2019年6月30日日曜日

イエスは岸べに立たれた

イエスは岸べに立たれた
2019年6月30日、市川福音集会
黒田 禮吉

ヨハネ
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

今、読んでいただいた聖書の箇所ですね。『夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。』私が敬愛するある兄弟が、かつてこの聖句を礼拝の時にしばしば、読んでお祈りしてくださいました。そのときは、あまりよくわからなかったのですけど、この御言葉の意味するところが、次第に心に刻み付けられるようになりました。今日は、この御言葉の背景を、ご一緒に学んでみたいと思います。


ヨハネの福音書、二十一章というのは、実は私の好きな聖書の箇所であります。イエス様と弟子たち、とくに、ペテロとのすばらしい交わりの場面が描かれているからであります。

ヨハネ
21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

テベリヤ湖というのは、ガリラヤ湖の別名であります。ペテロはここで、漁に行ってしまいます。イエス様から、『ガリラヤに行きなさい』と言われていたので、行ったんですけども、復活されたイエス様は、現れてくださらなかったのであります。ペトロは待ちきれなくなり、自分が古くから行なっていた漁をし始めてしまいました。他の弟子たちもついていって、漁に出かけました。彼らは、そのとき、おそらく時間つぶしに漁に行くと言ったのではないと思います。主の召しを受ける前の漁師の仕事に戻ることを、意味していたのではないでしょうか。

ペテロはm主は生きておられることを意識することができなくなりなりました。だから、昔から行なっていた職業、古い生活に引き戻されてしまったのであります。主への愛よりも、古い慣れ親しんだものへの愛着が優先してしまいました。霊的にも弱められてしまっていたのです。

私たちもいつも、このような性質を持っています。それは、復活された生けるイエス・キリストが私たちの生活に本当に関わってくださっているのか、わからなくなり、古くから馴染んできたものを行ってしまうということであります。けれども、その時に、私たちは主への愛が、他の物への愛着よりも、さらに大きいものであるかどうか、本当の信仰が試されているのです。

『しかし、その夜は何も取れなかった』と書かれています。ペテロが、自分の願いによって、自分の意欲によって、行ったこと、すなわち、肉で行ったことは、徒労に終わりました。自分の願いや意欲で行うことは、皆、このように実を結びません。

続けて、司会の兄弟に読んだいただいたところを、もう一度、読ませていただきます。

ヨハネ
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

『夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。』本当に素晴らしい希望に満ちた御言葉と思います。そして、大漁でした。多くの人が、ここでルカの福音書の記事を思い出すのではないでしょうか。この出来事とそっくりなことが、前に起こされております。

ルカ
5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

『おことばどおり、網をおろしてみましょう。』わからなくても、理解できなくても、イエス様に対するこの信頼からすべてが始まりました。彼ら弟子たちは、イエス様に導かれ、人間をとる漁師へと変えられました。そして、復活されたイエス様は、宣教を開始されたガリラヤ湖畔で、また、弟子たちに現れてくださいました。十字架によって、何もかもが、めちゃくちゃにされてしまったかのようでしたが、今また、その希望がよみがえったのです。

しかし、弟子たちはイエス様の姿を見ただけでは、この方が主であることを、イエス様であるとは分かりませんでした。この方がイエス様であることを決定づけたのは、『網をおろしなさい』という指示と、それに伴う大漁です。弟子たちは過去に、イエス様がほとんど同じことを行われたのを知っていました。ですから、彼らはイエス様をその目で見えるかたちで認識したのではなく、イエス様の御言葉と行動によって、認識できたのではないでしょうか。

私たちも、この復活を主に今でも、お会いすることができます。私たちの生活の中に、主イエス様の御業を覚える時があるのではないでしょうか。自分自身ではなかなか、そのことが感じられなくとも、例えば、身近な兄妹姉妹が言葉を聞くことによって、慰めと平安と喜びが与えられている・・・・そのような証しを見聞きするとき、ここには主がおられるのだ、主イエス様が確かに働かれているのだと、認識することができるのではないでしょうか。

ヨハネ
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

ひとつのパンを分けて、また、魚も同じように分けられました。兄妹姉妹がお互いに、ひとつのものを分けて、食事をする、これが私たち信じる者が持っている特権です。つまり、主との深い交わりをすることができるという特権であります。

新約聖書の最後のヨハネの黙示録、皆さんもよくご存知の言葉であります。

黙示録
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

黙示録において、主がラオデキヤの教会に言われたのと同じことを、イエス様は弟子たちに実践されました。食事をするとは、交わりをするということです。この食事が意味することは、主の食卓です。それは、イエス様が彼らを完全に受け入れておられるという証しの行為です。イエス様は、そのような愛を示された上で、ペテロに対して、『あなたは私を愛しますか』と尋ねられました。

ヨハネ
21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」・・・・

『この人たち以上に』となっていますが、原文では、『これらのもの以上に』となっているようです。この人たち以上にと取ることもできるようですが、また、魚のことを指しているのかもしれません。この魚よりも、あなたが生きる糧にしていた漁よりも、あなたはわたしを愛しますかという質問ではないでしょうか。

そして、ここの『愛しますか』のギリシャ語は、『アガペー』であるといわれています。神の人間に対する愛です。愛は、神は無限の愛において、人間を愛しておられるのであり、神が人間を愛することで、何かの利益をえるわけではありませんから、無償の愛であります。この愛は、与える愛です。惜しみなく与えて、相手から見返りを期待することなく、与える愛です。イエス様は、『わたしがあなたがたを愛したように、このアガペーの愛で愛しますか』と言われました。

このほとんど反対の意味を持っているギリシャ語の『愛』は、『エロス』であり、肉体のレベルの愛であり、相手からどれだけ奪い取ることができるか、そうした愛であります。そして、その他に、『フィリア』、『友人愛』という言葉もあるようです。同じ興味、同じ考え、同じ活動をしている者どうしが持つ愛であります。しかし、それは結局、見返りを期待する、受け取ることを期待する愛と言われています。

ここで、イエス様は、ペテロに、『アガペー』という言葉を用いられました。これから、まったく新しい方法で、私についてくるかと、聞いておられるのです。これまでの人間的な愛し方ではなく、全てを捧げて、主をもっと大切にして、わたしを愛しますかと、聞かれています。『あなたはこれらのものよりも、わたしを愛しますか』と言う問いこそ、イエス様だけを見上げる、偶像を避け、主だけを見上げる道ではないかと思います。

第一ヨハネ
5:18 神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
5:19 私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
5:20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
5:21 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。

ヨハネは、その第一の手紙の最後に、『偶像を警戒しなさい』と書きました。手紙の終わり方としては、唐突な感じがします。しかし、ヨハネは今、真の神のことを語ったので、それ以外のものが、偶像であることを指摘したのではないでしょうか。そして、イエス様のみを崇めるべきで、それ以外を神とすべきではないということでありましょう。

もう一度、ヨハネの福音書、二十一章十五節に帰っていただきたいと思います。後半を見てみたいと思います。

ヨハネ
21:15 ・・・・ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

ペテロは、自分の願いで、自分の意欲で、これまでイエス様に従ったのですが、そのために失敗を繰り返し、実を結ばず、主を三度も否定することさえしてしまいました。ですから、今度は、イエス様が用いられる『アガペー』の愛で、イエス様についていかなければいけません。全く新しい道、自分自身で歩くというよりも、イエス様が導かれる道に踏み出していかなければいけないということではないでしょうか。

イエス様は、彼に言われました、『わたしの小羊を飼いなさい。』ペテロは、今まで漁師でした。しかし、イエス様は今度は、『羊飼いになりなさい』と言われています。漁師という職業から、羊飼いという全く新しい領域に入ることを、意味しているのではないかと思います。ヨハネの福音書の二十一章を続けて読ませていただきます。

ヨハネ
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

ペテロは今まで、自分で願っていることに従って歩いていました。もちろん、イエス様を愛していて、イエス様に従っていたのですが、心の奥底では、自分のやり方で、自分の望んでいるように、イエス様に従っていました。イエス様を主と言いながら、やはりまだ、自分が主役となっていたのではないでしょうか。けれども、イエス様は、『年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます』と言われました。自分の願いや意欲ではなく、すべてをイエスに委ねて、自分の行きたくないところへ導かれるようになります。これは、言い換えれば、自分の心が聖霊に支配されることを意味しているのではないでしょうか。

私たちも、今までのやり方、自分なりの方法で、自分の思う通りにイエス様に従いたいと思ってしまうものです。けれども、実を結ばず、失敗を繰り返し、このペテロのように、自分が行きたくないところに運ばれて、主の業を行うように導かれます。その時に、私たちは聖霊に満たされて、初めて、実を結ぶことができるのです。私たちの意思ではなく、神様の御意思によって動かされるとき、私たちはこのように祝福された領域の中に入ることができるのです。また、本当に主を愛することができるようになるのではないでしょうか。

ヨハネ
21:19 ・・・・こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

ようやくペテロは、ここで再出発することができるようになりました。人をとる漁師になりますと言われて、主を三度否定することで終わってしまいましたが、再び立ち上がって、羊飼いとしてイエス様に従うことができるようになりました。神様は、私たちにもやり直しの機会を与えてくださいます。

ヨハネ
21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。
21:21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

問題は、まだペテロに残っていました。その問題とは、他の人と比べるということです。イエス様は、それぞれ各人に召命を与えられるのであって、他の人と比べることのないように諭しておられます。神様は、それぞれに異なる独特な道を用意してくださっています。皆、ひとつひとつ違うので、他の人と比べる必要はないし、してはいけないのであります。神様が私個人に用意してくださった道が何かを知って、それに専念することによって、主に従っていくことができるのではないでしょうか。

ヨハネ
13:36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
13:37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」

十九世紀のポーランドの作家がいます。シェンキェヴィチ という作家ですが、その人が、『クォ・ヴァディス』という名前の小説を書きました。この小説は、ローマ皇帝、ネロの迫害のときの様子を描いています。大迫害の中、クリスチャンたちが次々と犠牲になります。弟子たちは、ペテロにローマを脱出するように願います。そして、ついにローマを後にして郊外に出たペテロは、向こうの空に輝く光を見ます。それは、やがて、ペテロの横を通り過ぎようとします。弟子たちの目には何も見えないのに、ペテロの目には、その光の中に主イエス様が見えました。ペテロは問います。『主よ、何処に行きたもう。』これが、『クォ・ヴァディス』という意味だそうです。主は答えられます、『ペテロよ、あなたがわたしの羊を捨てて逃れるなら、わたしはローマに行って、もう一度、十字架にかかろう。』ペテロは答えました、『主よ、申し訳ありません。』そして、驚く弟子たちを尻目に、踵を返して、ローマに帰ります。そこで、彼は捕らえられ、十字架刑に処せられます。

これは、小説でありますけども、先ほど読んだヨハネの十三章三十六節の御言葉を私は思い出しました。

その時、十字架刑に処せられとき、ペテロは逆さまにかかり、殉教したと伝承にあります。弱くて無学で一介の漁師に過ぎなかったペテロは、しかし、彼は、幼子のように主に従いました。彼は、常に真実でした。ガリラヤ湖の無名の漁師は、歴史上、もっとも有名な人となり、キリスト教会の柱となったのは、皆さんもご存知のとおりであります。

夜が明けそめたとき、イエスは岸辺に立たれた。ガリラヤに戻ったペテロが、再び肉に従って歩みだそうとした、その時、復活されたイエス様が岸辺に立たれました。そして、ペテロとの親しい交わりのときを備えてくださったのであります。

イエス様は、私たちのためにも、岸べに立ってくださいます。イエス様は信じる私たちのためにも、とりなしをしてくださるからです。そして、私たちの祈りの中で、礼拝の中で、兄妹姉妹との交わりの中で、御霊として、ご臨在くださるのではないでしょうか。聖書の箇所を二箇所、読んで終わりにしたいと思います。

第一ペテロ
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

第二ペテロ
3:14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

私たちも、ペテロのようには、証しすることができたら、幸いであります。

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