2024年10月25日金曜日

イエスのなさったこと

イエスのなさったこと
2014年10月26日、町田喜びの集い
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
11:7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」

11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
11:46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

話す前に、私は必ずイエス様に祈るんです。変な祈りかもしれない。イエス様、お願いします、今日、集まった人々が、私のしゃべっていることを、聞かないようにして。御心だけ明らかにしてください。

私たちは、イエス様の偉大さ、イエス様の導きについて、いくら考えてもピンときません。ひとつの謎なのではないでしょうか?

けれども、今朝の題名は、『イエス様のなさったこと』について、イエス様のお話しになったことではなく、イエス様のなさったことと言っても、本当はこれは間違っている。イエス様は自分で考えたり、動いたりしたことがない。一回も!

ですから、本当のテーマは、『父は、主イエス様を通して、聖霊の力によって、何をなさったのか』ということです。

ヨハネ
11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
11:46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

私たちは、『イエスがなさったこと』ということばを読むことができます。また46節、『イエスのなさったこと』というみことばがでてきます。私たちは、イエス様が、地上の生活を送っていたときになさったことを知りたいと思えば、言うまでもなく、福音書を読むべきです。

ルカという伝道者は、彼の書いた福音書の中で、『イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書いた』と述べています。マタイ、マルコ、ヨハネもみな、同じことを行いました。ですから、私たちは四つの福音書の中に、我々の主のすばらしい姿を見ることができます。

福音書はそれぞれお互いに矛盾し合っていると考えている人もいます。けど、決してそうではありません。我々の主イエス様はただ、一つ一つの福音書の中で、いろいろな違った側面から考察されています。すなわち、マタイにおいては、イエス様は王として、『王様』として我々の目の前に紹介されています。マルコにおいては、イエス様は主の『しもべ』として描かれていますし、ルカ伝においては、イエス様は人間、人の子、しかも完全な人間として登場されています。そして、ヨハネにおいては、イエス様は神の御子として、約束された救い主として、主の神性が我々に分かるように紹介されています。

それですから、私たちは四つの福音書を一緒に合わせてみると、一方においては、イエス様の偉大さ、他方において、イエス様のご奉仕の本質を見ることができます。すなわち、イエス様の人格とみわざが、我々に明らかにされるのです。

しかし、今日、私たちが読む聖書の箇所においては、イエス様がラザロの復活との関連において何をなさっかについて考えたいと思います。イエス様は何をなさったでしょうか。

この質問に十分に答えるためには、本当は、このヨハネ伝11章全部を読むべきです。この11章を通して、私たちは、イエス様の愛、イエス様の力、イエス様の恵み、ならびに、イエス様ご自身をよりよく知ることができます。ですからここで、次の問いについて一緒に考えましょう。

その当時、イエス様はいったい何をなさったのでしょうか。第一に、イエス様は助けを求められました。しかし、意識的に遅れて行きました。しかし、その遅すぎて行くということは、もっとも最善の時だったということです。

確かにこの11章を読むと分かります、イエス様は、緊急に救助に来るように求められました。けど、さっそく赴く代わりに、イエス様は意識して遅らせ、瞬間に助けようとしなかった。

イエス様は、行きたい、皆、元気になってもらいたいという気持ちを持っていたにちがいない。けど、イエス様は、自分で考えて行動したことは、一回もなかった。まず祈ってから。お父様、彼らは今、悩んでいる。わたしもどうしたらいいか分からない。行かせて。ダメ。ああ、そうか。はい、分かりました。

後で、行かなかったのはよかったと、もちろん、分かったのです。

その状態を想像してみると分かるでしょう、イエス様は三人のまったく特別な友だち、すなわち、マルタ、マリヤ、ラザロを持っていました。これら三人の友だちとイエス様は、再三にわたって泊まったり、交わったりしました。今度、ラザロは病気になりましたが、その状態は早く悪化してしましたので、彼の姉妹たちは救助を求め、遣わしました。

ヨハネ
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』

『私たちは本当に困っています』とは、彼らは言っていない。『あなたが愛しておられる者。』イエス様は、この知らせを聞いたとき、何をなさったでしょうか。すぐ、友を助けるために出かけたのでしょうか。そうすることを、誰でも期待するのではないかなと思います。そのことは、マルタとマリヤも必ず期待していました。頼めばすぐに来るにちがいない。けれども、イエス様は全く理解できないようなことをなさいました。すぐには出発しなかった。

ヨハネ
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』

11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

普通の人間にとって、二日は別に長くはない。けども、マルタ、マリアにとってはもう想像できないほど長いものでした。

イエス様は、この知らせを聞いた時、行こうと思わなかったかもしれないけど、そのおられたところになお、二日、とどまられた。身の毛もよだつような、全く理解できない態度ではないでしょうか。あまりにもひどい!と考えることもできるでしょう。しかし、この遅延は全く意識的になされました。イエス様は何をなさっているかを、もちろんご存じでした。

ヨハネ
11:7 その後、イエスは、『もう一度ユダヤに行こう。』と弟子たちに言われた。

私たちはこうしたイエス様の行いを考えたり、イエス様が何もなさらなかったことを考えると、ひとつの謎の前に立たされます。けど、私たちは既に、同じようなことを何回も経験したのではないでしょうか?私たちは助けを求めました。叫びました。

私たちは、主が手を貸してくださるように、切に祈り求めました。しかし、私たちの祈りは聞かれなかったのです。少なくとも、私たちが期待したようになりませんでした。家族の誰かが死んでも、主は働こう、助けようとはなさいませんでした。ちょうど同じことを、千九百年以上前に、ベタニヤでマルタとマリヤが経験しました。当時、イエス様は何をなさったのでしょうか。

主は、関与なさいませんでした。一見したところイエス様はつんぼの耳を持っていたわけです。イエス様は彼らを助けるために急ぐことをしないで、全く意識的に遅れてやって来ました。そして、まさしくそのことはイエス様が、今日もなお、なさることです。

私たちはみな、『なぜ主はそうなさったのか』と問わざるを得ません。けど、私たちがここで述べられているいくつかの七つのことがらに注目することが、問いに答える一つの助けになるのではないでしょうか?

第一は、イエス様は愛してくださいましたとあります。

ヨハネ
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

主なる神の愛は、人間の愛とはまったく違った性質をもっています。主の愛は理解したり、把握したりできませんが、しかし、経験することができます。マルタもマリヤも、この愛を経験し、体験し、認識しました。そして、彼女たちの生活は、それによって非常に豊かにされました。

二番目、イエス様はたいへんな苦しみをご存じでした。マルタとマリヤは、イエス様のみもとに使者を遣わしました。したがって、イエス様はその情報を、知らされていました。イエス様は、助けを求める叫びを聞きました。

イエス様は、絶望的に重大な状態を御存知だったのです。イエス様に知られていない事がらは何一つありません。私たちはしばしば、主が我々に対して無関心であると思いがちです。私たちは、イエス様によって愛されているということ、イエス様はよくご存じであるということを忘れてしまいまです。

三番目、イエス様はラザロの死を予防しようとなさいませんでした。

ヨハネ
11:32 ・・・・主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

いのちそのものであられるイエス様にとって、死を予防することは、大したことではなかったでしょう。ラザロが癒されるためには、別に行かなくても、遠くからイエス様が一言おっしゃってくだされば、十分だったでしょう。

四番目、イエス様は、ご自分の友であるラザロの死を望んだんです。

ヨハネ
11:37 しかし、『盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。』と言う者もいた。

すなわち、イエス様は、ラザロを死なせないでおきたいとは欲っしていなかったのです。目先だけを見れば、私たちにはひどい友だ、と言う傾向を持っている。それが愛なのでしょうか?どうして飛んでこないの?癒してもらわないと。他の人々を助けた主イエス様が、なぜ、今まで、長い間、親しい交わりを持ち、その住まいにしばしば招待された友ラザロを、助けなかったのでしょうか?

五番目、イエス様は出発する前、二日間、同じところに泊まっておられたと聖書は言っています。

ヨハネ
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

もちろん、これはイエス様にとって、なんの驚きでもありませんでした。イエス様は、そのことをご存知でした。父から知らされていたからです。イエス様をすぐに行かせなかったのは、父にとっては、それは最善の時ではなかったからです。

六番目、その時イエス様は関与なさいました。

ヨハネ
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』

イエス様は、大声で叫ばれました。イエス様が叫ぶと、死者もそれを聞きます。イエス様が命令すると、何かが起こります。すると不可能なことが可能になります。すると、そのとき、存在していないものが、存在するようになります。そのとき、死も力の無さを認めざるを得なかったので、死んでいたラザロがよみがえったのです。

七番目。マルタとマリヤが、イエス様から受け取ったことは、『彼女たちが祈り求めたことよりもよいもの』でした。

ヨハネ
11:40 イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』

彼女たちは、ただ単に病気の癒しを経験しただけではなく、神の栄光を見た。これは最高の贈り物です。

今まで考えたこれらの七つの真理は、私たち全ての者にも当てはまるのではないでしょうか。

第一番目、イエス様はラザロ、マルタ、マリアを愛しただけではない。イエス様は我々をも愛していてくださるお方です。しかも、一人一人を、また、個人的に愛しておられるのです。イエス様は誰に対しても、決して無関心ではありません。イエス様は、一人一人を心にかけておられます。考えられない。ぴんと来ない。けど、聖書はそう言っているから間違いなくそうです。

二番目、イエス様は、我々の状態をもっとも正確にご存じです。主は背後の動機をご存じです。全てのことにおいて、主は、一定の目標を目指しておられます。イエス様にとって知られていないことは何もありません。

三番目、主イエス様は我々の悩みを変えることが完全におできになります。イエス様は、我々の助けの叫びを聞いておられます。イエス様は聞くことと、聞き届けてくださることを約束してくださいました。

四番目、イエス様は、私たちが考えるような具合には、必ずしも答えてはくれません。意識的にイエス様は、私たちが、悩むことによって、苦しみを通して、吟味されることを省略なさいません。私たちは誘惑され、困難なことをも味わうでしょう。

五番目、イエス様は、主の時に答えてくださる。そして、主の時は言うまでもなく、最善のときです。人間的に見れば、遅過ぎました。というのは、ある人が四日間も墓の中に置かれれば、もうお手上げだからです。

六番目、イエス様は、その当時、助けてくださいました。イエス様は、今日も助けてくださるお方です。イエス様は、最善の時が来たならば、必ず関与なさいます。悪魔によって惑わされないようにしましょう。

七番目、主の答えは、私たちが期待するものよりも、常に、はるかに良いものです。それですから、期待をもって、主を見上げ、主の偉大なることを期待しましょう。

なぜイエス様は、マルタ、マリヤ、ラザロに対して、そのように行動なさったのでしょうか?なぜ私たちは、こんなに多くの困難なこと、理解できないことを味わわなければならないのでしょうか。

二つの理由を挙げることができます。

第一に、主は理解できないことをたくさん許しておられます。私たちはそれによって苦しみに陥ります。私たちは、『どうしてか?』という疑問を持つようになり、わけがわからなくなってしまうことがあります。それは、厳しい試練のときです。しかし、まさにそれを通して、主のご栄光が明らかにされます。

ヨハネ
11:4 この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。

私たちが、悲しみに悲しみを加えるためでもなければ、あきらめたり、全てを投げ出したりするためでもなく、主のご栄光が現われるために、私たちは、理解しがたいことをいろいろと経験します。

結局、偶然はない。主は導いてくださる。生きているあいだに、やはり、私たちは、多くのこと、ほとんどすべてのことを理解できない。けど、分かるようになる。それは、必要だった。

今は、どうして必要だったのか、いくら、考えても分かりません。けども、いつかわかる、必要だっただけではない。よかったと、いつか認めざるを得ない。それだけではなく、最高だったと分かるようになると、天国で忙しくなる。もう、イエス様、ありがとう、ありがとうとしか言えない。主は最善だけしか与えられないお方です。

イスラエルの民も荒野を通らなければならなかったのです。その時、喉は渇き、助けも遠く、太陽は照りつけ、敵にもさらされたのです。けど、主は、助け手として、マナを与え、水を与えてくださいました。また、雲の柱と火の柱によって、イスラエルの民を導かれました。二、三日間ではない、二、三週間でもない。四十年間。想像できない奇蹟です。主は、支配しておられ、奇蹟を行ったのです。

どうして、なぜと考えると、二番目の答えは、主は、主に属する者の信仰を試し、増し加えるために、理解しがたいことをお許しになるのです。苦しみがなければ成長もありません。私たちは苦しみに陥らなければ、真剣に主の方に向くことができません。私たちの上に何の重荷も置かれなければ、私たちは主の約束にしがみつくことをしないでしょう。

ヨハネ
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。

これもまた、主がすぐに関与しないで、私たちをひとりぼっちにさせる理由なのです。もちろん、私たちは、心が混乱して、出たらいいのか、入ったらいいのか、全くわからなくなってしまいます。いくら考えても、全くわからなくなってしまいます。けども、我々は次のことを忘れてはなりません。主のご栄光が明らかにされます。そして、私たちは、そのことによって主によりいっそう近き、信仰が強められるようになります。

ヨハネ
11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

我々の場合はいったいどうでしょうか。イエス様を信じているのでしょうか。本当に心から、イエス様を信じ、主に信頼しているのでしょうか。

このヨハネ伝11章は、我々が何というすばらしい救い主をもっているかを、我々に示したのです。イエス様は、その愛において、理解することにおいて、また、赦しにおいて、唯一無二のお方です。私たちはもっと主に信頼すべきです。そうすれば、私たちはローマ書8章の28節で約束されていることを、もっともっとよく理解できるのではないでしょうか?

ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

原語を見ると、『確信しています。』ここで、『すべて』と書いてあります。『大部分』ではない。すべてが益になる。ヨハネ伝の13章7節も、よく引用されるすばらしい箇所です。

ヨハネ
13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

イエス様はひとつのご計画を持っておられ、このご計画に沿って、活動なさいます。我々にとって、多くのことは隠れています。私たちは暗闇の中を手探りしているものです。

主のご計画は我々の生活の中でいかに実現されるのでしょうか?イエス様が、すぐには関与なさらないことによって、そして、また、私たちが失望させられることによってです。また、イエス様が、いちいち説明なさらず、我々の上に困難を来たらせることによってです。困難なこと、理解しがたいことを通して、私たちは、次のように告白するようになるはずです。

第一サムエル
3:18 ・・・・「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」

私たちはみな、次のことを経験するでしょう。主のなさることは、私たちのために常に良く、常に主の御名の栄光に貢献します。ひとつの歌の中で、次の文句が出てきます。

見よ!主のなさること。
主は生きておられる。
思いと時を越え、
すべてをよきに成したもう。

私たちも、この確信を持つことができるのは、本当にありがたいことなのではないでしょうか。

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