2024年10月6日日曜日

私にはある、キリストにあるすべてが

私にはある、キリストにあるすべてが
2024年10月6日、町田福音集会
重田定義兄

ピリピ人への手紙
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。・・・・

今、読んでいただいた御言葉は、イエス様を信じたことによってすばらしいものを得た結果、それまで自分が誇りとしていた血統や名声や経歴など、この世の価値あるものが皆、ちりあくたのように思えるようになったというパウロの証しであります。

パウロは、イエス様を信じることによって、このように、価値観が一変しました。しかし、これはパウロのみならず、多かれ少なかれ、イエス様を信じる者に共通する思いではないでしょうか?

イエス様に出会う前の私たちは、この世の人と同じように、目に見えるものだけに頼って生きておりました。それは、財産、知識、能力、地位といったものだけではなくて、国家や社会の制度などに安心、安全の保証を求めて生きていました。

そのようなものに頼ることが、虚しいはかないものかを知らずに、いや、知ってはいても、他に頼るものがないと思って生きておりました。

ルカの福音書
12:16 ・・・・「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

また、ソロモンは、箴言の23章で、

箴言
23:4 富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。
23:5 あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、わしのように天へ飛んで行く。

と言っております。これは、自分の能力や富に頼り、それを手にすることによって、安心、安全を得ようとする人間の愚かさ、哀れさを、よく言い表している言葉であります。

前にもふれましたように、人間は、自分の安心、安全をこの世の富や力や、あるいは、政治や行政や社会制度に求め、それらに依存して得ようといたします。しかし、イエス様を信じる私たちは、そのようなものが、永遠不変の保証を与えてくれないことを、誰もコントロールできないほど激しく揺れ動いている世界の情勢の中で、痛いほど感じているのではないでしょうか。

真の安心、安全とは、このような不確実なもの、一時的なものではなくて、永遠に変わらないものでなくてはならないはずであります。けれども、果たして、永遠に変わらない確実な安心、安全など、いったいあるのでしょうか?あるとすれば、いったいそれは、どのようなものなのでしょうか?そして、それをどうしたら――もしあるとすれば――得ることができるのでしょうか?

まことの平安、安全は、この世の富や力や制度などの目に見えるものによってではなく、目に見えない富で与えられるものなのであります。パウロは、第二コリントの4章で、

第二コリント
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 

と言っております。目に見えない富とは、いったい何でしょうか?それは、霊的な富であります。これこそ、永遠の富なのであります。では、その霊的な富とは、いったい何でしょうか?

その答えは、日々の歌の60番にありました。私たち、イエス様を信じる者には、その富があると、日々の歌60番で言っているのであります。そこで、そのひとつひとつの御言葉を聞きながら、これから確かめてみたいと思います。

60番の歌詞に、『私にはある、頼る岩が』とあります。頼る岩とは何でしょうか?ダビデは、主が彼を敵の手から救い出された時、次のように賛美しました。

第二サムエル
22:2 ・・・・主はわが巌、わがとりで、わが救い主、
22:3 わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。
22:4 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

また、ダビデは詩篇の62篇で

詩篇
62:5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。
62:6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。
62:7 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

と言っております。このように、『頼る岩』というのは、主なる神様であり、信仰の先輩たちはどんな艱難が襲っても、自分には、岩となり、盾となり、砦となって守ってくださる主なる神様があり、どんな苦しい時にも、どんな嵐が吹きあれても、主なる神様という確実な避け所、隠れ場があると、主に信頼し、感謝しているのであります。

私たちも同じように、主が岩となって、盾となってくださったという自分自身の体験を通して、『私にはある、霊的な富である頼る岩が』と主を証しし、賛美することができるのであります。

また60番の歌詞に、『私にはある、永遠に立つ御言葉が』とあります。詩篇の119篇は、信仰者に対して語られた主の愛、恵み、救い、励まし、慰め、戒め、諭(さとし)など、数多くの御言葉の賛美に満ちておりますけれども、その中から二つだけ、挙げてみたいと思います。

詩篇119
119:89 主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。
119:90 あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。
119:91 それらはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。すべては、あなたのしもべだからです。
119:92 もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。
119:93 私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。

119:129 あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。
119:130 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。
119:131 私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。

このように、信仰者は『私には、霊的な富である、永遠に立つ御言葉がある』と、主の御言葉に信頼し、御言葉に導かれて歩む安心、安全の喜びを賛美しております。主のみことばに慰められ、支えられ、導かれている私たちも、また、同じではないでしょうか?

また、60番の歌詞には、『私にはある、神のマナが』とあります。神のマナとは何でしょう?これについては、イエス様と弟子たちの対話から知ることができます。

ヨハネの福音書
6:30 ・・・・彼ら(・・・・すなわち、弟子たち・・・・)はイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
6:31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼(・・・・すなわち、モーセ・・・・)は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」
6:32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
6:34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

神のマナとは、私たちに永遠のいのちを与えてくださるために、天から下ってこられたイエス様ご自身なのであります。そして、私たちが永遠のいのちを求めて、イエス様のみもとに来る時に、イエス様は喜んでご自分のいのちを与え、永遠に生きるようにしてくださるのであります。ですから、信仰者は喜んで、『私にはある、霊的な富である、神のマナが』と、イエス様を賛美するのであります。

また60番の歌詞には、『私にはある、湧く泉が』とあります。『湧く泉』とは、イエス様がヨハネの福音書の四章で、

ヨハネの福音書
4:14 わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

とおっしゃったように、イエス様が信じる者に与えてくださる御霊のことであり、そこからは、永遠にいのちの水が湧き出るので、その水を飲むものは、決して渇くことがないのであります。

イエス様を信じ、御霊をいただいた私たちもまた、喜んで、『私にはある、霊的な富である湧く泉が』と、主を賛美することができるのであります。

また、60番の歌詞には、『私にはある、重荷を共に背負う方が』とあります。イエス様は、マタイの福音書11章で、

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

とおっしゃいました。また、詩篇の55篇には、

詩篇
55:22 あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者(・・・・すなわち、信仰者・・・・)がゆるがされるようにはなさらない。

とあります。そして、また詩篇68篇には、

詩篇
68:19 ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。

とあります。さらに、イザヤ書の四十六章には、

イザヤ書
46:3 ・・・・胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

とあります。このように、主は信じるものの霊的な、あるいは、肉体的な苦しみ、悲しみ、悩みなどの重荷を、いつも共に背負うと約束してくださっています。私たちは、自分自身の体験を通して、主のこのお約束は真実であることを知っております。ですから、私たちは喜んで、『私にはある、重荷を共に背負う方が』と、主を賛美することができるのであります。

また、60番の歌詞には、『私にはある、帰るふるさと、天の御国が』とあります。

へブル
11:13 これらの人々(・・・・すなわちアブラハム、イサク、ヤコブなど・・・・)はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15 もし、出て来た故郷(・・・・これは、地上の故郷ですね・・・・)のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

イエス様は、ご自分が地上を去って、天の御国に行かれる目的を、弟子たちに次のように説明されております。

ヨハネ
14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

私たちの生まれ育ったところを故郷と呼ぶならば、誰にでもそのような地上の故郷はあるはずです。けれども、地上の故郷は、永遠に存在するのではありません。

住む家も、迎えてくれる者もなくなった故郷は、もはや帰るべきふるさととは言えません。しかし、信仰者には、主が住むべき家を用意してくださって、ご自身が迎えに来てくださるというすばらしい帰るべき天の御国のふるさとがあるのであります。そこで、私たちが心から喜んで、『私にはある、霊的な富である帰るふるさと、天の御国が』と賛美することができるのであります。

ここまで、日々の歌の60番から、私たちキリスト者が手にすることができた数々の恵みを挙げてまいりましたけれども、最後に、その恵みの集大成といえる歌詞をお読みいたします。

私にはある、救い主が、
恵み豊かな神の御子が。
私にはある、すべてがある、
イエス・キリストにあるすべてが。

これこそ、キリスト者が手にすることができる誇るべき富であります。パウロが、

ピリピ
3:8 ・・・・私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。・・・・

と、言い切ることができた根拠は、まさにここにあるのであります。

世の終わりを示す兆候が、ますます明らかになっているこの世にあって、主の愛と哀れみによって主のものとされた私たちが、

私にはある、救い主が、
恵み豊かな神の御子が。
私にはある、すべてがある、
イエス・キリストにあるすべてが。

と、主の与えてくださるまことの安心、安全によって守られ、導かれていることを心から喜びつつ、日々を過ごそうではありませんか。

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