2023年1月14日土曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】12.第五のラッパのさばき・第一のわざわい

12.第五のラッパのさばき・第一のわざわい
黙示録8章13節から9章12節まで

1.開かれた底知れぬ穴と神の御手
[1]誰が底知れぬ穴を開いたのか
[2]底知れぬ穴とは何か
[3]底知れぬ穴から何が出てきたのか
2.解き放たれた悪霊とその王
[1]悪霊の根源
[2]悪霊の力
[3]悪霊の目的

この部分を学ぶにあたって、まず、ヨエル書にあるみことばを見ておきましょう。

一つの国民がわたしの国に攻め上った。力強く、数えきれない国民だ。その歯は雄獅子の歯、それには雄獅子のきばがある。(ヨエル1・6)

やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。(ヨエル2・2)

その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。(ヨエル2・4、5)

その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。(ヨエル2・10)

さて、今回学ぶところは、黙示録の次の箇所です。

(13)また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」
(1)第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。(2)その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。
(3)その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。(4)そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。(5)しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。(6)その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。(7)そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。(8)また女の髪のような毛があり、歯は、ししの歯のようであった。(9)また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。(10)そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。(11)彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。
(12)第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。(黙示8・13~9・12)

この部分から第五のラッパのさばきが始まります。このさばきは「第一のわざわい」に相当するものです。その内容は、「額に神の印を押されていない人間」だけに対してなされる、底知れぬ穴から出てくるいなごの攻撃です。

8章13節でヨハネは、空を飛ぶわしを見ました。このわしは人間に警告を与えるために遣わされた神の使いです。このわしが「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る」と三回くり返した言葉は、さばきが非常に速く、そして大きな勢いをもって来ることを表わしています。わしはしばしばさばきと関連して出てくる生き物です。

主は、遠く地の果てから、わしが飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。(申命28・49)

角笛を口に当てよ。鷲のように敵は主の宮を襲う。彼らがわたしの契約を破り、わたしのおしえにそむいたからだ。(ホセア8・1)

13節の後半には、「あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている」、つまり「地に住む人々に」、三つのわざわいが来ることが告げられています。これらのわざわいはいままでと違って、人間に対して直接に加えられるさばきです。前半の四つのラッパのさばきは、人間を取り巻く自然、「地」、「海」、「川」、「天体」に対して加えられるさばきでした。これに対して今からみる後半の三つのラッパのさばきは、人間に直接加えられるさばきです。しかし神は、前もって何も警告を与えずにことを行なわれることは決してなさいません。

また、ここには「地に住む人々」という表現が出てきます。この表現は黙示録にしばしば出てきます。「地に住む人々」とは、この地上で居心地よく生活している人々のことです。

これらの人々は、地上で「よそ者や旅人」のように生活をするまことの信者たちの生活とはまったく違った生活をしています。これらの人々の心は、ただこの世の生活にのみ向けられているのです。そして、主のいのちから遠ざけられていて、イエス様の愛をもたず、天にある希望をもっていない人々です。

つまり第五のラッパのさばきはユダヤ人の国で起こることです。証印を押された人々は、イエス様を信じ、救われたユダヤ人であり、証印を押されていない人々は、救われていないユダヤ人です。

1.開かれた底知れぬ穴と神の御手


これから私たちは特に二つのことについて考えてみましょう。第一番目は、「開かれた底知れぬ穴と神の御手」、第二番目に、「解き放たれた悪霊とその王」についてです。

黙示録9章においても、私たちは、主がすべてのできごとの背後に立っておられ、主の御手が働くのを見ることができます。さばきは御使いが主の御座からラッパを吹き鳴らした後ではじめて行なわれるのです。「与えられた」という表現がくり返して用いられていますが、これは主の全能の力を表わしています。悪魔も悪霊も、主が許されるのでなければ何もできません。「苦しみの時」は主によってはっきりと定められています。悪魔がどんなに信者たちを憎んでいても、主が許されるのでなければ何も彼らに害を与えることはできません。

黙示録8章と9章を比べてみると興味深いことに気がつきます。8章は上から来るものについて書かれています。9章は下から来るものについて書かれています。さらに8章では祭壇からの香の煙のことが、9章では底知れぬ穴からの煙のことが記されています。8章においては祭壇にいる御使い、9章では底知れぬ穴にいる御使いのことが記されています。

ここで、次の三つの問いについて考えてみたいと思います。はじめに、「だれが底知れぬ穴を開いたのか」、次に、「底知れぬ穴とは何か」、そして、「底知れぬ穴から何が出てきたのか」ということです。

[1]だれが底知れぬ穴を開いたのか


9章1節の「星」というのは文字通りの星ではなく、前にも学んだように御使いのことを意味しています。そして、一人の御使いがやってきて底知れぬ穴を開いたことがわかります。底知れぬ穴は、いのちを持たない、物質である星によって開けられたのではなく、一人の人物、つまり御使いによって開かれたのです。

主が、御使いに「底知れぬ穴を開くかぎ」を与えられました。この「天から地上に落ちた」御使いは誰のことかというと、ある人々はこれを「反キリスト」だと考え、また他の人々はこれを11節に出てくる底知れぬ所の御使いである「悪魔」だと考えたりしています。しかし、多分この御使いは、神から遣わされた御使いであって、千年王国の始まる直前に底知れぬ穴を開いて、そこに悪魔を閉じこめることになる、黙示録20章1節から3節までに出てくる御使いだと思われます。

また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。(黙示20・1~3)

1節で使われている「星が天から地上に落ちる」という表現は、堕落して神から離れたという意味では決してなく、天から降りてきたという意味だと思われます。そしてこのことは、第一のわざわいが非常に速く行われることを意味しています。

[2]底知れぬ穴とは何か


では、底知れぬ穴とは何でしょうか。これは悪霊の住家です。

悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。(ルカ8・31)

悪魔は千年王国の期間中もこの場所にいます。そしてこの穴に住んでいる悪霊たちは、終わりの時代に人々を惑わすためにいる者たちです。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。(第一テモテ4・1)

イエス様は多くの悪霊たちを追い出されました。このような悪霊については、ルカの福音書8章26節から36節で詳しく見ることができます。

こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。汚れた霊が何回となくこの人を捕えたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである。イエスが、「何という名か。」とお尋ねになると、「レギオンです。」と答えた。悪霊が大ぜい彼にはいっていたからである。
悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚にはいることを許してくださいと願った。イエスはそれを許された。悪霊どもは、その人から出て、豚にはいった。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖にはいり、おぼれ死んだ。飼っていた者たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた。人々は恐ろしくなった。目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。(ルカ8・26~36)

反キリストもまたこの底知れぬ穴から出てくるのです。

そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。(黙示11・7)

あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。そして彼は、ついには滅びます。地上に住む者たちで、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現われるのを見て驚きます。(黙示17・8)

悪魔は「底知れぬ穴」という所にいる「悪霊の王」です。

彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。(黙示9・11)

この「底知れぬ穴」というのは、最後の滅びの場所ではありません。

それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」(マタイ25・41)

そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(黙示20・10)

いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示20・15)

そこは悪霊たちを一時的に閉じこめておく場所なのです。主は愛をもってすべての造られたものを闇の世界から守っておられ、悪霊を穴の中に閉じこめておられるのです。しかし、終わりの時代にはその穴が開かれて悪霊どもが出てくるのです。これらの悪霊は主が許されるときにだけ外に出ることができます。しかもそれは、神の特定の目的を成就するために外に出ることが許されるだけです。

[3]底知れぬ穴から何が出てきたのか


底知れぬ穴から何が出てくるのでしょうか。第一に煙、第二にいなご、第三に底知れぬ穴の御使いが出てきます。

・煙

煙は人の視界を曇らせます。煙によって人はものが見えなくなり、「何が善で何が悪であるか」も見分けられなくなります。煙によって、主と人々との間の距離はますます大きくなります。煙は悪霊による悪魔的な影響をもたらします。煙によって自然の光である太陽が曇らされるだけでなく、世の光であるイエス様も見えなくされるのです。イエス様に対して長く拒み続ける場合には、人はもはやイエス様を見いだすことができなくなってしまいます。

・いなご

煙だけでなく、いなごも出てきます。これは文字通りのいなごではなく悪魔的な霊のことです。終わりの時代にはこのような悪霊どもが人々をますます支配し、追いつめ、苦しめることになります。私たちはこのような悪霊の働きを目で見ることはできません。しかし、その現われの一つの例として、イスラエルに向かって多くの国が戦争をしかけるのを見るでしょう。

・底知れぬ穴の御使い

煙といなごに続いて、「底知れぬ穴の御使い」が出てきます。これは悪魔自身です。

いなごには王はないが、みな隊を組んで出て行く。(箴言30・27)

実際の昆虫のいなごには王はいません。しかし、悪霊の軍勢は悪魔が王なのです。したがってこの軍勢には秩序があり、悪魔がすべての動きを支配しています。次にこの点について詳しく学んでみましょう。

2.解き放たれた悪霊とその王


ここからは、悪霊について三つのこと、「悪霊の根源」、「悪霊の力」、「悪霊の目的」を考えてみましょう。

[1]悪霊の根源


悪霊とは汚れた霊です。

すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。(マルコ1・23)

夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来た。イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。(マルコ1・32~34)

また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。(黙示16・13、14)

彼らは神のもとから堕ちて悪魔の使いとなった者たちです。

それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」(マタイ25・41)

悪魔は一人ですが、この悪魔に仕えている何百万という悪霊たちがいるのです。これらの悪霊に人々が支配されることがありうるのです。そうなると悪霊は、これらの人々を通して話したり、また行動をとったりするのです。

悪霊の活動と、それが現実に存在することは、いつの時代にも見ることができます。例えば、サウル王は霊媒者のところに行き、悪霊の支配を受けました。

サウルは自分の家来たちに言った。「霊媒をする女を捜して来い。私がその女のところに行って、その女に尋ねてみよう。」家来たちはサウルに言った。「エン・ドルに霊媒をする女がいます。」サウルは、変装して身なりを変え、ふたりの部下を連れて、夜、その女のところに行き、そして言った。「霊媒によって、私のために占い、私の名ざす人を呼び出してもらいたい。」すると、この女は彼に言った。「あなたは、サウルがこの国から霊媒や口寄せを断ち滅ぼされたことをご存じのはずです。それなのに、なぜ、私のいのちにわなをかけて、私を殺そうとするのですか。」サウルは主にかけて彼女に誓って言った。「主は生きておられる。このことにより、あなたが咎を負うことは決してない。」
すると、女は言った。「だれを呼び出しましょうか。」サウルは言った。「サムエルを呼び出してもらいたい。」この女がサムエルを見たとき、大声で叫んだ。そしてこの女はサウルに次のように言った。「あなたはなぜ、私を欺いたのですか。あなたはサウルではありませんか。」王は彼女に言った。「恐れることはない。何が見えるのか。」この女はサウルに言った。「こうごうしい方が地から上って来られるのが見えます。」サウルは彼女に尋ねた。「どんな様子をしておられるか。」彼女は言った。「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます。」サウルは、その人がサムエルであることがわかって、地にひれ伏して、おじぎをした。
サムエルはサウルに言った。「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」サムエルは言った。「なぜ、私に尋ねるのか。主はあなたから去り、あなたの敵になられたのに。主は、私を通して告げられたとおりのことをなさったのだ。主は、あなたの手から王位をはぎ取って、あなたの友ダビデに与えられた。あなたは主の御声に聞き従わず、燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。それゆえ、主はきょう、このことをあなたにされたのだ。主は、あなたといっしょにイスラエルをペリシテ人の手に渡される。あす、あなたも、あなたの息子たちも私といっしょになろう。そして主は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡される。」
すると、サウルは突然、倒れて地上に棒のようになった。サムエルのことばを非常に恐れたからである。それに、その日、一昼夜、何の食事もしていなかったので、彼の力がうせていたからである。女はサウルのところに来て、サウルが非常におびえているのを見て彼に言った。「あなたのはしためは、あなたの言われたことに聞き従いました。私は自分のいのちをかけて、あなたが言われた命令に従いました。」(第一サムエル28・7~21)

偶像礼拝をさせる力も、聖書によれば悪霊から出ているのです。

その偶像に仕えた。それが彼らに、わなであった。彼らは自分たちの息子、娘を悪霊のいけにえとしてささげ、罪のない血を流した。(詩篇106・36、37)

いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(第一コリント10・20)

現代においても、悪霊が支配していることは、占いや霊媒の存在などによってわかります。

[2]悪霊の力


悪霊は人間の精神と肉体とを滅ぼすことができます。聖書には悪霊につかれた人をイエス様が解放してくださる場面がいくつも出てきます。

そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。(マタイ12・22)

「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。(マタイ77・15~18)

「この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」(ルカ13・16)

悪霊どもはイエス様をいつでも「王」であり「主」であると認めています。

それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」イエスは彼らに「行け。」と言われた。すると、彼らは出て行って豚にはいった。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。(マタイ8・31、32)

悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。(ルカ8・31)

悪霊を通して悪魔が今日の世界を支配しています。

ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、・・・・(ダニエル10・13)

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6・12)

悪霊を通して間違った教えも行なわれています。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。(第一テモテ4・1~3)

悪霊は神のご計画に逆らって働きます。

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさいイエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。(第一ヨハネ4・1~6)

さて、悪霊は二種類、自由な悪霊と囚われた悪霊がいます。現在囚われている悪霊たちは、大きな患難のとき、悔い改めることをしない人々に向かって解き放たれるためにいるのです(黙示録9章1節から21節)。

悪霊と悪魔に抵抗する唯一の武器は「祈り」です。

悪霊の力を描いた作品に、「エクソシスト」という映画があります。この映画の中では悪霊がリアルに描かれています。このような映画は見るべきではなく、またこのような映画を見ないように他の人々にも注意を与えたいものです。この映画の中で、「もし私たちが悪霊どもと関係を持つようになれば悪霊の影響を受けることになる」と言っているのは本当です。しかし、悪霊からの支配を自殺によって逃れうると言っているのは間違っています。本当の解放はイエス様の御名による熱心な祈りによってだけなされるので、決して自殺による解放などありえません。悪霊を追い出すことのできるのは、ただイエス様だけです。

終わりの時代に解き放される悪霊の力は大変に大きなものです。この悪霊の力は非常に強いために、人々は自分の行くべき道と自分のよりどころのすべてを失うことになります。人々はもはや心の内に主にある確信を失い、代わりに自信や自惚れによって満たされることになります。すべてが見せかけであり、偽物となるのです。

いなごは金の冠に似たものをかぶっています。これは本当の金ではなく見せかけの金です。いなごは鉄の胸当てをつけています。それは彼らが他の人々の言うことを聞かず、他の人々の教えに耳を傾けないことを意味しています。終わりの時代には、人々は鉄のように頑なな心を持つことになるのです。そこには少しの同情心もなく、許すことのない残酷さがあるだけです。

[3]悪霊の目的


黙示録9章11節で、悪霊たちの名前はヘブル語で「アバドン」、ギリシャ語で「アポリュオン」と呼ばれていますが、これらは「破壊する者」という意味です。したがって、悪霊の目的は破壊することです。

悪魔は私たちに快楽や満足や出世やにせの自由などを約束しますが、しかし結局は私たちを混乱へと導くのです。いかに私たちは悪霊の王である悪魔によって、絶望と無力と失望へと導かれやすいことでしょうか。悪魔、また悪霊の目的は、私たちをイエス様とそのみことばから引き離すことにあります。

すべてイエス様から引き離すものは私たちにとって毒なのです。

不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。(第二テサロニケ2・7~12)

私たちはこの箇所において大きな患難について見ることができます。「破壊者」である悪魔は、反キリストを通して彼のわざを行ないます。黙示録9章1節から12節までの攻撃は、現代の核ミサイルを連想させます。そしていなごの形は戦闘機にとてもよく似ています。戦闘機の前面はいなごの着けていた「金の冠のようなもの」に似ています。8節に「女の髪のような毛」ということばが出てきますが、これは戦闘機の後ろに残される飛行雲に似ています。「ししの歯」は戦闘機の窓枠に、また「さそりのような尾と針」(10節)は戦闘機から発射される小型ミサイルに似ています。「翼の音」(9節)は戦闘機の音を表わしているとも考えられます。

ヨハネの時代にはもちろんこのようなものは存在しませんでした。しかし、ヨハネの書いているイナゴと戦闘機がいかに似たものであるかは驚くべきことです。

これから先、どのような武器が開発されるかわかりません。私たちはヨハネが幻を見て書き記したすべてのことが、現実にどのようになるか、ということはまだはっきりと知ることができません。しかし、すべての目に見える事柄の背後に、目に見えない力が働いていることは知っています。核爆弾が爆発する前に、見えない世界では悪霊が働くことでしょう。目に見える軍隊の背後に、この世を越えた悪霊の働きがあるのです。しかし、この悪霊の働きは、神の命令によらなければ何もできません。

黙示録にある「さばき」は、悔い改めて主に立ち返ることへの呼びかけです。主は絶えまなく、悔い改めへの呼びかけをなさっておられます。しかし主の呼びかけが拒絶されるときには、必ずさばきが行なわれます。そしてここにおいても、人間に危害が加えられる期間は五か月であると決められてます。

エジプトに対するさばきにおいて、主はイスラエルの民とエジプトの民との間に一つの区別を設けられました。

わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなたが知るためである。(出エジプト8・22)

しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。(出エジプト9・4)

三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。(出エジプト10・23)

黙示録でも同じことが行なわれています。神は「額に神の印を押された人間」と「神の印を押されていない人間」との間に区別をつけておられます。

悪霊の攻撃が加えられている間、十四万四千人の神の印を押されたイスラエルの民は神によって守られるのです。つまり、神の印を受けた人々には悪霊も害を加えることができません。しかし、神の印を押されていない人々は悪霊に惑わされ、さばきにあうのです。

私たちは、すでに聖霊による神の印を押されているでしょうか。

また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」(黙示7・2、3)

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