リバイバルの必要性–主よ、私を新たに生かしてください!
主は生きておられる17号
ゴットホルド・ベック
主を信じる人々の集いは、いつも「喜びの集い」です。なぜなら、いつでも悔い改めることができるからです。
「悔い改めることはもっともすばらしい仕事だ」と宗教改革者マルティン・ルターは言っています。悔い改めに導かれた人々は、みなに喜びをもたらし、逆に、悔い改めようとしない人々はみなにとって悩みの種となります。
パウロは当時の教会に宛てた手紙の中で、ある信者たちに対しては「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝しています」(1テサロニケ1:2)と書いていますが、別の信者たちに関して「私は困っている、悩んでいる」と書かなければなりませんでした。ここに、「二種類の信者」がいることが分かります。
例えば、ある信者たちは「主の再臨はまだまだ先のことだ、今、本気で待つことはない」と思っており、それとは別の信者たちは、「主は今日来られるかもしれない」と喜びと期待をもって暮らしています。
また、ある信者たちは、自分のために生活し、自己実現を望んでいますが、別の信者たちは、主イエス様のために生活し「主イエス様に喜ばれたい」と心から望んでいます。
また、ある信者たちは、自分こそが中心になって何かの役割を演じたいと思っており、そうならない場合には不平不満を心に抱えます。しかし、別の信者たちは「主イエス様だけが盛んになればいい、自分自身は決して大切ではない」と思っており、主イエス様だけにすべての栄光を帰して生きたいと望んでいます。また、ある信者たちは、周囲の人々に信仰的なつまずきを与え、分裂を招いていますが、別の信者たちは、いのちがけで集会全体の一致が現れることを望んでいます。
つまり、一方は「暗闇の中」で生活している信者たちであり、もう一方は「主の光の中」を歩いている信者たちです。後者は、マルコの福音書5章にでてくる「十二年の間長血をわずらった女性」のように、主イエス様の前に出て、心から主にひれ伏し、自分の内側をあますところなく正直に打ち明ける人々です。
聖書には、旧約時代、ダビデが主に向かって心から祈り求めた叫びが記されています。
主よ。私を調べ、私を試みてくだきい。私の思いと私の心をためしてくだきい。(詩篇26:2)
私たちもまたダビデのように、主に向かい、主の光で自分の内側を照らし、試してくださいと心から願い祈る必要があります。主の光に照らされると、自分自身が何という小さな存在であるかに気づかされます。主の光の中では、恥ずかしさに顔を上げられなくなり、どうすることもできず、ただ主の前にひれ伏さざるを得ません。サウロもまた、主の光に照らされてはじめて、自分の行動がまったく的はずれで、悪魔的な行いであったことを知りました。(使徒9:3参照)
「わたしのもとに来なさい」と主イエス様はいつも呼びかけておられます。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)とおっしゃっています。しかし、生まれつきの人間は決して光の下に行こうとしません。光の下に出たくないのは、自分の罪を隠しておきたいからであり、正直になることを恐れているからです。光を避けて主に従わず、闇の中を歩み続けることは、不幸への途そのものをたどることになります。
ここで、ご一緒に考えたいテーマは「リバイバルの必要性」です。「リバイバル」は英語ですが、日本語では「霊的覚醒」、または「信仰の復興」、「信仰の復活」を意味します。霊的に「眠ってしまった信者」には、「リバイバル」、「信仰の復興」が必要です。主との生き生きとした交わりによって、霊的に新しくされ、新しいいのちで生かされることがどうしても必要です。
かつて私が神学校にいたとき、リバイバルが起こるようにとひたすら求める祈りのグループがありました。このグループは祈りを始める前に、いつも一つの歌を歌っていました。その歌詞の内容は、「主よ、力を送りたまえ。海の大波のように、リバイバルを送りたまえ。そして、わが内を目覚めさせたまえ。」というものでした。リバイバルは、まず、個人的に私たちの内側に起こらなければなりません。果たして私たちひとりひとりに、その備えはあるでしょうか。
これまでにどのような場合にリバイバルが起きたかを見ると、そこには隠れた「祈りの闘士」がいたことが分かります。主に向かって「主イエス様、どうかリバイバルを起こしてください。そうでなければ、私に死をもたらしてください。」と祈る祈りの人が必ずいました。イエス様は、今、この私たちの間にも「祈りの闘士」を求めておられます。「破れ口」に立ちはだかって、人々をとりなす祈りの人を求めておられます。
主はかつて、預言者エゼキエルにこう語られました。「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」(エゼキエル22:30)と。
今、果たして私たちは、主の御心にかなう、破れ口に立つ者となっているでしょうか。それとも、主が「捜し求めたが見つからなかった」と嘆き、主を憤らせてしまった者の一人と同じなのでしょうか。
私たちはリバイバルがどうしても必要であるということを深く感じているでしょうか。私たちの内側に、何か重大な問題があることを感じとっているでしょうか。
残念なことですが、リバイバルに対する多くの信者の態度は真剣なものではありません。たとえリバイバルのために祈り求めていても、「主の時が来なければ何も起こらないのだから、その時が来るまで待つしかない」と考え、真剣な態度で主に望もうとはしていません。信ずる者のこのように冷めきった、みじめな信仰を見て、主イエス様は喜ばれるでしょうか。
しかし、もし私たちが、リバイバルのために主の備えられた条件を満たすならば、その瞬間にリバイバルは起こり、広がっていくのです。リバイバルとは、「新しく目覚めさせられたいのち」のことです。ここで大切なのは、「新しく目覚めさせられるべきいのち」をもっているのは、真の信者だけだということです。つまり、未信者の人々にリバイバルが起こるということはありえません。未信者の人々は、まず、新しいいのちに生まれなければなりません。ですから、いわゆる「眠ってしまった信者」にこそリバイバルが必要なのです。今の時代、「眠った信者」は実に大勢います。いまや、眠りから覚めなければならない時期が来ています。目覚めるためには、まず、自らが眠りこけ、霊的に死んでいる状態であることを認め、主に告白する必要があります。主イエス様が共におられ、このリバイバルの必要性を私たち一人一人に悟らせてくださるなら、何と幸いなことでしょう。
では、どうすれば待望のリバイバルは起きるのでしょうか。それは、まず「私たちが主に試されること」によって、そして「私たちが主を試すこと」によって起こります。この両方が必要です。「私たちが主に試される」とはどういうことか、次に見てみましよう。
主に試されるとは
もし、主イエス様が私たちを試されるなら、それは良いしるしと言えます。私たちが自分で自らの内側をどんなに試しても、たずねても、何の役にも立ちません。大切なのは、主イエス様によって、私たちの内側が試されることです。それには、前に見たダビデのような心の態度をもたなければな力ません。
神よ。私を探リ、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってくだきい。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてくだきい。(詩篇139:23,24)
主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてくだざい。あなたの裏理のうちに私を導き、私を教えてくだきい。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。(詩篇25:4,5)
朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから.私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。…あ巷たのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくだざるように。(詩篇143:8,10)
また、ホセアも告げています。
あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。(ホセア10:12)
この箇所は口語訳では「主は来て、救いの雨のようにあなたがたに降り注がれる」となっています。主の霊が、雨が降るようにそそがれ、私たちが主の霊によって新しくされると言うのです。そのとき大事なのは、主の霊が注がれる前に、「耕地を開拓せよ」と言われている点です。主の霊が私たちの心を目覚めさせる前に、私たちの心がまず耕されなければなりません。では、私たちの心はどうしたら新しく耕された土地となることができるのでしょうか。私たちが切に願って、自分の内側を主の光によって照らし、試していただくとき、私たちの心は耕されてきます。祈りに応えて、主イエス様は私たちの罪を明るみに出してくださるのです。このとき、漠然とした罪の悔い改めは、あまり価値がありません。私たちは確かに罪を犯したのですから、ひとつひとつ教えられてそれらを悔い改めなければなりません。
「眠った信者」の罪は、主に試されることによって明るみに出されます。その罪は大きく分けて二種類あります。一つは「怠慢の罪」、一つは「欲望」と呼ばれる罪です。では、怠慢の罪とはいったい何なのでしょうか。答えはヤコブの手紙4章17節の次のことばにあります。「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」これから、その内容を一つ一つ見てみましょう。
1.感謝をしないこと
感謝をしないことは一つの罪です。主イエス様は、私たちがまだ罪人だったとき、私たちの罪のためにいのちを捨ててくださいました。私たちは、この主に対し、心の底から感謝を捧げているでしょうか。形式的な、唱えるだけの感謝は罪であり、感謝をしない生活は天の窓を閉じてしまいます。
感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。(詩篇50:23)
このことばを逆に考えるなら「感謝のいけにえをささげない者は、わたしを侮っている。自分の行いを慎まない者には、神の救いが示されない」という意味になり、主イエス様に感謝のいけにえをささげない者には、リバイバルが起こらないことを教えています。
主は、私たちが唇をもって、心から、感謝のいけにえをささげることを待っておられます。私たちが主に感謝をささげられる理由は何でしょうか。主の恵みによって救いにあずかることができ、家族の救いも約束されていることです。そして、告白した罪を永久に赦してくださり、また主が心に思い出されることもないと約束してくださったことです。
私たちは主イエス様に感謝していない罪を言い表し、心から主の前に悔い改め、新たな感謝をささげたいものです。
2.主への愛の欠乏
これもまた、罪です。主イエス様は私たちが心を尽くし、精神を尽くし、ご自分を愛することを願って待ち望んでおられます。純粋な心で主を愛することを待っておられます。
聖書の中に、「主であるわたしは、ねたむ神」(出エジプト20:5)と書かれています。妻が夫を、夫が妻を半分だけしか愛さなかったり、他の人を愛したりすればねたむでしょう。もし、私たちが、心を尽くして主を愛さなければ、主は悲しまれます。
私たちは主イエス様の血潮によって贖われた者であり、私たちのすべては主のものです。私たちの愛もひたすら主に注がれなければなりません。それなのに、私たちの生活を振り返ったとき、主よりも仕事や家族、また自分を満足させることに熱心で、主よりもこれらに忠実に歩んでいるのはどうしたことでしょうか。
あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(黙示2:4)
主イエス様に対する愛の欠乏は、何と大きな罪でしょうか。主イエス様に対して愛の足りない者であることを主に言い表しましょう。そうしなければ、霊的に前進することはできません。自分自身がどれほど主に愛されているか、毎日覚えるべきです。ダビデは心から主に言っています。
主、わがカ。私は、あなたを慕います。主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。(詩篇18:1,2)
3.みことばを食べないこと
聖書を読まないことも、また罪といわなければなりません。私たちは時々、また何週間も、喜びを持たずに聖書を読んでいるということはないでしょうか。もし私たちが飢え渇きをもって聖書に接しなければ、またみことばを深く味わわなければ、霊的に一歩も前進しないからといって不思議ではありません。この罪を言い表すならば、主は私たちにみことばに対する飢え渇きを与えてくださり、新しいみ声で、かならず私たちに語りかけてくださいます。主は言っておられます。
このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守リ行なうことを学ぶためである。(申命17:18,19)
この律法の書を、あなたの口から離きず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守リ行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。(ヨシュア1:8)
詩篇の作者もみことばを賛美しています。
あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまきるものです。
…どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。……あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。(詩篇119:72,97,140)
エレミヤもみことばを食べました。
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなリ、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。(エレミヤ15:16)
私たちの信仰生活は、どれだけみことばを食べているか、そのはかりに従い、その程度に比例して成長していきます。
4.不信仰
「信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14:23)と聖書は言っています。信仰は主イエス様との結びつきです。主との結びつきがなければ、私たちは罪の中に生きることになります。主だけを大切にしないことは、悪魔を喜ばせることと同じです。この地上のこと、目に見えるものを重大に考えるのは、主イエス様を「余計な者」とすることを意味しています。「信ずる」こととは「主にとどまる」ことです。
わたしはぶどうの木であなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)
聖書の中には多くの約束のことばがありますが、これらを信じないことは罪です。例えば、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われますし(使徒16:31)というみことばがありますが、これを本当に信じているでしょうか。
私たちは、この約束を少しの疑いもなくしっかりと信じて、日々、感謝して歩むことが許されているのです。しかし、主に不信を抱いているならば、主のみわざを体験することはできません。聖書が教えています。
イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのようなカあるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではあリませんか。こしうして彼らはイエスにつまずいた。
イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」それで、そこでは何一つカあるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。(マルコ6:1-6)
不信仰が支配するところでは、主イエス様はお働きになれないのです。
5.祈リを怠ること
祈りを怠ることも罪です。「まことの祈り」とはどういうものでしょうか。「まことの祈り」は聖霊が私たちを通して祈る祈りです。
私たちは誰に祈るのでしょうか。遠く離れた神に祈るのでしょうか。もし、遠くの神に祈るのなら、バアルの預言者がしたように大声で叫ばなければならないでしょう。(1列王18:28)私たちは、全宇宙を支配しておられ、しかも私たちのうちに住んでおられる主に祈るのです。この主に向かってどのように祈ったらよいのでしょうか。イスラエルの人々は、みことばを読み、祈るときにも主の名を口にしませんでした。主なる神を畏れていたからです。私たちも祈るとき、イスラエルの人々と同じように畏れをもって主の御前に出なければなりません。主への畏れをもち、思いをこめ、主の答えを信じて祈ることです。
信仰のない人のことを、「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ3:18)とパウロは書いています。このみことばは、実は多くの信者にも当てはまるのではないでしょうか。主は言っておられます。
わたしが目を留める者は、ヘリくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ66:2)
主はみことばを畏れる人を求めておられます。私たちは主のみことばにおののく者でしょうか。主を畏れることを知っている者でしょうか。このことについても、自分の内側を主の光に照らしていただきましょう。
6.集会に集まらないこと
集会はもちろん宗教的なクラブではありません。天に引き上げられた主イエス様が「頭」であり、この主の御名によって集まる兄弟姉妹の群れは「頭であるキリストのからだ」です。集会は「神の家」であり、「真理の柱」、また「土台」であると聖書は言っています。(1テモテ3:15)この「神の家」を思わないことは罪です。
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)
まず第一に、神の義を求めず、神の国を求めることをしないでいろいろな雑事や仕事のために集会に出ない信者がどこにでもいます。もちろん、やむをえない場合もあります。しかし、この点についてもダビデのように「主よ、私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。」と主に祈りましょう。聖書も教えています。
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(ヘブル10:25)
7.家族、親戚、友人たちへの愛の不足
私たちが関わっている仕事を、家族の救いより大切に思っている人はいないでしょうか。目に見えることで、この仕事は自分に義務として与えられたものである、と考えることはあっても、主が私たちに与えられた義務については、あまり考えていないと言うことがありはしないでしょうか。
私たちの家族はまだ御救いにあずかっておらず、「永遠の滅び」に向かって歩んでいるのに、私たちが無関心でいることができるのでしょうか。家族、親戚、友人のために真剣に祈ることをせず、無関心のまま虚しくすごした日々を思い出さないでしょうか。このことについても、私たちの罪は山のように積まれているのではないでしょうか。
8.滅びに向かう人々の魂への愛の不足
私たちは自分の周りにいる、多くの人々の滅び行く魂を心から愛しているでしょうか。これらの人々のために、私たちはあらゆる犠牲を払っているでしょうか。私たちが犠牲を払っているかいないかによって、私たちが滅び行く魂を愛しているかいないかが分かります。主がこの罪を赦してくださり、私たちの心に救霊に対する情熱を与えて下さったら、幸いです。
9.主にある兄弟姉妹のために目をさましていないこと
主にある兄弟姉妹方のことに心を傾けないことも罪です。
こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。(ヘブル4:1)
私たちは主にある兄弟姉妹方のために心を用いているでしょうか。兄弟姉妹が霊的に前進するように、ひとりひとりと交わりをもち、心を砕いているでしょうか。これは主に与えられた私たちの「務め」です。私たちの愛する兄弟姉妹、病の床にある方々、弱っている方々、また、救いを求めている方々の名前を書きとめて、日々共に祈り合うことを忘れてはいけません。
10.自分を捨てず、主に従わないこと
自分を捨てて主イエス・キリストに従おうとしないことは罪です。犠牲を払うことなしに、霊的な成長はありません。自分自身に死ぬことがなければ、永遠に残る実を結ぶことはできまぜん。主の御名のために私たちは忍耐し、辱しめを受け、そしりを受ける備えがあるでしょうか。
こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)
主ご自身がこれらの「怠慢の罪」をご自分の光によって、私たちひとりひとりに教えてくださるなら、幸いです。これらを正直に認め、私たちが悔い改めるとき、豊かなリバイバイルが起こるのです。
(2010年4月1日)
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