第3巻
ゴットホルド・ベック著
イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったるのである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしるべヨハネにお告げになった。(ヨハネの黙示録1・1)
まえがき
ゴットホルド・ベック
「わたしが、あなたの神、主である。わたしがあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」(詩篇81・10~14)
主は大いなる方。大いにほめたたえらるべき方。その聖なる山、われらの神の都において。高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。(詩篇48・1、2)
英語のヒストリィ(history)という言葉は、ヒズ・ストーリィ(His story)だと言えましょう。歴史とは単なる運命とか偶然の集積ではありません。創造主なる神が支配者としてすべての背後にあって導いておられます。過去も、現在も、未来も、この偉大なる主の御手の中にあります。そして主は、ご自身のご計画を間違いなく成就なさいます。
黙示録が書かれた目的の一つは、「すぐに起こるはずのこと」を、主を信じみことばに拠りたのむ人々に知らせ、力づけるためであり、生き生きとした希望で満たすためです。
世界には多くの有名な都市がありますが、その中でもっとも重要な都市は、言うまでもなくエルサレムです。エルサレムはイスラエルの首都ですが、この事実を認める国は決して多くありません。世界の平和について考えるとき、エルサレムの抱えている問題は、最優先で解決されなければならないものの一つです。
世界の人口の半分以上はキリスト教徒以外の人々です。エルサレムでは、イスラム教徒も多く、エルサレムを聖地として大切にしています。
聖書の中に、エルサレムという名前は八百十一回出てきます。しかしイスラム教徒のコーランには、エルサレムという名前はただの一回も出てきません。にもかかわらずイスラム教徒は、エルサレムだけでなく、イスラエルが現在領有している国土はすべて本来は自分たちのものであり、返還されるべきであると主張しています。ノーベル平和賞をもらったアラファト議長は、かつて、「ユダヤ人は一人残らず殺されなければならない」と発言したことがあります。
エルサレムは、主によって選ばれた町です。列王記第一の8章44節でソロモンは、「あなたの選ばれた町、私が御名のために建てた宮の方向に向かって、主に祈るなら、天で、彼らの祈りと願いを聞いて、彼らの言い分を聞き入れてやってください。」と祈りました。
エルサレムは、他の町とは比べられない町です。エルサレムは、主なる神の、この地上における歴史の中心そのものです。
アブラハムの神、イスラエルの神、そしてヤコブの神は実際に存在しておられるのですから、聖書に従えば、彼らの子孫であるユダヤ人は、今のイスラエルの領土だけではなく、もっと多くの領土を持っていてよいはずです。しかし彼らは、聖書に啓示されているまことの神、そのひとり子である主イエス様の存在を認めようとせず、当然ながら「神によって約束された土地」を信じようとしないのです。
しかし、聖書の中で、ユダヤ人に対してはっきりと国家としての主権や土地の領有を約束された主は、今も生きておられるだけでなく、自分の約束を確実に実現する力をお持ちです。
もしイスラエルに、隣国が主によって約束された土地を与えるなら、それは隣国にとっても利益となり、政治的にも経済的にも繁栄するようになるでしょう。また、現在イスラエルに住んでいるアラブ人たちは、イスラエルの国に永住することによって、束縛されずに自由を得るはずです。しかし問題は、イスラム教という宗教です。
悲劇的なのは、次の事実です。現在イスラエルに住んでいる多くのユダヤ人たちは、無神論者です。ですから彼らは、「全能の神が約束された土地は、必ず与えられる」と確信することができません。その結果、彼らは見当違いのことをしています。つまり、ユダヤ人の最大の敵であるイスラム教徒とカトリック教会とに交渉すれば、問題は解決可能だと思っています。
かつてカトリック教会に属していたドイツのアドルフ・ヒットラーは、明言しました。「ユダヤ人を一人残らず抹殺することは、私の教会の長年の目的であり、ユダヤ人がいるかぎり、世界には平和がない」と。
主なる神によって選ばれた民であるユダヤ人を滅ぼそうとする国々は、決して祝福されることはありえません。聖書ははっきり言っています。
「あなたを祝福する者をわたし(主)は祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」(創世記12・3)
かつてイエス様は、次のように言われました。
「こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」(マタイ5・6~9)
現在、大部分のユダヤ人にとって大切なのは、「聖書に約束されていること」よりも、「ユダヤ人の言い伝え」です。イスラエルの政府は、全能の神、主の約束を信じようとせず、外交交渉によって、極めて困難な、きわどい平和を模索しています。
しかし、それとは関係なく、主の約束は必ず実現します。
「わたしは、わたしの民イスラエルの捕われ人を帰らせる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない。」とあなたの神、主は、仰せられる。(アモス9・14、15)
千九百八十年の七月三十日、イスラエル政府は「エルサレムは、永久に分割されることはない」と宣言しました。イスラエルの歴史はたしかに悲劇的です。ユダヤ人のように悩み、苦しみ、憎まれ、迫害された国民は他にありません。しかしユダヤ人は、主イエス・キリストを認めようとしないために、自分の蒔いた種を刈ることになったのです。彼らは二千五百年間迫害され、自分の国を失って流浪の生活を強いられました。
また現代のユダヤ人たちは、かつてそうだったような模範的な国民だとは言えなくなっています。他の国々の悪いところが入り込んできています。
一方、現在のイスラエル国内のイスラム教徒を見ても、事態は悪くなる一方です。多くの夫は暴力を振るいます。しかもその結果、もし妻が殺されてもそれは悪いことではではない、とイスラム教のコーランに書かれています。イスラエルのイスラム教徒の中でも、このような悲しい現実を見かけるようになっています。
それだけではなく、イスラエルの約二十万人の人々は、薬物中毒です。そしていろいろな映像メディアやテレビゲームによって毒された多くの人々は、現実の世界から離れ、夢の世界の中に生きるようになっています。
また、結婚についても、籍を入れずに同居すればよいと考える人々が増え、入籍してもすぐ離婚する人々が非常に多くなっています。同性愛者同士の結婚も普通の結婚と同様に認めるべきだと考える政治家たちも増えています。結局、イスラエルでは、主なる神が定めておられる「罪」は、もはや罪ではなくなりつつあります。
また、カトリック教会は、父なる神、子なるイエス、聖霊を信じています。しかし、イスラム教では、神は「父なる神」ではなく、ましてその「子」など認めようとしません。
聖書は、まことの神は人間を例外なく愛していてくださり、その証拠として、神のひとり子イエス様を人間を救い出すための犠牲にしてくださった、と述べていますが、イスラム教のコーランでは、神は正しい人間しか愛そうとしない神です。罪を犯した人をまことの神が救われる、という贖罪、罪の赦しは存在しません。
そして問題は、カトリック教会が、イスラム教が礼拝する神と、カトリック教会が礼拝する神とは同じである、と宣言していることです。
イスラム教徒にとっては、イスラエルは地上から消されるべきで国です。さもないと、イスラム教の説く教義はまちがったものになるからです。
マホメッドは十六人の女性と結婚しましたし、またそのほかの少なくとも六十四のそばめたちを使っていました。彼はおそらく読み書きにも不自由でした。コーランの中には、主イエス様は十字架の上で死なれなかった、と書かれています。その意味で、イスラム教もユダヤ教も、主イエスの十字架の血による贖いの大切さを無視しています。
近い将来、これらの問題は恐ろしい解決を見るようになります。つまり、ユダヤ教も、いわゆるキリスト教も、そしてイスラム教も、一人の強大な人物によって一つにされるのです。この人物は聖書の中で、「反キリスト」と呼ばれています。ローマ法王は、自分はイエス・キリストの代表者である、と言いますが、しかしこの言葉をギリシャ語に訳すと、反キリストとなります。
この驚くべき歴史の進展は、空中再臨の後で起こります。空中再臨のとき、主イエス様によって救われた何百万人の人々は、いっぺんに地上からその姿を消します。彼らは死を見ないで天に引き上げられます。この空中再臨によって、世界は大きなショックを受けます。そして、それから反キリストの時となるのです。
主イエス様は、いつ来られるかわかりません。今日かもしれません。明日かもしれません。私たちはいつもイエス様を待ち望んで、期待をもって生活すべきです。主イエス様を待ち望まない者は、祝福されえません。そしてイスラエルの国、またイスラエルの国民のために祈らない者は悪魔の側に立つ者です。
目次
すぐに起こるはずのこと――ヨハネの黙示録(第3巻)
まえがき・・・・ゴットホルド・ベック
第3部(黙示録対応章・節)
10.嵐の前の静けさ(8・1~5)
11.四つのラッパのさばき(8・6~12)
12.第五のラッパのさばき――第一のわざわい(8・13~9・12)
13.第六のラッパのさばき――第二のわざわい(9・13~21)
14.近づいている神のご計画の成就1――天の御使いの特徴と権威(10・1~7)
15.近づいている神のご計画の成就2――人間の使い、ヨハネの権威と備え(10・8~11)
16.真のイスラエルと、偽りのイスラエルの測り分け(11・1~2)
17.ふたりの証人(11・3~14)
18.世界を統治するための主の来臨・第七ラッパのさばき、第三のわざわい(11・15~18)
19.神とメシヤに対する竜の戦い(11・19~12・6)
20.悪魔に対するミカエルの戦い(12・7~12)
21.神とその民に対する悪魔の迫害(12・13~18)
22.聖徒の忍耐と信仰(13・1~10)
23.悪魔の道具、地からの獣とにせ預言者(13・11~18)
24.悪魔の権力と誘惑のなかのなぐさめ(14・1~5)
25.大きな苦しみの終わりの時代への預言(14・6~13)
26.さばきへの知らせと警告(14・14~20)
27.さばきの中で守り通される者たち(15・1~8)
・カラーページ「ドイツよろこびの集い」
・キリスト集会のご案内
・キリスト集会出版物のご案内
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