2014年8月31日、石川・福井よろこびの集い
ゴットホルド・ベック
第一ヨハネ
1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。
1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
使徒の働き
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
孤独な人間にとって、いちばん必要なものは何でしょうか?言うまでもなく交わりです。現代人の特徴とは孤独なのではないでしょうか?さみしい!と多くの人は叫びたい。どうしてしないかと言いますと、意味のないことだとわかったからです。
人間は孤独です。孤独な人間にとってどうしても必要なのは交わりなのではないでしょうか。この使徒行伝に出てくる主との交わりを交わった人々について書かれています。
前に読みましたヨハネ第一の手紙の一章の中で、『私たちと交わりを持つようになるため』という表現が出てきます。
イエス様の弟子たちとはみんな迫害され、殺されてしまったんです。一人だけ残された。小さな島、パトモス島に追放されてしまった。どうして彼は殺されなかったかといいますと、彼の使命は、黙示録を書くことなのではないでしょうか?他の弟子たちと同じように殺されたならば、もちろん、できなかったのです。彼の最善のの使命とは黙示録を書くことです。
初代教会の人々はもちろん、旧約聖書しか持っていなかったんですけども、やっぱり一生懸命、読みました。 けどあとで伝えられたのは、いちばん読んだのは黙所録なんです。
結局、将来、何と何と何が起こるのか、書かれているからです。黙示録は本当に素晴らしい書であります。主よ、語ってください。しもべは聞いております。この心構えを持って、今日も黙示録を読むと大いに祝福されます。
孤独な人間にとって 必要なのは、今、話したように、交わりです。救われた人々の交わりこそが、真の交わりなのではないでしょうか?ここに出てくる信徒たちは、あの五旬節の時、救われた人々ですけど、 ここで彼らは使徒たちの教えを守ったと書かれています。
この使徒の教えとはいったい何なのでしょうか?この使徒の教えとは何でしょうかね。使徒が伝えたのは、もちろんイエス様の教えでした。
教えよりもイエス様ご自身でした。終わりの時代に生きている私たちに、どうしても必要なのは、この使徒たちの教えに留まることなおではないでしょうか。ですが我々は、それとともに信徒の交わりとはいかなるものであるかということを知るべきなのではないでしょうか。
使徒の教えが、今話したように、イエス様ご自身であるから、信徒の交わりもイエス様との交わりを意味しています。聖書を見ると、聖書にはただ一つの交わりが書かれています。それは父、ならびに、御子イエス様との交わりです。
第一コリント
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
この御子、主イエス様との交わりこそ、信徒の交わりの源です。私たちは、本当に父、ならびに御子イエス様との交わりを知っている――体験的に知っているのでしょうか。この交わりは、表面的な議論によって生まれるものではありません。この交わりは、教理を同じくするという理由で生まれたり、また、会議を通して決議された結果、生まれるというものでもありません。
この交わりは、いのちと霊の交わりです。この交わりの間には、少しの暗いところも影もあってはなりません。父ならびに御子、イエス様との交わりには、完全な信頼がなければなりません。父は、御子、主イエス様を心から信頼され、ご自分の計画を全部、教えてくださり、これに委ねられました。全部の計画を少しの不安もなく、委ねることができたのです。
反対に、イエス様の父に対する態度も、全く同じでした。イエス様は、父なる神に完全に拠り頼み、少しも疑わず、父の御心を行なわれました。イエス様の絶えずとられた態度は、わたしの思いではなく御心だけが成るように。
あのように驚くべき深い悩みの中にある時も、十字架に向かって歩まれる時も、少しも疑わず、全き信頼を父においておられました。イエス様と父なる神は、お互いにそれほど信頼しあっておられたので、その間にはいつも絶えざる平安と静けさがあったのです。
このお互いの信頼が交わりです。この父と御子のすばらしい交わりに、人間も、我々も加わることができるとは、驚くべきことなのではないでしょうか。主は、何ゆえにこの交わりに召してくださったか、知ることができません。
ただ一つ解かることは、計り知れない主のご愛のゆえであるということです。
イエス様は、この交わりに私たちを招いてくださるために、この世に来てくださいました。イエス様は、この交わりに私たちを招いてくださるために、犠牲になられたのです。イエス様が、地上におられた時、願っておられたことは、第一に弟子たちがこの交わりに入ることができるようになることでした。
私たちは、救われるために救われただけではありません。このすばらしい交わりにあずかるために救われました。
私たちは、良心の咎めが消され、救いの確信を得るために召されただけではなく、この交わりにあずかるために召されました。もし人が、父なならび御子イエス様との交わりに入りますと、使徒行伝にある信徒の交わりに入ったことになります。
使徒行伝に出てくる信者たちは、別に特別な人々ではありませんでした。使徒たちも、同じく特別な人々ではなかったのです。けど、使徒はいかに造られたのでしょうか。使徒は、主に選ばれとくに召された人々です。
マルコ
3:13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。
3:14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ(るためであった。)
イエス様は、これを見ますと解かりますように、使徒たちをまず第一に、ご自分のみもとに置くために召され、その次に、遣わされるために召されたことが分かります。イエス様は、ご自分が永遠の昔から持っておられた、父との交わりに使徒たちも入ることを願われました。
イエス様は、今日も全く、当時と同じように、この交わりに私たちが入ることを望んでおられます。何という特権でありましょう。この交わりを喜ばずして、他のもので満足することがあっては考えられないほど残念です。
私たちは、イエス様に仕えることがいちばん大切であると考えますが、主の考えは違います。イエス様にとっては、まずご自分との交わりを持つように、我々に求めておられます。人々は、熱心に働く人ならば良い働き人だと言いますが、主の考えは全く違います。主のために熱心に奉仕をしますが、主との親しい交わりを持っていない人々が、たくさんいますが、これは、本当に哀れなことです。
私たちは、弟子と同じように、この世と罪から逃れるために選び出されましたが、けどそれだけではなく、父、ならびに、御子イエス様との交わりにあずかるべく召されました。信徒の交わりは、父、ならびに、御子、主イエス様との交わりであり、これは、いのちと霊の交わりです。
イエス様のからだの交わり、すなわち、信徒のあいだの交わりは、霊の交わりですから、そこには制限がなく、不安がなく、疑いがなく、全き信頼がなければならないはずです。この交わりに私たちは召されたのです。
けれども問題は、どうしてこの交わりに、全き信頼に入ることができるかということです。
弟子たちは、最初はイエス様と親しい交わりを持っていませんでした。一緒にいました。聖書はただ、イエス様と関わり合いがあるといった態度でした。イエス様は、弟子たちを召し、彼らは三年半のあいだ、イエス様とともに生活しました。
この間、イエス様はご自分のご目的を弟子たちに明らかにするために、何とかして弟子たちとの親しい交わりに入ろうとなさいました。イエス様は、彼らを父なる神との交わりに導こうとなさいましたが、彼らは全然、理解できませんでした。
イエス様は、弟子たちと少しの疑いもない、全き信頼をおく交わりに入りたかったんですが、いざイエス様が、深い御心を示そうとなさると、弟子たちは主誤解してしまったのです。
弟子たちは、それだけではなく、お互いの間にも本当の交わりがなかったんです。ただ関わりあいがあるといった程度でした。お互いの間には、交わりがなかったばかりではなく、時々、喧嘩しなければならないといった有り様でした。
十二人の弟子は、ユダを除いて、心からイエス様を愛していました。そのためにすべてを捨てて、イエス様に従って来たのでした。それにもかかわらず、彼らのあいだには本当の交わりがなかったんです。お互いに妬み、誤解し、争いました。ヤコブとヨハネは、自分がいちばん偉くなりたいと思い、他の人々を除け者にして、二人で相談しました。
マルコ
10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。
このように弟子たちの間には、本当の交わりがなかったのです。けど、やがて、五旬節が来た時、弟子たちはいっぺんに変わりました。この時から彼らは、真の交わりを持つようになりました。
ペテロが立ち上がった時、皆も他の十一人も共に立ち上がったと使徒行伝に書かれています。ペテロが立った時、他の者も一緒に立ったのですけど、これは前もってそのように相談していたわけではない。自発的に、自然にそうなったのです。十二人の使徒は、もはや十二人の一人ひとりではなく、十二人が一つのからだをなしたのです。
五旬節の日の立役者は、なるほど、ペテロでしたが、聖書を見ると、ペテロだけが目だったわけではなかったことが解かります。人々はみなを見て驚いたと書いてあります。五旬節は、教会の誕生日でした。
このまことの教会とは、一つの宗教団体でもないし、一つの組織でもありません。この時から信者は、もはや一人ひとりばらばらでなく、イエス様を頭とする肢体に綴りあわされたのです。ペテロと他の人たちは一つでした。霊の交わりを持っていました。信者たちはお互いに全く信頼し、そこには他の人たちと互いに喧嘩し、お互いを恐れるといったことは見受けられませんでした。
五旬節の前までは、このような交わりは、天の父とイエス様との間にしかありませんでした。しかし、この日から、多くの人々も、この交わりに入ることになったのです。三千人の人々がこの交わりにあずかったと記されています。これらの人々は、使徒の教えを守り、信徒の交わりを成したと聖書は言っています。
彼らは、イエス様のみことばを自分たちの生活の基準として受け入れ、自分たちはすでに信徒の交わりにあずかっているという自覚を持っていました。この交わりは、外から来るのではなく、内に住んでいる御霊のゆえに生まれた交わりでした。
エペソ
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。
これは、彼らのひとつになった親しい交わりの源でした。交わりとはすべての物を共有するということです。初代教会の兄弟姉妹はそうしていました。
使徒行伝
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
誰も自分の持ち物を主張する者なく、日々、心を一つにしていたと書かれています。彼らは、霊において一つであったばかりでなく、考えも願いも心も一つでした。これこそ信徒の交わりであり、主イエス様のからだとしてあるべき姿です。私たちの一人ひとりも、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりを成したと言える状態になったら、本当に幸せなのではないでしょうか。
使徒たちは、イエス様と共に過ごした三年間、このまことの交わりを知らずに過ごしていました。これは交わりに入るために必要な準備の時だったのでしょう。この三年間は、実りのない三年間のように見えます。しかし、この三年の年月の間、彼らの古い性質は少しずつ取り除かれていったのでした。
もし弟子たちが、イエス様に従わず、自分の職を持っていたなら、彼らは信心深い人々として尊敬されながら、生涯を終わったことでしょう。けど、イエス様と共に歩んで行った彼らは自らの姿を教えられ、主のみもとで本質的に造り変えられていきました。主の光に照らされ、彼らの心の暗い所はだんだん取り扱われ、明るみに出されてきました。
彼らの心に隠された思いが、現されてきました。もちろん弟子たちは、他の人々より悪い人々ではありませんでしたけど、主の光に照らされた時、絶望的な自らの真相を教えられました。イエス様が十字架にお架かりになった時、彼らは全く絶望してしまいました。その時、彼らは、ばらばらになって、逃げてしまったのです。
交わりの秘密はどこにあるのでしょうか。聖書は言っています。
第一ヨハネ
1:7 もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、(・・・・その時のみ・・・・)私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
御子イエスの血はすべての罪からきよめる。しかし、私たちが今、持っている悩みは、光の内を歩むどころか、光の中に立つことすらできないでいるのではないでしょうか。
イエス様の光に照らされますと、私たちの生まれながらのものは、徹底的にダメであり、全く役に立たない汚れたものであることが解かります。もし、イエス様との交わりが正しくなるなら、お互いの横の交わりも、もtろん、正しくなると言えます。御霊は、我々の上に注がれ、私たちは一つのからだとなるように、真のバプテスマを受けました。
もう一箇所読みます。皆さんも暗記している、信じる者にとって、いちばん大切な箇所でしょう。
ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
この事実が土台となって初めて、まことの交わりが生まれてきます。私たちは日々、この立場を取り、認め、主の前にすべてを明け渡す時、御霊は豊かに私たちを満たしてくださり、父と、また、御子イエス様との豊かな交わりにあずからせてくださいます。
この交わりとは、光の交わりであり、いのちの交わりであり、また、愛の交わりです。
もし、この交わりが我々の中に起きると、『主、そこにいます』と呼ばれるほど、主の御栄を現す我々となることができます。神の家とは、生ける神の教会のことであって、それは、真理の柱、真理の基礎なのです。私たちもこのような教会になりたいのではないでしょうか。私たちを召し、父ならびに御子イエス様との交わりに入れてくださった主に、本当に心から感謝を捧げようではありませんか。
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