最後まで従いとおす
1999年8月1日、御代田キャンプ
ゴットホルド・ベック
黙示録
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
民数記
14:24 ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。
ヨシュア
14:6 ときに、ユダ族がギルガルでヨシュアのところに近づいて来た。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。「主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。
14:7 主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。
14:8 私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。
14:9 そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。
14:10 今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。
14:11 しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。
14:12 どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」
14:13 それでヨシュアは、エフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。
14:14 それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。
たしかに今、定義兄が言われた通り、人間は、イエス様の顔を描こうと思っても全く無理でしょう。イエス様の顔とはあまりに聖くて聖くて、透き通っている顔であるから、人間は、想像することもできない。私たちは、天国へ行ってイエス様の顔を見てから、もう分かったとおそらく言えないでしょう。永遠に分かってみたいと思うようになると思います。
どうして、ユダの顔を描かなかったのか、鏡を見て自分の顔を描いても同じだと思ったかも知れない。本当にイエス様は、全てにまさって偉大なるお方であり、そして、人間は皆、このイエス様によって愛されていることはピンときません。気持ちもついてきませんが、動かすことのできない素晴らしい事実です。結局、主と人間と比べようと思っても比べられない
イザヤは、主と人間について信じる者について次のように書いたのです。この言葉も信者のために書かれたものです。
イザヤ
55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
信じる者は、必ずしも主を呼び求める者ではないと言わなければならないでしょう。
イザヤ
55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
けれども、今、読んでもらいました箇所を見ると、ちょっと違うことが書いてある。「わたしの思いと彼の思いは同じである」と、主は言うことができるのです。驚くべき事実なのではないでしょうか。
民数記
14:24 わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。
ここで出てくる言葉は、ほかの者とは違った心と言うことです。結局、よく言われます。心のもち方こそが大切であります。今朝、洗礼を受けられた八人の兄弟姉妹は、主の恵みによって救われ、イエス様の恵みによっておおいに喜ぶことになった兄弟姉妹です。けれどもイエス様を信じることは、もちろん、すべてではない。救いにあずかることも全てではない。また、充分ではないと言えるかも知れません。イエス様をよりよく知ること、イエス様と一つになること、結びつくこと、用いられることは主の切なる願いであります。
今の激動と困難と堕落の時代にあって、悩み、苦しみを超越した兄弟姉妹は、本当に必要な者として、主によって、探し求められています。黙示録の箇所によると、主は、「勝利を得る者」を探しておられます。そういう人は、そういう人の日常生活は、荒野を行くような者であり、人間の助けではどうにもならない。どうしても主の助けを必要とする人たちであります。でも、多くの人たちは、無理、自分の日常生活では敗北の連続ですと、正直に告白しなければならない。ひとりぼっちで努力すれば、がんばれば、もちろん、うまく行くはずがない。イエス様と一緒だったら違います。
カレブは、勝利を得る者と呼ばれています。今朝、洗礼を受けられた兄弟姉妹は、もうイエス様を信じたから、イエス様の恵みにあずかったから、もう安心だと考えると困ります。どうしてもカレブの信仰を心に留めていただきたいと思います。彼について三つのことが書かれています。
第一番目、彼は絶えず主に寄り頼みました。主の存在を認めることは、たいしたことではない。悪魔も、主の存在を認めています。主を信じることだけでも十分ではない。絶えず寄り頼むことが要求されています。第二番目は、いかなる状況の中で、このカレブは主に寄り頼んだのでしょうか。そして、最後にどうしてこのカレブは、主に寄り頼むことができたのでしょうか。この力は、どこから飛んで来たのでしょうか。
まず第一に、カレブと言う人は、絶えず主に寄り頼みました。確かに新約聖書をどこを見ても、彼の名は一回も出てこない。けれども彼の生涯は、不信仰と堕落の世界の真っただ中にあって、不動の信仰の模範的な実例ではないでしょうか。確かに当時の人たちは、一度、主なる神を信じました。そして、それだけでなく主は、何を考えておられるかも、彼等はちゃんと知っていたのですけど、主の御心よりも、主の御名の栄光よりも、自分自信の自我を大切にしてしまったのです。けれども、カレブの場合だけ違っていました。
ヨシュア
14:8 ・・・・私は私の神、主に従い通しました。
これは、カレブ自身のことであり、証しです。おそらく、私たちはなかなか言えない証しなのではないでしょうか。「わたしはわたしの神、主に従い通しました。」信じただけではないんです。従っただけではない。従い通した。これは、カレブの証しです。ある男は、言うかも知れない、「わたしは、そんなに悪い主人ではないよ」と、言うかもしれない。けれども、答えとして一度、あなたの奥さんに聞きましょう。子供の意見を聞きましょう。そうすると全然、違う答えになるかも知れない。会社で大人しくて、模範的な社会人であるかも知れないけど、家に帰るといったい、どう言うことになるのでしょうか。ですから、彼だけが「主に従い通した」と言っても、「本当かな」と疑問をつけてもいいでしょう。カレブの意見は、そんなに大切ではない。けれども、九節を見ると、また違ったことを書いた。モーセは誓って、『・・・・あなたが、私の神、主に従い通したからである。』これは、カレブについてのモーセの証しです。
結局、一緒にいた人がこういうふうに言ったのです。「確かにそうよ。」けれども、これも人間の証しだけですから「まぁまぁ」と考えられます。大切なのは、もちろん、主の意見です。主の思いです。十四節に、『彼がイスラエルの神、主に従い通したからである』とあります。これは主なる神、御自身の判断です。ですから、このカレブの生涯は、私たちが不信仰と堕落の真っただ中にあって、いかに勝利を得る者となることができるかを我々に示すものではないでしょうか。
もちろん、当時のイスラエルの民は、主によって選ばれた民であり、羊の流された血によってあがなわれ、エジプトの王パロから解放された民でした。彼らは、主の救いを喜び、主に従おうと心から願いました。けれども、大部分の人は、途中で挫折して、ダメになりました。
どうしてであるかと言いますと、主の誉れよりも自分のことを考えてしまったからです。カレブは本当に、主のために生きたいと切に望んだだけではなく、彼は本当に主に従い通しました。主の用いられる器でした。
次に、第二番目になります。このカレブとは、どのような状況の中で主に寄り頼んだんだのでしょうか。三つにわけて考えられます。
第一は、彼は自分の兄弟たちに捨てられた時に、主に寄り頼んだのです。二番目は、人々によって攻撃さらたときも、彼はあいかわらず主に寄り頼んだのです。三番目、荒野の試練を受けた時も、彼は全く主に寄り頼んだのです。
ヨシュア
14:8 私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。
もっとも身内の者は、カレブを助けるべきだったのです。そのためにこそ兄弟というものがいるのではないでしょうか。けれども、彼らは主の声に聞き従うよりも、自分の理性の声に聞き従い、しかも、彼らの心が別れてしまった故に、カレブを助けることができなかったのです。確かにイスラエルの民の中で、少なくとももう一人、彼の側に立つ人がいたのです。ヨシュア。ヨシュアも全く同じ気持ちをもっていたのです。彼についても、彼は主に寄り頼んだと、聖書は言っています。けれどもカレブは、ある程度まで単独で孤独でした。というのは、ヨシュアは、特別な地位と大きな特権を持っていたからです。ヨシュアは、その当時、すでにイスラエルの軍勢を率いる地位にあり、しかも、神の友と呼ばれていたモーセと非常に親しい関係をもっていたのです。そして、将来、彼はイスラエルの全ての民を率いる指導者になるように選ばれている者でした。これに対して、カレブは、全くふつうの信者に過ぎなかったのです。
イスラエルの十二部族から選ばれた十二人の代表者が、カナンの地に遣わされ、そのカナンの地の豊かさを見ると共に、その地に入ることが多くの困難を伴うことを彼は分かりました。そのために遣わされた人たちは、カナンの地に入ることができないと判断しました。絶望してしまいました。特別に臆病者ではなかった。目に見える現実だけを見たからです。人間の力では全く不可能と彼らは、イスラエルの民は、思ったのですけれども、ヨシュアとカレブは――その時、人間的ならば間違いなくそうです。この判断は、間違っていないけれど――主にとって不可能なことはない、必ず奇跡の経験を持つようになるとカレブとヨシュアは疑わなかったのです。
このようにして二人が主にだけ寄り頼んだ結果とは、何だったかと言いますと、彼らは、誤解されてしまったし、迫害されてしまったし、殺されそうになってしまったのです。霊的な前進は、反対なしではあり得ないでしょう。もし信じる者が周囲の状況を見て、その問題や困難に心を奪われ、主の約束に頼らないで諦めてしまうなら、それこそ悲劇的です。当時の信じる者は、暗闇しか見ることができなかったのです。主と共に前進しようとは、あえて思わなかったのです。そのような状況の中にあってもカレブは、絶えず主に寄り頼みました。カレブの兄弟たちは、結局、彼を捨ててしまったのです。けれどそれは、彼にとって断念する理由とはならなかったのです。
信仰とは、信頼というものは、全く個人的なことなのです。私たちは、その点でうまく行かなかった時も、その責任を他の人のせいにすることはできません。カレブは、カナンの地に入ることを妨げるものを実際に見たのですけれども、主を仰ぎ見たから、見方を変えられたのです。違う心のもち方を与えられたのです。自分自身の不十分さをカレブは、分かったでしょう。けれど、それと関係なしに主に寄り頼みました。私たちもいろいろな問題、困難に出会って試練を受けますけど、しかし、そのようなとき、カレブと同じように、どんなことがあっても主に寄り頼むならば、勝利を得る者となることができます。そして、勝利を得る者となることができるのですから、そのようにならなければならないのではないでしょうか。
カレブは、兄弟たちに見捨てられた時も、主に寄り頼み続けました。
第二番目に、カレブは人々に攻撃されたときもあいかわらず主に寄り頼み続けたのです。あらゆる誤解や非難に関わらず、主の信仰に立つことは大切です。約束に頼ることが要求されています。私たちは、心を一つにして主に従えば人々から尊敬され、驚かれると思いがちですけど、しかし、もしそうではなくて、それとは正反対のことが実際に起こったとしたならば、それは、我々にとって大変なショックです。
民数記
13:30 ・・・・私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。
確信と喜びに満ちている言葉です。この言葉を見るとカレブの心の状態は、どんなものであったか明らかになります。
民数記
14:8 もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。
14:9 ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
14:10 しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われた。
九十九パーセントではなく、全会衆と書いています。カレブに対する反対は、憎しみにかわったのです。どうして?カレブはただ、真実を伝えたのです。そして、信者であるイスラエルの民は、素直な心で心理に耳を傾けたくなかったから、そして、主に徹頭徹尾、従い通そうとは思わなかったから、カレブを殺そうとしてしまったのです。悲劇的ではないでしょうか。
このようにしてカレブは、辛い経験をしました。けど、主にだけ寄り頼む人は、誰でも同じ経験をするようになります。信じるものは、ただ主にだけ寄り頼まないと、感情的になり、メクラになり、悪魔の虜になってしまいます。
けれど、カレブが、殺されそうになった時、ちょうどその時だから、主の栄光が現われたのです。カレブは、助けられたのです。その時、カレブは、何ひとつ知恵、措置をこうじませんでした。主御自身が、カレブを助け守って下さったのです。我々も同じ主に寄り頼むならば、何ものも恐れる必要はない。
主は、その時、我々の側に立ってくださるのです。ちっぽけなどうしようもない我々の味方となるのです。その時、主に反抗したり、カレブを攻撃した人は、次々と死にました。不信仰が支配するところには、霊的な死もまた、支配するようになります。
民数記、十四章三十八節、『ヨシュアとカレブは生き残った』と、書いてあります。不動の信仰は、常にいのちにいたる道です。カレブは、兄弟に捨てられた時も、人々から攻撃された時も、主に寄り頼んだのです。
第三に、荒野の試練を受けた時も、彼が主に寄り頼んだ様子を聖書から見ることができます。
ヨシュア
14:10 今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。
カレブは、ただ単に困った時や、うまくいっている時に一時的に、主に寄り頼んだだけではない。失望やどうしたらいいか分からない状態が何度も現われた四十年間という長い年月を通して、絶えず主に寄り頼みました。不信仰は、決して待つことはできませんし、また、待ちたくないと思っています。
ある時、イスラエルの民はカナンの地に入ろうと一生懸命、努力しましたが結局、敗北に終わってしまったのです。その時、彼らは、主の命令に従わず勝手なことをしてしまったからです。徹底的にへりくだり、自分の過ち、わがままを悔い改めなければその人を、主は、導くことができません。
民数記
14:29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。
本当にそのとおりになりました。主に従おうとしなかった、二十歳以上の人々は、皆、荒野で倒れて死にました。ですから、約束の地に入った者は全く新しい世代の者たちだったのであります。
主に寄り頼む者は、ただ単に信仰によって歩む心構えを持ち、それを実践するだけではなく、主の時がくるまで待たなければなりませんし、主の試練を受けなければならない。カレブは、長い年月を通して、主は必ず最善をなしてくださると信じ、主に従い通し、すべてを主にゆだねました。カレブは、主の約束が成就するまで四十五年間という長い間待たなければならなかったのです。
最後に、第三番目の質問は、どうしてカレブは絶えず主に寄り頼むことができたのでしょうか。勝利の秘訣は、いったい何なのでしょうか。
二つのことが言えます。まず、第一番目、主の真実さです。二番目、他の者と違った心でした。
まず、主の真実さについて、聖書から見てみるとハッキリ言えます。すなわち、死が支配する砂漠や荒野の中でもカレブは、生き続けました。二十歳以上の人は皆、荒野で倒れて死んだ。けれど、ヨシュアとカレブだけが生き残りました。どうしてであるかと言いますと、彼らは、絶えず真実なる主を仰ぎ見たのです。
ヨシュア
14:10 主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。
こう証しされています。主に寄り頼まない残りの人たちは、皆、自分のいのちを保とうと努力しましたが、結果は失っていまったのです。これに対してカレブは、真実なる主に自分のいのちを捧げましたから、主の前に生きながらえることができたのです。
ヨシュア
14:11 かも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。
最初、カレブは、イスラエルの民を説得しようといろいろ話し合うようにと努めていたのでしょうけど、ダメでした。失敗でした。話しても話しにならない。話しても平行線だと分かるようなったのです。それ以来、彼は、あまり話さなくなったのです。そして、ほかの人たちは、『あいつはもう負けた、ダメになってしまった』と思ったのではないでしょうか。けれども、カレブは忍耐して、主の約束は必ず成就すると信じ続けたのです。忍耐とは、決して、弱さのようなものではない。
カレブは、壮健であり続けました。これは、結局、主の力の現れだったのです。彼は、死んだ人たちと同じ苦しみを経験しました。すなわち、飢え乾き、荒野の単調さ、いつも同じものを食べることなどです。けれど、彼は、すべてを共にしながら、結局、前と同じ力に満たされたのです。四十歳の時も、八十五歳の時と同じ力を持つと言うことは、奇跡以外の何ものでもないのではないでしょうか。この奇跡の秘訣は、真実なる主に寄り頼むことでした。
私たちが自分の力で主の御心を行おうとする時、初めは、大軍勢に輝くごとくあっても、やがて打ちのめされます。時の経過とともに私たちは、徹頭徹尾、試練に合いますが、それはただイエス様お一人だけに寄り頼むか、否かが明らかになるだけです。
主に、より頼むものは、荒野の中でも新たなる力を得ます。カレブは、ただ単に約束の地カナンに入っただけではなく、自分に前から約束されていたヘブロンという地を自分の物にすることが許されました。いろいろな問題は、何年間も続きましたが、カレブはただ、主にだけ寄り頼みましたから、主の約束の実現を経験することができたのです。
ヘブロンがカレブのものとなることは、主によって約束されていたのですけど周りの人は誰も信じようとはしなかった。けれども、カレブは、真実なる主の御約束に寄り頼みましたから、主は必ず御自身の約束を守ってくださると言うことを経験するようになりました。カレブは、いつ約束の地に入れるか、もちろん、分からなかったのですけど一瞬たりといえども、主の目標を忘れることはありませんでした。
それですから、四十年が経ってから約束のヘブロンの地に入ることができたのです。けれども、その時も彼は、少しも驚かず、これは全て真実なる主の当然のことであると信じて、疑いませんでした。カレブは、主の啓示にしっかりと寄り頼み、ただ一つの神の目標だけを持って、主の真実に全く寄り頼んだのです。
民数記
14:24 わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。
主は、こう約束してくださり、それだけでなく、このことを実際にカレブは、体験的に知るようになったのです。カレブは、どうして主に寄り頼むことができたのでしょうか。今、読みましたように、現実よりも主の真実さを見たからです。
二番目、彼が他の者と、他の信じる者と違った心を持っていたからです。私たちは、今日、不信仰と混乱とによって囲まれている者です。主の明らかな目的は、まだ、今のところ完全に実現されたわけではない。
例えば、我々の家族が全てイエス様を信じるようになったとは考えられません。ですから、私たちの信仰は、試されています。すべてを主にゆだねましょう。そして、主が、おおいなる御業をなしてくださることを待ち望むべきです。そうすると今は、不可能なこと、実現されていないこともやがては、成就されます。カレブの生涯を通して分かることは、大切なのは、我々の真剣さや真面目さ、努力ではなく、他の者と違った心を持つことです。
最後まで主に従い通すために、他の者と違った心を持つことがどうしても必要であるからです。
荒野での数年間は、決して、無駄なものではなかったのです。二十歳以上の者たち、すなわち、古い、年取った者たちは、全て取り除かれなければならなかったのです。この辛い経験を通して、全く新しい世代、すなわち、主を第一にする世代が生まれたのです。
ここで一つの事例をヨシュア記からみてみます。
ヨシュア
15:19 「私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。
15:16 そのとき、カレブは言った。「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」
15:17 ケナズの子で、カレブの兄弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを、彼に妻として与えた。
オテニエルという男の名前の意味は、神の力です。オテニエル、すなわち、神の力。それは、すなわち、荒野での長い年月を通して、全く新しい力が働くようになった事実と密接な関係を持っています。このオテニエルは、主の真実さを信じ、敵に対して勝利をおさめ、敵の地を自分の物としたために、主の約束を実現していただくことができたのです。このオテニエルは、カレブの甥でした。
荒野での生活を通して、カレブだけでなく、カレブの家全体が、親戚も含めて、皆、絶えず主に寄り頼むようになったのです。カレブの娘アクサも、結局、同じ霊に満たされ敵の地を、すなわち、いちばん大切な泉を取ろうとしたので、十九節を見ると、『得られた』とあります。
カレブの家族、親戚たちもまた、カレブと同じ霊、すなわち、他の者と違った心を持っていました。自分だけでなく、他の人たちもまた、同じように勝利を得る者となることは、カレブの初めから持っていた切なる願いだったのです。モーセやヨシュアといった人たちは、おおやけに認められた偉大な指導者として、認められたのです。これに対して、カレブは、全く目立たない存在でした。けれど、彼の存在は、主の目から見ると極めて、大切な意味をもっていたのです。
カレブは、すなわち、他の者と違った心を持っていたのですから、御心にかなう者でした。「イスラエルの民の考えと、私の考えとは、全く違うことになっている。けど、私の思いとカレブの思いは同じです」と、主は言うことができたのです。
主は、いくら弱い存在であっても満たすことができる。主は、ダメな者を用いることができると、聖書全体は、ハッキリ言っているのであります。勝利とは、もうすでにイエス様を通して得られたものです。決して、我々の勝利には、なり得ません。主の勝利にあずかることだけが、要求されています。
イエス様の御霊が自由に、我々の内に、私たちを通して働かれることがおできになると私たちも、他の者と違った心を持つものとなります。そのことによって人々は、引き付けられるようになり、そして、主の御栄光が明らかになることができるのです。
カレブは、最後まで従い通したのです。どうしてであるかと言いますと、主の真実だけに頼ったからです。
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