2006年10月15日日曜日

夏は近い

夏は近い

2006年10月15日、吉祥寺福音集会
染野茂夫

司会のヒロ兄弟に先ほど歳を尋ねたら、27歳になったそうです。彼が洗礼を受けたのは10歳の時でしたから、もうあれから17年の歳月が経ったたわけです。彼は二つ上の兄、ケン兄弟と共に、ここで洗礼を受けました。あの二人の兄弟が、どうして救われたかと言うと、お母さんのヒロコ姉妹がアル中になってしまったからです。お父さんのセイジ兄弟は事業に失敗して、家に寄り付かなくなってしまったからです。

他人の目には悲劇と映るような状況の中で、10歳のヒロオと12歳のケンは主の救いに与りました。洗礼を受けた時の10歳のヒロ兄弟の喜びの証しとは、「イエス様はいちばん」、兄のケン兄弟の証しとは、「再臨はいつかなあ」というものでした。あの少年の二人は、そのような信仰の態度を持って歩んだから、主はいつくしんでくださり、立派な兄弟として成長させてくださいました。お祖母ちゃんのテルコ姉妹も救われ、お父さんのセイジ兄弟も救われ、家族揃ってクリスチャン・ホームとして祝福されております。

あの10歳のヒロ兄弟が27歳になって、ヨーロッパで工場を立ち上げ、南米で工場を立ち上げ、国際的に活躍していることは主の恵みであります。さっき、司会の様子を横から見ていて、「誰かに似ているなあ」と感じたんですね。あのハンカチ王子、早実の斎藤投手によく似ている。主の聖霊を受けているから、もっと爽やか、もっと清いかも知れません。ヒロ兄弟も北朝鮮の核実験のことを話しましたけれども、今、世界はそのことで、てんやわんやの大騒ぎをしております。

しかし、今から六十五年前に日本はもっと凄いことをしました。1941年12月8日、日曜日の朝に、日本の戦闘機350機が編隊を組んでアメリカのハワイの真珠湾を攻撃したのであります。歴史に生々しい真珠湾攻撃です。この時、一番機に乗り込んで爆撃の指揮を取ったのが、時の海軍大佐、キャプテン、淵田美津雄でした。39歳の若き海軍大佐、キャプテン淵田は真珠湾攻撃をしたすぐその後に、あの有名な電文を打ちますね。

「トラ・トラ・トラ(我、奇襲に成功せり)」

指令部にいた山下奉文大将、南雲中将に宛てた有名な電文です。「我、奇襲に成功せり(トラ・トラ・トラ)」そして、この真珠湾攻撃によって、日米開戦の火蓋が切られました。アメリカはこのことを引き金にして、大戦に参戦したのであります。あの時、アメリカ合衆国の大統領ルーズベルトは何と言ったかというと、「リメンバー・パールハーバー!」と言いました。この『リメンバー・パールハーバー』ということばが、一つの合言葉となって、国論を一つにまとめて戦いに参戦したのであります。この真珠湾攻撃から始まった第二次世界大戦は3年9ヶ月に及び、そして、日本、ドイツ、イタリヤという三国の惨めな敗戦によって終止符を打たれました。

『リメンバー・パールハーバー(あの真珠湾を決して忘れない)』ということばに込められたものは、悲しみと憎悪であります。静かで平和な生活を、何の予告もなしに破壊した日本軍による真珠湾攻撃を、決して忘れないという憎しみによって、アメリカは一丸となって、日本に勝利しました。この真珠湾攻撃によって、一瞬にして、二千名のアメリカ人が殺害されたと言われております。今でもあの撃沈された戦艦アリゾナには、この時、死んだ死体がそのまま放置してあるそうです。理由は、『リメンバー・パールハーバー』です。燃料庫から漏れ出したオイルは、今も流れ続けております。「黒い涙」と呼ばれているそうです。今でも真珠湾に浮上し続けていると言われています。

あの2001年9月11日のアラブ・ゲリラによる同時多発テロが起こったときに、アメリカのメディアは一斉に、「リメンバー・パールハーバー」と報道しました。

あの時、真珠湾を奇襲攻撃して成功させた海軍大佐、淵田美津雄は、その時、英雄でした。しかし、敗戦後、彼は一転して、戦犯として、犯罪人として、償還されたのであります。戦後の日本を統括したマッカーサー元帥率いるGHQに、すなわち、連合軍の総司令部に、彼は何度も呼び出されました。しかし、なぜか彼は罪を免れるんですね。しかし、淵田美津雄は、東条英機らA級戦犯と同じように、名もないB級、C級の戦犯を何の根拠もなしに処刑したあの極東裁判に、憤りと不信を募らせます。

そして、激怒した淵田美津雄は、修羅のように憎しみの塊となって、あの裁判の結果、あるいは、アメリカの不当で不正な捌きを告発する作業に没頭して行きます。

このような日々の中で、彼はある日、アメリカの捕虜収容所から帰還した一人の日本兵から驚くべき事実を知らされます。アメリカのユタ州にある捕虜収容所に入れられていたこの日本人捕虜は、そこで働いていたアメリカ人の少女、マーガレット・コベルについて、淵田美津雄に語りました。彼女は、非常に親切で献身的に、かつての敵国であった日本人の捕虜たちの世話をしてくれたということです。彼女の両親は宣教師でした。そして、あの大戦が始まり、フィリピンで伝導していた彼女の両親は、スパイ容疑で日本軍に逮捕され、有無を言わさず処刑されたそうです。処刑されるときの様子は、アメリカにいた娘のコベルに伝えられました。処刑される時にコベルの両親は、聖書を開いて、祈りをもって死に向かったと伝えられたのであります。

マーガレット・コベルは無残な無実の死に際しても、聖書を開いてなお祈り得たあの両親の信仰に支えられて、敵国、日本の捕虜に対して献身的な世話と奉仕に従事していたのです。この事実を知ったとき、憎しみの塊だったかつての海軍大佐、淵田美津雄は、雷に打たれたような衝撃を受けました。

時を同じくして、彼は、渋谷の駅頭で一枚のトラクトを手渡されます。このトラクトを渡したのはジェイコブ・デェシーザーというアメリカ人でした。この時、デェシーザーは、宣教師として、日本で伝導していました。戦争中、彼はあの有名なドゥーリトル爆撃隊の兵士として、日本の爆撃に従事していたそうです。しかし、デェシーザーは、なぜか日本爆撃の後に、中国に不時着しました。そこで、中国にまだいた日本軍に捕らえられて、彼は捕虜収容所に入れられたそうです。

このとき、日本軍の捕虜収容所に入れられていたアメリカ人の捕虜は、七名いたそうです。そのうちの三名は処刑され、二人は餓死し、デェシーザーを含めた三人が命からがら解放されたそうです。そのデェシーザーがどうして自分を悲惨な目に会わせた敵国、日本でイエス・キリストを宣べ伝えているのか、一枚のトラクトを通してこの事実を知ったとき、キャプテン淵田は、あのマーガレット・コベルのときと同じように震えが止まらなかったと回想しております。マーガレット・コベルの証しを聞き、デェシーザーの伝道の姿を見たときから、淵田美津雄は聖書に没頭して行きます。

そして彼は一つのみことばよって救われました。それは、彼が個人的にイエス様を体験するみことばでした。

ルカ
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分ではわからないのです。」

このみことばは、十字架に架かったイエス様が、ご自身を十字架に架けた目の前の大勢の人々だけではなく、全人類の罪を赦すために祈られた祈りであります。

淵田はこの祈りを通して、イエス様が自分の罪のために死んでくださったこと、さらに、イエス様の流された血潮ゆえに、昨日までの悲しみも憎悪も惨めさも、すべてが解放され、自由であることを体験しました。これこそ、淵田がイエス・キリストの十字架の死とよみがえりを、個人的に体験したのであります。この十字架のイエス様の祈りによって、淵田は主イエス様の救いに与りました。そして、イエス様のこの十字架上の祈りこそ、あのマーガレット・コベルの両親が、処刑を前にして聖書を開いた箇所であり、死を前にして祈り得た祈りであり、この祈りに支えられて娘、コベルの献身的な奉仕があったとわかったのであります。

そして、このイエス様の十字架上の祈りこそ、あのドゥーリトル爆撃隊の爆撃士だったジェイコブ・ディシーザーをもってして敵国、日本でイエス様を宣べ伝えることができる力になったとわかったのであります。

真珠湾攻撃から十年の後、48歳でイエス様に救われたキャプテン淵田は、その後、十年間、アメリカ全土で伝導しました。もちろん、ハワイにも行って、イエス様を宣べ伝えました。

彼の証しとは、「私は主なる神、イエス様によって自分の罪を知りました。しかし、イエス様は私のその罪を、十字架の死をもって赦してくださいました。このイエス様の赦しを体験したことですべての不条理から、自分自身の力ではどうすることでき来ない悲しみから、憎しみから、惨めさから私は解放されました」。

彼のメッセージの中心はこれであったようであります。

淵田美津雄兄弟は、今から30年前に73歳で天に召されました。そして、彼がその晩年に書き記した自叙伝が未完のまま残されております。彼の自筆による原稿用紙二千枚に及ぶ自叙伝であります。彼は、その本のタイトルに、「夏は近い」と書きました。そして、著者名の上に、「再臨信仰者、淵田美津雄」と書いたのであります。イエス様の再臨をひたすら願う信仰者として、救われたキリスト者として、「夏は近い」と題した、まだ未完でありますけれども膨大な自叙伝を残したのであります。

「夏は近い」という題名は聖書に語られたイエス様のことばから取られております。

マルコ
13:26 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
13:27 そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。
13:28 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
13:29 そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

「人の子が雲に乗って来る」と、ここでイエス様はご自身の再臨について約束されております。そして、主の再臨については、イエス様は父なる神だけが知っていると何度も言われたように、その時を明示されていません。しかし、主の再臨の一つの兆候として、ここでイエス様は、はっきりと言われております。いちじくの木の枝が柔らかになって葉が出てくる時であります。意味は、イスラエルの国家が再建された時です。

いちじくの木とは、イスラエル国家の象徴です。枝が柔らかくなって葉が出てくるとイエス様は言われましたけど、それは、「イスラエル国家が再び国を再建する」ということです。神の選びの民と呼ばれるユダヤ人は、このイエス様が言われた時から二千年にわたって国を失い、追われ、流浪の民として世界中に散らされました。私たちは歴史の事実としてそれを知っています。しかし、ユダヤ人たちが再び、あの失われた国に帰って来て、イスラエル国家を再建する。そして、その後にイエス様は来られると、ここではっきりと約束されております。

そのようにこれらの起こることを見たら、主が戸口まで近づいていると知りなさい。夏は近いのです。すなわち、イスラエル国家の再建が果たされたならば、主の再臨も間近いという約束であります。

紀元70年に、ティトゥス率いるローマ軍によって、エルサレムは陥落しました。約百万のユダヤ人がその時、虐殺されました。そして、イスラエルは国家を失い、イスラエル国家は地上から消滅したのであります。

その後、二千年にわたるユダヤ人の放浪の歴史は、そのまま、迫害と虐殺の歴史でありました。その最たるものはまだ記憶に生々しいあのヒトラーによるホロコーストです。六百万人と言われるユダヤ人が殺されました。第二次世界大戦の時であります。しかし、驚くべきことに、聖書はこの主なる神ご自身の愛の対象、選びの民であるユダヤ人の迫害と虐殺の歴史をすでに予言しております。

申命記
28:64 主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。
28:65 これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない。主は、その所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を弱らせる。
28:66 あなたのいのちは、危険にさらされ、あなたは夜も昼もおびえて、自分が生きることさえおぼつかなくなる。
28:67 あなたは、朝には、「ああ夕方であればよいのに。」と言い、夕方には、「ああ朝であればよいのに。」と言う。あなたの心が恐れる恐れと、あなたの目が見る光景とのためである。

まさに二千年にわたる流浪の民、ユダヤ人の歴史について、モーセは今から三千五百年も前に、このように予言したのであります。ホセヤも同じようなことを言っております。

ホセヤ
9:17 私の神は彼らを退ける。それは、彼らが神に聞き従わなかったからだ。彼らは諸国の民のうちに、さすらい人となる。

イエス様もまた言われました。

マタイ
23:37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
23:38 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。

主なる神によって選び出され、神の救いと愛の内に守られていたユダヤ人たちは、神への従順を忘れた結果、すなわち、主なる神に聞き従わなかったゆえに国を失い、世界中に散らされ、迫害と虐殺の長い時を生きなければならないと、聖書ははっきりと予言しているのであります。

しかし、1948年の5月14日、第二次世界大戦が終結してまもなく、ユダヤ人たちは国を再建しました。あのパレスチナの地に、かつて追われたと同じ乳と蜜の流れる大地シオンに、ユダヤ人たちはイスラエル国家を再建したのであります。この事実もまた、イエス様がいちじくの木のたとえで言われただけでなく、聖書の中に数多く、とくに旧約聖書にはたくさん予言されております。

例えば、エゼキエルは、『わたしはあなたがたを諸国の民の中から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。』イザヤは、『主は、国々のために旗を上げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされたものたちを地の四隅から再び集められる。』この流浪の民、国家なきユダヤ人たちの国の再建を、現代人たちは奇跡と呼びますけれども、聖書は、「主なる神の予言の成就である」と言います。神の救いの計画の一環であり、神の必然であると、聖書ははっきりと言っているのであります。

イスラエルは、今から58年前に聖書の約束どおりに国家を再建しました。ですからイエス様が言われたように今はまさに、「夏は近い」、主の再臨が近い時代であります。イエス様は、ご自身が再び来られる時代のその兆候に対して、次のように予言されております。再臨の章と言われているマタイ伝の24章3節から。

マタイ
24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

ここに主の再臨の予兆がイエス様によって語られています。

イエス様が再び来られるときを、人々は終末と呼びますけれども、正に終末の予告がここに書かれております。ひと言で言うと、さまざまなことがありますけれども、現代が終末であるという象徴は、イエス様が言われたように多くの人の愛が冷たくなる、と言う事実に集約されるのでないでしょうか。

イエス様が語られたように、今の時代は終わりの時代です。たとえば、地球規模の環境破壊、温暖化に因る異常現象、経済効率優先と弱肉強食の論理の支配、戦争の多発とその不安、教育の荒廃と格差の蔓延など、社会的現象はこの地上、終わりの時代の現代を被っております。

しかし、その最たるものは、そのような中にあって生きる現代人の心は――愛は――冷たくなっている。これが、イエス様が言われた終わりの時代の特徴です。人々の愛が冷たくなるということはどういうことかと言うと、人々は徹底した自己中心の生き方をします。そして、他者に対してまったく無関心になって行きます。国単位で、民族単位で、個人単位でこのことが今、世界に蔓延している。

だから終わりの時代だと主は言われるのであります。現代は聖書が予言する終末の時代です。だから、「イエス様の再臨が近い。まさに、『主は近い』のであります。

聖書が予言するイエス様の再臨とはどういうものでしょうか。

第一テサロニケ
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。(・・・・主は再臨されます。・・・・)それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

ここで語られているように、イエス様の再臨は、初め空中再臨と言う形で、イエス様が空中まで降りて来られます。英語で、トランスレーション=生きたままの昇天、あるいは、ラプチュア=摘み上げられるというような意味です。まず、イエス様が空中まで降りてこられた時に、すでに死んだキリスト者たちもみなよみがえり、そして、そのとき地上に生きているクリスチャンたちも栄光の体によみがえって、いっぺんに天に引き上げられて、主とともに一堂に会するということです。そして、「永遠の命をとこしえに生きる」ということです。

この空中再臨については、花婿、イエス様との婚姻のときとも聖書は呼び、信じるものにとっては天国の始まりです。イエス様からいただいたよみがえりの命、永遠の命を生きる天国の始まりと言ってもいいでしょう。終わりの時代に、どうしてイエス様は空中再臨されて、私たちを皆、天に引き上げてしまうのでしょうか。

すなわち、空中再臨のイエス様の目的とは何なのでしょうか。一つは信じる者たちがすべて、天に引き上げられた空中再臨のあとで、この地上に大変な時代がやってくるからであります。大艱難の時代といわれる悲惨を極めた悲劇が、この地上を七年間にわたって被うと聖書は言っております。壊滅的な天変地異が多発して、また、疫病が蔓延してハルマゲドンへと導かれる多くの戦争が多発します。

この七年間にわたる悲惨な状況こそ、正に聖書のいう終末であります。そして、この七年間にわたる艱難の時から私たち信じる者たちを購うためにイエス様は、私たちをまず天に引き上げてくれます。主のこれが空中再臨の目的の一つであります。

黙示録
4:1 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」

「ここに上れ。」というイエス様のひと言によって、空中再臨は成就します。そして、この後、必ず起こることとは、七年にわたるかつて地上の人類が経験したことのない悲劇、すなわち、大艱難の悲惨であります。この後、ヨハネは黙示録の6章以降で、七つの封印の話、また、七つのラッパのたとえ、また、七つの鉢をぶちまけるという、きわめて比喩的な、それも暗喩的な表現で、この地上を被う大艱難の時代の悲惨と悲劇について、具体的に記しております。聖書を開いてみましょうか。

黙示録
6:7 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
6:8 私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。

8:7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。
8:8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
8:9 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。
8:10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
8:11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。

16:2 そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。
16:3 第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。

ヨハネは、黙示録6章以降で、この大艱難の七年について多く書き記しております。別の箇所で、人類の三分の一を殺すために、二億の軍隊が編成されたとも、黙示録の中に書かれております。当時、全世界の人口は一億もなかったそうです。しかし、聖書はそのような時代にあって、二億の軍隊がエルサレムを攻めてくると書いたのであります。そして、一瞬にして世界の人口の三分の一が死ぬと、当時のあの貧弱な武器ではとても考えられない殺戮の事実も予言しております。

しかし、中国はもう十数年前に、二億の軍隊を組織しました。現代の核兵器を持ってすれば、世界の人口の三分の一を一瞬にして殺戮することは可能であります。ヨハネは、きわめて比喩的なたとえで、このような恐ろしい事実を書いておりますけれども、言っている中身は事実であります。必ず起こることであります。

この時代にあって、人々はあまりの苦しさゆえに死を願います。すなわち、人々は自殺しようとしますけれども、主なる神はそれをも許さないと、はっきり黙示録には書かれております。全地を死んだ人の血が被い、その血は洪水のようになり、そして、馬に乗った人の馬のくつわほどに届くほどになったとも、ヨハネは書いております。

主の空中再臨の目的の一つは、今述べたような大艱難の地上の悲惨から信じる者たちを先に救い出すためであり、そして信じるものにとって、それはそのまま天国の初めであります。そして、その時、地上に残された未信者にとっては、主なる神の苛烈なご臨在の証しであります。

携挙の後の地上は今、言ったように反キリスト、にせ預言者と呼ばれる人々が一つの大勢力を結集して、主なる神に敵対し続けます。すなわち、悪が地上を被います。それに対して、この大艱難の七年においては、主なる神は徹底して彼らと戦います。すなわち、「悪魔」と「主なる神」との戦いが七年間にわたって繰り返されます。主なる神は、悪魔に最終的な勝利をするために、その攻撃の手を緩めません。そして、その悲劇は苛烈を窮め、徹底しているとヨハネの黙示録は記しております。

それから、空中再臨のもう一つの目的とは、主なる神に救われ、愛され、主なる神御自身の瞳とまで言われて守られたユダヤ人たちの救いであります。彼らは、イエス様を十字架に架けて殺しました。徹底して主なる神の言うことを聞かないうなじの強い民となりました。二千年にわたる迫害と虐殺の歴史を通してもまだ、主なる神を、イエス様を信じようとしません。結局、主はこの大艱難の七年を通して、選民であるユダヤ人を救うと聖書は、はっきりと記しております。

黙示録
7:3 「私たちが神のしもべたち(・・・・ユダヤ人たち・・・・)の額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」
7:4 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。

そして、この艱難の時代にイエス様の救いに与ったユダヤ人たちは、この時代にあって主を証しし続けます。すなわち、福音を宣べ伝えます。その結果について多くのユダヤ人だけではなく、多くの異邦人もまた、この悲惨な時代を通して救われたと聖書は記しております。

黙示録
7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

艱難の時を通して、選びの民ユダヤ人たちは主の救いの計画通り、約束通り救われます。主なる神の救いの成就は、主なる神の必然であり、計画の一環であります。ヨエル書、ゼカリヤ書には、次のように表現されております。

ヨエル
2:32 しかし、主の名を呼ぶものはみな救われる。主が仰せられたようにシオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに呼ばれる者がいる。

ゼカリヤ
13:8 ・・・・その(・・・・ユダヤ人の・・・・)三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。
13:9 わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民。」と言い、彼らは「主は私の神。」と言う。

空中再臨の後の大艱難の七年はユダヤ人たちの救いのためであります。どうしてユダヤ人を救うかと言うと、永遠の昔に主は約束されたからであります。そして、この大艱難の七年の終わりに、主は再び再臨されます。今度は空中ではなく、ご自身が自らその御足をこの地上に着けられます。

使途の働き
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。

主の公の再臨とは、イエス様が主の主として、王の王として、この大艱難の七年に、荒れ果てた地上に神の国を創るために来られます。そして、このイエス様が地上に創られる神の国の中心を成すものは、あの大艱難の七年の間に救われたユダヤ人たちであります。千年王国というこの王国の中心は間違いなくユダヤ人たちであります。そのために主は空中再臨の後の大艱難を通してユダヤ人たちをも救い出した。これもまた目的の一つであります。

黙示録
14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。(・・・・オリーブ山の上に主は立たれました。・・・・)また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。

公に再臨されたイエス様は千年王国を地上に建て上げられるためにシオンの山(オリーブ山)に立たれました。そのとき十四万四千人のユダヤ人たちもともにいたのであります。あの大艱難の時代にあって、イエス様の福音によって救われた十四万四千人のユダヤ人たちは、千年王国の初穂となりました。そして、その千年王国については、主は次のように書いております。

黙示録
20:4 ・・・・また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。

地上に神の国、千年王国が建て上げられ、それを統治、支配する十四万四千人のユダヤ人たちと、あの艱難の時代に殉教の死を遂げた信じる者たちもみな復活して、統治に加わると聖書ははっきりと約束しております。

イエス様の空中再臨とは、信じる者たちにとっての正に天国の始まりであり、そのとき、「残りの者」と呼ばれる神の選びの民、ユダヤ人にとっては艱難の七年を通して、イエス・キリストの救いに与り、そして、主なる神の計画通り、この地上にとともに、千年王国を建て上げる始まりであります。

この千年王国の後に天と地は滅び去り、新しい天と地(新天、新地)が創造されると聖書ははっきりと断言しているのであります。旧約聖書にはイエス様の初臨、すなわち、降誕についての予言は三百以上、書かれていますけれども、主が「再び来られる」という約束は、実に五百以上、書き記されていると言われます。そして、聖書が神の救いの計画表ならば、今の時代は、まさに主なる神の救いの計画の最終段階であります。エピローグに入っていると言ってもいいでしょう。なぜならば、主の再臨が近いからです。

淵田美津雄兄弟は、未完の自叙伝に、「夏は近い」と題しました。「イエス様の再臨は近い」という意味です。そして、自らの著者名の上に、「再臨信仰者」と書きました。今の時代にあって主の再臨を祈り、待ち望むものは私たちを含めて、多くの信じる者たちの希望の生活であります。そして、ペテロは次のように言いました。

第二ペテロ
3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

再臨が間近に迫った今の時代にあって、私たちは主にその再臨を願いますけれども、同時にそのような時代だからこそ、一人でも多くの人が早く救われる必要があると、ペテロはここで手紙に書いております。私たち、救われた信仰者ひとり一人に何を成すべきかを強く問いかけた手紙がイエス様から届いている。これが今の時代の特徴でしょう。

私たちのまだ救われてない家族、友人、知人、また、身近な愛する人々の救いについて、私たちはどのようにしているか、ということを厳しく問われる時代でもあります。一人でも滅びずと主は再臨の前に願っておられます。

どうして主は、再臨の前にこのような手紙を私たちに突きつけるかと言うと、千年王国が終わり、新天、新地に移される前に、すべての未信者――主を信じない者――は、主の前に立たされます。死んだ未信者は復活させられて、主の前に立たされます。そして、この最後の審判を通して、イエス様を信じない者たちはみな、永遠の滅び、今はまだできていない、その時できるであろう地獄の火の池に投げ込まれるからであります。

救世軍のブース将軍は、若き伝道者たちに向かってこう言いました、もし、ほんとうにイエス様を宣べ伝えたいならば、一度、あの地獄の光景をみてくるとよい。そのように恐ろしい最後の審判がイエス様をかたくなに拒否する人々の上には待っていると、聖書ははっきりと約束しているのであります。

最後に黙示録の22章、聖書の最後のページから何箇所かお読みして終わりましょう。

黙示録
22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。・・・・」

22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。・・・・」

22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

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