2015年12月15日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
ルカ
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
マタイ
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
重田兄がいらっしゃるとき、ここでいつも同じ質問をします。『奥さんは?豊子は?』彼は答えは、『精神的に元気!』それを聞くとありがたい。『霊が元気。』体は大したものではない。霊が元気だったらありがたい。けれども、それも当たり前ではない。多くの人々は病気になると、ぺちゃんこです。変な人は天罰だと言いますが、あり得ない。人間を罰する神はいないから、ありがたい。イエス様が犠牲になったから、もう安心です。ですから、どういう病気、不幸があっても、どうしてか、今はわからないけれども、間違いなく愛されている証拠であると信じ、感謝すべきなのではないでしょうか。
今、読まれた箇所の中で、「すばらしい喜びを、あなた方に。」複数形になっているけど、自分勝手に単数形に読んでもいいかな。「すばらしい喜びを、私に。」
結局、主が望んでいるのは、どうしようもない人間がよろこぶことです。イエス様は、言われたことがあります。
ヨハネ
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
『わたしのよろこびがあなたのものとなるように・・・・。』ちょっと、想像できません。けれども、イエス様を初めて紹介したバプテスマのヨハネは、このよろこびを味わい知るようになったようです。
ヨハネ
3:27 ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。
3:28 あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。
3:29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。
3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
このよろこびを得るために、結局、バプテスマのヨハネのような態度をとるべきではないでしょうか。イエス様は盛んになり、私はどうでもいい。この態度を取ることこそが、大切なのではないでしょうか。
クリスマスは、どこでも、一人残らず、知っているお祝いです。歳末になると、国中どこでも、商店ではクリスマス・セールをやりますし、もちろん、儲けるためだけ。クリスマスの音楽を流したり、大きなツリーを立てたりしますけど、クリスマスの本当の意味を知っている人は、非常に少ないのではないでしょうか。『金になればやっちゃいましょう!』そういう気持ちを、多くの人々が持っているのではないでしょうか。
本当のクリスマスを体験した者とは、すなわち、イエス様を体験的に知っている人に他ならない。結果として、イエス様を知ることによって、平安を与えられるようになり、自由になります。そして、このすばらしいよろこびを自分のものにすることができます。
イエス様を知り、生き生きとした交わりを持つことによって、あらゆる人間的な思い、たとえば、孤独、傲慢、自分中心の利己主義、無味乾燥な悲哀観、そして、絶望など、あらゆる悩みは解消してしまいます。そして、他方においては、本当のよろこび、平安、満足が与えられます。
イエス様は、全人類にすべての救い、罪の赦しを与えるために、この世にお生まれになられたのです。つかめない、理解できない奇蹟です。けれども、イエス様を知ることによって、もうありがたい。安心です。結局、永遠のいのちを持つことを意味しているからです。イエス様との生き生きとした交わりの中にこそ、本当のよろこび、絶えざるよろこびの源があります。
その主イエス様こそ、いのち、よろこび、平安の泉、そのものです。イエス様によって、すべての悲しみ、そのものは、よろこびに変わります。イエス様によって、仕事の重荷がよろこびに変わります。イエス様によって、あらゆる人間的な努力の虚しさや焦りが、全き平安と安らぎの静けさに変わります。
本当のよろこびの泉は、今、話したようにイエス様ご自身です。今、私たちはこのイエス様について考えると、もちろん、もう何も言えなくなる。恥ずかしくなる。やはり、ありがたいとしか、思わないのではないでしょうか。
ルカ
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
結局、約束された救い主、そのものです。すばらしいよろこびをあなたに。これこそが、クリスマスのメッセージです。よろこびがなければ、人生は全く重苦しいものになります。退屈なものになってしまいます。聖書を通して提供されているすばらしいよろこびは、単なる楽しみではない。快楽でもない。ずっと大切なものです。
結局、イエス様のよろこびです。聖書を通して提供されているすばらしいよろこびは、変わらない幸せを、心の中から感じさせるものです。また、心配や不安を解消するものです。そして、全き平安に導き、完全に主なる神の御手の中に守られていることの確信を与えるものです。
このすばらしいよろこびを与えるために、永遠の主なる神であるイエス様は、人間のかたちをとって、この世に生まれました。何千年前に約束された救い主について、天の使いは、次のように述べたのですね。
マタイ
1:21 「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
これこそ、あらゆる孤独からの解放です。
約束された救い主の名前は、まず第一に、イエスという名前です。すなわち、この方こそ、罪から救ってくださる方です。あらゆる人間のどうしても必要なものは何でしょうか。すなわち、罪の赦しです。なぜならば、罪が赦されると、主なる神との交わりが可能になるからです。そして、主なる神との交わりによってのみ、人間は満たされ、幸福され、幸せになります。
罪は、人間とまことの神とのあいだにある隔ての壁です。けれども、イエス様の犠牲によって、主イエス様の身代わりの死によって、この人間と神とのあいだの壁が取り去られたのです。イエス様の流された血のゆえに、すべての罪が赦されていると、確信することこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。
イエス様は、いったいどうして、生まれたのでしょうか。死ぬため。創造主として、まことの神として、死ねません。けれども、人間のからだを持つようになれば、確かに、死ぬことができる。イエス様は、死ぬことができるようにお生まれになった。もちろん、私たちは、イエス様の偉大さについて、いくら考えてもつかめません。
永遠なるお方です。いのちそのものです。そして、いのちそのものは、死のうと思っても、もちろん、無理。できません。けれども、もし永遠なる神が、肉体をとってこの世に来ると、肉体的に死ぬことができます。そして、それだけが、イエス様のこの世に来られた目的でした。想像できない犠牲だったのです。
どうしてイエス様は来られたか。なぜならば、身代わりとなる方がなければ、罪のない方が代わりに死ななければ、救いの道がない。罪の赦しがないと、聖書ははっきり言っています。イエス様は来られただけではなく、犠牲になり、代わりに死なれた。
イエス様が十字架で死んでくださった時、主は、もちろん、私たちの代わりに死なれました。イエス様は、我々の罪を赦してくださるために、死んでくださったのです。聖書は言っています。
イザヤ
53:5 彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
主なる神が言われたことを信じ、そして、イエス様を受け入れる者は、もちろん、救われています。すなわち、罪が赦されており、主なる神との平和と永遠のいのちを持っているのです。ダビデ王は、このことをつぶさに、三千年前に体験したのではないでしょうか。彼は、「幸いなことよ。その背きを赦され、罪をおおわれた人は。」
罪は、確かに恐ろしい現実です。罪は、ひとつのことを通してのみ、解決されるのです。すなわち、流された血の犠牲によってのみ、解決されます。血が贖うゆえに、罪が赦されると、聖書は何回も言っています。イエス様が我々の罪の問題を解決するために、債務を支払い、罪を赦すために、尊い犠牲を払ってくださったという事実は、我々の心からのよろこびを満ちあふれさせてくれるべきです。
大よろこびで、次のように告白することができる人々こそが幸せ――すなわち、血を流すことによって、完全な赦しがもたらされたと。血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ませんが、血を流すことによって、完全な罪の赦しがもたらされます。
ダビデはよろこんで、「東が西から遠いように、主は我らの咎を、我らから遠ざけられる」と、書き記したのです。ミカという預言者は、「主は、我々のもろもろの罪を、海の深みに投げ入れた」と、告白したのです。また、イザヤは、「主は、あなたの咎を雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した」と、証ししたのであります。雲や霧は、太陽によって吹き払われ、完全に消されるのですけど、それと同じように、主なる神は、イエス様の犠牲のゆえに、罪を完全に赦してくださいます。
もはや、罪は消えて、見えなくなってしまったのです。「わたしは、あなたの罪を心に留めない。もうあなたの罪を思い出さない。」あたかも私たちが、罪を犯さなかった時のように、聖くしてくださるのはイエス様です。
イエス様においては、罪の赦しと、罪を心に留めないことが、ひとつになっているのです。これこそ、私たちが宣べ伝えることのできる福音そのものです。すなわち、あなたの罪は、イエス様の血によって、すでに赦されている。なぜならば、債務が支払われているから。だから、あなたは、自分の罪を赦してくださったイエス様の大いなる贈り物を、感謝して受け取ればよいのであると。
私たちは、血といのちとを捧げてくださったイエス様の身代わりを、自分のものにする必要がある。ただイエス様、お一人だけが、「あなたの罪は赦された」と言うことができるただ一人のお方です。これこそ、もっとも尊い贈り物です。すなわち、罪の赦しです。かけがえのない賜物です。これは、何というすばらしい解放でありましょうか。良心の呵責からの解放、神の怒りを畏れる恐れからの解放、もちろん、人間を恐れることからの解放でもあります。
パウロは、次のように書き記したのです。「言葉に言い表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」と。パウロは、提供されたすばらしい贈り物、すなわち、罪の赦しを受け入れたのです。私たちはみな、その贈り物を受け取る備えができているのでしょうか。罪の赦しとは、想像できないほど、すばらしい贈り物です。罪の赦しを受け入れることは、もちろん、イエス様を受け入れることです。
イエス様を受け入れた者は、もう安心です。永遠のいのちを持っているし、また、真の平安、安らぎを自分のものにすることができるのです。
人間の最大の問題は、今、話したように罪の問題です。けれども、約束された救い主に与えられた名前は、イエスです。すなわち、彼は罪を赦す方です。彼は、罪の問題を解決するお方です。罪の赦しこそ、最大の賜物であり、慰めであり、希望なのです。私たちは、イエス様が自分のわがまま、自分の罪を取り除いてくださった、イエス様は自分の罪の問題を解決してくださった・・・・ということを知っています。イエス様は、私の心の目を開いてくださった、イエス様は、私のあらゆる不幸の原因、すなわち、罪を示してくださった。罪は、主なる神と人間を引き離します。主なる神からの分離は、孤独、そして、よろこびと平安のない状態を意味します。
けれども、私たちは、次のことをよく知っています。すなわち、イエス様は、告白された罪を赦し、忘れてくださると約束してくださいました。そして、イエス様は、偽りません。ご自分の約束を、必ず守ってくださいます。イエス様に告白された罪は、赦され、忘れられていると。
私たちは、イエス様は、自分の罪を赦してくださった、主は受け入れてくださった、そして、永遠のいのちを与えてくださった・・・・と知ることができるから、本当にありがたい。私たちの切なる願いは、イエス様をよりよく知りたい、すなわち、イエス様に用いられる器になりたいのではないでしょうか。
目に見える世界は、本当の心の支えとなることができません。つまり、本当の満足を与えることができない。私たちは、みな自分はイエス様の犠牲によって、贖いとられた者であり、もはや、自分自身に属する者ではなく、聖霊の宮であることを知っています。これからは、我々の目標は、イエス様によろこんでいただきたい。そして、イエス様の器として、このよろこばしい福音を、一人でも多くの人々に宣べ伝えたいのではないでしょうか。
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