8.大きな患難の始まりと終わりとにおける神の民
黙示録7章1節から8節まで
十四万四千人の証印
1.証印の時
2.証印の意味
3.証印を受ける人々
まず、この章の1節から8節までには、イスラエルの十四万四千人の神のしもべたちの額に、「印が押される」ことが記されています。そしてそのことは、大きな患難の時に先だって行なわれるのです。
(1)この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。(2)また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。(3)「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」(4)それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
(5)ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、(6)アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、(7)シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、(8)ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。(黙示7・1~8)
これに続く黙示録の7章9節から17節では、あらゆる世界の民のうちから、数えきれないほど大ぜいの人々が、御座と子羊の前に立っているありさまが描かれています。そしてこのことは、大きな患難の後で起こるのです。
また大きく見ますと、黙示録の4章、5章、6章は一つのものですが、7章はそれらに続く章ではなく、全く異なった内容をもっています。
黙示録を始めから読んでいくと、現実の歴史の中で起こることが、必ずしも順序通りに書かれているとは限りません。また黙示録には、同じできごとが、ある時は簡単に短く、またある時はくわしく長く、くりかえして書かれているのです。
さて、今から学ぶ黙示録の7章は、1節から8節までの「大きな患難の前に起こるできごと」と、9節から17節までの「大きな患難の後に起こるできごと」の二つの部分に分けられます。
この7章の前の6章では、私たちは、「大きな患難の終わりの時代」のあらましを見てきました。そしてヨハネは、終わりの時代のできごとをくわしく示される前に、大きな慰めとなる二つの幻を与えられたのです。
まず始めに、7章の1節から8節までを、ごいっしょに見ていきましょう。
1.証印の時
「印を押す」ことが「大きな患難の起こる前」になされることは明らかです。まず、7章1節の「四方の風」は、6章にある「四頭の馬」を思い出させます。「四頭の馬」がそうであったように、「四方の風」も、終わりの時代の「地を滅ぼす力」を意味しています。また、旧約聖書のダニエル書にも、「四方の風」と「四頭の大きな獣」が記されています。
ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。」(ダニエル7・2、3)
黙示録の御使いたちは、「地を滅ぼす命令と権威」を与えられました。この四人の御使いたちは、終わりの時代に「風を送り込む権威」を与えられ、同時にそれを「止める権威」も与えられました。ですから四人の御使いたちが、終わりの時代の嵐を地上に送りこもうとした時、もう一人の御使いが生ける神の印を持って現われ、その命令を止めてしまいました。なぜなら地が滅ぼされる前に、「神のしもべたちの額に印が押されることが必要だった」からです。「印を押すこと」は、「大きな患難の起こる前」になされるのです。
2.証印の意味
「印を押す」ということは、何を意味しているのでしょうか。それは多くの場合、一個人の所有物であることの宣言です。当時の習慣もまたそうでした。そして印を押すためには、刃物で傷をつけたり、サインをしたりしました。印を押されたものは、印を押した人の所有物です。また印を押すことは、「所有物」であることをおおやけに示すだけでなく、所有者によって「保護される」ことも意味します。所有者は、印を押した所有物に害が加えられると、その害が「自分にも加えられた」とみなします。ですからイエス様に印を押された人々は、同時にイエス様の「護り」もいただきます。イエス様は、「印を押す」ことによって、大きな患難の時に、忠実な人々を護り、保護することを約束なさったのです。
主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ。」そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。(エゼキエル9・4~6)
どんな敵も、印を押された者に「害を加える」ことはできません。ですから最後の裁きは、「印が全部に押され終わった後」に行なわれます。イスラエルの民はエジプトを出る時に、ほふられた小羊の血による贖いによって、主の裁きから守られました。
旧約聖書の他の部分を見ますと、「印を押す」、つまり主の裁きから守られるということは、イスラエルの民に「聖霊が注がれる」ことを通して行なわれたのがわかります。
しかし、主の名を呼ぶものはみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。(ヨエル2・32)
見よ。わたしがユダとエルサレムの捕われ人を返す、その日、その時、わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。(ヨエル3・1、2)
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(ゼカリヤ12・10)
今の時代の信者たちは、聖霊を通して、確認の印、「証印」を押されています。
神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。(第二コリント1・22)
またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。(エペソ1・13)
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。(エペソ4・30)
聖霊を通しての証印は、「目には見えない」ものです。なぜなら、この証印は私たちの内に住まれる聖霊を通して押されるからです。
一方、黙示録に書かれている十四万四千人のイスラエルの人々に押される証印は、「目に見える」証印です。彼らの額に押された証印は、はっきりと見ることができます。
しかし証印には、イエス様のものでない別の刻印もあります。黙示録13章16節から18節には、イエス様にそむいて獣を拝む人々の右の手かその額に別の刻印を受けることが記されています。
主は以前にも、ご自分の民を「しるし」をつけることによって区別されました。たとえば、かもいに塗られた小羊の血のしるしや、割礼のしるしなどです。
このように、押された証印は「所有と保護の保証」です。あなたは、イエス様の所有物とされ、保護の保証をいただいているでしょうか。罪を悔い改め、罪の赦しの確信をいただいていうか。イエス様は、今日も私たちを招き、そして永遠のいのちを提供しておられます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)
あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」(イザヤ43・1)
私たちへの証印は、聖霊を通してしるされます。
神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。(第二コリント1・22)
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(ローマ8・9)
「キリストの御霊を持たない人はキリストのものではありません。」とあります。キリストに属する者は、キリストに所有されているだけでなく、キリストの護りの保証をいただいています。イエス様は、「だれも父なる神の御手から私たちを奪い去ることはできない」、と言っておられます。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(ヨハネ10・28、29)
創世記5章21節から23節に記されているエノクは、真の教会の象徴です。エノクは大洪水の前に、天に引き上げられました。同じように、イエス様はご自身の教会を「大きな患難の起こる前」に天に引き上げられるのです。
また、ノアは主に忠実な人、真のイスラエル人の象徴です。ノアは洪水という大きな患難に会いましたが、主によって守られました。同じように、イエス様はご自身に忠実な人々、真のイスラエル人を、「大きな患難の中」で守られるのです。
3.証印を受ける人々
いままで黙示録を読んだ多くの人々が、7章に書かれている「十四万四千人」とはどのような人々だろうかと考え、研究してきました。そしていつの時代にも、「われわれこそ、この十四万四千人のイスラエル人だ」と主張する人々が大ぜいいました。
真の教会は、「生まれながらのイスラエル人」ではなく、「霊のイスラエル人」によって形づくられています。真の教会はユダヤ人と異邦人でかたちづくられていますが、このような真の教会は、黙示録4章以降の教会の携挙の後には、もうこの地上に存在しなくなります。
こんにち、特にエホバの証人(ものみの塔)の人々が、「我々だけがこの十四万四千人に属する者である」と主張しています。エホバの証人の信者の間では、少数の人だけがキリストの体に属し、パンと葡萄酒による聖餐にあづかることができるということです。
この人たちの説くところによると、十四万四千人という数は、すでに千八百八十一年に満席になっており、もはや空席は、その中で堕落した人々の代わりの分しかないとのことです。ですからその空席に着けない多くの信者たちは、この地上に千年王国を建設することに全力を尽くすことになります。そして彼らの説によれば、千年王国の建設はすでに千九百十四年から始まっているとのことです。また多くのエホバの証人たちは、「われわれは天国には入りたくない。私たちは神の子ではない。私たちは義とはされない」と言っています。彼らは、間違った教えを信じています。そして他の人々をも、その間違った教えへと導き入れようとしています。
では、聖書にはどう書いてあるでしょうか。聖書には、この十四万四千人は明らかにユダヤ人である、と記されています。そうでなければ、5節から8節にわたって十二部族の名前をあげる意味がありません。
また、ここに書かれているのは、霊的なイスラエル人のことではありません。なぜなら、異邦人とユダヤ人とからなる真の教会はすでに地上から取り去られ、もはや地上にはないからです。ですからここに記されているのは、文字通りユダヤ人のことなのです。このユダヤ人たちとは、おそらく黙示録11章にある、二人の証人の働きを通して救われるユダヤ人たちのことでしょう。
またここでは、ダンとエフライムの二つの部族について述べられていませんが、なぜでしょうか。創世記4章17節によると、「ダンは道のかたわらの蛇になる」と記されているからです。また、士師記17章から18章にあるとおり、士師記の時代にダンは組織的な偶像礼拝を持ち込みました。
さて、ダン族は自分たちのために彫像を立てた。(士師記18・30)
そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためにダンにまで行った。(第一列王記12・28~30)
エフライムもまた、これに似た偶像崇拝を行ないました。おそらくダンの部族の中から、反キリストが起こると思われます。このダンとエフライムの部族は、印を押されることがなく、反キリストへの怒りと裁きのときには守られないのです。けれども、この二つの部族が永遠に見捨てられることはありません。二つの部族は、彼らの偶像崇拝によって、主の道具として用いられることはありませんが、千年王国建設の時には、これらの部族も含まれます。エゼキエル書によれば、ダンの名前は、第一にあります。
部族の名は次のとおりである。北の端からヘテロンの道を経てレボ・ハマテに至り、ハマテを経て北のほうへダマスコの境界のハツァル・エナンまで――東側から西側までこれがダンの分である。ダンの地域に接して、東側から西側までがアシェルの分。アシェルの地域に接して、東側から西側までがナフタリの分。ナフタリの地域に接して、東側から西側までがマナセの分。マナセの地域に接して、東側から西側までがエフライムの分。エフライムの地域に接して、東側から西側までがルベンの分。ルベンの地域に接して、東側から西側までがユダの分である。(エゼキエル48・1~7)
なお、残りの部族は、東側から西側までがベニヤミンの分。ベニヤミンの地域に接して、東側から西側までがシメオンの分。シメオンの地域に接して、東側から西側までがイッサカルの分。イッサカルの地域に接して、東側から西側までがゼブルンの分。ゼブルンの地域に接して、東側から西側までがガドの分。ガドの地域に接して南側、その南の境界線はタマルからメリバテ・カデシュの水、さらに川に沿って大海に至る。以上が、あなたがたがイスラエルの部族ごとに、くじで相続地として分ける土地であり、以上が彼らの割り当て地である。(エゼキエル48・23~29)
先の者は後になり、後の者は先になるでしょう。
「いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」(ルカ13・30)
イスラエルの民は、救世主であるイエス様を拒んでしまった結果、世界中の民族の中に散らされてしまいました。しかし、イスラエルのすべての部族はやがて再び集められ、そして救われることになります。
諸国の民よ。主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る。」と。(エレミヤ31・10)
兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。・・・・その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、・・・・(ローマ11・25)
黙示録によると、教会の携挙の後で二人の証し人が現われて悔い改めをすすめ、その後来るべき主を告げ知らせます。これを通して、多くの人々が真の信仰に導かれるのです。
悔い改めのない信仰は、ありえません。神は、ご自身の前に告白された罪、ご自身が認められた罪、そしてご自身が憎まれた罪を全て赦してくださいます。その赦しのあとで「証印」が押されるのです。証印を押されたユダヤ人たちの使命は、世界中の人々に対して「神の証し人」になることです。
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。(マタイ24・14)
これらの証印を押されたユダヤ人たちは、イエス様を来るべき救世主として人々に告げ知らせます。この伝道を通して、多くの人々が信仰を持つことになるのです。
私たちの時代は、風が止んでいる静かな時代のように見えます。戦争や、恐慌、破局、飢饉、また多くの問題がありますが、それでもまだ、今は静かな時代です。
しかしこの静かに見える時代は、「良い政治」の結果でも、「人間の努力」の結果でもありません。この背後には全能の神が立って、全てを支配しておられるのです。
神はその昔、創世記18、19章にあるように、ロトの家族が救い出されるまで、ソドムとゴモラの町の人々に対する裁きを延ばされました。同じように、神は十四万四千人のイスラエルの民に「印が押されてしまう」まで、「大きな患難」を延ばしておられるのです。
なぜ真の教会の携挙が、まだ起こらないのでしょうか。
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3・9)
神はまだ、「救い」と「印を押す」こととを、求めておられるのです。何によって、人は証印を押されるのでしょうか。何によって、「自分はすでに神のものとなり、神に護られている」という確信を得ることができるのでしょうか。
それはただ、「真理のみことばによって」与えられるのです。
私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(第一ヨハネ5・13)
「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思いださない。」(イザヤ43・25)
「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(イザヤ44・22)
すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。(マタイ9・2)
「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」(ヘブル8・12)
しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、・・・・(ヘブル10・12)
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。(エレミヤ15・16)
あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇119・103)
私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。(詩篇119・162)
いつ「証印が押される」のでしょうか。それは私たちが「信仰を持った時」です。そして「信仰を持つ」とは、イエス様を受け入れ、イエス様のご支配を受け入れることです。
何によって、「証印を受ける」のでしょうか。「聖霊によって受ける」のです。聖霊による証印を押された人は、天国に入る権利を与えられます。この証印によって、私たちは悪魔の誘惑から守られるのです。
「教会に属しているかどうか」、また「聖書の知識を持っているかどうか」は重要ではありません。私たちが「内住の御霊を受けているかどうか」が、大切です。
私たちが自分の罪を告白して、子供のような素直さをもってイエス様を受け入れ、イエス様のご支配にすべてを委ねるなら、その瞬間から、私たちは永遠に至る救いを得ることができます。
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