2024年2月10日、秋田福音集会
翻訳虫
使徒の働き
22:6 ところが、旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。
22:7 私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞きました。
22:8 そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。』と言われました。
イエス・キリストの信者たちを捕らえては投獄してきたサウロが、ダマスコへ向かう旅の途上で、天から響くイエス様の声を聴き、主の信仰者に変えられるという、使徒の働きの中でも、もっとも劇的な場面です。
本日は、この出来事を見ながら、人間が信仰をもつようになる過程で主が成される働きについて考えてみたいと思います。
ダマスコの改心
まずはこの有名な場面を、簡単に振り返ってみます。
よく知られているように、サウロは、もともと厳格なパリサイ人であり、イエス様に対しては、非常に強い敵意を抱いていました。このことはサウロ自身が後に証ししています。
使徒
26:9 以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。
26:10 そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。
そして、サウロは、イエス様が十字架にかけられた後も迫害の手を緩めることなく、エルサレムから逃亡したキリスト教徒たちを捕らえるために、ダマスコに向かっていました。
使徒の働き
9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
サウロは、各地に潜んでいるキリスト教徒を連行するために、ダマスコに向かう途上にありました。その旅の途上、突然、天からの光がサウロに降り注ぎます。
9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
サウロは、地面に打ち倒され、自分に呼びかけるイエス様の声を聞きました。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」
このときから、サウロの目は見えなくなりました。三日間に渡って暗闇の中に置かれたサウロは、その後、パウロと名を変え、誰よりも熱心にイエス様を述べ伝える伝道者となったことは、ご存じのとおりであります。
さて、この数日間に起こった出来事を詳しく見ると、ここには、主がどのように人の心に働きかけて、人の心をご自身のほうへと引き寄せられるか、その型ともいうべきものが示されていることに気づきます。
ここからは、ダマスコへの道に端を発する一連の出来事を詳しく追いながら、主の人間に対する関わり方の特徴を考えてみたいと思います。
(一)罪を消す
そのひとつ目として、非常に特徴的と思えることは、主イエス様の敵に対する態度です。
サウロは、イエス様の死後も、信者たちを徹底的に迫害し続けた、敵の中の敵ともいうべき人物です。例えば、ダマスコに向かう少し前に、サウロはステパノという若い信者の殺害に賛同していました。
使徒の働き
8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
死を恐れずにイエス様を述べ伝えたステパノは、ユダヤ人たちに捕らえられ、石打ちにされました。この殺害に加担したサウロは、主にとっても憎むべき敵であったとしても不思議はありません。
しかし、主はこのサウロに何と語りかけられたでしょうか?
サウロが地に倒れて、天から響く声に、「あなたはどなたですか」と問いかけたとき、これに対するイエス様の答えは次のようなものでした。
使徒の働き
9:6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。
敵であるサウロにかけられたこの言葉は、町に行けば、彼の仕事が何か告げられるという、実にあっさりした業務連絡のような指示の言葉であります。
主はここで、サウロに何かを説明するようなことを一切していません。これまでのお前の言動を赦すとか、過去の確執は忘れてやると言った宣言ですらありません。イエス様はサウロに対して、敵であると言う意識を完全になくされていることが分かります。
ここに復活された主イエス様が持つ愛の性格が示されているのではないでしょうか。
何かの条件を付けて敵を赦すのではなく、イエス様にとって、サウロはご自身に仕える完全に新しい人格となったのであります。イザヤ書から、有名な言葉をお読みします。
イザヤ
1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
神がイザヤ書で約束されたこの言葉が、イエス様の復活によって、ここでサウロに対して、現実となって示されたのであります。
(二)暗闇に置く
主がされることの二つ目に移ります。天からのまばゆい光をあびたサウロは、視力を失いました。
使徒の働き
9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
十字架で処刑されたはずのイエス様が、自分のことを知っていて、自分を名前で呼びかけた。この時、サウロは、たいへんな恐怖に包まれたことでしょう。自分に対して神の罰がくだされるのだと思ったとしても不思議ではありません。
視力を失ったサウロは、それから三日の間、『飲み食いをしなかった』とあります。食べられなくなったのではなく、断食して神に祈るしかなかったということではないかと思います。これはサウロが自分の身に起こったことを深く考えながら、神からの答えをひたすら待ち続けた時間だったのではないでしょうか?
三日間の祈りの中で、彼は、これまでの人生で犯してきた大きな過ちを認めるようになりました。自分は主イエス様に大きな傷を負わせてきた。キリストが十字架につけられたことに対し、自分は責任を負っていた。まさしく彼の罪が、イエスを十字架に釘付けにしたのだ。
これは、砕かれ悔いた心からの祈りでした。同じように、誰にとっても、主を信じる道の始まりとは、自分が罪を負って生きてきたこと、自分が神のあわれみを受けるに値しない人間であると思い知らされることではないでしょうか。イザヤ書には、次のような言葉もあります。
イザヤ
66:2 ・・・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。
高慢なパリサイ人として生きてきたサウロは、暗闇の中で心を砕かれ、主のことばを恐れるようになりました。この三日間は、主を受け入れるすべての人が通る祈りのときであったのではないかと思います。
(三)人の手を用いる
三番目の点に移ります。この後、場面が変わって、アナニヤという人物が登場します。主は、ダマスコに住む弟子であるアナニヤに語りかけています。
使徒の働き
9:11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
9:12 彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」
ここで、今度は主は、アナニヤをご自身のために用い、サウロのところに行かせようと計画されます。
ダマスコに向かう途上、天からの光を当てて、サウロの目を見えなくしたのは主ご自身でした。主は、サウロの目をふさいだときと同じ奇蹟の力で、サウロの目を開けることもできたでしょう。しかし、主は、そのようにはされず、人間であるアナニヤを用いて、サウロの目を開けさせました。
私は、ここにも主が人を救いへと導くときに取られる行動の型が見て取れるのではないかと思います。神は一人芝居で働かれるのではなく、神を信じる人とともに働かれるということであります。
主が、人を苦しみの中で絶望の淵に落とさまれるとき、それを、ご自分で行われます。サウロの場合、彼は視力を奪われました。しかし、その目を開き、光の方向を示されるときは、既に救いを受けた弟子の手を借りて、それを行われました。
ご自身の栄光を表されるとき、主はこのように、信じる者とともに働かれます。この原理が、このダマスコの出来事でも示されたのではないでしょうか。
(四)弟子を訓練する
最後に、この同じ場面をアナニヤの側から見てみます。では、なぜ、主は、サウロを光の中に引き戻すために、弟子であるアナニヤの手を利用されたのでしょうか?
主がサウロに会うように命じらたとき、アナニヤは、主に対して、懐疑的な反応を示しました。
使徒の働き
9:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。」
9:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
アナニヤには、たくさんの仲間を虐殺していたサウロを、主を信じる仲間として受け入れるなどとは想像もできなかったのではないかと思います。このアナニヤは、神を信じつつも、神のされること全てに無条件に従うことのできない、疑り深いクリスチャンを代表しているように思えます。
現代に生きる信者である私たちも、口先では家族や親戚、全ての人の救いを祈りながらも、あの人が神を信じたりするはずがないと決めつけていることがあるのではないでしょうか。私自身、家族の救いを祈りながらも、心のどこかでは、『まあ、この人が信仰を持つことはないだろうな』と、突き放した気持ちでいるところが確実にあります。
アナニヤの反応も同じものでした。しかし、最終的には、アナニヤは、神の言葉を伝えるために、サウロのもとを訪ねました。そこにいたのは、ほんの数日前まで、キリスト教を迫害してきた憎むべき男であります。しかし、アナニヤはイエス様の言葉に従いました。
使徒の働き
9:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。
アナニヤが最悪の敵であったサウロの頭に手を置いて、彼を『兄弟』と呼んだとき、二人は信者としての交わりを持つようになりました。この経験を通して、アナニヤもまた自分の思いではなく、主の御心に従って行動すること学びました。
主は、罪人を光のもとに導くために、こうして既に弟子となった者の手を使われます。しかし、そのとき、用いられる弟子にも訓練の機会を与えているのではないでしょうか。
サウロの経験
さて、ダマスコでの出会いに続く数日間に主がされたことを、駆け足で見てきました。その中には、神が人を導くときに取られる行動の型ともいうべきものが、ギュッと圧縮されて詰まっていたことがわかります。
最後にまた、サウロのほうに戻ってみたいと思います。ダマスコへ向かう道の経験から、サウロが理解したことは何だったでしょうか?
ダマスコで主イエス様と出会う前、厳格なパリサイ人であったサウロもやはり、熱心に神の真実を求めてきたことは確かです。サウロにとって、神の真理に近づく道とは、律法を厳格に守ることでした。そのためにサウロは、神を冒涜するものと信じたイエス様に対する迫害を行わせました。彼は、自分の考えと努力で救いを得ようとしてきました。パウロとなったサウロは、後に、その頃の自分を振り返っております。
ピリピ
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
自分はこれまで、戒律を守り、キリスト教徒を迫害してきた。しかし、それは平安も喜びも与えてくれなかった。目が開いた今は、大きなよろこびに満たされていることにサウロは気付きました。パウロは、この手紙を続けています。
ピリピ
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
目からうろこのような物が落ちた時、サウロの目は、神の真理に対して開かれました。その真理とは、救いはただ、地上に降りてこられ、いのちを捨てられた主イエス様の一方的な恵みによって与えられるという事実です。
しかし、サウロにとって、ダマスコの途上で改心したことは、物語の終わりではなく、逆に、サウロの信仰と苦難の旅の始まりでした。
目が開かれたサウロのことで、主はこう言われました。
使徒の働き
9:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
9:16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
サウロには、キリストの恵みを、主を知らない人たちに伝えるという新しい使命が与えられました。ベックさんは、メッセージの中で、救われること自体が目的ではないとよく言われていました。主を信じるようになった私たち一人一人も、救われたときから、福音を述べ伝えるという新しい使命をもった生活が始まります。
ダマスコへ向かう道でサウロに起こった出来事は、全て改心を経験した信者たちが生きる道を示しているのではないかと思います。
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