2015年12月8日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
伝道者
1:1 エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
1:3 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
1:14 私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。
1:16 私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」
詩篇
90:9 まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。
90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
90:12 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。
今日から、聖書による未来、すなわち、『聖書によると将来いったい、何が起こるか』ということについて、一緒に考えてみたいと思います。全体のテーマは、四つの科目に分けて考えることができます。第一番目、まず第一に、人間一人ひとりの将来について、いったい、何と言っているでしょうか。ニ番目、聖書は、イエス様のからだである教会について、教会の将来について、何と言っているか・・・・ということです。そして、第三に、聖書は、イスラエルの民の将来について、何と言っているかということ。そして、四番目、聖書は、その他の諸国民の将来について、いったい何と言っているのでしょうか。
預言的なことばの大切さについて、聖書を読むと、もちろん、すぐにわかります。それから、聖書の罪人の状態について、何と言っているかをみゃはり考えるべきです。また、イエス様による救いのことについて、聖書全体は、いったい何と言っているでしょうか。次に、信じる者の死と、救われていない人々の死について、聖書は、いったい何と言っているのでしょうか。
第ニペテロ
1:19 また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
1:20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
『私たちは持っている』と、ペテロは、当時の信じる者に書いたのです。我々の持っているみことばは、暗いところを照らすともしびである。この言葉は、我々に与えられています。
主は、将来について、何と言っているでしょうか・・・・ということを知りたいと思うこととは、もちろん、我々にとって、当然のことです。多くの人々は、自分の考えで、美しい将来、魅惑的な未来などを、自分勝手に想像するかもしれませんけども、そこに大きな誤りがあって、そのために現実とは無関係なものを作り上げたのではないでしょうか。すると、そのような、空想的なモデルは、嵐が来た時に、簡単に壊されてしまうことは明らかです。
また、ある人々は、将来の予言をするために、悪魔に尋ね求める場合もあります。たとえば、占い師や易者、まじない師や霊媒による予言者などのところへ行って、すなわち、悪魔の力によって、何とか将来の運命について、知りたがる人々が、いつの時代でもいました。
確かに、そのようなことによって将来を知りたいという気持ちが、人間にあることは事実です。けれども、述べたような、占いや間違いによって、悪霊の虜になり、悪魔の奴隷となってしまうことを、正しく知らなければなりません。その結果として、かえって不安になったり、喜びがなくなったりするのが明らかです。
主なる神は、将来のことについて、曖昧にしておられるのではありません。主は我々が、将来について、はっきりと知ることを望んでおられます。私たちは、そのような特権を持っているだけでなく、次のような責任をも持っていることを忘れてはなりません。すなわち、私たちはまず、聖書が将来について何と言っているかを、正しく理解するために、聖書を、もちろん、読まなければならない。みことばだけにたよらなければなりません。そして、主によって約束されたすばらしい将来を、心の目で見ることは必要です。
私たちは、聖書が、将来について何と言っているかをどうしても知るべきです。旧約聖書と新約聖書の中には、預言的な言葉が、確かにたくさんあります。旧約聖書も新約聖書も、もちろん、神の啓示そのものです。そして、旧約聖書も新約聖書も、共に絶対的な権威を持つものであります。そして、旧約聖書と新約聖書は、我々の信仰生活にとって、望みそのものです。私たちは聖書の中に、過去、現在、未来の完全な統一を持った像を見ることができるのではないでしょうか。
九つの質問について、簡単に考えてみましょうか。
第一の質問は、預言の言葉の価値はいかなるものでしょうか・・・・ということです。
第ニペテロ
1:21 預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った(ものである)。
主によって語った。へブル人への手紙の1章1節、『神は、預言者たちにより語られた』とあります。
【参考】へブル
1:1 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました。
詩篇の作者であるダビデは、次のように告白しました。
詩篇(口語訳)
105:8 主はとこしえに、その契約をみこころにとめられる。
詩篇(口語訳)
33:11 主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみこころの思いは世々に立つ。
もちろん、イエス様も全く同じことを言われました。
マタイ(口語訳)
24:35 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
ルカ(口語訳)
24:44 ・・・・モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する。
こう、イエス様は約束してくださったのです。
この問いに対しては、次のように答えることができるでしょう。すなわち、聖書の預言は、永久(とこしえ)に変わることのない、全き真理であり、必ず成就されるものです。なぜならば、それには、神の名誉とご栄光とがかかっているからです。主の約束を大切にすることこそが大切です。大切にしないと、罪そのものです。
ニ番目、私たちは預言のことばの源について、何を知ることができるのでしょうか。ここで、預言者とは、神のことばを宣べ伝える人を言います。預言者たちは、神から聞いたことばを、人々に告げ知らせた者でした。したがって、告げ知らされることばは、決して、自分の考え、自分の思いではなく、主ご自身の御心を明らかにするものに他なりません。
三番目、本当の預言と偽りの預言との違いは、何でしょうか。民数記の24章からお読みいたします。『本当の預言者とは、神の霊が臨んで目の開かれた者です』とあります。
【参考】民数記
24:2 バラムが目を上げて、イスラエルがその部族ごとに宿っているのをながめたとき、神の霊が彼の上に臨んだ。
24:3 彼は彼のことわざを唱えて言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。
サムエル上の9節、次のように書かれています、『預言者は、昔から預言者と呼ばれたのではなく、先見者と呼ばれていた。彼らは上からの啓示によって預言をした』とあります。
【参考】第一サムエル
9:9 ――昔イスラエルでは、神のみこころを求めに行く人は、「さあ、予見者のところへ行こう。」と言った。今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである。――
そして、ペテロ第一の手紙の一章を見ると分かります、すなわちキリストの霊は既に、預言者たちの中に住んでいたことが分かります。自分で思ったことを語ったのではなく、上から聞いたことばだけを述べ伝えたのです。
【参考】第1ペテロ
1:10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
1:11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。
エゼキエル書の13章を見ると、『偽りの預言者は、自分の心のままに預言し、何も見ないで自分の霊に従う預言者たちであると』あります。
【参考】エゼキエル
13:2 人の子よ。預言をしているイスラエルの預言者どもに対して預言せよ。自分の心のままに預言する者どもに向かって、主のことばを聞けと言え。
13:3 神である主はこう仰せられる。自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者どもにわざわいが来る。
したがって、旧約聖書と新約聖書の中に出てくる預言者とは、100パーセント信頼できる歴史家であり、過去、現在、未来の事について、正しい判断を下すことができた人々であります。
普通の人間ができることは、過ぎ去った過去の出来事を、一面的に書くことはできるでしょう。それしか、できない。したがって、それは、必ずしも絶対的な真理であるとは限らない。ましてや、現在のことになると、時間の隔たりがないために、また、自分の視野が狭く限られているために、正しい判断を下すことが非常に難しくなります。さらに、将来のことになると、せいぜい推測することができるか、あるいは、空想的に考えることができるか、それくらいしかできないのではないでしょうか。
けれども、聖書の預言者たちは、御霊によって書くようにさせられたので、過去、現在、未来について、客観的な正しい判断をすることができたわけです。したがって、聖書の預言は、将来、何が起こるかというような問題についても、100パーセント、正しい判断をすることができるわけです。
四番目、私たちはこのような聖書の預言に対して、どのような態度を取るべきでしょうか。
黙示録の1章3節を見ると分かります。聖書を研究するよりも、この預言のことばを聞いて、守る方がはるかに大切であるとあります。
【参考】黙示録
1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
黙示録の最後の22章、18~19節を見ても、分かりますけど、ここに書かれているように、聖書の預言のことばは、そのまま受け取るべきであって、自分勝手に解釈することは許されない。つまり、聖書に書き加えたり、あるいは、これを取り除いたりする者は、主に罰せられる。
【参考】黙示録
22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
そして、へブル書の11章1節を見ても分かりますが、私たちは、聖書のみことばを、ただ単に聞くことだけでなく、これを受け入れて従わなければならない。すなわち、自分のものとしなければならないということです。
【参考】へブル
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
五番目の質問は、誰が聖書の預言を理解することができるでしょうか。
パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書き記したのであります。
第一コリント
2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
結局、誰が聖書の預言を理解することができるか、もちろん、御霊に導かれる人々だけであるということです。
イエス様は、ヨハネ伝14章26節を見ると、言われたのであります。すなわち、聖霊は私たちにすべてのことを教えてくださる。
【参考】ヨハネ
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
16章13節、御霊は、私たちを真理に導いてくださるとも約束されています。
【参考】ヨハネ
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
有名なイエス様とニコデモという学者との出会いについて、ヨハネ伝、3章の中で書かれています。すなわち、神の御霊によって、新しく生まれ変わることが必要であることが、強調されています。したがって、聖書の預言を正しく理解するためには、新しく生まれ変わることが必要です。ただイエス様を救い主として受け入れ、信じた者だけが新しく生まれ変わるのです。
まだ新しく生まれ変わることを経験していない人も、まだ救いの確信を持っていない人も、もっとも大切なことを経験することができます。聖書のことばは、一人ひとりのために書かれたものであります。すなわち、主は、一人ひとりの犠牲のために、いのちを捨ててくださったのです。
聖書の中心なるものは、多くの人々は、イエス様の教えだと思っていますが、決して、そうではない。イエス様の死こそが、聖書の中心テーマです。イエス様が罰せられたから、今、人間を罰する神は存在していません。
(六番目)聖書の預言の内容とはいったい何でしょうか。
ルカ(口語訳)
24:44 ・・・・モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する。
イエス様は、こう言われたのです。ここで、モーセの律法と預言書と詩篇とは、結局、旧約聖書全体を意味していることです。イエス様は、旧約聖書の内容が、ご自身のことに他ならないと言われました。
使徒行伝(口語訳)
10:43 預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしてい(る)。
もちろん、他にも似ている箇所は、いっぱいあります。
使徒行伝(口語訳)
28:23 パウロは・・・・モーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた。
ローマ書1章2節を見ると分かることは、イエス様こそ、預言者たちによって約束された方に他ならないということを、知ることができます。
【参考】ローマ
1:2 ――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので(ある)。
へブル
13:8 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。
キリストは、はじめであり、終わりである。
黙示録(口語訳)
1:8 今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者(である)。
へブル(口語訳)
9:28 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。
パウロも手紙の中で、よくイエス様が、天から下って来られると書いたのであります。
エペソ(口語訳)
1:10 ・・・・神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされた。
これこそ、神の究極の目標であります。テモテ第一の一章、『私たちの望みであるキリスト・イエス 』という表現が出てきます。
第一テモテ
1:1 私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから・・・・、
もし、イエス様がおられなければ、私たちは何というあわれな被造物でありましょうか。テトス書の2章を見ると書かれている。私たちは、救い主、キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望んでいるとあります。
【参考】テトス
2:13 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。
私たちは、このような聖書の箇所をまとめてみると、結局、聖書全体の内容は、イエス様ご自身であることが分かります。そして、また、イエス様は、あらゆる預言の内容でもあります。
旧約聖書は、イエス様が罪を贖うために、この世に来られること、そして、大いなる栄光の中に出現なさることを預言しています。新約聖書は、すでに来られた方、今います方、やがて来られる方を指し示しています。新約聖書が言っていることを、すべてまとめてみると、もっとも重要な中心点が、もちろん、主イエス様であることがわかります。つまり、すべての預言がイエス様の再臨に集中していると言えます。
七番目、イエス様の再臨という表現は、我々にとって何を意味しているのでしょうか。イエス様はマタイの24章に、『人の子が現れる』と言われたのであります。
【参考】マタイ
24:27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。
パウロも手紙の中で同じことについて、よく書き記したのです。テサロニケ第一の手紙の4章15節、初代教会の信者たちは、主の来臨を心から待ち望む、生き生きとした信仰を持っていました。生き生きとした信仰の特長は、主の来臨を待ち望む信仰です。
【参考】第一テサロニケ
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
テサロニケ第一の手紙5章23節、『主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。』これこそパウロが信者たちのために切に祈っていたことでした。
【参考】第一テサロニケ
5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
ヨハネ第一の手紙2章の28節を見ると、次のように書かれています。『キリストが現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないように・・・・キリストのうちにとどまっていなさい。』
【参考】第一ヨハネ
2:28 そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。
ヤコブ書5章、主の来臨の時まで耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。主の来臨が近づいている。
【参考】ヤコブ
5:7 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
5:8 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
このようなことから解ることは、みことばを学ぶ目的がイエス様ご自身でなければなりません・・・・ということです。主イエス様が、我々にのぞんで働いてくださる時には、我々の心の目が開けて、聖書の預言がすべて明らかになります。したがって、私たちが預言を学んで、ますます明らかになることは、イエス様の啓示によって、主の栄光、主の尊厳が明らかになるということです。主の来臨の目的は、そのことを通して、明らかに啓示されるようになります。
イエス様こそ、個人個人、あるいは、多くの諸国民にとって、決定的な主に他なりません。私たちはただイエス様を見上げ、求め続けていこうとする時にのみ、将来の出来事が正しく判断されます。
光はイエス様から出てきます。イエス様こそ、あらゆる問題を解決することができるお方です。私たちは、イエス様の中に生き生きとした望みを持つことができるのです。
最後の八番目の質問は、生き生きとした望みの内容は、いったい何でしょうか。ペテロ第一の中で1章の3節から12節まで、詳しく書かれています。まとめてみると、主の目的はただ単に、私たちが救われることだけではなく、天の資産を受け継ぐこととなることです。信者にとっては、イエス様が現れることはいちばん、大切であります。
【参考】第一ペテロ
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
1:4 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。
1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
1:10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
1:11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。
ローマ書、5章2節にも同じことが書かれています、神の栄光にあずかる希望をもってよろこんでいるとあります。この希望がなければ、本当のよろこびもあり得ません。
【参考】ローマ
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
九番目の質問は、この生き生きとした望みは、我々の人生にとって何を意味しているのでしょうか。パウロの答えは、次のようなものです。
ローマ(口語訳)
8:18 ・・・・今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
この聖句からわかることは、生き生きとした待ち望みの信仰こそ、信じる者にとってすべてであるということです。同じくパウロはローマ書12章12節に、望みをいだいてよろこびなさいとあります。
【参考】ローマ
12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。
イエス様が再臨なさることを知ることは、本当に喜ばしいことです。ローマ15章4節によると、旧約聖書は、我々が望みを持つために書かれた。そして私たちは、この望みと慰めとによって忍耐することができます。旧約聖書がそのようなものであるなら、ましてや新約聖書は、どれほど何倍も、慰めと望みとを与えることができるでしょうか。
【参考】ローマ
15:4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
また、パウロはてサロに第一の手紙5章8節を見ると書かれています。この望みとは、救いの望みであり、また、かぶとであると言われています。言うまでもなく、かぶととは、悪魔に対する守りと安全を意味しているのです。
【参考】第一テサロニケ
5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
へブル人への手紙の6章を見ると書かれています。、この望みとは錨であるとあります。すなわち、この錨はたましいを安全にふ頭につける錨であり、生き生きとした望みに他ならないとあります。
【参考】へブル
6:19 この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。
へブル書の10章23節、私たちの望みを動かすこと無く、しっかりと待ち続けていなさい。なぜなら約束をくださった主は、忠実な方ですから。
【参考】へブル
10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
以上のことから、わかったことを要約すると、次のように言えるでしょう。もしも、生き生きとした望みがなければ、私たちはメクラのような者です。そして、暗闇の中を手探りして行かなければならないということです。
ですから、生き生きとした望みは、我々の信仰の重要な構成要素でなければならない。その目標を知っている者は、いかなる困難があっても、慰めが与えられ、正しい道を歩むことができます。将来のことがはっきりわかっている人は、現在の困難をも正しく理解し、耐え忍ぶことができます。心から主の再臨を待ち望んでいる者は、現在のあらゆる困難を克服することができ、そのように縛られません。すなわち、その目標を正しく見る者だけが、現在を正しく理解することができます。
ただイエス様を待ち望む者だけが、現在の時間を、もっとも良く用いることができます。
黙示録(口語訳)
22:20 これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
私たちも心から、このように言うことができるなら、本当に幸いと思います。
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