中へ投げ込まれなければなりません。それを通して、銀から「かなかす」が取り除けられるのです。
「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」(イザヤ48・10)
しかし、反キリストを拝む者は、まことの神でない者を自分の礼拝対象とするのですから、あらゆる苦しみを味わなければなりません。反キリストによって立てられるこの統一国家では、国民は自由で独立していると思っているかもしれません。しかし実際は、この国は悪霊に支配され、そしてまた生けるまことの神によっても支配されているのです。反キリストは神が許されることしかすることができません。神が悪魔と人間にこのようなことを許されるのは、すべての人々の前に、「神から離れて自己の目的を追求することは、結局、破滅におちいる」ということを明らかに示されるためです。
現代人と悪霊とは、この世を「まことの神なし」で楽園にしようとしています。しかし、この目標こそが、破局への道になるのです。
[7]限られた期間
七番目の特徴は、反キリストは、神によってあらゆる力を与えられてはいますが、5節にあるとおり、その期間は限られていることです。四十二ヵ月の間、この獣はけがしごとを言うことができますが、それ以上の期間は許されていません。主なる神は四十二ヵ月間だけは悪魔に害を加えないという約束を与えておられるのです。つまり、反キリストの国はほんのわずかな期間しか継続しないのです。
黙示録13章の2節には「竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた」と書いてありますが、5節と7節には、「神が与えられた」いう表現が出てきます。終わりの時代には、世界の真の支配権は悪魔になく、まことの神にあるのです。神は悪魔に自由にふるまわせますが、それは決して神の許しの範囲を出ることはできません。主なる神こそが世界の真の支配者なのです。すべては神にかかっています。神ご自身が、悪魔の時を定めておられるのです。
この終わりの時代の国は、ローマ人への手紙13章に出てくるような神に仕える国ではありません。この国はダニエル7章の23節と黙示録13章によりますと、神に対しては独立した国家です。というのは、この国は、「私は神であり、すべてのものは私に属している」と言うからです。この国は、つまりこの国の支配者である反キリストは、人間が何をしてよいか、何をしてはいけないかを決定するのです。
[8]ののしり
八番目の特徴は、6節あるとおり、この獣は「神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たち」をののしります。反キリストは思い上がり、その思い上がりの結果がののしりとなったのです。それまでは、地上のものを神聖なものに見せかけることが行なわれていたのですが、これから後は、神聖なものを下へ引きずり落とすことが行なわれるようになります。反キリストは、はじめのうちは「すべて目に見えるものは永遠のものである」と言い、すべての人は、その見えるものにすがりつくようになるのですが、その後反キリストは、「見えないものをけがし、ののしる」ようになるのです。
神の栄光をけがすことは、神を意識的にののしることになります。人間は神のようになろうとしますが、神は神ですから、人間は神のようにはなれないのです。
ニーチェはかつて、「もし神がいるなら、私は神になる」と言いました。人は生けるまことの神に対して何もすることができないので、「神はいない」と簡単に否定するのです。
ののしりには、三つがあります。その三つとは、まず「神に向けられ」、「幕屋に向けられ」つまり神のすみかに向けられ、そして「天にいる人々、特に引き上げられた教会に向けられ」るののしりです。見えない世界を確信している人々は、反キリストによって滅ぼされます。人間はこの世にのみ存在すると言われるようになるのです。全知全能の神も幻であると言われるようになるのです。
[9]表面的な勝利
九番目の特徴は、13章7節のあるとおり、反キリストが「聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許された」ということです。この7節をダニエル書7章の21節、「その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。」と比較することができます。ダニエル書における「聖徒たちは、イスラエルの残りの者たちですが、黙示録においても「聖徒たち」は、同じように、イスラエルの残りの者たちと呼ばれています。
ダニエル書の7章の8節にある「小さな角」の支配の期間も、黙示録の獣の支配の期間と同じように三年半です。さらにこの二つに共通している点は、角も獣も、神をののしるということです。
彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。(ダニエル7・25)
反キリストは、聖徒たちに打ち勝つ力を神から与えられます。反キリストは、聖徒たちに打ち勝って、聖徒たちが国家の裏切り者であり、宗教の敵であるときめつけます。そして反キリストの勝利こそが神のさばきだと称するのです。
しかしこの勝利は、ただ表面的なものであり、内面的には、反キリストは聖徒に対して何をすることもできません。まことの神、主を信じるユダヤ人は権利を持たず、祖国を失う者となります。表面的には、あたかも反キリストが、あらゆることについて勝利者となるかのように見えるのです。
しかし、11章3節に出てくる「ふたりの証人」は、反キリストにとって、不安の根元となります。この「ふたりの証人」は、まことの神が生きておられることを思い出させる拠りどころとなります。神は、このふたりの証人のうえに手をおいて、ふたりを守り、悪魔はこのふたりの証人に対して何もできないのです。この大きな苦難の時に、主を信じるユダヤ人たちは、絶え間なく主を叫び求めるようになります。
ルカによる福音書の18章1節から8節までのたとえ話、「神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」は、終わりの時代におけるイスラエル人に対して、励ましとして語られたみことばです。そしてこのたとえ話の終わりに、イエス様は「このような忍耐と信仰とが地上で見られるでしょうか。」と語っておられます。
詩篇7篇のみことばもまた、成就されます。
神よ。国々は、ご自身のものである地に侵入し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを廃墟としました。主よ。いつまででしょうか。あなたは、いつまでもお怒りなのでしょうか。いつまで、あなたのねたみは火のように燃えるのでしょうか。私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。そうすれば、あなたの民、あなたの牧場の羊である私たちは、とこしえまでも、あなたに感謝し、代々限りなくあなたの誉れを語り告げましょう。(詩篇79・1、5、9、13)
主に属するユダヤ人たちが苦難の火の炉に投げ込まれるとき、信仰のない人々は喜ぶのです。
悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは、「神はいない。」の一言に尽きる。彼は心の中で言う。「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。」(詩篇10・4、10)
反キリストは聖徒たちをどのような目にも会わせることができますが、ただ、彼らをイエス様から引き離すことだけはできないのです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8・37~39)
聖徒たちは、たとえ殺されても、その死を克服することができるのです。それは聖徒たちの力によるのではなく、パウロの言う「神の愛であり」、ヨハネの言う「イエス様の血」です。
「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12・11)
反キリストは、羊の皮をかぶっていても獣です。そして、野獣のように憐れみを持たないのです。反キリストはその支配の初めにはイスラエルの民と契約を結びます。しかし、イスラエルの民が彼を拝もうとしない時に、反キリストはその契約を破るのです。「ふたりの証人」と「忠実なイスラエルの民」とは、反キリストに立ち向かうのです。「ふたりの証人」が引き上げられた後で、多くの殉教者がでます。誰でも反キリストに従わない者は、大きな苦しみを受けます。
[10]反キリストの支配の時
十番目の特徴は、7節、8節にあるとおり、生ける神が反キリストに「あらゆる民族、国民を支配する権威を与えられた」こと、「小羊のいのち書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる」ことです。すべての国民は一つにされ、神に逆らいます。すべての国民が反キリストの礼拝を強制されるのです。
今までにも多くの独裁者たちが世界支配を望んできたのですが、いまだにそれを達成した者はありません。ここにおいて、反キリストが初めて世界支配を確立し、そしていわゆる世界平和なるものを実現します。今や戦いは止み、敵対する者もおらず、世界に見せかけの平和が訪れます。経済は発展し、休暇は増え、人々は世界各地に旅行し、楽しみが増えます。人間の住宅問題も食料問題も、すべていい方向に向かうかのように見えます。そしてそこでは、家族を思いやる人、結婚の相手への誠実などはかえりみられなくなり、それらのものは、自由ほん放と肉的な愛にとって代えられるのです。
反キリストの支配は、今までのすべての支配にまさり、反キリストの知恵は今までのすべての知恵にまさっていると思われるようになります。これを認めない者は愚かな人々と言われ、反キリストを尊敬しない者は犯罪者ときめつけられます。ただ、少数の者だけが、この時代の中で異なった思いを抱きます。そういった人々は捕らえられて収容所に入れられます。彼らは、国家の敵であり、進歩に対する敵であると言われるのです。
ただ、キリストの血によって贖われ、キリストの霊に満たされている者だけが、このようなまやかしを見破り、これに抵抗することができます。このようにして、「いのちの書に名前がしるされている者だけが、神の所有とされた者」であることが明らかになるのです。
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。(黙示13・8)
この黙示録13章の8節に対しては、二つの解釈がありますが、いずれも大切な真理を含んでいます。
まずこの8節は、エペソ人への手紙の1章4節と比較することができます。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1・4)
世界の基の置かれるまえに、私たちはイエス様によって選ばれたのです。やがて再興されるローマ帝国の竜、つまり悪魔も、この書に名前がしるされている者たちを神の御手から奪い去ることができないのです。
また私たちは黙示録13章8節を、ペテロ第一の手紙の1章19、20節と比較することができます。
傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。(第一ペテロ1・19、20)
世の始まる前から知られていた小羊、イエス様のことがここに記されています。このみことばによって、私たちは小羊の愛が世界の始まる前から存在したことを知ることができます。人間の創造の以前から、神の贖いのご計画は存在したのです。
2.いのちの書に名前がしるされている人々
黙示録の主な主題は、「礼拝」です。その礼拝は、「小羊イエス様に対する礼拝」であるか、「獣に対する礼拝」であるかのいずれかです。「いのちの書に名前がしるされていない者」は、みな獣を拝むようになるのです。しかし、それは悪魔に強制された礼拝です。
しかし、「いのちの書に名前がしるされた人々」は、絶えず心からまことの神を礼拝します。
彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(黙示5・9、10)
いのちの書は、ほふられた小羊の書です。小羊の書は小羊の中に現わされた神の愛の書です。この神の愛は、人類の歴史よりもなお古いのです。この神の愛は十字架で明らかにされました。それゆえ、パウロはイエス様の十字架を喜んだのです。
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ6・14)
「いのちの書に名前がしるされている者」は、反キリストの足元にひれ伏すことなく、イエス様の血によって悪魔に打ち勝つのです。
「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12・11)
私たちがイエス様に固く結び合わされたのは、主の単なる思いつきではなくて、「世の始まる前」から、定められていたご計画であるということは、すばらしい事実です。イエス様との交わりは永遠の交わりです。それは、誰によっても破られることのない交わりです。何が起ころうとも、イエス様は私たちに対して真実なお方なのです。
最後に9、10節について考えてみましょう。
耳のある者は聞きなさい。とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。(黙示13・9、10)
この9節と10節は大変重要な、終わりの時代にある信者たちへの警告の言葉です。ヨハネは信者がこの言葉を深く受け取るようにと、望んだのです。ヨハネは、ドミティアヌス帝が「自らを神として崇めよ」と命令した時代に生きていました。当時の多くの人々はこの命令を聞いて驚きました。また他の人々は、皇帝を神として崇めることは、たいした問題ではないと考えました。彼らは皇帝の命令が大変なことを意味しているにもかかわらず、そのふりさえしていれば何とかなるのではないかと考えたのです。
しかし、9節と10節は、終わりの世に向けられて語られた大切な言葉です。ヨハネは、この皇帝の命じることがそう簡単なものでなく、実は大変なことであると、はっきり語ったのです。ヨハネは、ここで、逃れることのできない殉教の道を預言しました。そして、この9節と10節の言葉は、その当時の信者にとって大きな力となったのです。この時代の信者たちは皇帝の命令や迫害に対して取り乱すことなく、自分の力に頼ることをしないで信仰を守ったのです。
イエス・キリストに忠実に従った者は、二つの試みに出会うようになります。
まず、主に忠実な人々は、敵との戦いに陥ります。この時、主なる神に頼らずに、「自分の力」で戦おうとする誘惑に陥りがちです。イエス様に従う者は、このような理不尽な命令や圧迫に怒りを覚え、周囲の迫害や抵抗に自分の力で戦おうとします。
しかし、このように自己の力で戦おうと試みることは、神に頼らないことです。自分の力や考えに頼って抵抗することは、一見男らしいことのように思われますが、これはこの世のやり方です。この世に対しては、この世の方法で戦うべきだという考えは間違いで、人間によって組織された抵抗を行なうことは、小羊の道ではありません。
主イエス様は、ほふられる小羊のように引かれてゆき、ご自身を神に捧げられたのです。外面的には、すべては敗北したように見えたのですが、この方法によってイエス様は勝利を得られたのです。そして、このことを通して、イエス様は信者がとるべき道を示されたのです。力や考えによってではなく、人は「忍耐と信仰」によって勝利を獲得するのです。これが本当の勇気です。
信者はイエス様を仰ぎ、イエス様の勝利にあずかることによって、この道を進むのです。危機がせまった時、かつてのペテロのように剣を取って闘うことは誤りです。
すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26・51,52)
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剣は国家にとっては武器であっても、信者の武器にはならないのです。政治と剣は、この世の力です。しかし、神の国の方法は、これと異なります。力の道を進む者は、それによって滅びるのです。悪魔は、信者が自らの力に頼り、自分の手ですべてをしようとする時に、勝利を得るのです。悪魔に勝利するたった一つの方法は、イエス様に対する従順とイエス様に対する愛です。イエス様の道は小羊の道です。それは、信仰と苦しみと、そして愛の道なのです。悪魔は私たちがこの道を進まないように誘惑し、試みるのです。
二つめの試み、誘惑の危険は、何もしないでエリヤのようにあきらめてしまうことです。エリヤは死ぬことを祈りました。
自分は荒野への一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」(第一列王19・4)
エリヤは、「もう十分だ。私は死を望む」と言ったのです。同じように終わりの時代の信者たちも、きっとあきらめの危険にさらされることでしょう。人々はもはや証しする勇気を失います。エリヤの場合は天使が遣わされ、エリヤは水とパンをもって励まされました。この励ましを受けて、エリヤは荒野を通って神の山へ上ったのです。
同じようにイスラエルの残りの者たちも、大きな苦難の時に、水とパンをもって力づけられることでしょう。水とは忍耐を意味します。迫害や憎しみや苦しみや孤独の中にあって、つぶやくことなく耐えることこそが忍耐です。忍耐とは、すべてを神のものとして、神の御手から受け取ることです。そのことを通して信者は、イエス様のくびきが軽いことを体験するのです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11・28~30)
忍耐とは、最悪のことを神のものとして受け入れることです。
信仰とは何でしょうか。それは、絶えることのないイエス様への献身であり、また忠実さです。常にイエス様のもとで重荷を負い、イエス様の勝利を感謝することが信仰です。悪魔の勝利を見ても、イエス様から目を離さないことが信仰です。イエス様はこの世に打ち勝ったお方なのですから。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16・33)
イエス様を見上げる者は、この世に打ち勝つのです。
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(第一ヨハネ5・4)
イエス様を見上げることが、勝利の基となるのです。失望し苦しんだとしても、どのような時にも断念することなく、前進することができるのです。その時私たちは、パウロのように主の勝利を得るのです。
人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(第二コリント6・9、10)
抵抗しないで、また絶望しないで、喜びと感謝とをもって、イエス様の勝利を待ち望むことが大切です。初代教会の信者たちは、忍耐をもって主の再臨を待ち望みました。そして、彼らは証し人としてイエス様に忠実だったのです。この黙示録の9節と10節は、イスラエルの残りの者たちに警告として与えられた言葉ですが、私たちに対する神からの言葉でもあるのです。
私たちも喜びをもってイエス様を待ち望みましょう。
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