2023年1月7日土曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】11.四つのラッパのさばき

11.四つのラッパのさばき

黙示録8章6節から12節まで

1.第一のラッパのさばき
2.第二のラッパのさばき
3.第三のラッパのさばき
4.第四のラッパのさばき

(6)すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。(7)第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。(8)第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。(9)すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。(10)第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。(11)この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。(12)第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。(黙示8・6~12)

黙示録8章のこの部分に書かれている、四つの「ラッパのさばき」について考えてみましょう。この四つの「ラッパのさばき」は、神が人類にもたらす大きな患難を象徴するものです。

黙示録8章1節から4節までに書かれている「静けさ」は、もはや過ぎ去ってありません。主なる神は人間のような焦りや軽率さなどはなく「完全な」お方ですから、すべてを完璧になされます。そしてもちろん、そのさばきにおいても「完全に」遂行なさいます。創造者である主が、ここでは「建てる」ためではなく「壊す」ために働こうとしておられます。主の怒りがさばきを通して明らかにされようとしています。

前半の四つの「ラッパのさばき」では、人間には直接の危害は加えられず、ただ人間をとりまく自然、つまり「陸」「海」「川」「天体」にさばきが下ります。

ここに記されている「ラッパのさばき」は、先に出てきた「封印のさばき」と同じ、終わりの時代に起こります。そして「封印のさばき」の後に続いて「ラッパのさばき」が起こるのではなく、この二つは、同時に行なわれるさばきを別の面から描いているにすぎません。

1.第一のラッパのさばき


まず、第一のラッパのさばきについて見てみましょう。

このさばきは、エジプトに対して行なわれた苦痛に満ちたさばきを思い起こさせます。このことから、私たちは黙示録に記されているさばきが、エジプトにおいてなされたと同じように、現実的なものであることを悟らなければなりません。

モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。主はエジプトの国に雹を降らせた。雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。(出エジプト9・23、24)

私たちは、第一のラッパのさばきを読むとき、ミサイルや核の爆発を連想しないではおられません。それが世界的な規模で起こるとき、地上の三分の一と森林の三分の一が焼失してしまい、青草はすべて焼き尽くされてしまうことでしょう。また、放射腺被爆によって人間の血液も破壊されてしまうでしょう。私たちは燃え上がる街々や血を流している人々を見ることになるでしょう。人間が築いてきたすべての文明が破壊され、地もまた私たち人間に対して産物をもたらすことを拒むようになるでしょう。戦争の結果は大々的な国土の破壊です。これは、ヨエル書にある預言の成就です。

わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。(ヨエル2・30、31)

「不思議なしるし」と「火」は神のさばきを意味しています。さばきの結果は「血」、つまり「死」です。しかし、ここでのさばきは部分的なさばきであり、三分の一と限定されていますから、地のすべてが燃え尽くされるわけではありません。

2.第二のラッパのさばき


第二のラッパのさばきも、主がエジプトに対して行なわれた最初のさばきを思い起こさせます。

モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。(出エジプト7・20、21)

今日の世界で言えば、河川、海洋の水質汚染が連想されます。おびただしい生物と人々がその影響を受けて死滅するのです。

8章8節の「燃えている大きな山」は、一つの大きな国家やその産業活動を意味していると思われます。エレミヤも、周囲のすべての国々を滅ぼし自らも滅ぼされる結果となったバビロンについて、こう語っています。

全地を破壊する、破壊の山よ。見よ。わたしはおまえを攻める。――主の御告げ。わたしはおまえに手を伸べ、おまえを岩から突き落とし、おまえを焼け山とする。(エレミヤ51・25)

黙示録の「燃えている大きな山」は、現代によみがえってくる反キリストの帝国を表わしているのではないでしょうか。つまり、この大きな「山」は、ある一つの政治的、精神的、そして悪魔的な巨大な権力を表わしていると思われます。さらに、その巨大な権力機構がもたらす産業活動の廃棄物の山を連想させます。

このさばきの結果は、海の三分の一が血となり、海中の生物の三分の一が死に、舟の三分の一が打ちこわされるというものです。

3.第三のラッパのさばき


8章10節の「燃えている大きな星」は、巨大な流星雨、また大挙して襲ってくるミサイル攻撃、それに積み込まれた生物化学兵器のことかも知れません。もしそれが水源に落ちれば、飲み水が汚染されることでしょう。

あるいは「燃えている大きな星」は、悪魔的な権力を意味しているのかも知れません。11節の「苦い水」というのは、旧約聖書においては、飲むことができず、それを飲むことは死を招くことになる水のことです。

彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。(出エジプト15・23)

また、こうも考えられます。かつて人々の生きる心の糧だった文学、詩、音楽、美術などの芸術は、終わりの時代にはすっかり汚染され毒されてしまい、心の死をもたらす原因となるでしょう。

さらに、統一教会やものみの塔その他多くの新興宗教などの間違った教えも、毒の入った水のようなものです。このような間違った道を教える教祖たちは、いつの時代にも存在しました。

「・・・・汚れがエルサレムの預言者たちから出て、この全土に広がったからだ。」万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。」(エレミヤ23・15、16)

飲み水がなければ人間は長く生きていくことができません。それと同じように人間の霊は「生けるいのちの水」がなければ死んでしまいます。

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ14・13、14)

終わりの時代の特徴は、このような「生けるいのちの水」がもはや手に入らなくなることです。しかし今はなお恵みの時です。今はまだイエス様は、人々をご自身のもとに招いておられ、今はまだいのちの水を提供してくださっています。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)

「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」(イザヤ55・1~3)

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(イザヤ55・6)

また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」(黙示21・6)

4.第四のラッパのさばき


第四のラッパのさばきについては12節に記されています。ここまで私たちは、主の祝福がどのようにして地上から取り去られていくかを見てきました。先ず最初に「陸」から、次に「海」と「川」から取り去られました。そして、12節では「天体」からも主の祝福が取り去られようとしています。混乱がますます拡大していくのです。出エジプト記にもこれに似たことが記されています。

主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。(出エジプト10・21~23)

核爆弾の爆発によって山や都市が破壊され、大量の塵が大空高く舞い上がって地上に暗闇が訪れるということはありうることです。自然の秩序が人間によって破壊されるとき、人間の判断の基準も判断力も混乱してしまうのです。

星が道しるべの役割を果たしているように、イエス様の福音も道しるべの働きをします。主から与えられた人間の良心も、道しるべです。良心によって人は正直さと真理と聖さがどういうものかを知ります。

しかし終わりの時代においては、これらの道しるべは暗闇におおわれてしまいます。人間の社会生活の中においてもこのような暗闇が支配することになります。太陽であるイエス様のおられないところでは、闇が人々の間を支配し、人々の関係は冷たくなります。

しかし、イエス様がお働きになる所には、明るさがあり、暖かさがあります。

イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8・12)

イエス様の預言は終わりの時代に成就します。

「そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。そのとき人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」(ルカ21・2~28)

創世記を見ると、神の天地創造の四日目に天体が創られました。黙示録においては、第四のラッパのさばきによってこれらが暗闇に変えられてしまいます。これはアモス書の預言の成就です。

見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。(アモス8・11、12)

イエス様が地上に来られた二千年前、すでにヨハネによって「人々は光よりも闇を愛した」(ヨハネ3・19)と証しされています。このことは、終わりの時代においてますますはっきりしてくるのです。

私たち自身はどうでしょうか。私たちは光よりも闇を愛していないでしょうか。それとも、光に来て、罪を告白し、罪の赦しを受けている者でしょうか。

主人の帰りを熱心に待ち受けている人のようでありなさい、とイエス様は言われました。

「主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。」(ルカ12・36)

主を体験的に知るようになった人の証しはこうです。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。(詩篇46・1、2)

私たちは今、終わりの時代に生きています。過去に起こった戦争を見れば、来るべきさばきの時代がどのように恐ろしいものであるかが想像できます。たとえば共産主義による国家支配は悪魔から出た霊的な力です。共産主義が理想とする自由と平等と博愛は、一見神の国の掟に似ています。しかし、神から離れた共産主義は今までにこの地上で多くの争いを引き起こし、多くの人々を殺害してきたのです。カトリック教会も彼らの考えと異なる人々を異端者として迫害し、この地上で多くの人々を殺害してきました。宗教戦争の名によって、多くの人々の血が流されました。このような迫害は、権力者の欲望を正当化する旗じるし、「神の国をこの地上に建設する」という「かけ声」のもとに行なわれてきたのです。

権力者による教育と宣伝は、芸術、文学、学問、学校教育、そしてラジオ、テレビ、新聞などを通して多くの人々を間違った教えに導き、人々は目隠しをされ何も見えなくさせられています。まことの教会の携挙のあと、このような時代はさらに悪くなります。携挙の後に地上に残されている上べだけの信者たちは、塩味のない、光をもっていない者たちです。終わりの時代の教会、つまり「まことの教会の携挙」の後の教会は、イエス様がおられない教会、聖霊がおられない教会です。このような教会のことが黙示録17章から19章までに記されています。

こうしてテサロニケ人への第2の手紙2章11節、12節の預言が成就するのです。

不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思識がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。(第二テサロニケ2・9~12)

聖霊が支配される教会が取り去られたところでは、悪霊が支配するのです。

今まで見てきた四つのラッパのさばきを通して、将来いかに恐ろしいことが起こるかがわかります。しかし、まことの信者たちはさばきの前にイエス様のみもとに召されることを喜ぶでしょう。イエス様ご自身が、ご自身の花嫁を迎えるために来られるのです。イエス・キリストの霊を持つ者はこの花嫁に属し、携挙のときにイエス様と出会えるのです。

救いの確信をまだもっていない方々は、イエス様の招きの声を、いま聞こうではありませんか。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11・28)

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6・37)

また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」(黙示21・6)

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