イエス様とはどのようなお方でしょうか
主は生きておられる、51号、2019年
ゴットホルド・ベック
さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが、「よけいに赦してもちったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(ルカ7・36~50)
この人は、いったいだれか?
よく言われますが、私たちが何を知っているかは別に大した問題ではなく、誰を知っているかが大切なことです。私たちがもしイエス様を知らなければ、人生のすべては虚しく、つまらないものではないでしょうか。
私は葬儀や結婚式、福音集会でメッセージを語ります。それぞれの集まりの目的は違いますが、話す主な内容はまったく同じです。実は、どの集まりも結局は悩んでいる人の集まりですから、イエス様を紹介するための集いになるのです。
以前、一人の悩んでいる人と会いました。二十五年間、精神科に通い続け、何回も入院したことがありました。ある日、また入院したというので母親に「普通にちゃんと会社に行って勤めているのに、いったいどうしてまた入ってしまったの?」と聞きました。すると母親は「ひどい叫び声をあげたから」と言います。「何て叫んだの?」と聞くと「友だちがほしい!」と。
彼女は「孤独病」になってしまったのです。「孤独病」を癒すのにどんな薬があるのでしょうか。それは、自分が愛されていることを、心から味わい知ることなのではないでしょうか。聖書の中に私たちは「孤独病」を癒してくれる、生きておられるまことの神の約束を見いだすことができます。「わたしはあなたを愛している。』(イザヤ43・4)という約束、これは決して、空しい口先だけの約束ではなく、嘘を知らない宇宙の創造主の約束です。「わたしはあなたたちを」と複数形ではなく、「わたしはあなたを」と単数形で、私たち一人ひとりに語っておられます。わたしたち一人ひとりが主の愛の対象です。生きておられる唯一の神は、人間一人ひとりに対して関心を抱き、人間を決して忘れようとしません。これを確信する人は、悩みながらも喜ぶことができ、本当に幸せです。イエス様は私をこんなにも愛してくださって、私のために十字架で死なれた。これこそが、愛されている証拠そのものです。もう一度イザヤ書43章4節のみことばをお読みします。
わたしはあなたを愛している。(イザヤ43・4)
そして聖書の中心的なことばで最もよく知られているのは、おそらくヨハネの福音書の3章16節でしょう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに」、「世を」つまり、あなたを、私を『愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』という約束です。
御子イエス様とは、いったいどういうお方なのでしょうか。
決して、道を指し示めす何か、道しるべのような方ではありません。「道そのもの」です。「救い主」であるばかリではなく、「救いそのもの」です。そして、聖書の中の良いニュース、喜びの訪れとはこのことです。
確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(2コリント6・2)
今は、救われたいと思う人が救われる時代だということです。イエス様を知ることこそが大切です。「イエス様についての知識を得る」ことではなく、「イエス様ご自身を知る」ことが必要です。
冒頭のみことば49節を見ると、その場にイエス様と一緒にいた人々が、「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう」と心の中で自問したとあります。「この人はいったいだれだろう」とは失礼な言い方ではないでしょうか。同じ表現がマルコの福音書6章を見てもでてきます。イエス様の郷里ナザレの人々も、当時、何回も「この人」、「この人」、「この人」と言っています。彼らは近くに住んでいたので、イエス様のことをうわべだけはよく知っていました。そこを読んでみましょう。
イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」
こうして彼らはイエスにつまずいた。イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。(マルコ6・1~6)
6節に「イエスは彼らの不信仰に驚かれた」とあります。イエス様はきっと、その場所に集まった病人たちを皆、癒そうと思われたでしょう。けれども、「そこでは何一つカあるわざを行なうことが」おできにならなかったのです。「少数の病人に手を置いていやされただけ」でした。どうしてかと言えば、それは彼らの不信仰のせいです。彼らが、「この人はいったいだれだろうか」という態度をとったからです。
冒頭のルカの福音書7章に出てくる、シモンという聖書学者、聖書研究家は、疑いもなく人間的にみれば立派な生活を送っていた男だったでしょう。多くの人々に尊敬され、敬われていたに違いありません。その彼が、どうしてかわかりませんが、イエス様を招待したのです。イエス様は「いいよ」と招待をお受けになってくださいました。この聖書学者は勿論、聖書の内容をよく知っていましたが、宗教によって真理が見えなくされており、イエス様がどういうお方か知りませんでした。
イエス様は、罪人としてわたしたちのところに来ない者は永遠の滅びに至ると強調されました。わたしは道そのものです。誰でもわたしを通してでなければ神のみもとに来ることはない、とはっきり言われました。ところが、シモンという聖書学者の考えは違っていました。自分たちこそが救いを持っていると思い込み、そう確信していたのです。彼は神のみことばに精通しており、モーセの律法を堅く守り、祈り、道徳的に高尚な生活を送っていたに違いありません。
彼はどうしてイエス様を招待したのでしょうか。それは分かりませんが、確かなことは、あの罪深い女性がシモンの許可を得ることなしに入ってきてしまったことです。彼女にとってそれは簡単なことではなかったはずです。「私はみんなに変な目で見られている。私が家に入ろうとすれば、あの家の主のパリサイ人、聖書学者は絶対にいい顔をしないだろう」。
けれども、彼女は心の奥底に大変な悩みをもっており、もはや耐え難いものになっていました。恥ずかしさを乗り越えてイエス様のみもとにやって来たのです。結局、賢い女性だと言えます。イエス様だったらなんとかしてくださる、と彼女は確信しました。37、38節をもう一度読んでみましょう。
すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。(ルカ7・37~38)
とあります。彼女が高価な香油でイエス様の足をぬらした時、その部屋は良い香りで一杯になったことでしょう。そして、みんなの視線は一斉にイエス様とその女の方に向けられました。聖書学者は目の前で起こされたことを見て、心の中で次のように思ったのです。「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」。この女は自分とはまったく違う、汚れた罪深い女なのだから、イエスが預言者なら分かるだろうと。勿論、イエス様はこの女性について、すべてのことを知っておられました。彼女が犯した罪について、彼女が自分の身の上に招いた債務についてわかっておられました。またイエス様は、彼女の本当の状態、すなわち、良心の呵責、心の空しさ、満たされていない恐ろしいほどの孤独をも、つぶさに知っておられたのです。
一方、イエス様はこの罪深い女についてだけではなく、立派な生活を送っていたシモンのことも全部わかっておられました。イエス様はこのパリサイ人の傲慢さを知っておられ、心の中で何を考えているかもご存じだったのです。ですから、イエス様はひとつのたとえを話され、実践的応用をなさったのです。この適用を通して、シモンはイエス様に承服ぜざるを得ませんでした。その後で、イエス様は罪深い女に向かって、みんなの前でおっしゃいました。
「あなたの罪は赦されています。」
「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
別の言い方をすれば「あなたの信仰とあなたの信頼によってあなたは救われたのです。あなたの罪はもう赦されていますよ。あなたは恵みとまことの平和を手に入れたのです」とイエス様は言われたのです。
それを聞いた人々の反応は49節に「すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。『罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。』」とあります。
「この人は、いったいだれだろう」。これは、非常に大切な質問ではないかと思います。当時、この絶望的な女に罪の赦しを約束なさった方とは、いったいどういう方だったのでしょうか。私たちはこの方について何を話すことができるのでしょうか。イエス様は昨日も今日も、いつまでも変わらないお方です。この箇所から、次の三つのことがはっきり言えると思います。
第一に、イエス様は、人間一人ひとりを徹底的に知り抜いておられるお方。第二に、イエス様は、罪を赦すただひとりのお方であり、罪赦された確信をお与えになる唯一のお方。第三に、イエス様は、信じる者を救い、ご自分の平和を与えてくださるただ一人のお方です。
それでは順に、イエス様がどういうお方かを見てみましょう。
すべてを徹底的に知り抜いておられるお方
イエス様は、人間一人ひとりを徹底的に知り抜いておられます。このことは、変わることのない事実です。信じられないことですが本当なのです。イエス様は文字通り、どんなことでも、すべてを知っておられます。主イエス様の前に隠しおおせるものは一つもないと、聖書に書いてあります。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4・13)
私たちの主は、すべてのことを正確にご存じであられます。一方、私たちは責任を問われ、債務を負っている者ですが、この主と自分自身が関わりをもっているのだということを憶えましょう。私たちは、宗教や道徳、その他これに類したものと関わりをもっているのではなく、生きておられる唯一のまことの神と関わりを持っているのです。このまことの神は、人間によってごまかされることのないお方です。このまことの主なる神は、侮ることのできないお方です。すべてのことを、厳密に取り扱われるお方です。このお方はどんな罪をも見逃すことができません。
ルカの福音書7章にもどると、パリサイ人は女のすることを見て「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思いました。勿論イエス様は、突然家の中に入ってきた女性がどんな女であるか正確に知っておられ、また聖書学者であるシモンについてもすべてを知っておられました。シモンはただ心の中で思っただけで、何一つ声に出して言わなかったにもかかわらず、イエス様は彼の心を見抜いて、すぐにおっしゃったとあります。40節「するとイエスは、彼に向かって、『シモン。あなたに言いたいことがあります。』と言われた。」ここでイエス様がシモンにおっしゃったことばの意味は「シモン、あなたはわたしの心の愛の対象である。ただ、あなたが耳を開き、心を開いてくれれば、わたしはありがたいのだが」というものでした。イエス様は、この聖書学者の心の奥底にある高慢な思いと動機を知っておられ、また罪の女の心にある思いと動機をもご覧になっておられました。
両者の間には、越えがたい対立がありました。一方は、自分を正しいとみなし、誇りに満ちた傲慢なパリサイ人、他方は、罪を意識して、心砕かれた罪の女、しかも誇りの中にこだわっている罪の女でした。いま、この両者を比較してみたいと思います。社会的にはもちろん両者は決して一つになることができません。パリサイ人は、確実に上流階級に属し、高級住宅地に住んで豪勢な生活をしていたことでしょう。他方、罪の女は、薄暗い隠れ場のようなところで生活する蔑まれる女性でした。また、道徳的にも両者は一つになることができませんでした。パリサイ人は、律法を規範とする宗教的な生活を送っていましたが、罪の女は姦淫を犯す売春婦でした。経済的にも、両者は比較することができないほど開きがありました。聖書学者は生活に何の心配もない賛沢な暮らしぶりでしたが、罪の女はあまりにも貧しいので収入を得るために自分のからだ、自分の純潔を犠牲にしてしまわなければなりませんでした。宗教的にみても、両者はかけ離れていました。パリサイ人は自分の宗教のために生きており、罪の女は宗教とは何の関わりももつことができず、また関係を持ちたいとは思わなかったのです。性質においても両者はまったく似たところがありませんでした。パリサイ人は、冷たい、計算高く厳しい男でしたが、罪の女は温かい心の持ち主で、大勢のいるところでも泣くのを恥ずかしがらず、イエス様の御足に口づけすることをためらいませんでした。
このように二人はまったく違っていましたが、一つの点においては完全に同じでした。すなわち、二人とも債務を負った罪人だったのです。
イエス様は聖書学者に向かって「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われました。それから一つのたとえ話を彼にされました。それを通してシモンは主の光の下に置かれたはずです。41節「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、二人のうち、どちらが余計に金貸しを愛するようになるでしょうか」。
疑いもなく、その時イエス様は話しを続けながらシモンの目をご覧になったのではないでしょうか。このたとえ話の中で、イエス様は次のようなことを伝えられたのです。「シモン、あなたも不完全であり、あやまちを犯す者であり、あなたもまた自分の身の上に債務を負っている。確かに女の罪は五百デナリもあり、自分の罪は五十デナリに過ぎないと言うかも知れないが、わたしの目から見ると少しも区別は存在しない」。パウロもローマ人への手紙の中で次のように書いています。
すべての人は、(例外なく)、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・・(口ーマ3・23)
また、ヤコブもその手紙の中で、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となっ走のです」(ヤコブ2・10)と書いています。
主の目から見るならば、シモンは罪の女とまったく同じように罪深かったのです。多くの人にとっては、立派で、宗教的で、道徳的にすぐれた生活をしている人間が、どうして姦淫の女や人殺しと同じように救われなくてはならないのか、ということを理解するのは非常に困難なことです。ですから、いわゆる立派な人々、皆から尊敬されている人々、一度立派に成功した人々というのは、なかなか救われるのが難しいと言えます。
イエス様を信じることとは、今まで自分は間違った方向に向かって生きていた、今までのことは全部的はずれであったと認めざるを得なくなるということではないでしょうか。疑いもなく、その女性は罪深い女でした。イエス様はこのことを勿論知っておられ、そのことを少しも否定していません。彼女の人生は憎むべき経験に満たされており、汚らわしく、恐ろしいほどのものでした。彼女は購われ、救われることが必要でした。イエス様がどんな罪人も救うことがおできになるということは、大いに主に感謝すべきことです。イエス様が赦すことがおできにならないほどのひどい罪はこの世に存在していません。
けれども、またイエス様はシモンのような人々をもお救いくださるということは、いかに感謝すべきことでしょうか。実に、世の中で何一つ負債をもたらすようなこともせず、いわゆる立派な生活を送り、何一つ悪口を言われることのないような人でさえ、主の目から見れば罪人にすぎません。多くの人々の生活はシモンのようなものかも知れません。立派で、模範的で、正直と思われているでしょう。けれども、私たちが必要としているのは、生きておられるまことの神が私たちをご覧になるその見方です。私たちも自分を、神様がご覧になるような目で見ることができるならば、自分が罪深いだけではなく、失われている者であり、救われなくてはならない者だということを知るでしょう。イエス様はシモンについても罪深い女についてもすべてのことをご存じでした。それにも関わらずイエス様は、彼らを愛し、まことの救いを恵もうとされました。世界を造られる以前から、イエス様は私たち一人ひとりの債務と罪をご存じでした。イエス様は私たちがどれほど主なる神の救いを必要としているかをご存じでした。それですから、イエス様は父によって定められた時に、天からこの地上に来てくださり、私たちのためにご自身のいのちを贖いの代価として献げてくださいました。そしてイエス様はよみがえってくださり、聖霊を通して今も働いておられます。私たちを恵んでくださり、私たちの罪の債務を赦すことを心から待っておられます。イエス様は、私たちに主の愛のすべてを感じさせたいと思っておられ、みこころにかなった人間にしようと願っておられるのです。ローマ人への手紙に次のようにあります。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5・8)
罪を赦し、救いの確信を与える唯一のお方
イエス様とは一体どういうお方なのでしょうか。
イエス様とは私たちを徹底的にご存じであって、一人ひとりのことを大切にするお方です。限りない愛をもって人間一人ひとりを愛してくださるお方です。
そして、二番目の答えは、イエス様は罪を赦すことがおできになるただ一人のお方で、罪からの解放者です。また、救いの確信をお与えになることのできる唯一のお方です。
だから、わたしは言うのです。「この女の多くの罪は赦されています・・・・。」(ルカ7・47)
主イエス様は女に「あなたの罪は赦されています」と言われました。この主イエス様のことばに対する応答として、一緒に食卓にいた人たちは、「罪を赦したりするこの方はいったいだれだろう」と言い始めました。しかし、イエス様のおことばを聞いたとき、この罪の女が何を感じたか想像できるでしょう。というのは、まさにこれこそ、彼女が待ち焦がれていたものだったのです。このイエス様のことばに彼女は圧倒されてしまったことでしょう。重荷は彼女の肩から落ちました。それだけではなく、彼女は完全に解放されたのです。
どれほど多くの人々が赦されない罪の重荷をもって、悩んでいるのでしょうか。イエス様の前で謙遜に自分の債務を告白する人は赦されます。これこそ聖書の喜びの訪れです。私たちは、自分のすべての罪が赦されていることを確信しているのでしょうか。私たちは、イエス様に主の贖いのみわざを感謝したことがあるでしょうか。
主ご自身が、私たちは罪の赦しを必要としていることをはっきりと言っておられます。というのは、私たちは自分自身に対して罪を犯し、他の人に対しても、生きておられるまことの神に対しても罪を犯しました。
どんな人間も自分の犯した罪を、自分で赦したり、消し去ったりすることはできません。伝道者の書に次のような箇所があります。
神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。(伝道者3・15)
人間はたとえどんなに努力したとしても、決して自分の力で罪を犯す前の状態に戻すことはできません。けれども福音は、罪を意識した人が主のみもとに来て、イエス様を自分の人生に受け入れるなら、誰でも赦されると約束しています。
「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。・・・・」(イザヤ1・18)
パウロは殉教の死をとげる前に、弟子の一人であるテモテに書き送りました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(1テモテ1・15)
イエス様は罪を赦したいと望んでおられるお方です。イエス様は罪を赦すことがおできになるただ一人のお方です。いったいどうしてでしょうか。
それは第一に、イエス様に対して私たちは罪を犯したので、イエス様こそが赦すことのできるただ一人のお方なのです。イエス様によって私たちは救われ、造られた者であるのに、イエス様のみこころに背いて生きていました。そんな私たちのために、イエス様はご自身の血潮という代価を払って私たちを悪魔の支配から贖い出してくださったのです。けれども私たちは自己追求的で、自己中心的でした。これは創造主および救い主に対する罪です。
第二に、イエス様が私たちの代わりに死んで、私たちが受けるべき罰をご自身の身に受けてくださったから、イエス様こそが私たちを赦すことのできるただ一人のお方なのです。債務を支払った方は、赦しを与えることがお出来になります。それ以外には誰も、私たちの代わりにいのちを捨てる覚悟をもっていなかったのです。イエス様こそが唯一の救い主です。ですから、初代教会の兄弟姉妹は次のように宣べ伝えました。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4・12)
イエス様こそが、救うことができる唯一のお方です。どうしてイエス様は罪を赦すことがおできになるのでしまうか。第三に、イエス様はよみがえられ、今も生きておられ、私たちを恵もうと待っておられるからです。ヘブル人への手紙の著者は次のように書いたのです。
ご自分(キリスト)によって神に近づく人々(つまり、へりくだって、助けを求める人々)を、(キリストは)完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル7・25)
すばらしい箇所です。イエス様は永遠に生きていて、いわゆる大祭司として何があってもいつもとりなしをしておられるのです。多くの人々は次のように考えるかもしれません。「自分の罪と債務が赦されているなどと考えるのは傲慢ではないだろうか」と。決してそうではありません。イエス様がはっきりとおっしゃった通りです。「だから、わたしは言うのです。この女の多くの罪は赦されています」。そして罪の女に向かって「あなたの罪は赦されています」と言ったのです。
信じる者を救い、ご自分の平安を与えるお方
この人はいったいどういうお方なのでしょうか。いままで述べてきたように、徹底的に人間一人ひとりを知り抜いているお方です。また、罪を赦すことができ、救いの確信を与えることができる唯一のお方です。
そして、イエス様は御子を信じる人を救い、ご自分の平和を与えてくださるただ一人のお方です。おそらく、ここでまだ次のように聞く人がいるかも知れません。「私の負債、債務を赦してほしい、免除してもらいたい。でも救われるためには、私は何をしなければならないの?」と。これに対して、主なる神のことばは極めて簡潔です。「主の約束を信じるなら大丈夫だよ。信じればオーケーだよ」と。50節「イエスは女に言われた。『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい』」。
この女は、何によって救われたのでしょうか。ただ信仰によってです。彼女はイエス様を信じ、提供された罪の赦しを受け取りました。彼女は自分の罪の債務を負ったままで、イエス様の御許まで来ました。彼女は、もしイエス様が赦してくださらなかったらおしまいだということを知っていました。イエス様は私を赦してくださるに違いない。イエス様は、私を聖めてくださるに違いない。イエス様は私を助けてくださるに違いないと、信じて足元にひれ伏しました。そして、何が起こったのでしょうか。イエス様は彼女を赦してくださったのです。いったいどうしてでしょうか。彼女の信仰のゆえです。信仰は、イエス様が提供してくださるものを受け取ります。私たちが、イエス様の提供してくださるものを意識して受け取る時、その時にだけ、イエス様は私たちに「安心して行きなさい」とおっしゃるに違いありません。つまり、私たちの罪が赦された時に、心に平安が満ち、新しい人生が始まります。初代教会の証しとは次のようなものです。
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ5・1)
しかし、私たちは「神との平和」を持っているだけではなく、「主なる神ご自身の平和」をも持つべきです。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安(神ご自身の平安)が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4・7)
神の平安が私たちの心と思いを守ってくれます。主なる神のカによって、私たちは新しい人生を歩むことができるのです。
イエス様とは一体どういうお方なのでしょうか。イエス様は徹底的に知り抜いておられるただ一人のお方であり、イエス様はただお一人、罪を赦すことがおできになり、救いの確信を与えるお方であり、またイエス様は信じる者を救い、ご自分の平和を与えてくださるお方です。私たちは、イエス様の愛に対して、主である神様に感謝したいと思わないでしょうか。赦されたという確信を自分のものにする人は、本当に大いに喜ぶことができるのです。
見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れるごとはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌、私のために救いとなられた。(イザヤ12・2)
このように心から自分のロで証しし、主を賛美できることは、本当に感謝です。
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