ユダの裏切りとイエス様の愛
2017年7月30日、吉祥寺福音集会
西川 義方
ヨハネ
13:21 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
13:22 弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。
13:23 弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。
13:24 そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」
13:25 その弟子は、イエスの右側で席についたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」
13:26 イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
13:27 彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」
13:28 席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。
13:29 ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え。」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。
13:30 ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。
ただいま、お読みいただきました引用聖句は、ご承知のように、最後の晩餐の席で、イエス様がユダの裏切りを弟子たちに予告された箇所であります。このユダの裏切りは、新約聖書の中で、もっとも不可解な出来事として、歴代の聖書学者をはじめ、多くの人々が、ユダが罪を犯すに至った動機を解き明かそうと、模索してきたところではないかと思います。
それにしましても、愛と憐れみ、そのものであるイエス様が、なぜ御自身が弟子に選ばれたユダを闇の中に放り出すようなことをされたのでしょうか?結局のところ、イスカリオテのユダには救いがあったのか、それとも、救いはなかったのかという問いに行き着くわけでありますが、イエスを信じる私たちにとっては、避けては通れない問題ではないかと思うのであります。なぜならば、ユダに救いがないとするならば、日々、イエス様の愛を裏切り、悲しませることの多い私たちに救いはあるのかという問題になるからであります。
実は、以前にも、『ユダの救いについて』というテーマで、一度、お話しをさせていただきましたが、本日は、イエス様の深い御愛とあわれみに視点を合わせて、あらためて、ユダの裏切りとイエス様の愛というテーマで、先人たちの見解等も交え、聖書からご一緒に考えて参りたいと思います。
そもそも、ユダの裏切りは、いつ頃から、なぜ起こったのでしょうか。この点につきましては、様々な推測がありますが、聖書には、はっきりとしたその理由と動機については、記されておりません。しかし、イエス様は、十二弟子をお選びになった後、弟子の中の一人が御自身を裏切ることを、かなり早い段階から予言されておりました。ヨハネの福音書六章には、ガリラヤ伝道の前期に、ガリラヤ湖のほとりで、五千人の群衆にパンが提供されたという奇蹟が記されております。
ヨハネ
6:14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。
6:15 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。
こうして、五千人にパンが提供された後で、群衆の中には、力ずくでもイエス様を王としようとする動きがありました。ところが、この後に記されているいのちのパンについての講話の後で、イエス様の目的とするところが、群衆たちの期待するメシア像と異なることが明らかになると、『これはひどい言葉だ、そんなことを誰が聞いておられようか』といって、群集を始め、弟子たちの多くのものは、イエス様につまづき、離れていってしまったのです。
これは、イエス様が育ったガリラヤ地方での出来事であります。そして、同じ六章の六十四節でイエス様は、次のようにおっしゃっております。
ヨハネ
6:64 「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――
ここで初めて、裏切り者の記述が出てまいります。
ヨハネ
6:70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」
6:71 イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。
一方、疑いをかけられているユダについて考えてみますと、イエス様に十二弟子の一人として選ばれ、イエス様のかたわらで権威を授かり、宣教のわざを任された人物でありますから、少なくともそれまではイエス様を愛し、信頼していたからこそ、何もかも捨てて、三年間も従ってきたのだと思います。それに、ユダは十二弟子の中では、イエス様と共にユダ族であり、ダビデの部族に属しているただ一人の弟子でありましたから、ある意味で、イエス様にもっとも近い弟子であったと考えられます。
これから先は、ひとつの推測になりますが、ユダもまた、群衆と同様に、イエス様が力強く教えを語り、御業を行っている姿を見て、イエス様こそ、自分たちをローマ帝国の圧政から解放してくれる救い主である、または、貧しい人たちを救うための救世主であると考えていたかもしれません。あるいは、少しうがった見方をすれば、イエス様に従って行けば、将来、自分自身に何か大きな利益があるのではないかという打算が働いていたのかもしれません。
どちらにしても、この時をきっかけに、ユダは、イエス様のお姿が自分の思い描いていた方とは大きく異なることに気づいたのであります。そして、自分の夢が崩れ去ろうとしていることを知ったユダは、やがて、夢を壊したイエス様に対して信頼を失い、失望するようになったのではないでしょうか。それが、イエス様をして、ユダを悪魔と言わしめた、ユダの心の中に起こった最初の裏切りの芽とでも申しますか、兆候ではないかと思うのであります。
それでは、ユダの裏切りの芽は、その後、どうなったでしょうか。イエス様が、やがて、旅の最終目的地であるエルサレムの都に近づかれ、あらかじめ用意してあったロバの子に乗られて、入場された時のことであります。
マルコ
11:8 すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。
11:9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
11:10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」
ここで、『ホサナ』とは、『今、救ってください』という意味だそうですが、エルサレムの群衆は、イエス様を神から遣わされた救い主なる王として迎え、『ホサナ、祝福あれ』と叫び続けたのです。長いあいだ、救い主を待ち望んでいた人々は、彼らをローマの支配から解放してくれる勝利の主として、イエス様の一行を出迎えたのであります。しかし、この群集にとってのイエス様の勝利の入場は、革命の旗を掲げて、エルサレムに突入するためではなく、実は、すべての人々を救うための十字架へ向かう最後の歩みであったのであります。
ここにいたってユダは、改めて、以前、ガラリヤで起こった出来事を思い出し、彼の夢が終わったのを見たのであります。ユダの裏切りの芽は、イエス様をあるがままに信じて、受け入れるのではなく、自分の願いが叶えられなかったことによる絶望によって、頂点に達したと考えられます。
そして、ユダの裏切りが決定的になり、行動に移される瞬間がまいります。ヨハネの福音書、十二章を見ていただきたいと思います。これは、イエス様の一行が、エルサレムからベタニアに、一時、退かれたとき、すなわち、復活したラザロがいるマリアの家での出来事であります。
ヨハネ
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」
この油注ぎの出来事で、会計を預かるほどに信頼のあったユダは、非常に高価な三百デナリの香油が、御自身のために用いられることを良しとするイエス様に、貧しい人たちを救うための救世主であるとする、最後の望みも絶たれたのであります。
しかし、それ以上に、大勢の面前で、かつては自分が愛したイエス様から厳しくとがめられ、拒絶されたことに、屈辱と絶望を味わったのではないかと思われます。そうした状況の中で、ユダは愛情の裏返しとしての憎悪から、一時的な激情に駆られ、イエス様を敵の手中に引き渡す行動に出たのではないかと考えられます。
そして、この直後、マタイ二十六章十四節から十六節には、ユダが祭司長たちのところへ行き、銀貨三十枚と引き換えに、イエス様を引き渡す約束を取り付けたことが記されております。しかし、そうしたユダの裏切り行為の一方で、イエス様は、やがて弟子たちがご自身を裏切るであろうことを全てお見通しの上で、なおも、弟子たちを始め、ユダに対して、イエス様の愛とあわれみを注がれるのであります。
ヨハネの福音書、十三章には最後の晩餐の席で、イエス様が弟子たちに告別の説教をされております。
ヨハネ
13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた。
イエス様は、ご自分の弟子たちをサタンが支配するこの地上に残して、天に帰ろうとしておられましたが、残される弟子たちにとっての頼りは、他ならぬイエス様の御力と愛でありました。そこで、イエス様は弟子たちに、ご自身がどれほど彼らを愛しておられるかを深く心に書き記そうとされたのであります。ここでは省略いたしますが、その記事が、この後の三節から二十節に記されております。
さて、本日の引用聖句に戻っていただきたいと思います。十三章の二十五節、ここである弟子の『主よ、裏切るのは誰ですか』という問いに対して、二十六節で、イエス様は、『それは私がパン切れを浸して与えるものです』とおっしゃって、ユダにお与えになったとあります。
パン切れを手で渡すという行為は、当時、お客を招いた主人のお客に対するもてなしを意味していたそうであります。また、イエス様は、ユダをご自分の左側、つまり、もっとも名誉ある席に座らせ、無言の中で深い御愛と慈しみを示されたのであります。そして、イエス様はご自身を裏切ろうとしているユダに対して、なおも十字架による罪の贖いを象徴する聖餐をお与えになり、ご自身の限りない愛をお示しになったのであります。そして、次の二十七節で、イエスは、『あなたがしようとしていることを今すぐしなさい』とおっしゃいました。
イエス様がおっしゃったこの言葉の深い意味は、私たちには理解できませんが、少なくとも、ユダに裏切りを促したり、ユダを突き放したりするものではないと思います。イエス様は、ユダの自由意思は尊重するものの、最後の最後まで神の愛に止まるように、ユダに悔い改めの機会を与えた言葉ではないかと思います。
しかし、残念なことに、ユダはイエス様を裏切ることになってしまったのであります。そして、マタイの二十七章、三節から十節にありますように、イエス様が罪に定められたことを知ったユダは後悔し、祭司長たちのところに戻り、『私は罪のない人の血を売った』と言って、銀貨を神殿に投げ込み、外に出て行って命を絶ったのであります。
それでは、次に、ユダには救いがあったのか、それとも、救いはなかったのかという問題について、先人たちの見解等から、いくつか触れてみたいと思います。
まず、スイスの有名な神学者、カール・バルトは、『教会教義学』の中で、次のように語っております。『ユダがイエスを売り、それに対する神の裁きと赦しを拒否して、自らの運命を自分でさばく、自殺という手段をとったことから、彼の救いを確信することはできないが、それでも、彼のように捨てられたものこそ、救いを必要とするのであり、その救いは最終的には、与えられるのではないかと考え、ユダの救いの希望を捨てていない。』カール・バルトは、このように、ユダの救いの希望を捨てていないと語っております。そして、さらに彼は、『私たちが、ユダの問題を考えるとき、義人が罪人を考えるようにではなく、私たち自らが徹底的に救いを必要とする、まさに捨てられたものに等しい存在であるという認識に立って考える必要があるのではないか』と、語っております。ここは、非常に大事なことではないかと思います。
次に、先ほどの引用聖句、二十七節の『あなたがしようとしてることを今すぐしなさい』という御言葉に関連して、私たちの注意を引く見解があります。それは、前回のメッセージでも触れましたが、遠藤周作の『沈黙』という小説の中にあります。少し、お話をさせていただきたいと思います。この小説は、なぜ神は沈黙を守っているのかという主なテーマの他に、ユダの裏切りと救いという問題が描かれております。その中で、主役の神父、ロドリゴは、以前からイエス様がユダにおっしゃった、『去れ、行きてなんぢが爲すことを爲せ』という言葉が、心に引っかかっておりました。
ところが、ロドリゴが信者であるキチジロウに裏切られ、目の前で拷問を受けている信者を救うために、自らが信仰を放棄する、いわゆる棄教を迫られ、踏み絵を踏まざるを得ない状況になったとき、この言葉が脳裏を横切るのであります。そして、ロドリゴが踏み絵に足をかけようとしたそのとき、踏み絵の中のイエス様の眼差しが、『踏むがいい』と、彼に語るのを感じるのであります。お読みになった方もいらっしゃるかとかと思いますが、その箇所を、『沈黙』から一部を引用したいと思います。ここには、イエス様とロドリゴの対話が示されております。
『(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔のを踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから)「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。」「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」「私はそう言わなかった。今、お前に踏み絵を踏むがいいと言っているように、ユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから。」』
ここにありますように、神は沈黙を守りながら、ロドリゴと一緒に苦しんでいてくださったのだと、彼は気付くのであります。カトリックの信者である遠藤周作の視点からすれば、ユダの心が痛んだということで、そこにイエス様の赦しが暗示されているのではないかと、訴えているのであります。
さて、聖書に戻っていただきたいと思います。ユダの一件は、使徒の働き、一章二十五節で、そのすべては終わっております。
使徒の働き
1:25 ・・・・ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。
この言葉で、幕は閉じております。イエス様が昇天されて後、聖霊をいただく準備の中で、ユダに代わり一人の弟子を補充するために、ペテロを中心に大勢の兄弟たちが祈っていたときの言葉であります。ここに、『ユダは自分のところへ行くために脱落していきましたから』とありますが、この『自分のところ』とは、どこを意味しているのでしょうか。
イエス様を裏切ったという意味では同罪とも考えられるペテロは、ペテロ第一の手紙で次のように述べております。
第一ペテロ
3:19 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。
ここで、『捕われの霊たちのところ』とは、何を意味しているのでしょうか。それは、黄泉の世界、すなわち、ハデスのことであり、仏教でいうところの『地獄』であります。すなわち、イエス様は十字架によって死なれたのち、霊によって復活され、黄泉にまで降り、イエス様の福音を知らなかった人、あるいは、知ってはいても従わなかった人など、全ての人を救うために、福音を述べられたとあります。
この後、どのように救われたかについては記されておりませんが、これは、イエス様の私たち人間に対する、深い御愛と救いのみわざの偉大さを知ることができる御言葉ではないかと思います。そして、このイエス様を裏切ったという意味では、同罪とも言えるペテロの言葉には、ユダに対する救済の意味も込められているのではないかと思うのであります。
更に、どこがユダの行くべき場所であったかということにつきまして、もうひとつ、注意を引く見解があります。古代キリスト教、最大の神学者と言われておりますオリゲネスによりますと、彼の著書である『マタイ福音書の註解』の中で、『ユダが自分のしたことを悟った時、彼は急いで自殺した。それは、死の世界、ハデスでイエス様に出会うためであり、そこで赤裸々な心で、主の赦しを哀願するためであった』と述べております。このオリゲネスの言葉も、ユダに対する救済の言葉に他なりません。
そして、本日の最後に、神の愛と赦しについて、ひとつの見解を見て終わりたいと思います。
お読みになった方もおられると思いますが、ドストエフスキーの大作である『カラマーゾフの兄弟』の中に登場するゾシマという長老が、罪に苦しむ若い農夫を諭したときの言葉であります。
『何も恐れることはない。決して、怖がることはないのだよ。滅入ったりせんでよい。その後悔がお前さんの心の中で薄れさえしなければ、神様は全てを赦してくださるのだから。心底から後悔しているものを、神様がお赦しにならないほど大きな罪はこの地上にないし、あるはずもないのだ。それに、限りない神の愛をすっかり使いはたたしてしまうくらい大きな罪など、人間が犯せるはずもないのだ。それとも、神の愛を凌駕するほどの罪が存在しうるとでも言うのかな。』
そして、それに次のように続けております。
『神様は、お前さんには考えもつかぬくらい深く、お前さんを愛していてくださる。たとえ、罪を抱き、罪に汚れているお前さんであっても、神様は愛してくださるのだよ。それを信じることだね。』
ただいまのゾシマ長老の言葉には、私たちには想像もできないほどのイエス様の深い愛とあわれみが、言い表されているのではないかと思います。
ありがとうございました。
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