2000年12月1日金曜日

病気に対する心構え

病気に対する心構え
2000年12月1日
辻 陽一郎

ヨハネ
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

私の家では、写真は、結婚式の写真の整理も終わっておらず、この春で9年になるんですけど、それ以後、子供の写真も当然、散らかったままになっております。

夫婦ともに、あまりかたずけるのが上手ではなくて、私のせいでもあるのですが、昨日、あまりに家の中が散らかっているので、ちょっとした夫婦げんかになってしまいました。ちょっとしたではない、もう少し大きな夫婦げんかです。『ああ、このままでは、今日はもうメッセージはできない』と思ってたんですけど、どうにか仲直りさせていただきました。本当に資格のない者ですけども、学びの座に立たせて頂いている状況です。

家内の方なんですが、10月の半ばくらいから難聴になってしまっています。右側の聴力が、かなり落ちてしまいまして、自然によくなったり悪くなったりの繰り返しをずっとしていて、今週もまだ、調子が悪くて、よく聞こえないと言う状況なんです。

近所の病院で検査を受けて、大きい病院へ行くように言われているのですけど、これもまだ、行きたくても、なかなか行けない状況で、様子をみています。医学的なことをお話ししますと、知り合いの耳鼻科医にご相談したら、急性低音障害型感音難聴と言う病名になりそうなのです。よくわからない病気なんですが、結論から言うと、治す薬はとくにないと言うことで、治る人は治るし、治らない人はそのままと言う難聴らしいのです。

家内は、集会のバイオリニストのご奉仕をしています。よりによって、バイオリニストの家内の聴力が落ちてしまうと言うのは、とても、心配しているわけです。本当に、メサイアや葬儀や結婚式で奉仕しています。ほかにとくに弾く場はなくて、集会で、主のためにだけ弾かせていただいていると思っていますから、その耳が聞こえなくなると言うのは、音楽家である以上、とても、心配なわけです。主が再び耳をよくしてくださり、バイオリンの賛美を用いてくださるようにと祈っております。

キウチ兄がおっしゃったケンジ兄なんですけど、ケンジ兄のお嬢さんが私の娘たちと仲がよくて、そんなこともあって、とても交流が普段からあります。ケンジ兄のお宅にも、おうかがいしたことがあります。ケンジ兄は、体調が悪くても、本当に落ち着いた方ですね。今も、前と変わらない。病気になられても落ち着いて過ごしておられることを、お会いして知ることができています。肝臓の癌のいわゆる末期の状態であります。お証しをお聞きしても、本当にへりくだった悔い改めと、今のご自分の病状を落ち着いて受け入れておられて、残された時を、大切に、中身の濃い日を過ごしておられることがよくわかります。

今日は、先ほど、お読みいただいた箇所を含めて、「病気について」、「病いについて」、ともに考えてみたいと思います。まず、病気の原因について。次に、病気に対する私たちのとるべき態度について、順に学んでみたいと思います。

まずはじめに、病気の原因についてであります。私たちは、健康で元気な時は、それをとくにすばらしいこととも思わずに、それを与えてくださった方に感謝することも忘れがちであります。いざ、病気になり、あるいは、けがをして、病床に伏して動くことができなくなってはじめて、病気と言う厳しい訓練を味わうことになります。

この訓練は、肉体的な苦痛、何とも言えないだるさ、疲労感などから来る苦痛もあるであろうと思いますが、さらに、霊的に落ち込んでしまうと、さらに辛い、何倍にも辛い訓練となってしまうと思うのです。

どう言うことかと言いますと、「なぜ、私は、こんな病気になってしまったのだろうか?」、「私の何が、悪かったのだろうか?」、「この病気は、私の罪の結果としてなってしまったのだろうか?」、「私の子供の病気は、何か親の落ち度があったのではないだろうか?」、「私は、神様の愛を失ってしまったのではないだろうか?」

このように、病気になった時に思い込んでしまうと、本当に病気と言うのは、肉体的な苦痛に加えて何倍もの苦しみなってしまうと思うのです。人間は、何かことが起こると必ずその原因を追求しようとします。病気についても同様に、何か悪い原因があって、発病したのではないかと、必ず考え込むようになると思います。

私たちは、この病気の原因について、正しい知識を備えておく必要があるのではないかと思います。聖書によれば、病気の原因はいくつか挙げられると思います。そのひとつとして、サタンによる病気と言うのがあると思います。サタン、悪魔によってもたらされる病気と言うのは、確かに聖書の中に出てきます。

ヨブ
1:8 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」

主は、このように潔白で正しく神を恐れる者であるとヨブについておっしゃっています。このヨブに、ひどい病気がもたらされました。ヨブは、このひどい病気に以前にも、サタンによって様々な試練を与えられましたが、その後にも、彼は次のように言って、不平を言いませんでした。

ヨブ
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
1:22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

そこで、サタンは、ヨブの体、肉体そのものにも試練を与えるように、主に頼みます。

ヨブ
2:6 主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」
2:7 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。

ヨブの苦しみがあまりに大きかったために、ヨブの友人は、彼に話しかけることすらできなったのであります。

2:13 こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。

この後、ヨブはいったんは神様に対して不平不満を言うようになりますけど、最終的に、神にひれ伏し悔い改め、彼の友だちのために祈った時に、彼の体はもとどおりになったと言うふうにして、このヨブ記は、終わっています。

二つ目の例として、今度はルカ伝から見てみようと思います。ゲラサの悪霊につかれた男が出て来ます。

ルカ
8:27 イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。

この悪霊が、主によって彼の体から追い出され、彼は癒やされたと言う記述が出て来ます。

8:35 人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた。人々は恐ろしくなった。

このように、悪霊によって、サタンによって病気になっていると言うことが、この事実からもはっきりわかります。

パウロと言う人も、肉体にとげを与えられていました。彼は、自分の病気について、次のように述べています。

第二コリント
12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

パウロの自分自身の肉体のとげは、サタンによると、彼ははっきりとここに書いています。

病気の原因の二番目として、罪のための病気と言うのが出てきます。罪のために病気になったと言う例が聖書の中にいくつか出てきますが、少しとりあげてみたいと思います。民数記12章です。ミリアムは、モーセに向かってつぶやきました。このために、彼女に病気がふりかかったと言う記述が出てきます。

民数記
12:1 そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。
12:2 彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」主はこれを聞かれた。

12:9 主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。
12:10 雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリヤムは、らい病にかかり、雪のように白くなった。アロンがミリヤムのほうを振り向くと、見よ、彼女はらい病にかかっていた。

そのために、ミリアムと言う人はらい病になったと言うふうに、書かれています。病気の原因は、罪のためであると考えるのは、私たちの頭の理屈では、とても理解しやすく納得しやすいと思うのです。

「何か、悪いことをしたから病気なる」と言うのは、一見、とても筋が通っているように思います。しかし、病気の原因がただちに罪によると言う飛躍的な結論を出すべきではないと思うのです。

病気の原因がただちに罪によると言う、このような早急な誤った判断をすることによって、これまで本当に多くの人々が傷つき悲しんできました。

心の病いを持っておられる方がいらっしゃいます。私の姉も、かなりひどい躁鬱病なんです。救われてはいますけど、しょっちゅう入退院を繰り返していますし、しょっちゅう自殺未遂も繰り返しています。いまのところ、救われて調子の良い時は、たまに集会に来ることができる時もあると言うぐらいです。

調子が悪くなると、彼女については、彼女がわがままを言ってるのではないかとか、あるいは、信仰的に落ち込んだから具合が悪くなったので無いかとかいう声が、必ず聞こえてくるのです。

心の病と、魂の病は、すごく混同されがちで、ごっちゃにされてしまう。霊的にあなた落ち込んだから、心が病んでいるんじゃないか。そう言う人もいるのかもしれませんが、明らかに心の病とは、霊の病とは別に存在するのです。

そう言う病気の方々の中には、本当に、何かその人の罪の問題たとか、霊の問題が原因で病気になっているのではないかと言う非難を浴びる人も多いのではないかと、私は思います。

さきほどキウチ兄にお読みいただいたヨハネ伝の9章をお読みしたいと思います。ここでは生まれつきの盲人が出て来ます。

ヨハネ
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

主の弟子たちも同様に、彼の盲目は、罪の結果であると短絡的に考えました。しかし、主は3節で、次のように言われました。

9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

神のわざがこの人に現れるためである。イエス様は、はっきりとここでおしゃいました。彼の罪の結果でもなく、彼の両親の罪の結果でもないわけです。

そして、三つめ目の病気の原因として、神の栄光のため、神のわざが現れるためと言うのがあると思うのです。そして、おそらく、この原因こそ、もっとも大切な、私たちが認識すべきものではないかと思います。

今、お読みしました盲人は、この後、主の言われたとおりに、目に塗られた泥をシロアムの池で洗うことによって、彼の目は、開かれました。そして、この盲人だった男は、パリサイ人から問い詰められたのですね。最後に、彼の両親もパリサイ人から問い詰められました。

そして、最後に盲人であった男は、つぎのようにパリサイ人に、言いました。

ヨハネ
9:32 「盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
9:33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
9:34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

このように、彼はパリサイ人から追放されてしまいましたが、主を信じ、主を拝する者になったと書かれています。すなわち彼の盲目と言う病は、神様のわざが現れるため、神の栄光のためと言うことができるのでないでしょうか。

少しあとの、ヨハネの11章で、ラザロと言う男が病気になっています。11章を読んでみたいと思います。

ヨハネ
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

主の愛するラザロは病気になりましたが、主は、この病気は、死で終わるだけではなく、神の栄光のためと言うふうに、はっきりとおっしゃっています。そして、実際にラザロは、甦り、それを通して多くの人が信じ、神の栄光が現されました。

11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

彼の病気を通して、多くの者が主を信じるようになった。神の栄光が、実際に現されたと言うことがよくわかると思います。

さて、次に病気に対して、私たちがとるべき態度について、学んでみたいと思います。原因がなんであれ、サタンによって病気になったヨブにしても、罪の結果で病気になったミデアムも、もちろん、盲人や、ラザロは、最終的に主によって癒やされ主の栄光を見ることになったとあります。

私たちの苦しみや弱さは、原因がいくつかあってなんであれ、目的とするところは主が栄光をお受けになるためと言うことがわかります。これらの人々は、癒やされてますけど、では、癒やされることが神様の栄光につながることなのでしょうか。

パウロは、ピリピ人への手紙で次のように書いています。

ピリピ
1:20 それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
1:23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

パウロは、生きるにしても、死ぬにしても、キリストのすばらしさが現されると言うことを、神の栄光が現されると言うことを、切に願うと言っています。つまり、病気が癒やされて治って生きるにしても、病気が治らなくて死ぬにしても、どちらにしても、神の栄光が現されることを私は願うと、パウロはここで言っていると思います。

つまり、病気が癒やされて治ることだけが神の栄光ではないと言うことがわかると思います。むしろ、現代の特徴は、治らないことによって、本当の病気である魂の病気、病んだ魂が救われると言うことが、多いように思われます。

病気を通して、救いに預かったと言う方は、集会にもたくさんいらっしゃると思うのです。ルカの福音書には、次のような記述があります。

ルカ
17:11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
17:12 ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。
17:14 イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。
17:15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
17:17 そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。
17:18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
17:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

人は癒やされると、むしろ目に見えるその時の問題が解決されることに満足し、主から離れてしまいがちだと思うのです。イエス様は、癒やされた9人は、どこに行ったのかと嘆かれました。このように、むしろ、治ることが、必ずしも神の栄光を意味するものではありません。

私は、小児科医なんです。なかでも、子供の血液、悪性使腫瘍、いわゆる小児癌の子供を専門に主に診させていただいています。ここ数年で、4人の小児癌のお子さんを天国に送りました。白血病は、今は、70%くらいは治るようになっています。

数十人の白血病を中心とした小児癌のお子さんたちを、ここ数年診させて頂きました。死にたちあった4人のご家族のうち、3人のご家族が、実は救われたのです。そして、他の数十人の元気になったお子さんのそのご家族で救われた方はひとりもおられない。

これは、私のこれまでのここ数年、個人的に経験した事実であります。

むしろ、治らないことによって救われることが多いというのは、私の小さな経験上、事実であります。ですから、病気が治るか、治らないかと言うことは、本質的な問題ではないのです。

治っても、治らなくても、心配する必要は、わたしたちにありません。

第二コリント
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

パウロは弱さ、病気であることを、むしろ誇ると言っています。

ヘブル
12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

訓練に対して、とるべき態度が書かれています。懲らしめを軽んじてはならない。弱り果ててはならない。耐え忍びなさい。そして、訓練の目的は、ご自分の聖さに預からせるためである。そう書かれています。

ほかにも訓練、試練の中にいる人への慰めの御言葉は聖書の中にたくさん出て来ます。いくつかお読みしたいと思います。

哀歌
3:31 主は、いつまでも見放してはおられない。
3:32 たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
3:33 主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。

詩篇
72:12 これは、彼が、助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者を救い出すからです。
72:13 彼は、弱っている者や貧しい者をあわれみ、貧しい者たちのいのちを救います。

第一コリント
10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

ヤコブ
1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

ユダの手紙
1:24 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、
1:25 すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

ルカ
21:18 しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。
21:19 あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。

肉体がどんなに痛んでも、天国では髪の毛一本失われることはない。何も失われるものはないと書かれています。

病気と言う厳しい訓練を通して、神様の栄光を現すことができ、神様の恵みが十分であることが知ることができれば幸いであると思います。

最後に、ふたつの詩を読んで、今日は終わりにしたいと思います。ひとつめの詩は、何年か前に、A(アルコール依存症)Aミーティングで紹介された詩です。病気のお子さんを持つ親のために書かれた詩です。

「天国の特別な子供」
Heaven's Very Special Child
作者、エドナ・マシミラEdna Massilla、訳、大江祐子

会議が開かれました。地球からはるか遠くで
『また次の赤ちゃんの誕生の時間ですよ。』
天においでになる神様に向って、天使たちは言いました。
『この子は特別の赤ちゃんでたくさんの愛情が必要でしょう。

この子の成長はとてもゆっくりに見えるかもしれません。
もしかして一人前になれないかもしれません。
だからこの子は下界で出会う人々に
とくに気をつけてもらわなければならないのです。

もしかしてこの子の思うことは
中々わかってもらえないかもしれません。
何をやっても
うまくいかないかもしれません。

ですから私たちはこの子がどこに生れるか
注意深く選ばなければならないのです。
この子の生涯がしあわせなものとなるようにどうぞ神様この子のためにすばらしい両親をさがしてあげて下さい。
神様のために特別な任務をひきうけてくれるような両親を。

その二人はすぐには気がつかないかもしれません。
彼ら二人が自分たちに求められている特別な役割を。
けれども天から授けられたこの子によって
ますます強い信仰と豊かな愛をいだくようになることでしょう。

やがて二人は、自分たちに与えられた特別の神の思召しをさとるようになるでしょう。
神からおくられたこの子を育てることによって。
柔和でおだやかなこのとうとい授かりものこそ
天から授かった特別な子どもなのです。』

もうひとつの詩ですけれども、これは前から知られている病者の祈りと言う詩です。作者の名前はわからないのですけど、「ニューヨーク・リハビリテーション研究所に書かれた一患者の詩」となっています。

「病者の祈り」

大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに、
より良きことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬものであるにもかかわらず、心の中を言い表せない祈りはすべてかなえられた。
私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。

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