2011年1月23日、吉祥寺礼拝
ゴットホルド・ベック
エペソ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
第一ペテロ
5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
5:11 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。
もう一箇所、読みます。エペソ書の3章10節と11節です。
エペソ
3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
3:11 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。
この箇所では、『今』という言葉は、聖霊の働きが、いかに実際的であるかを教えています。ある人は、夢のような世界だ、と言います。けど、聖霊は、そのような人々を用いることができないでしょう。この今、読んだ御言葉は、信じる者を目覚めさせる言葉ではないかなと思います。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主、キリスト・イエスにおいて、実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。
新約聖書のメッセージにおいて、主なる神の持ちたもう、いちばん深い関心は、言うまでもなく、ご自分の教会であることがわかります。エペソ書を読むと、教会が何であるかがわかります。イエス様のからだなる教会が、いつかは、イエス様の満たしを表す日が来ることを、確信しています。ここで言っている教会は、霊的な交わりを持ち、主の力と愛に満たされ、よみがえりの力を持ち、あたかも、王のごとく支配します。
この教会は、主なる神の喜びであり、主の満足です。多くのクリスチャンは、今、述べたようなことを信じていますけど、それはいつか、きっとやってくる。けど、今ではない、と考えています。これらの人々は、霊的な交わりを欲していますけど、魂の働きは、あまりにも大きいために、それを、することができないでいます。彼らは、愛したいのですが、その逆に、憎んだり、恨んだりしてしまいます。彼らは、毎日の生活を、支配する代わりに、いろいろな困難や苦しみの下敷きになってしまっています。
いつかは、そうなるだろう。けど、今では困る。今ではない。くだらない話を、やめてくれ!と言います。けど、これは、大変な、不信仰です。現在、自分にはできないから、将来を見て、慰めようとしているのですけど、私たちは、この、事実を避けてはいけません。今の主の御言葉は、これは、今――明日でもないし、再来年でもないし、今――、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主、キリスト・イエスにおいて、実現された神の永遠の御計画に沿ったことです。
今がその時です。今は、罪人が救われなければ、いけない時です。救いを求めている人に、ただ、一つの救いの道を、示す時が今です。
これは疑いのない事実です。私たちの一致した、意見であるべきです。これと同じように、救われた罪人であるキリスト者が、お互いに霊的な交わりを持つのも、今がその時ではないでしょうか。
イエス様のからだなる教会が、イエス様に用いられる器であるという、素晴らしい経験を味わうのも、今がその時ではないでしょうか。習慣的な、また、儀式的な態度から、抜け出し、実を結ぶ霊的な立場に入るのも、今がその時、ではないでしょうか。
私たちは、主なる神の多種多様な知恵を表す教会に、属しているのでしょうか。私たちは、今、このエペソ人への手紙3章10節と11節を読んで、霊的な雰囲気に、大きな影響を受けるでしょうか?それとも、天使たちは、私たちを見て、泣き、悪霊が勝利をおさめるのでしょうか。
聖霊は、今、そう言っています。私たちに、そう言っているのです。ところが、私たちは、一体どうしたら、それが、できるのだろう・・・・と尋ねます。
これに答えて、三つの点に分けて、述べたいと思います。第一番目、神の知恵であるイエス様によってです。二番目、キリストの体である、私たちによってです。三番目、イエス様がご自身を表す手段である、からだなる教会によって、それが可能です。
第一番目、神の知恵である、イエス様によってです。主なる神の永遠のご計画は、ご自分の知恵であるイエス様を表すことです。主なる神の知恵は、個人の救いだけではなく、もっともっと大きなものです。
あらゆる問題を解決し、あらゆる恐れを取り去り、また、あらゆる希望を実現しなければいけません。これは、主なる神の素晴らしい知恵です。私たちが、イエス様は自分にとって完全に十分であるということを、生き生きと経験することこそ、主の永遠のご計画です。私たちのイエス様は、全世界にあるありとあらゆる問題に対し答えを持っている。これは、神の永遠の、ご計画のうちに、あるのです。コロサイ人への手紙2章9節を見ると、次のように書かれています。
コロサイ
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
イエス様が完全に十分であるということを知るならば、それは大きな経験です。イエス様は、あらゆる問題、あらゆる疑問に対する答えそのものです。
もし、イエス様が、この宇宙で神の知恵であることが明らかにされ、また、イエス様が、完全に十分であることが明らかにされるならば、それは何という栄光でしょう。神の知恵によって、人間のあらゆる問題が、解決されたのです。この素晴らしい事実を、言葉だけではなく、自分の経験、また、行いによって、述べ伝えることは、からだなる教会の特権でもあり、また、責任でもあります。
これを考えると、二番目の点に到達します。すなわち、キリストの体である我々によってです。イエス様の体である、我々によって、神の言い表すことのできないほど、素晴らしい知恵を、表さなければいけません。このエペソ書3章10節、11節は、本当に考えられないほど大切な言葉です。もう一回、読みます。
エペソ
3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
3:11 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。
ここに書いてある、天上にあるもろもろの支配や権威は、どうして大切なのでしょうかね?この天上にあるもろもろの支配や権威は、我々の内面的な実情と、外面の形式を、はっきりと区別し、見分かることができるからです。
からだなる教会に対する、主の勧めは、教会は、キリストの、富の内に住み、いかなる、困難や問題にあっても、イエス様は、あらゆる問題の答え、そのものであるということを示すところにあります。
この支配と権威は、我々の遠くにあるものではありません。私たちが考えているより、近くにあります。私たちは、この支配や権威を見ることはできませんけど、彼らは、私たちを見て、喜んだり、非常に憎んだりします。
私たちは、これらの支配や権威に対し、私たちを通して、主の勝利の完全さを示さなければなりません。もし、私たちが、イエス様の命の力によって生活するならば、支配や、権威は、主の力が、全宇宙のあらゆる問題を解決したことを知ります。
今まで、二つの点について考えましたね。すなわち、神の知恵である、イエス様によって、二番目、キリストの体である私たちによってです。もう一つ、三番目、イエス様のご自身を表す手段である、結局、からだなる教会によってです。からだなる教会は、主、イエス様のご自身を表す手段です。
したがって、これから、もっともっと、イエス様のからだなる教会の大切さについて、考えるべきなのではないでしょうか。からだなる教会の使命は、イエス様の多種多様な知恵を述べ伝えることであると先ほど言いました。教会によって、主の知恵を表すことは、決して機械的なことがらではありません。すなわち、救われたばかりの罪人が、すぐに、神の多種多様な知恵を表す、ということは、ありえません。もちろん、信じる者一人が、主の多種多様な知恵を、表すことももちろん、できません。それが、機械的なものであるなら、パウロが力を入れた書簡は、我々に必要では、ないでしょう。
私たちが、他の人たちからの厳しい警告に、耳を傾ける必要もないでしょう。もし、そうなら、パウロは、祈りの中で、戦わなくても、よかったはずです。実際にはそうでは、ありません。『主なる神の教会によって、将来、神の多種多様な知恵が表される。しかし、今ではない。これは素晴らしい夢である。実現することができない。このようなことを言うのは危険です!』と、多くの人は、思います。
パウロも、それを知っていました。パウロは、将来ではなく、今、教会によって、神の知恵を表さなければならないということを知っていました。
パウロの時代から今までの間に、ずいぶん、色々なことが変わったけど、主の言葉は変わりません。聖霊は、信じる人々が証しし、伝導することを望んでいるばかりでなく、彼らが集まって、主を賛美し、主と共に祈ることにより、教会に主の栄光が現れることを目的としています。イエス様のからだなる教会の生活、一致、秩序、成長によって、栄光を帰さなければならない。どういうふうに、それは可能なのでしょうか。答えは、今話したように、第一番目、からだなる教会の生活を通して。二番目、からだなる教会の一致を通して。三番目、からだなる教会の秩序を通して、そして、四番目、からだなる教会の成長を通してです。
まず、からだなる教会の生活を通して、主が栄光をお受けになります。したがって、個人の生活においても、また、教会の生活においても、全ての自然の性質に反対し続けなければならない。すなわち、私たちは、自分の意思、自分の考え、自分の感情の内にいてはいけません。絶えざる聖霊の支配のもとにいなければいけません。
もし、そうしなければ、イエス様は、決して栄光を受け入れられません。信者と未信者を一緒にしたグループを、からだなる教会と言うことは、できません。生まれ変わることが、絶対に必要です。生まれ変わりに際し、熱心さ、努力などは必要ではないのです。ある人が、集会に来て、熱心に伝道し、話を聞いても、生まれ変わらなければ、その人はまことの教会に属していません。
イエス様を親としたものが形成する一つの家族が、からだなる教会です。新生の土台です。けども、これは始まりに過ぎない。私たちが、イエス様の命に満たされることが、聖霊の目的とするところです。また、この満たしが、毎日、毎日のことでなければいけません。これは、古い性質を否定することによってのみ、可能です。ガラテヤ人への手紙、5章17節をお読みします。
ガラテヤ
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
肉、すなわち、私たちの自我は、我々の最大の敵です。この自我に対する神の答え、また、この暴君に対する武器は十字架です。十字架は、教会生活、また、個人の生活において、瞬間瞬間、自分の欲することを否定していくものです。
もし、そうしなければ、天上にある、もろもろの支配や権威に対して、主なる神の知恵を表して行くことはできません。肉の思い、自分の意志は、十字架の下に押さえつけられなければなりません。人間の裁き、自分の願いを言い表すこと、間違った依存、これらのことは聖霊を悲しませます。そして、このような時、イエス様が、からだなる教会を通して、栄光を表すことはできません。けど、栄光を、表すことはからだなる教会の使命です。
二番目、イエス様はからだなる教会の生活を通してだけではなくて、教会の一致を通して、栄光を表さなければなりません。イエス様の名によって、二、三人、集まれば、それは、イエス様が、そこにおられる証拠です。私たちの自我の生活が、教会の一致を壊します。口で一致するということは、簡単ですけど、本当の深い一致を経験することは、なかなか難しいのです。
私たちが、コリント人への手紙第一12章――今、読まなくてもいいけど――コリント人への手紙第一12章の24節から26節を見ると、深い本当の一致を、経験しなければならないことが、分かります。あらゆる地域教会は、主イエス様の縮図でなければいけません。
【参考】第一コリント
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
本当の教会では、一致が認められなければいけません。また、この一致を、毎日の生活に実現しなければいけません。また、そのために、戦わなければなりません。もし、必要ならば、この一致のために、苦しみも受けなければいけません。もし、十字架が我々の生活のうちに働くと、この一致が可能です。十字架によって、私たちは、自我の生活を、瞬間瞬間、否定していくことになります。不一致は、弱さだけではなくて、イエス様を否定することも含まれています。
一致は、イエス様の栄光を表し、不一致は、人間の人間たる所以(ゆえん)を表します。一致は、信ずる者どおしのお互いの愛を表します。離れることと分裂の霊は、イエス様のからだの一致を壊してしまいます。すべての主を信ずる者に対する愛と交わりは、絶対に必要です。これは、言うにやすく、行うことが困難です。
パウロとペテロは、違った性質の持ち主でした。二人の奉仕も、全く違うものでした。けど、二人は、お互いに、教会の愛を保っていました。これに反し、コリントの信者たちは、極めて不一致でした。すべての信者に対する愛の欠乏は、結局、イエス様を否定することを意味します。
一つのことを、考えるべきではないかな。主が道を示されたならば、その道を行かなければいけません。たとえ、他の信ずる者の反対があっても、妥協せずに、進まなければ、ならない。いちばん大切なのは、自分の自由を持っていることです。主が、その道を示されたなら、その道を行く自由が、必要です。エペソ人への手紙3章には、パウロの祈りが書かれています。ちょっと読みます。エペソ人への手紙3章17節からお読みいたします。
エペソ
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
からだなる教会の生活によって、また、教会の一致によって、イエス様に栄光を帰することが大切です。どういうふうに、それは、可能なのでしょうか。今、話したように、からだなる教会の生活を通して、二番目、からだなる教会の一致を通して、三番目、からだなる教会の秩序を通してです。
もし、聖霊が支配者ならば、そこには、秩序もあります。からだなる教会の使命は、イエス様の支配を、述べ伝えることです。それは、言葉だけではなく、神の霊に対する従順によって、述べ伝えることになります。
初代教会には、決まった組織はありませんでしたけど、驚くべき、結果が生まれました。多くの人々が救われました。毎日、主は加えた、と、聖書は言っています。主から、召しを受けた教会が語るとき、人々は、その話を人間の声としては聞かず、聖霊の声として聞いたのです。使徒行伝を読むと、それが、よく、分かります。話す兄弟が、聖霊に全く、従順だったから、そのような結果になったのです。
初代教会の信じる者は、主のしもべを通して、いつも、主から新しい啓示を受け取ったのです。彼らは、本当に、『主よ、語ってください。しもべは、聴いております』と、絶えず、祈り続けたのであります。主の御心を悟ると、すぐに初代教会の人々は従ったのです。私たちは、どうでしょう?。
からだなる教会は、イエス様が全ての主であるということを、述べ伝えなければなりません。からだなる教会の生活は、イエス様の支配を、表さなければ、なりません。今、教会がすぐに秩序だっている必要はありません。必要なのは、新しい啓示をもらったら、すぐ、主に従うことです。遅らせず、すぐに、主に従うことです。からだなる教会の生活によって、教会の一致によって、イエス様に栄光を帰することが問題です。
どういうふうにそれは可能なのでしょうか。今、話したように、第一にからだなる教会の生活を通して、第二にからだなる教会の一致を通して、三番目、からだなる教会の秩序を通して。もうひとつ、からだなる教会の成長を通してです。イエス様のいのちの満たしは、いつも、流れ動いているものです。頭(かしら)に当てはまることは、肢体にも当てはまります。ここでいう頭は、もちろんイエス様であり、肢体はからだなる教会です。絶えず新しい人が集会に来て信者になることが、私たちの目的でなければいけません。
それとともに、聖書に対する我々の知識も成長しなければいけません。聖霊が私たちに、いつも新しい真理を知らせていただくのでなければならない。からだなる教会は、聖霊が語ることを聞く耳を持たなければなりません。パウロは、新約聖書全部を書くことはできなかったんです。同じように一人の信者が聖書の真理のすべてを述べ伝えることはできません。
健康な教会では、御言葉を述べ伝えるのは、一人だけでなく、いろいろな兄弟がたがそうすべきです。からだなる教会の他の奉仕と同じように、御言葉を述べ伝えることも一緒にやらなければなりません。
聞くことも大切です。例えば、メッセージのうちで、好きなことだけに耳を傾けていては、もちろん、決して成長しません。
例えば、自分がイエス様とともに十字架につけられたという十字架のはなしを聞くとします。この話を心に受け入れることを拒み、退けるならば、また、そのメッセージを伝える人を好ましく思わないようであるならば、決して、からだなる教会は成長しません。
成長は、福音を述べ伝えること、福音を聞くことだけによるのではなく、十字架によってもたらされるのです。からだなる教会は、イエス様に栄光を帰すことが大切です。しかも、からだなる教会全部が、イエス様の栄光を帰すべきです。ですから、信者一人ひとりが役目を持たなければならない。主のみこころは、からだなる教会全体が御子、主イエス様に栄光を帰することです。
初代教会はそうでした。主の御心は、今日の教会に対しても、そうなんです。主のからだなる教会は、天の軍勢も怪しむばかりに、熱心に神の知恵を、述べ伝えなければいけません。聖霊だけが、このような教会を今日(こんにち)、作ることができるのです。
聖霊は、二心を持たず、すべてを主にささげる人を求めています。天の軍勢は、私たちがイエス様に栄光を帰するかどうかを、目を覚まして熱心に見守っています。一方、悪魔の軍勢も、私たちを妨げるために一生懸命、私たちを見張っています。私たちは、からだなる教会全体がイエス様を証しするように祈らなければいけません。なぜなら、今、今日(こんにち)、天にあるもろもろの支配や権威が、からだなる教会を通して、主なる神の多種多様な知恵を知るに至るためだからです。

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