2023年6月11日、吉祥寺音集会
黒田禮吉兄
伝道者の書
7:16 あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。
伝道者の書でソロモンが語りました、『あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない』とはどういう意味でしょうか?正しすぎると、なぜいけないのでしょうか?私自身、何回も学んできたテーマではありますが、今日もあらためて、そのことを考えてみたいと思います。
正しさというのは、時として鋭い武器になります。自分を正しいと思えば思うほど、相手やまわりが間違っていると決めつけて、追い詰めたり、傷つけたりしてしまいます。けれども、人の正しさというのは、立場や状況によって変わり得るものです。極端なはなし、ある人の正義は、他の人にとって悪ともなる。そういうことを考えると、自分の正しさを振り回しすぎるのは、正しくないと思わせられます。
聖書の光に照らしてみれば、神の御前に人が正しいということはあり得ないはずです。それならば、正しすぎるとは、どういうことを言っているのでしょうか?
伝道者の書
7:15 私はこのむなしい人生において、すべての事を見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。
7:16 あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。
7:17 悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。
7:18 一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。
正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがあると書かれています。伝道者の書を書いたソロモンは、ここで主なる神は、必ずしもいつも正しいわけではないということを言っているのではありません。神はいつも正しい方ですが、私たち人間が理解することができるようには、その正しさをお見せになっていないということではないでしょうか。
逆に、私たちが正しいことだと思っても、それが果たして神にとって正しいことなのかわかりません。ですから、自分が知っている正しさは、ごく一部だけで、あるいは的外れかもしれないと言うような大いなる恐れとへりくだりの心が必要であります。自分のしていることは、たかが知れている。大事なのは、神ご自身です。これが、正しすぎてはならない、知恵があり過ぎてはならないということではないでしょうか。
本当の知恵を持っている人は、人間は一人残らず、みじめな罪人でしかないと言うことを、心の底から分かっている人です。この知恵が与えられる時に、私たちは人のしている悪に怒りを燃やし、簡単に苛立つことはないはずであります。そして、自分が正しいと思っていることも、完全に正しいのかわからない――神のみが知っておられるという謙遜の心が与えられるのではないでしょうか。ですから、ソロモンは、次のように語ったのであります。
伝道者の書
12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
ソロモンが、伝道者の書でたどり着いた結論であります。旧約聖書の創世記の2章をお読みしたいと思います。
創世記
2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
人は、神によって造られ、神に従い、神により頼むことがすべてであるように造られました。ですから、本来は、非常にシンプルなことであります。ところが人は、蛇の誘惑に乗り、善悪の知識の実を食べ、自分で判断をするようになりました。私はそんなに単純ではないと、このように主張して、いろいろな理屈を探すようになった。その状態が罪であり、神が『必ず死ぬ』と、仰せられたことであります。
ヨブ記
1:1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。
1:2 彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。
1:3 彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。
旧約聖書の中で正しい人といえば、ヨブをすぐに思い浮かべることができます。本当に彼は神を恐れ、正しい人でした。サタンの企てによって、一瞬のうちに息子、娘たちが死に至り、持ち物すべてが奪われるというたいへんな試練が与えられたときも、神を賛美するものでありました。
ヨブ記
1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
1:22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。
けれども、ヨブにはその後、さらなる試練が与えられ、足の裏から頭のいただきまで、悪性の腫物で打たれたのであります。そして、慰めに来たはずの三人の友人たちの人間的な正しさによる心無い非難によって、彼は傷つけられました。三人の友人たちは、いわば正しすぎることを語ったのであります。正しすぎるとは、神が規定された正しさの範囲を超えて、人間的な正しさを追求し、信仰による義ではなく、行いによる義を求めるパリサイ人、律法学者の姿勢をいうのではないでしょうか。
そして、ヨブは、次第にかたくなに、ついに自分の正しさを振りかざして、神に対決を迫るようになっていきました。自分の潔白の確信が、次第に傲慢に変わっていったのであります。
ヨブ記
38:1 主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
38:2 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
38:3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
38:5 あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
ヨブの問いかけに、主はあらしの中から答えて仰せられました。結局、神の御前に正しいか、正しくないかは、人には主張できないことではないかと思います。それは、全能者である神がお決めになることではないでしょうか?そして、彼は悔い改めに導かれました。ヨブ記の42章5節から6節、結論部分です。
ヨブ記
42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。
もちろん、これは、私たちが正義を求めたり、知恵を求めたりすることを否定するものではありません。問題は、正しすぎる、知恵がありすぎることの問題であります。知らないうちに、私たちは自分の正義、自分の知恵を振りかざして、私たちの分をはるかに超え。ついには、神のみわざに目を留めることができなくなる――そのことへの警告ではないでしょうか?
私ごとでありますけど、私は三十八年ほど前に、主のあわれみによって救われましたが、それ以前の私は、自分を義とする者、正しいと考えるものでありました。表面的には、親や会社や社会の権威に従うものでありましたが、心の中では、常に自分が正しいと思うものでありました。しかし、そのようなものが、次のような聖書の御言葉を受け入れるものに変えられました。
第一コリント
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
十字架の言葉、つまり、聖書は、人の知恵では理解できない神の力、そのものであります。私は自分の理性や感情では、みことばを受け入れることはできませんでした。けれども、聖書を絶対的なものとして信じる者へと変えられました。それは、上から与えられた恵みであります。信仰によって示されたことは、自分の主張していた正しさとは、いったい何だったのかという本質的な疑問であります。自分の正しさとは限定的、相対的なものであり、聖書という絶対的な正しさ、絶対的な義の前では全く意味がないものであるということを示されました。
信仰が与えられるということは、自分の考えや感情ではなく、聖書のみ言葉が根拠となり、主イエス様の人格という絶対的な基準を自分の内側に持つという、そういうことではないでしょうか?救われて生きるとは、イエスを信頼して、イエス様に委ねて生きるという生き方であります。
さて、そうはもうしましても、信じる者のあいだにおいてさえも、それぞれが正しさを主張することがあるのではないでしょうか?夫婦の中で、親子の中で、そして、兄弟姉妹の中で、一致ができなくなることがあります。
第一コリント
1:11 ・・・・兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、
1:12 あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。
1:13 キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。
コリントの教会の中で、問題が起こりました。興味深いことは、ここでパウロは、『私はキリストに着く』と言っている人も、私はパウロに、私はアポロに、私はケパに着くと言っている人と同列に切り捨てています。どうしてでしょうか?実は、『私はキリストにつく』と一見、問題ないような正しい発言の根底には、私はパウロやアポロのような人につかず、自分に着く――つまり、自分の判断に頼ると言っているのと同じだからではないでしょうか。だからこそ、かえって、いちばん問題なのではないかと考えられます。
夫婦、親子のあいだでも、み言葉を盾に正論を述べると、同じことが起こり得ます。そして、私たちはどの場合も、結局、自分の判断で正しいか、正しくないかを決めているのではないでしょうか?
私たちの集会も、五年ほど前に、大きな波風にさらされ、揺り動かされました。それは、精力的に活動していた一人の兄弟が、必ずしも聖書的ではない私的解釈を加えてメッセージをしたことに端を発しました。それに対して、別の兄弟がこれを執拗に批判しました。やがて、大勢の兄弟姉妹、さらに集会を離れた兄弟姉妹を巻き込んで、この問題の是非に止まらず、集会の会計、集会のあり方についての論争になってしまいました。集会の分派、分断が起こりました。そして、さらに、その後、新型コロナ・ウイルス感染症の拡大によって、集会が一時的に閉ざされたことも、これに追い討ちをかけました。
どうすべきであったか、私には今もってわかりません。誰が正しいのか、間違っているのか、本当の意味で判断できるのは、主お一人だけだからです。けれども、このような試練を経て、兄弟姉妹のひとりひとりが、あらためて主なる神と向き合う時が与えられた、そして、この場に今日、集っているということ、そのことは言えるのではないかと思います。
自分は正しいという、自分を正当化することは、サタンが用いる巧妙な罠のひとつであり、これは信仰者であっても陥る罠であります。問題に対して、一方の人は完全に正しく、他方の人が完全に誤りであるということはあり得ません。正しいとか間違っているということは、程度の問題であり、ですから、誰にでも自分を正当化する理由はあるでしょう。決して、間違った信仰を容認しろということではありません。また、間違いを正さなくてよいということでもありません。しかし、正論を押し通しすぎてはいけないのではないでしょうか?
第一コリント
2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
2:3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。
2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。
2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
かつてのパウロは、自信満々の立派で正しい人でした。ユダヤ教に熱心で、厳しい戒律を守り、誰の目から見ても立派な人格者でありました。けれども、パウロが厳しく迫害していたイエス・キリストご自身に出会った時、彼はまったく変えられました。自分がそれまで迫害していたまことの信仰を宣べ伝える者と、逆にされました。そして、与えられていた人間的な知恵によらず、御霊によって働くものへと変えられたことを証ししています。
ありあまるほどに聖書の知識を持っていたパウロが、『私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した』と宣言しているのであります。
ピリピ
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
神の御子であるイエス様が人となられたということは、この世の不条理を正す代わりに、この世の不条理のただ中に生きる者となられたということであります。それは、力で正義を実現する代わりに、人々の心の中に、言ってみれば、愛の火を灯すためでした。
イエス様は、人々の愛の無い仕打ちに心を痛めておられたはずであります。しかし、天の御父と心を一つにしておられたイエス様は、ご自分の正義を主張される代わりに、この世の不条理を自ら背負ってくださいました。それが、十字架であります。それによって、私たちひとり一人を救い出してくださるためでした。イエス様は、ご自分の正しさを放棄され、貧しくなれたのであります。
ルカ
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
正しすぎる生き方、賢すぎる生き方とは、別の言葉で言うと傲慢と言うことではないでしょうか。ひとたび傲慢に陥ると、私たちは、神様抜きでやっていける気になり、本当の意味で主なる神に祈ったり、助けを求めたりしなくなります。
いつでも、自分には助けが必要です。だから哀れんでくださいと膝をかがめる謙遜、へりくだりが必要ではないでしょうか。謙遜とは、事実を事実として認めることであります。その事実とは、信じる者に与えられている御霊が、私たちに教えてくださる、私たち自身の真の姿のことであります。相変わらず、ちりに過ぎない、どうしようもない私たちの姿のことであります。
コロサイ
3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
私たちも、自分の正しさを捨てる覚悟があれば、本当に幸いであります。
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