2025年6月1日、吉祥寺福音集会
重田定義兄
イザヤ
46:3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
聖書には主なる神様、主なるイエス様が人を選び、その者を導き、その者に御業を見せることによって、ご自分が生きて働かれる神であることをお示しになった例が数多く記されています。そして、主は、今も同じように生きて働いておられるのです。そのことは、集会の兄弟がたによって語られるメッセージや、多くの兄弟姉妹の証しなどからも知ることができます。
そして、なぜかわかりませんが、私のようなものをも選んでくださり、その恵みにあずかりました。私は今年二月で九十八歳になりました。今、振り返ってみますと、私のようなちりに等しい者をも主は愛し、哀れんでくださり、生まれてから今日まで守り導いてくださったことを強く覚えます。
まさに、今、読んでいただきました御言葉通りの恵みが、私のような者にも、与えられていたのであります。五十年前に吉祥寺キリスト教会に集うことになったきっかけも、また、主のお導きによるものであり、そのことについては、以前に証しをさせていただきました。
けれども、私は、愚かにも長いあいだ、主のお導きが主が私を生まれる前から背負ってくださっていたというほど、身近に感じることはできませんでした。お恥かしい限りであります。しかし、年老いて体が衰えた今、とくに、十八年前にサイシティー町田という老人施設に移り住んでから今日まで、私の身の回りに、偶然とは思えないような出来事が次々と起こり、私のような愚かで鈍いものも、これは主が生きて働かれている、主の御業だと気がつき、ようやく、私は、生まれる前から今日まで、主が背負って運んでくださって、この目で働かれる主の御業を見る恵みにあずかることができたのであります。
そして、私はこのことは自分の胸の中だけに納めておくべきではない、多くの方々に知っていただきたい、それが、私にかせられた使命であり、責務であると思った次第でございます。そこで、これからその証しをさせていただきます。
主が働かれた一つ目の出来事。十八年前に当時、八十歳の私は、体調の衰えを感じ、長年、住み慣れた荻窪の家を引き払い、町田市にある入居者、約三百人、スタッフ約百五十人の大きな老人施設、サンシティー町田に入居をいたしました。
数多くある老人施設の中で、どうしてここを選んだのか――はじめは、自分の考えで選んだと思っておりましたけれども、入居した最初から思いがけないことが、次から次へと起こり、初めてこれは、主が自ら、私を背負い込んで、ここに連れてきてくださったのだと分かるようになったのであります。
主が働かれた二つ目の出来事をお話します。入居の際に面接がありました。いろいろと話しているうちに、私は、自然と自分たちはキリスト者であり、死後には、天の御国に召してくださるという希望があるから、死をも恐れることはない。そして、入居者にも幸せに余生を生きるためには何が必要かということを知って欲しいと、自然に話しておりました。
私の話を黙って聞いていた支配人は突然、その話を私たちスタッフにして欲しいと言いました。思いもかけないことでありました。
そして、入居後しばらくして。各地にある十三のサンシティーの介護職員の研修会でした話が、のちの『高齢者の幸せのために』という冊子となって、世に出ることになったのであります。このような施設では、宗教的、政治的なことはタブーとされているはずなのに、どうしてこうなったのか。すべては、主がなさったことなのでありました。
主が働かれた三つ目の出来事。世に出た『高齢者の幸せのために』は、はじめは集会の兄弟姉妹が用いてくださって、サイシティー町田の図書室に置いてももらったり、要望のあった個人の方や、教会、養護学校、福祉施設などにお配りしておりましたけれども、そのうち大口の注文があり、とても私の手では処理しきれなくなりました。そこに、印刷所を経営しておられる横浜集会のある兄弟が、この仕事を引き受けてくださると申し出てくださり、それからは、そちらにお任せしております。
時々、横浜集会からどのぐらいの数の冊子が出ているのか、報告がありましたが、それもなくなりました。ところが、二カ月前、私の手元にも冊子がなくなったので、横浜集会に五十冊ほど送ってほしいと電話したところ、今、在庫ありません。けれども、今でもたくさんの注文が集会の外からもあるので、三千冊を至急、作っているから待って欲しいとのことでありました。
びっくりしました。そして、私は思いました。主は、そのことを見通された上で十八年前に、私にこの老人施設を選ばせたのではないか。そして、私は初めて主のご計画の深さ、大きさを覚えた次第であります。どうかこの冊子を読まれた多くの方々が、主の救いの恵みにあずかりますように、お祈りしております。
主が働いていた四つ目の出来事。サンシティー町田に入居してからしばらく経ち、クリスマスを祝う催しがホールで開かれました。ジングル・ベルやホワイト・クリスマス、赤鼻のトナカイなどの歌や踊りが、スタッフによってなされ、皆さんが手を叩いたり、一緒に歌ったりして喜んでいました。
その時、私は思いました。このクリスマス・コンサートこそ、絶好の福音の機会ではないだろうか。この機会に本当のクリスマスとは、神の御子イエス様が、すべての人の罪を救うために救い主としてこの世に来られた日をよろこび、祝うことにある、そのことを入居者に知ってもらうようなコンサートにしたい――そのように思ったのであります。
早速、集会の兄弟姉妹にご協力をお願いいたしました。支配人も賛成してくれて、2013年、今から十二年前に、集会の兄弟姉妹からなる合唱団によって初めてのイエス様のご降誕を祝う数々の賛美の曲を歌うクリスマス喜びのコンサートが開かれました。
主が働かれた五つ目の出来事。コンサートが終わった後、数名の入居者が私のとこに来ました。彼らはこう言いました。私たちも賛美の歌を歌いたい。皆さん、未信者です。驚きました。まさに、イエス様が働いてくださったのです。こうしてサークル活動としてグローセリーベの会が誕生しました。それから、今に至るまで、新型コロナによる中断がありましたけれども、ずっと、グローセリーベの会と、それからクリスマスの喜びのコンサートが続いております。
主が働かれた六つ目の出来事。グローセリーベの会ははじめは数名でしたけれども、だんだんと増えて、会員の数は現在、十六人となりました。これまでに、亡くなった方も六人おられますが、皆さん、毎回、喜んで歌っておられました。イエス様はこの方々を天に召してくださったと、私は確信しております。
会員の中で初めから集っておられ、後に町田集会にも来られるようになった方もいます。会員も高齢化が進み、現在、平均年齢は85歳。耳のほとんど聞こえない方もいます。歩行器に頼らなければ、歩けない方もいます。体調を崩す方も増えてきました。しかし、皆さん、練習の初めは、声も小さく弱々しいですけれども、一時間ほどの練習が終わる頃には声も大きく、元気になるのがわかります。賛美の歌の歌詞が、力を与えてくださるのです。練習曲は、日々の歌から、主の愛、恵み、十字架、救い、招き、平安、慰め、復活、天の御国などを選んでいます。
現在、集会から六人の兄弟姉妹が入居者の救いを祈って、暑い夏も、寒い冬も遠方から指導に来てくださっており、会員の皆さんは月一回の練習を楽しみにしています。練習後には、ラウンジで兄弟姉妹がたがコーヒーを飲みながら交わってくださいますが、これも皆さんにとって楽しみになっております。いい福音を伝える機会としております。
このようなさまざまな事実を目にした時、会員の皆さんは、信仰の告白こそされていませんけれども、素直に主を受け入れておられると思わざるを得ません。主が皆さんを背負い、運んでおられるのでありましょう。
主が働かれた七つ目の出来事。クリスマス喜びのコンサートは今では、主催者がサンシティー町田となっております。はじめは、私たちが主催しておりましたけれど、今はサンシティー町田が主催者となっており、支配人をはじめ、この施設を挙げて、喜んで協力をしてくれています。
昨年の12月の21日に開催されたクリスマス・コンサートでは、グローセリーベの会員、そして、集会の兄弟姉妹がた、そして、支配人を始め、サンシティー町田の職員、合計約六十人の大合唱団がステージに並んで、約一時間にわたって、ハレルヤをはじめ、イエス様のご生誕を祝う多くの曲を合唱しました。
信者も、未信者も一緒に声を合わせて、力強く元気な声で、喜んで顔を輝かせながら、イエス様のご生誕を賛美する――このようなコンサートは、まさに主のお導きによるとしか考えられないと感動いたしました。
以上、サンシティー町田に転居してから今日まで、私の身の回りで次から次へと起こった出来事を思い返しますと、これは主の御業しか考えられません。そして、年老いて、体衰えた私をも、なお背負い運んでくださって、このようなみわざを見せてくださる主に、ただ心から感謝するばかりであります。
イエス様が背負い運んでくださるという恵みは、イエス様を主と信じる者であれば、どなたでもあずかることができます。しかし、主が背負い運んでくださるということを、実体験するためには、ひとつ条件があります。それは、自我が砕かれるということであります。
人生が順風満帆のとき、自分の思い通りにことが進んでる時には、その恵みはなかなかわかりません。福音を述べ伝える時も、自分の知恵に頼ってしまいます。自我が砕かれていないからです。それとは逆に、人生の様々な嵐にあって、自分の無力さを思い知り、自我が砕かれた時に、主が働かれて初めて、主が自分を背負い運んでくださるという恵みを実体験することができるのではないでしょうか。
私たちが、罪とは人間に対する罪ではなく、神様に対する背きの罪であったことを知って悔い改めることができたのも、自分の知恵によったからでしょうか、そうではなくて、イエス様によって愛され、かたくなな自我が砕かれ、弱められたからではないでしょうか。また、イエス様の十字架の救いの御業が、自分自身の罪のためであったと信じることができたのも、自分の知恵によったからでしょうか?そうではなく、イエス様によって愛され、自我が砕かれ、弱められたからではないでしょうか。
また、イエス様に自分を明け渡すこと、自分を委ねることができたのも自分の力や努力によったからでしょうか。そうではなくて、イエス様に愛され、自我が砕かれ、弱い者とされたからではないでしょうか。それらはすべてイエス様が私たちを背負い、運んでくださるためにしてくださったことであります。そして、イエス様は、その者にもっとも相応しい形と方法で、ご自分のみわざを表してくださるのであります。
今年は、世の終わりがますます迫る年になるでありましょう。世界の情勢は、そのことを明らかに示しております。しかし、私たち信者にとっては、これは携挙の時がますます迫っているという希望を示しております。
イエス様に直接お会いできる日が近いという希望の年でもあります。この時にあって、主にある兄弟姉妹がともに、主に背負われ運ばれるという恵みにあずかって、喜びながら、天の御国にたずさえ上げられるように心からお祈りいたします。
ありがとうございます。最後に日々の歌の137番の歌詞を読んで終わります。
私のそばには目には見えないが、
愛する主イエスが共におられる。
御国に上りて主の御姿を
この目で拝するその喜びよ。
生まれる前から私を背に追い、
しらがとなるともなお負いたもう。
御国に上りて主の御姿を
この目で拝するその喜びよ。
取るに足りないこの私さえも、
いのちに代えて贖いたもう。
御国に上りて主の御姿を
この目で拝するその喜びよ。
ありがとうございました。
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