2026年6月13日土曜日

主を知る事によって新しくされること

主を知る事によって新しくされること
2016年6月12日、岡山福音集会
ゴットホルド・ベック

ルカ
19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

4つの福音書を見るとはっきり分かります。すなわち、もっとも大切なのは、主を知ること、主との出会いによって、新しくされることなのではないでしょうか。

この間、一人の人が、『主イエスが、あんまりにもすばらしいので、頭を上げられません。』また、別の夫婦は、『私のすべてを主に捧げたい。』こういう心構えを持つことこそが、考えられないほど大切なのではないでしょうか。

たしかに福音書をみると、イエス様の毎日とは考えられないほど忙しい毎日でした。結局、イエス様のところに行くと必ず元気になる。病気だって必ず癒されます。行ったけど、何もならなかったと言える人は一人もいなかったのです。行ったのはよかった。病気は治ったし、孤独から解放されましたし、絶望は逃げてしまったようです。

結局、イエス様との出会いによって、癒し、解放、助け、健康、喜びと本当の幸福を、その人たちは得たのです。結局、彼らは皆、イエス様から何かを得ようと期待して、イエス様の御許に行ったのです。

もちろん、イエス様は当時だけではなく、今日も、『お出で』と言っておられます。重荷を負って苦しんでいる人はお出で。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

そして、今読んでもらいましたルカ伝19章の10節に、『私は、失われた人を捜して救うために来たのです。』今話したように、イエス様の御許に来て、何かを得ようと考えている人は99パーセント以上でした。けれでも、イエス様に何かを捧げたいと思っている人は、同時もあまりいなかったし、今日でもそうなのではないでしょうか。

マルコ伝14章の中で、非常に少ないその人のひとりについて書いてあります。いわゆる、ベタニアのマリヤについてです。彼女は我々の模範となるべきです。

マルコ
14:3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
14:6 すると、イエスは・・・

弁護士みたい。

14:6 ・・・・言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
14:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
14:10 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。
14:11 彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。

どうしてイエス様を信じる者の間に、成長の違いがあるのでしょうか。すべての救われた人々とは、もちろん、イエス様の愛を体験した。けど、真実の深い愛を主に捧げる者は非常に少ないのではないでしょうか。私たちはしばしば、自分がイエス様に対して、どのような関係にあるかという事よりも、自分が何を成すべきかという事を大切にする者ではないでしょうか。私たちが、通り良き管になるために、イエス様との密接な交わりが、必要です。

主との交わりがなくなれば、使命感が薄れ、祈りが少なくなり、祈りをしたくなくなり、余裕を失い、神経質になります。マリヤという女性は、高価なナルドの香油をイエス様に注ぎ出した、とあります。この行ないは、心からの愛の表れでした。すべてをイエス様に捧げたいというのが、彼女の心からの願いでした。彼女ほど、イエス様に褒められた人は他にない。

「この女は、できる限りのことをしたのだ。」とイエス様は言われました。結局、この言葉は、イエス様が全く満足されたことを表しています。彼女は、ただイエス様だけが真の幸福、本当の平安を与えられるということを体験しました。ですから彼女は、心からの愛のしるしとして、この高価なナルドの香油を捧げました。マリヤの心は、愛でいっぱいだったのです。

聖書の中心は、十字架につけられたイエス様であり、我々の罪滅ぼしのために、犠牲として屠られたのです。この十字架につけられたイエス様について、聖書は次のように言っています。

イザヤ
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

まことの喜びの源は、今読みましたことです。聖なる神は、私たちのすべての咎を十字架につけられたイエス様に負わせた。罪滅ぼしのために、イエス様は代わりに罰せられ、呪われ、捨てられた、と聖書は言っています。この事実について考えると何を思うべきでしょうか?すなわち、ひどいとしか言えません。もっとひどい事はないのではないでしょうか。

馬鹿らしいと考えてもいいでしょう。なぜなら、イエス様の流された血潮は、イエス様の命そのものだったからです。生きている間に私たちはイエス様の死について、いくら考えても、考えられないし、ぴんと来ない。私たちのようなつまらない、どうしようもない者のために、このような代価を払うのは、ちょっと考えられない。けれど、本当なんです。

もちろん、今日来られた大部分の人々は、ありがたいことと心の中で言うでしょう。イエス様が代わりに罰せられたから、私たちは裁きに会うことがない。死からもうすでにいのちに移されていると確信できるからです。

我々に対する呼びかけとは、十字架につけられたイエス様から、目を離してはなりません。失望から、また、孤独からの解放は、イエス様を仰ぎ見ることです。よく知られている箇所ですが、もう一回読みます。

ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

走るとは何でしょう?答えは2節です。

12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

イエスから目を離さない。前に読みましたルカ伝18章に戻りましょうか。

ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

けれども、このイエス様の弟子たちと違いまして、前に読みましたマリヤという女性は、イエス様の埋葬の用意にと、イエス様の身体に、前もって油を塗ってくれたのです。彼女の心は感謝と愛でいっぱいでした。彼女は、ただ一つの考え、すなわち、いかにして、自分の主に対する愛を表したらよいか、いかにして、自分のイエス様に対する感謝を表すことができるでしょうかと思ったのです。

その時、彼女はナルドの香油のことを思い出した。ナルドの香油は、非常に高価なものでした。すなわち、一人の人が一年間働いて得る所得に等しい。あるいは、7500人分のパンを買うことができたほど高価なものでした。だから彼女は、自分のためにですら、それを使うことができなかったのです。もったいないと思ったのです。まして、他の人々のためにそれを使うなどはもちろんできませんでした。

けれども、突然、彼女は、イエス様ならば、その香油はちょうどふさわしいものと思って、それによって自分のイエス様に対する愛を表すことができると考えました。そして、イエス様は、イエス様ご自身、このマリヤの行ないを非常に喜ばれたのです。全き愛だけがイエス様を充分に喜ばせることができるのです。

けれども、他の人々の反応はどういうものだったでしょう。

マルコ
14:1 祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。

隠された妬みは、憎しみに変わり、イエス様を殺そうという決心になったのです。一方の人々は、いかにしてイエス様を殺すかと考えており、マリヤは、いかにしてイエス様に対する自分の愛を示すべきかと考えていたのです。彼女は、自分のすべてを捧げざるを得なかったのです。ここにイエス様の一人の弟子、ユダは、それに対して文句を言ったのです。

マリヤの行ないは馬鹿らしいことであり、無駄な事だと非難したのです。もっとうまい使い道があるのではないか、もしも7500人の貧しい人々に食事をあげることができればいいのではないか。しかし、例えばユダは、貧乏人に対する同情や思いやりの心でそう言ったのではない。貪欲な守銭奴だったからです。いかなる理由で人々は、それぞれ異なった態度をイエス様に対して取るのでしょうか。

当時の聖書学者たちは、彼ら自身の名誉を求めただけです。彼らは、自分たちが尊敬されなくなるのではないかと恐れたのです。妬みは憎しみに変わり、イエス様を殺すという事に至ったのです。ユダは金だけを欲しがり、もっともっと、多く欲しいと思っていました。彼は、盗みをし、それから、偽善的になり、そして、裏切りをして、最後に自殺をしてしまったのです。

けれども、マリヤはいかにしてイエス様への愛を、イエス様に示すことができるかと、真剣に考えていました。主イエス様を愛することができるのは、もちろん、イエス様に罪を赦された者だけです。罪を赦された者は、自分の罪を認め、告白して、それを捨てる者だけです。このような態度を取らない者は、自分中心的な生き方をし、自分の事だけを考えるのです。

自分が充分に考慮されない、あるいは、ちやほやされなければ、すぐに自分の殻に引きこもる人々がいます。私たちは、次の問いについて考えるべきではないでしょうか。すなわち、私はイエス様に対して、本当の愛を持っているでしょうか。私はイエス様との交わりを持とうとして、主の御許に近づいていきたいと願っているのでしょうか。私の考え、感情の中心は、本当にイエス様でしょうか。

私は、義務感でイエス様に仕えるのか、あるいは愛によってイエス様に従うのでしょうか。私にとって、祈りはなくてはならないもの、あるいは、心から願っているものでしょうか。

私にとって、祈りはなくてはならない、あるいは、心から願っているものでしょうか?マリヤは、心からの愛をイエス様に捧げたから、イエス様は、彼女を非常に喜ばれたのです。しかし、私たちはいかにしてイエス様を喜ばせることができるのでしょうか。マリヤは、イエス様の足もとに座って、イエス様のみことばを聞きました。ただ聞くだけではなく、みことばに服従する心がまえで聞いたのです。彼女は、時間がなかったでしょうけど、主のみことばを聞く時間を作り出したのです。

私たちは、聖書を読むだけではなく、聖書に聞かなければなりません。聖書に聞く時間を作らない人は、イエス様を、信じているでしょうけど、本当の意味で、イエス様を愛しているかどうか、分からない。イエス様はみことばに対して開かれている耳を期待されます。イエス様を愛することの第一歩は、主のみことばを聞くことであり、祈りながら主に近づくことです。すべてその他の事は、枝葉の問題です。

マリヤは、単にイエス様のみもとに来ただけでなく、イエス様に話しかけました。彼女は、イエス様の所に行ってみことばを聞き、イエス様に話しかけることだけが彼女の願いでした。我々の場合には、我々の祈りの中心は、私たち自身の考えや、自分の計画が問題ではないでしょうか。

私たちは、イエス様ご自身よりも、イエス様が我々に与える祝福の方を好むのではないでしょうか?そういうのは、決してマリヤの持っていたような愛ではありません。マリヤは、まず初めに主のことばだけを聞きたいと願い、次にイエス様だけに語りたいと願い、最後に、主にすべてを与えたいと願ったのです。

このマリヤは、イエス様の足もとに座って、みことばに耳を貸したのです。マリヤがしたように、イエス様の足もとに座り続けることなしに、祈りの生活は成り立ちません。彼女は、イエス様が自分を全く欠けたところなく愛しておられることをよく知っていたので、彼女もイエス様を、少しも裏切ることなく愛していたのです。彼女は、非常に値の高いナルドの匂い油を、イエス様の頭に惜しげもなく降り注いだのです。

すなわち、ためらうことなく、余すところなく、匂い油を、主イエス様に降り注ぐことにより、イエス様に対する愛を示したのであります。ナルドの匂い油の匂いが家全体を満たしのであります。

それと同じように、愛の雰囲気がわれわれの心、家、また、各集会を包んでいるのでしょうか?もう一箇所読んで終わります。エペソにいる兄弟姉妹は、かつて、非常に主だけを大切にして、立派な人たちでした。けれども、変わったんです

黙示録
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

初めの愛とは、何でしょうかね?イエス様との交わりのことです。イエス様なしに何事も欲せず、何事も成し得ないということです。もし、日々、主のみことばである聖書が、我々の泉となり、私たちの慰めとなり、私たちの力となり、我々の知恵となっているならば、そして、私たちの考えと行ないの中心に、イエス様がおいでになるならば、それこそが私たちの初めの愛が保たれていることの証拠です。

当時のエペソの兄弟姉妹の心は、もはやイエス様との親しい交わりの中になかったのです。イエス様の足もとに静まる事を忘れてしまったのです。その結果は、イエス様はもはや、私はあなたと共にいるということができず、わたしは、あなたに対して対立すると言わざるを得ない事になってしまったのです。

初めの愛とはなんでしょうか?二心の無いイエス様への愛であり、真の謙遜であり、直ちに従うことであり、イエス様の再臨を心から待ち望むことであり、また、兄弟姉妹に対して真心からの愛を持つことです。

大切なのは、今からイエス様のために生きたい、そういう気持ちを持つと、イエス様は必ず恵みをくださり、必要な光を与えてくださるにちがいない。

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