2001年2月、ある結婚式でのメッセージ
ゴットホルド・ベック
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(聖書ヨハネの手紙第一、三章十六節)
今日このように愛するみなさんといっしょに、神のみことばである聖書について考えることができるのはほんとうに感謝です。
新郎である愛するEさんと、新婦である愛するKさんが結ばれるということは、ほんとうに喜ばしいことです。「結婚式」と言われていますけれど、私はほんとうはいわゆる儀式そのものを大切にしたくないのです。なぜならば儀式とは表面的なものであり、形式的なものだからです。その意味で、今日のいわゆる結婚式は、一つの儀式というよりもイエス様を紹介するための集いであります。
結婚とは、もちろん誰でもわかるのですけれど、ほんとうは人間の幸せのためにあるべきです。みんな幸せになりたい、もし幸せにならなければ結局すべてはおもしろくない、意味のないものになってしまうからです。
例えば、物質的に恵まれたとしても人間の心は満たされていません。心が満たされないと多くの人々はすべて空しいのではないかと考えるようになります。また、例えば友達がたくさんあったとしても、人は孤独です。人の気持ちを理解できる人は結局いないからです。人はみな寂しいのです。
けれども、もしすべてがうまく行ったとしても、人の心の奥底には良心の呵責があります。しかし、その罪滅ぼしのために人間は実際問題として何もすることができません。何をしても無駄です。そしてまた、考えられないほど多くの人々は将来に対する不安また恐れによって支配されています。不安から、心配から解放されることこそが、ほんとうの意味での幸せであり、また満たされた結婚生活の土台なのではないでしょうか。
このあいだ、お二人からいただいた手紙に、次の聖書のみことばが印刷されておりました。旧約聖書の民数記六章二十四節です。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように」という一節でした。ここでちょっと全文をお読みします。昔の祭司はイスラエルの民の前に立って次のように祈ったのです。
「主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られますように。主が御顔をあなたがたに照らし、あなたがたを恵まれますように。主が御顔をあなたがたに向け、あなたがたに平安を与えられますように。」なかなかいい祈りなのではないでしょうか。私がお二人に言えることも、それしかありません。「あなたがたお二人が主によって祝福されますように」と。
三千年前にソロモン大王は次のように書きました。箴言十章二十二節です。「主の祝福そのものが人を富ませ、人の労苦は何もそれに加えない。」このソロモン大王は世界一の王でしょう。神様から非常に豊かな知恵と英知と広い心を与えられていた彼は戦争することなしに全世界を治めることができたのです。これはちょっと考えられないことです。戦争なしにみな征服されてしまったのです。彼の賢さについては、書いたものを読むと誰でもびっくりします。彼はまた世界一の財産家でもありました。この歴史上有名な王様がこういうことを書いたのです。「主の祝福そのものが人を富ませ、人の労苦は何もそれに加えない。」ちょっと不思議に思われるかも知れませんが、彼は人のほんとうの幸せは、人が労苦して克ち取れるものではなく、主なる神様の祝福によってのみ与えられる、と言っているのです。
人生においてもっとも大切な決断が必要なのは回心と結婚の時ではないでしょうか。そしてこの二つの決断は共に新しい出発を意味するものです。すなわち、結婚とは今まで一人で生活し、一人ですべてのことを決定してきた者が、結婚を通していわば二人三脚のように、いつも二人で物事を決定し、行動を共にすることを意味します。他方、回心とは、今まで一人で生きてきた者が、主イエス様と共なる新しい生活をすることを意味するものです。
回心がもっとも大切な決断であることの理由として次のようなことが言えます。回心よって私たちがほんとうの喜びを持つか否か、あるいはほんとうに報いられる人生の目標を持つことができるか否か、という人間にとってもっとも大切な問題が解決されるだけではなく、死後いずこに行くのか、天国かあるいは地獄かという永遠の問題も解決されるということです。
昔ヤコブという人は、長い間自分のことしか考えずに生きてきました。金のためには平気で嘘をついたり、自分の父親さえ何回もだましました。そして彼は金持ちになりました。一応成功したように見えました。けれども、そのような利己的な方法で成功した彼の心の中には平安はまったくありませんでした。しかし、そのように平安のない、絶望的な彼の心の中に神様の光が差し込んだのです。その結果、彼は次のように叫ぶようになり、祈るようになりました。「主よ。私を祝福してくださらなければ私はあなたを去らせません。得た金は私の心を満たさなかったのです。」と彼は神様に向かって正直に告白したのです。このように主の祝福こそがすべてなのではないでしょうか。
結婚においても、親の祝福を得ることも大切です。けれども比べてみるならば、主の祝福こそがほんとうにすべてなのではないでしょうか。
「それでは主なる神はどういう人を祝福してくださるのでしょうか。」と質問されることでしょう。先ほどお話ししたソロモン大王について、聖書の中でダビデ王は詩篇一二八篇に次のように書いています。「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。主を恐れる人は確かにこのように祝福を受ける。」これが答えではないでしょうか。
今、世の中が求めているのはいったいどういう人々なのでしょうか。みなさんはご存じですね。頭の良い人々、優秀な人々、魅力的な人々、金や権力を持つ人々です。けれども主なる神の求めている人とはそういう人々ではありません。主の判断はまったく違うものなのです。すなわち、どういう人々が求められているかといいますと、心が砕かれて、みことばにおののき、主を恐れている人々です。なぜならば、そういう人々だけが祝福され得るからです。
集会のある弁護士の方の事務所の部屋にちょっとおもしろいポスターが掛かっていました。大きな字で何が書かれていたかと言いますと、「人間はだまされやすい。」・・・・弁護士の事務所にです・・・・。「人間はだまされやすい。」確かにそうかも知れません。けれども、主なる神はだまされません。すなわち、砕かれた心を持っていない人は祝福されない、主のみことばにおののかない人も祝福されない、そして主を恐れない人も決して祝福され得ない、と聖書ははっきりと言っています。
結婚は幸せのためであるべきです。けれども、どうして多くの結婚が不幸な結果になってしまうのでしょうか。それはいわゆる快楽原理が中心になって自分の快楽だけを求めているからです。結局、自分のことを大切にしてしまうからです。ただ自分のことばかり考え、相手がどのような気持ちでそれを受け止めているかについて考えない人は問題です。自分や相手を不幸にしようと思うならば、自分のことだけ考えればいいでしょう。
結婚生活には四つのタイプがあると思います。第一は、お互いに対立し合いながら結婚生活を送るというケースです。こういう家庭には、いつでも重苦しい空気があります。そこにはいつもいざこざが絶えず、愛は逃げてしまい、幸福のかけらもありません。第二は、お互いに交わりのない結婚生活です。つまり、いっしょに住んではいるけれど、お互いに思い思いの生活をしているケースです。相手の人が何を考えているのか、何について苦しんでいるのか、何を望んでいるのか、ということにお互いがまったく無関心で、結婚していながら二人ともまったく孤独です。第三は、何でもいっしょにやるというケースです。理想的な愛のように思えるかも知れません。つまり、仕事もいっしょにすれば、買い物に行くのもいっしょに行き、いっしょに相談して買い物をし、子どもを育てるにもいっしょに協力してやります。こういうふうに、何でもいっしょにすることはすばらしいことだと思う人は多いのではないでしょうか。けれども、これでは完全に理想的な結婚と言うことはできません。理想的な結婚にはもっと、もっと必要な条件があります。
第四のケースがそれです。つまり、相手のために生活をする結婚生活です。自分の主張を通すのではなく、相手の欲していることを行なうことを望む生活です。相手を愛し、相手を助け、相手を幸せにし、自分を空しくして相手に仕え、よしんば相手が間違いをしたとしてもこれを許す、という態度で結婚生活を送ることです。他の言葉で言いますと、自己否定を伴わない結婚生活は悲劇的です。自分のために生きることは不幸になる原因です。自分のために生きるとは自己満足でしかありません。誰でも自分自身のために生き、自分が中心になりたいと思い、自分自身の願望を追求するならば不幸になります。
以前、宮古島で集会のあと、少し時間があったので貝殻の展示館に案内していただき、ふつう見ることのできない珍しい貝殻をたくさん見ることができました。このようないろいろな貝を創造なさったお方はすばらしいと思いました。それから海の毒蛇も見ました。そして一番最後の部屋に行くと「世界一恐ろしい生き物」と書いてありました。今度はどんなものを見ることができるのかと、そこにあった大きな箱の近くに行きました。ところが小さな穴しかあいていなかったので、もっと近くに寄ってよく見ました。するとみな、見た瞬間に声を出しました。中にあったのは鏡だけだったのです。ですから、自分しか見えませんでした。「そうか、世界中で一番恐ろしい生き物は自分か・・・・。」聖書はそのとおりだと言っています。結局人は問題があれば相手のせいにするのがふつうですね。子どもでさえ「親のせいです。」「学校の先生のせいです。」「友達のせいです。」と言います。誰のせいか、それはどうでもいい、それより自分がへりくだることが大切です。
イエス様が死なれた目的について、聖書のローマ人への手紙四章二十五節で次のように言っています。その第一の目的とは「主イエスは私たちの罪のために死に渡された。」罪滅ぼしのために人間は何もできない、だからイエス・キリストは永遠のはじめから天で持っておられた栄光を捨ててこの地上に人間となって来てくださったのです。キリスト教を作るためではありません。イエス・キリストはキリスト教とは関係のない方です。イエス・キリストは何かを教えるために来たのではありません。いわゆる教師ではないのです。イエス・キリストがどうして来てくださったかというと死ぬためだけなのです。イエス・キリストは私たちの罪滅ぼしのために犠牲になってくださったのです。これがイエス様のこの世に来られた一つの目的です。
けれど、もう一つの目的があるのです。パウロがコリント人への手紙第二、五章十五節に「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」と書いているとおりです。「自分のためにではなく、自分の代わりに死なれ、復活なさったイエス様のために生きることは大切だ。」と考えるようになると人は変わります。自分のためにではなく、十字架の上で犠牲になり、三日後に復活なさったイエス様のために生きることは、最高の特権であり、またほんとうの幸せです。自分のことばかりを大切にする人は的はずれの生活をします。けれどもイエス様のために生きたいと望む者は間違いなく自由になり、幸せになり、そして豊かな実を結ぶようになります。自分自身が中心になってイエス様をのけ者にするか、あるいは自分の思いを否定してイエス様が私たちの中で、私たちをとおしていつも働くことができるようにと願って生きるか、二つのうちのどちらかを選ばなければなりません。
結婚生活は、確かに一人のときほど簡単なものではないでしょう。なぜなら、あらゆることにおいて二人の思い、二人の考えが出て来るからです。生まれつきの自己愛からほんとうの愛が生まれるために結婚生活がある、と言えるのではないでしょうか。ですから、ほんとうの結婚生活とは問題のない結婚生活ではなく、その問題を絶えずイエス様によって解決してゆく結婚生活です。ペテロの手紙第一、四章八節でペテロは次のように書いています。「何よりも互いに愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」もちろん、自分のちっぽけな愛で愛せよではなく、イエス様の愛をもって愛し合いなさいということです。イエス様の愛を経験した者はほんとうの意味で愛することができます。
また結婚生活の愛の標準としてエペソ人への手紙五章二十五節には次のようなみことばが述べられています。「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」Eさんも「はい、かしこまりました」と言うのは簡単ですけれど、現実の問題としてはちょっと難しいのではないでしょうか・・・・。多くの人々は聖書を誤解しています。なぜならば、ああしなさいと書いてあるから、ああしなくてはいけないのではないかと、みな思っているのです。こういう人々にとって、聖書は一つの教科書のようなものですが、ほんとうは違うのです。例えばEさんがキリストが人間を愛したようにKさんを愛そうと思っても、実際には無理ですね。
もちろん、聖書はそれだけではなく「あなたの敵を愛せよ。」と言っています。でも、そんなことはとても誰にもできません。もし誰にもできないのなら、どうしてそんなことが聖書に書いてあるのでしょうか。それは守るためではなく、破るためです。神はそれが人間にできないことをおわかりになっているのです。わかりたくないのは人間です。傲慢な人間です。頑張ればなんとかなるんじゃないかと人は思いますが、結局は無理です。そして、それがわかる人は幸せなのです。そういう人は「私にはとてもできません。あなた(イエス様)が助けてくださらなければどうすることもできません。」と祈るようになります。そうすると状況はまったく変わります。人間そのものは死ぬまでだめです。けれどもだめにならないイエス様に頼れば全部うまく行くようになります。
ですからお二人が「イエス様、私たちは二人とも今までわがままでした。現在もそうです。将来もそうでしょう。けれども、あなたはだめな者を捨てないお方ですから、ありがとうございます。どうぞこれからもよろしくお導きください。」という態度を取れば、イエス様は確かに導いてくださいます。そしてあなたがたの力となり、心の拠りどころとなってくださいます。
先ほどの聖句に「キリストが愛したように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」とあります。これはどういうことかといいますと、ほんとうの献身です。他人、すなわち相手に対するまったき自己否定であります。自己否定と献身、これこそが愛するお二人の結婚の特徴となりますように。ほんとうの愛とは自分の幸せではなく、相手の幸せを願うことです。相手のために自分自身をささげること、自己犠牲を喜んですることです。真実の愛とは、相手が喜ぶことを喜ぶことです。
聖書は主なる神の秩序について次のように言っています。コリント人への手紙第一、十一章三節です。「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男である。」この秩序こそ祝福された結婚生活の秘訣です。この主の秩序を正しく守る者は間違いなく祝福されます。もちろん、男が自分の意思、自分の理性を主なる神のみこころに従わせるということは決して簡単ではありません。ほんとうはおもしろくないことでしょう。けれど、それだけではなく、女が自分の意思や感情を男の意思に従わせるということも、同様に簡単ではありません。けれども今の世の中はいったいどうなっているのでしょうか。男が主なる神を恐れず、主に逆らい、女が男に従おうとせず逆らい、そして子どもが親に逆らうということになっているのではないでしょうか。ですから人間は悩む者になってしまったのです。
女のかしらは男である、と聖書は述べていますけれど、夫婦の関係は決して上下関係ではありません。夫が生活の主導権を持っているということに過ぎません。これは特権なのか重荷なのかわかりませんけれど・・・・。自分はいつも正しいと思い込んでいる人は結婚しないほうがいいでしょう。何かがあって二人の間に重苦しい空気が流れるようなときは、「悪かった、ほんとうにすまなかった。」という一言を言うことが大切です。
最後に有名なドイツの最初の総理であるビスマルクが妻に宛てた手紙をもって私の勧めを終わりたいと思います。非常にすばらしい手紙です。ビスマルクの告白でもあり、また証しでもあります。
「私はおまえを主にあって心から愛するために結婚した。私はこの世にあって外で冷たい風が吹き、凍りつくような寒い晩などに、暖炉の火が赤々と燃えている暖かい我が家を心から切に求めたがゆえに、おまえと結婚した、と言ってもいいだろう。私は暖炉のように暖かいやさしい心を持ったおまえを大切にしてゆきたいと思う。そのために私は、そのかまどの中に木の枝をくべ、火が消えないようにするために、あらゆる悪からおまえを守り、小さなともし火が風に吹き消されないように、一生懸命になりたいと思う。というのは、私にとっては主イエスのあわれみを除いては、おまえの愛よりも尊いものはないからだ。」
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この小冊子は、キリスト集会のゴットホルド・ベック宣教師がある結婚式で司式をされたときになさったメッセージを書き起こしたものです。イエス・キリストについてさらに知りたい方は以下のところに御連絡ください。
吉祥寺キリスト集会
西軽井沢国際福音センター
二〇〇一年二月

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