2024年7月7日日曜日

上からの知恵

上からの知恵
2024年7月7日、町田福音集会
重田定義兄

ヤコブの手紙
3:13 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。
3:14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。
3:15 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。
3:16 ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。
3:17 しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。

それでは、これから少しご一緒に、上からの知恵ということで、考えていきたいと思います。

世間では、いろいろな難しい問題を適切に判断し、うまく処理する――そういう人のことを指して、あの人は知恵がある、賢いというふうに評価しております。あるいは、巧妙に立ち回って、自分の立場を有利にもっていくような人、いわゆる世渡りの上手な人のことも、一種の皮肉を込めて、あの人は賢いと言います。また、悪知恵と言われるような悪事を企んだり、人を陥れたりする知恵もあります。

けれども、今、読んでいただきましたみ言葉にある知恵というのは、今、挙げましたような人間の知恵とは、全く違うことに気がつきます。

そこで、今日は、この上から来る知恵について、さらに考えてみたいと思います。

聖書には、上からの知恵について、多くの記載があります。そのうちのいくつかを引用したいと思います。

ひとつ目。箴言の九章の十節。

箴言
9:10 主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。

という御言葉です。ここでは、主なる神様、すなわち、天地万物を創造され、それらを全て御手のうちに納めておられる主権者であり、そして、聖にして義なる生ける神を知ること、そして、その神様を恐れ敬うことこそが、知恵の始めであると言っております。

けれども、この神を知る知恵は、人間の知恵によってではなくて、上から来る、すなわち、神様から来る知恵によってのみ与えられるものであり、神様によって自我が砕かれ、霊の目が開かれて、初めて与えられるものなのであります。

旧約聖書のヨブ記の主人公、有名なヨブ、自分を義人と認めていたこのヨブは、神様から激しい試練を受けた結果、自我が砕かれ、自分の知恵がいかに愚かで傲慢なものか、そして、また神様の知恵が、いかに深く大きなものかを知りました。そして、次のように神様に悔い改めました。

ヨブ記
42:2 あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。

42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

このようにヨブは、自我が砕かれ、悔い改めた結果、上から来る、すなわち、神から来る知恵によって、義は神様から恵みとして与えられたものであるということを、知ることができたのであります。

また、神様は、人間の知恵によっては、ご自分を知ることはできないと、預言者イザヤにおっしゃっております。

イザヤ書
6:9 ・・・・「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」

これは読んだだけでは、神様はいったい何を仰せになってるのか、わかりにくい御言葉でありますけれども、これは、神の民としてお選びになったイスラエルの民が、ご自分から心が離れて、自分勝手に生きているのを嘆かれた神様が、イスラエルの民が人間の勝手な判断で、自分の知恵で、ご自分のところに戻ることをはっきり拒まれておるんですね。そして、彼らの自我が完全に砕かれて、心から悔い改めて、ご自分に立ち帰ることを願って、これを逆説的に今のような御言葉で言い表しておられるのであります。

二つ目。預言者イザヤは神の知恵は、やがて神の御座からこの世に人としておいでになる御子、神の御子、キリストによって表されるというふうに、次のように預言しております。

イザヤ
11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
11:2 その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。

このみ言葉は、神の知恵が霊的なものであることを、はっきりと示しております。エッサイとは、ダビデの父であります。従いまして、このみ言葉はダビデの家系から造り主、キリストが出ることを示唆しております。

まさに、神の知恵そのものであられるイエス様が、人の子となって、人の子として、上から、すなわち、神の御座からこの世においでになったのであります。

私たちキリスト者も、かつては、知恵といえば、この世的な人間の知恵しか知らないものでありました。しかしながら、上から、天から、救いの御手を差し伸べてくださった神様の大きな御愛と恵みによって、霊の目を開いていただいた結果、自分の知恵によっては決して知ることはできなかったイエス・キリストの十字架のあがないの御業が、他ならぬ自分の救いのためであったと信じ、救われたのであります。

これについてパウロは、、コリント人への手紙の中で次のように書いております。

第一コリント
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

パウロはここで、神の御子のイエス様が十字架にかかって死なれたのは、私たち人間の罪を身代わりに負ってくださるためであったというこのメッセージは、この世の知恵しか知らない人にとっては、どんなに愚かしく響くか、これは自分には、十分にわかっている。けれども、神様、この世の知恵しか受け入れようとしない人々にとっては、愚かに見えるこの十字架のみわざが、自分の罪のためであったと心に示され、心砕かれ、神の御前にへりくだる者を救ってくださる。

こうして、神様の恵みによって救われた者だけが、十字架のあがないの御業が、神の力そのものであることを確信することができるというふうに言っているのであります。

そして、彼は続けて、イエス・キリストは人々を救うために死なれたという福音について話すと、ユダヤ人は証拠を示せと言い、ユダヤ人以外の外国人は、そんなことは常識ではとても理解できないと馬鹿にするけれども、どの国の者であれ、すべて救いに導かれた人々にとっては、イエス・キリストご自身こそ、人々を救う神の知恵なのであるというふうに、はっきりとここで言い切っているのであります。

三つ目は、キリスト者には、神の知恵としての御霊が与えられているということであります。私たちキリスト者には、恵みによって、神の知恵そのものである御霊が宿ってくださいます。それは、キリスト者がこの世の知恵によってではなく、神の知恵によって生きることが必要だからであります。

パウロは、ローマ書の8章で、次のように言っております。

ローマ
8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が(・・・・すなわち、神様の御霊が・・・・)、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ。しかし、御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるというのは、もし、キリスト者が、救われる前と同じように、古い罪深い性質に従って生きるなら、そういうキリスト者は滅びるけれども、キリスト者のうちに住んでくださる御霊の知恵により頼むことによって、罪に支配されている古い肉の行いから離れるならば、主のみ心にかなう良い行い、生き方ができるいうことを、ここで言っているのであります。

けれども、実際はどうでしょう?いちばん最初に読んでいただいたみ言葉に、『あなたがたのうちで、知恵のある賢い人はだれでしょうか』とあります。

これは、イエス様を信じる者の全てが、上からの知恵によって主に褒めていただけるような賢い人として歩んでいるとは言えないということを、表しているのではないでしょうか。

前にも申しましたように、上からの知恵として挙げられている純真、平和、寛容、温順、哀れみ、公平、誠実などは、これは、イエス様のご人格そのものであり、また同時に、私たちキリスト者のうちに宿っている御霊のご人格でもあります。

そして、そのご人格がキリスト者を通して外に現れる時に、その信者は初めて、その知恵にふさわしい柔和な行いを良い生き方によって示すことが、言い換えますと、御霊の実を結ぶ生き方をすることができるのであります。

御霊の実については、パウロがガラテヤ人の五章の中で次のように挙げております。

ガラテヤ
5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。

けれども、私たちキリスト者は、果たして、この上からの知恵、神からの知恵によって賢い人のように生きているでありましょうか?言い換えますと、主に用いられる器として、御霊の実を結ぶにふさわしい生き方をしているでしょうか?私自身、私の心を見通されている主から、あなたはいったい知恵のある賢い人かと、厳しく問われているようで、身が縮むような思いがいたします。

もし冒頭の御言葉に記されているように、自分の心の中に妬みや争いの思いが少しでもあるならば、到底、御霊によって支配されているとものとは言えません。せっかく上からの知恵、神からの知恵をいただきながら、主に用いられる器として生きるているとは言えません。

では、神からの知恵を与えられている私たちキリスト者が、その知恵によって賢い歩みをするには、いったいどうすればよいでしょうか?

それには、私たちのうちに住んでくださっている主の御霊が、そのご人格を私たちを通して表すことがおできになれるようにすること、御霊が私たちの器を通して働くことがおできになれるようにすることです。そのためには、私たちのかたくなな自我が、もっともっと砕かれることが必要なのであります。パウロが、第二コリントの4章で、

第二コリント
4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

と言っておりますように、自分は、主の御霊をお入れするにも値しないような欠けた土の器に過ぎないものであるということを、心の底から認め、自分の思いを捨てて、主に全て自分を明け渡すことであります。

そして、パウロが、同じ第二コリントの五章で、

第二コリント
5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

と言っておりますように、私たちは、自分を誇るのではなくて、イエス様だけを誇り、自分を喜ばすのではなくて、イエス様だけに喜んでいただくことを、心から願うことであります。

パウロはまた、有名なガラテヤの2章の20節で、次のように言っております。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

このように、私たちも罪の力に支配されておりました古い人は、イエス様と共に十字架につけられて死んで、代わって私たちのうちに住んでくださる御霊のご支配のもとに生きるもののとされたということを、しっかりと改めて心に覚えて、主の御霊をお入れする器に相応しく生きることができるように、器を空にして、御霊の満たしとお導きを、心から祈る必要があります。

またパウロは、キリスト者はいつも、賢い人のように歩んでいるかどうかよく吟味しなさい――吟味するようにと、次のように言っております。

エペソ
5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
5:9 ――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――
5:10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
5:11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
5:12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
5:14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
5:15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

ご再臨のすぐ間近い今、私たちが改めてイエス様をお入れする器にふさわしく整えられ、上からの知恵をいただいて、主を待ち望みつつ、御心にかなう賢い歩みをすることができるように、心から願う次第であります。

最後に、御言葉をお読みして終わります。

コロサイ
1:9 ・・・・どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。
1:10 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。・・・・

ありがとうございました。

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