回復への希望
2019年3月23日、バンクーバー喜びの集い
翻訳虫
エゼキエル
36:25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
(1)
今、読んでいただいた箇所を含め、エゼキエル書は私にとって、とても心を惹かれる書のひとつであり、また、何かわからなくなると必ず戻ってきて読み返すところです。
私は、移住者として二十年近く、トロントに住んでいますが、私にとって、このバンクーバーというのは大きな意味を持つ場所です。というのは、私たちは、日本を出る前から、キリスト集会には時々、足を運んではいたのですが、そのころは、主に対する信仰は持っていませんでした。それが、カナダに住み始めた後、このバンクーバー喜びの集いに参加したことがきっかけとなって、主の元に引き寄せられ、救いを受け入れることができたからです。
本日、このエゼキエル書を中心として、主による回復について、お話をさせていただきますが、これは、自分が信仰に導かれるまでの過程と切り離すことができません。そこで、これまでの自分の体験を交えながら、お話させていただきたいと思います。
このエゼキエル書とは、旧約聖書におさめられた預言書のひとつであり、ユダヤの民が、国を追われ、バビロンに捕囚されるという預言から始まります。本来ならば、イスラエルの地で、神に祝福されていたはずのユダヤ人たちが、神の声に従うことを拒んで、偶像を拝んだために、その報いとして大きな苦しみを受けることが告げられています。
エゼキエル書の前半部分は、確かに、この民に向けられる神の怒りのことばに溢れてはいます。しかし、エゼキエル書は、神に反逆した者が、苦しみの末に滅亡するという話ではありません。逆に、どれだけご自身に背いたものであっても、神は決して、そのまま滅びることを望んではおられず、その者が、自分の過ちに気づく日を待っておられるという約束の書でもあります。
私自身も、長いあいだ、主の声に耳をふさいできたものであり、神にそむきながらも、後に回復を与えられるこの捕囚の民の経験を、自分と重ねあわせながら、いつも、この書を読んでおります。このことを具体的ご説明いたします。
私たちは1993年、キリスト集会で結婚式をしていただきました。しかし、これは、妻の両親の希望にこたえただけで、信仰のない私には、そこで聞いたお話も心には入りませんでした。ただ、お話の合い間に、ベック兄の言われたあることが、はっきりと記憶に残っています。
ベック兄が、その結婚式の後で、末期的な状態にある重病の患者さんのお見舞いに行く予定になっていると言われたので、私はつい、『ベックさんって忙しいんですね』と声を掛けました、すると、ベック兄は、こういうことを言われました。『僕は病気で、いまにも死にそうなほど苦しんでいる人に会うのが大好き。神様を受け入れる用意ができているそんな人に会えるのがうれしく仕方ないんだよ』と。それを聞いたとき、私は、心の底から神の存在を信じている人はこんなふうに思うものかと、そのことに強い感銘を受けました。このことばは、後々まで、心に刻み付けられることになりました。
その後も私は、誘われるままに、家庭集会などに行ってみたのですが、何を聞いても、かたくななままの心を動かされることもありませんでした。このままの状態で、それから、数年後、妻と二人、カナダに移住したのですが、今、考えますと、このこと自体、暗闇の中を歩いていた私を御許に引き寄せるための、主の大きな計画の中にありました。そして、さまざまな経験の中で、少しづつ心を砕かれ、バンクーバー喜びの集いでベックさんと再会したことから、主を本当に信じるものとなりました。こうして、自分から本当に主を受け入れたのは、初めてキリスト集会に足を踏み 入れてから、十六年という歳月が経ったあとでした。
洗礼を受けたとき、普通の方は、喜びに満たされて、晴れやかな気持ちになると思うのですが、私の場合は、むしろ逆で、とても暗く、沈んだ気持ちになったことを覚えています。なぜかといいますと、十六年前から、いくらでも集会に集う機会があったのに、ずっと、理由をつけては避けていたことを思い出し、日本で、主のすぐそばまで来ていたのに、心を閉じたままで、全く、聞く耳を持たなかった。このあいだ、なんと、長い時間を意味なく過ごしてしまったものだろうという後悔の思いが湧き上がってきたからです。
エゼキエル書に描かれる捕囚の民は、かつては、エルサレムに住み、神の祝福を一身に受けていました。しかし、その時は、この大きな愛に感謝することも、主を省みることもなく、そして、故国を遠く離れたバビロンの地で、初めて、神の恵みを理解することになります。この捕囚の民の経験が、自分自身のたどってきた道と重なっているように思え、このエゼキエル書を、私は繰り返し、読むようになりました。
このことを、聖書はこう説明しています。
エゼキエル
20:43 その所であなたがたは、自分の身を汚した自分たちの行ないと、すべてのわざとを思い起こし、自分たちの行なったすべての悪のために、自分自身をいとうようになろう。
20:44 わたしが、あなたがたの悪い行ないや、腐敗したわざによってでなく、ただわたしの名のために、あなたがたをあしらうとき、イスラエルの家よ、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
こうして読んできますと、恐ろしい裁きのことばが並んでいるように見えるエゼキエル書も、実は、主に背いた者であっても、罪を認めて、主に立ち帰ることを選べば、どのような者でも、必ず主は回復させてくださり、解放が与えられるという希望に満ちた書でもあることが分かります。
エゼキエル
11:18 彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう。
11:19 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
11:20 それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
こうして、新しい霊を与えられた後で、初めて、人は、自分が犯してきた多くの罪、今も犯している罪のことを思い起こすのではないかと思います。私自身も、救われた後になって、改めて、自分がどれだけ、主をないがしろにしてきたものであったか、また、家族に対しても、冷たく尊大な態度をとってきたことを、常に思うようになりました。
誰でも、つい後ろを振り返り、よみがえって来た罪の記憶に圧倒されてしまうことがあると思いますが、そのような時も、エゼキエル書には大きな力を与えてくれる言葉があります。先ほど、読んだ箇所の少し後ろです。
エゼキエル
18:22 彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行なった正しいことのために、彼は生きる。
18:23 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。
悔い改めた者を必ず、滅びに向かう道から救い出すと、主は約束してくださっています。
主なる神が、どれほど、人を内側から作りかえ、ご自身との交わりの中に生かすことを、望んでおられるか、このエゼキエル書は、それを、捕囚の民の経験を通して、教えているのではないかと思います。
(2)
さて、ここからは、少し、話の方向を変えて、私たちが信じる主イエス様の時代には、どのようなかたちで、回復の希望が与えられるかということを、考えてみたいと思います。
旧約聖書の時代には、民が進むべき道から外れたときは、そこに、預言者が現れて、正しい方向を示してくれました。しかし、私たちが生きているこの時代には、預言者というものはいません。町の中や、会社に預言者が現れて、あなたは今、ちょっと間違っているよなどと、教えてくれることはないのです。
それは、今から二千年前、神の一人子であり、神と同じ人格を持たれたイエス様が来られ、ご自身を通して、神の御心を語ってくださったからに他なりません。神のことばである聖書の中に全ての答えが与えられているので、私たちには、預言者から、何かを教えてもらう必要はもはやありません。
主が私たちの回復を願っておられることは、福音書の中でも、繰り返し語られています。そのことがもっとも明白に表されているのは、有名な、『放蕩息子のたとえ』ではないでしょうか。捕囚の民の経験と、やはり、父なる神のもとを飛び出した放蕩息子を対比してみると、イエス様が表される愛の性質がはっきりと現れてくるのではないかと思います。
ルカ
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
ここに描かれているのは、やはり、父である神の愛を一身に受けていながら、自分で選んだ道に進み、その結果、すべてを失って、暗闇の中に放り出される、絶望的な民の姿であります。
ルカ
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。』
ふるさとから、遠く離れた土地ですべてを失ったことで息子は、ようやく、父の元には、必要なものがすべて、備えられていたこと、すなわち、自分が大きな恵みの中にいたことを思い出します。捕囚の地で、初めて神の愛を理解したイスラエルの民の心と通じるものがあります。
次の節にありますように、周囲から隔絶され、すべてを失ったとき、ついにこの息子にも、回復の機会が与えられます。
ルカ
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
先ほどもお読みした部分ですが、捕囚の民に対して、神は次のように告げられています。
エゼキエル
20:43 その所であなたがたは、自分の身を汚した自分たちの行ないと、すべてのわざとを思い起こし、自分たちの行なったすべての悪のために、自分自身をいとうようになろう。
このように、全ての希望を失うことによって、人は、自分の身を汚した行ない、すなわち、神の愛を拒んで、自分で選んだ道を歩いてきたこと、それ自体が何よりも大きな悪であったことを教えられます。これは、捕囚の民だけでなく、放蕩息子が理解したことであり、そして、救いを受けた私たちひとりひとりの心に刻まれたことではないでしょうか。
しかし、その後で、捕囚の民と放蕩息子が通る道には、較べようもないほど、大きな違いがあります。
エゼキエル書の後半には、確かに神が捕囚の民の回復を告げることばが掲げられています。37章23節の途中からお読みします
エゼキエル
37:23 ・・・わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
さて、このようなことばで回復の約束が告げられた後、エゼキエル書の最後の部分では何が記されているでしょうか?
四十章から後を開くと、そこには、故国イスラエルに戻った民が、今度こそ厳格に守るべきたくさんの規定が延々と記されています。たとえば、神殿の詳細な設計図や、儀式の取り決めといったことです。確かに、これは、ユダヤの民にとっては、国の復興を象徴する大切なことだったのでしょう。
エゼキエル書の締めくくりの部分にはこうあります。
エゼキエル
44:2 主は私に仰せられた。「この門は閉じたままにしておけ。あけてはならない。だれもここからはいってはならない。イスラエルの神、主がここからはいられたからだ。これは閉じたままにしておかなければならない。」
これが、この壮大な回復の物語の結末であります。すなわち、捕囚から解放された民にとって、神は再び、神殿の奥に隠れ、ただひたすらに怖れ、尊ぶべき、手の届かない存在に戻りました。
これに対して、私たちが信じている主なる神が取られる行動とは、全く異なるものです。御子イエス様を遣わして、私たちの救いを成し遂げてくださった三位一体の神の姿は、どのようなものでしょうか。再び、放蕩息子のたとえに戻ります。
ルカ
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
私たちが自分の罪をみとめ、御許に立ち返るとき、神はどうされるでしょうか。ここにありますように、息子の姿を見つけた父は、ご自身が外に走り出て、遠くにいた息子に駆け寄ってくださいます。
私たちが信じる神は、神殿の奥からひれ伏す人間をじっと見ているお方ではなく、また、裁判官のように機械的に無罪判決を言い渡すお方でもありません。ご自身から走りよって、全てを赦し、すべてを受け入れ、私たちの回復をともに喜んで、抱きとめてくれる方であることが、ここに示されています。
これが、主の福音の中に示された神の新しい愛のかたちです。人の心を罰と恐怖で抑え込んでいた、律法の時代の制度を拭い去り、寛容と恵みをもった神の本当の姿を伝えてくださったイエス様に、私たちは心から感謝したいと思います。
(3)
最後に、主を拒絶するものの回復のために、家族やまわりの人たちが果たす役割について、短く、考えて終わりたいと思います。
また、私自身の経験になりますが、カナダに住んでいた、私の元には、日本から集会の出版物などが送られてきました。実際には、手に取って、パラパラとめくるだけで、すぐに片付けてしまうことが多かったのですが、それでも、目に留まったみことばが、後で救いを受け入れる力となったことは間違いありません。
イザヤ書にこのようなことばがあります。
イザヤ
55:10 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
ここにありますように、人の心に注がれたみことばは、その場ですぐに、何かを動かすことはなくても、意味もなく消えてしまうことは決してなく、必ず、いつの日か、その人が主に近づく助けとなってくれるのではないかと思います。
私自身のことで言いますと、結婚式の日にベック兄が言われたことを、今も折にふれて、思い出します。死を目の前にした人に会うことを、ベック兄が、とても喜んでおられたということは、裏返して言えば、人間は、たとえ、この世を去る直前であっても、救いを受け入れることができれば、その人にとって十分である、すなわち、目をそらさず、神と正面から向かい合うのに、遅すぎることは、決してないという真実の表れではないでしょうか。
私は、このように考えたとき、救いを受け入れるまで、自分が長い時間を無駄にしてきたという思いが消え、もう後ろを向いて後悔する必要はないと、確信できるようになりました。
今日、ここに集われた方も、あるいは、家族に、みことばを伝えようとしても、まったく手ごたえがなく、徒労でしかないと感じることもあるかもしれません。それでも、救われたものの努めとして、私たちは、わずかな機会も逃さずに、主のことばを伝え続けることが大切なのではないでしょうか。
もしかすると、その家族も、地上を離れる数日前に、主を受け入れるということもあるかもしれません。それでも主は、戻ってきた放蕩息子を受け入れてくださったように、必ず、喜んでその方を抱きとめてくれるはずだと思います。
おわり
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