2019年1月29日火曜日

信仰の従順

信仰の従順

2019年1月29日、吉祥寺学び会
黒田 禮吉

創世記
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

信仰の父、アブラハムは数々の試みを受けましたが、最大のものとは、独り子、イサクを捧げるようにとの命令であったに違いあるません。ここで彼は、神の愛を疑うこともできました。けれども、次の三節にありますように、アブラハムが出かけて行ったのは翌朝、早くであります。つまり、彼は、神の御声を聞いてからすぐに、言われる通りにしています。愛するひとり子を捧げるという過酷な試練に、彼はすぐに、従順に、聞き従ったのであります。アブラハムは、イサクから祝福が来るという神の約束を信じていました。しかし、それをどうやって信じたのでしょうか?


へブル
11:17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
11:18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、
11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。

神は、アブラハムにサラから生まれる子が、あなたの子となると言われました。けれども、サラには子を宿す気配はなく、二人とも年老いていました。そして、いろいろと紆余曲折はありましたが、ようやく与えられたのがイサクであります。ところが、主は突然、あなたの愛するひとり子、イサクを全焼のいけにえとして捧げなさいと命じられたのです。人間的には、アブラハムは息子イサクを全焼に捧げなければならない現実の苦悩に心を引き裂かれる思いがあったはずであります。しかし、彼はその自分の思いよりも、神への従順を上に置いたのでした。

もし、私たちがアブラハムの立場だったらどうでしょうか?イサクによって祝福すると言われた神の約束と、イサクを捧げなさいという命令によって、その矛盾した二つを、自分の中で消化できずに、どうしたらよいかわからなくなったことでありましょう。しかし、アブラハムは、自分の悟りに頼らず、主により頼んだのです。自分で考えることをせず、ただ主が仰せになることだからという理由で、その命令に従いました。

ローマ人への手紙にも、アブラハムの信仰のことが書かれています。

ローマ
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

アブラハムは、神のみことばを疑うのではなく、どちらも受け入れたのです。そして、神には、神の良いお考えがあるに違いない、イサクをよみがえらせることもできると信じた。たから、彼はイサクを臆せず捧げる備えができていたのではないでしょうか。

創世記
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。

アブラハムはここで、よみがえったイサクとともに若い者たちのところに戻ってくることを告げています。そして、礼拝という言葉が出てきますが、これは聖書でいちばん最初に出てくる礼拝であります。このように、本来の礼拝の意味は、自分の意思を神にゆだねることを意味いたします。

マタイの福音書に、イエス様の祈りが書かれています

マタイ
26:39 ・・・・わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。

イエス様が、『わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください』と祈られましたが、それがまさに、礼拝の姿でありましょう。

創世記
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

22:15 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、
22:16 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
22:17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

主の使いは、アブラハムが本当に主に聞き従うのをご覧になりました。けれども、アブラハムは、実際には、イサクを捧げませんでした。なぜなら、それは『型』であって、本物ではなかったからです。

私たちは、しばしば、理解しないと、納得できないと、み言葉でさえ、従順になれないという過ちを犯します。しかし、理解できなくても、主が語られるのだからという理由だけでそれに従うのが、アブラハムのように、祝福を受ける道ではないでしょうか。神の与えられる試練とは何でしょうか。私たちがイエス・キリストを信じてこの方に従うときに、いろいろな祝福の約束が与えられます。ところが、私たちに災いが降りかかることがあります。目に見えるところでは、決して、祝福とは言えません。けれども、聖書には、皆さんもよくご存じのように、次のような御言葉があります。

ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

一時的には悲しむようなことが起こってもた、神は、それを用いて、最善のことをしてくださる。この約束を信じることが、信仰ではないでしょうか。信仰の試練は、私たちがどれだけ神を信頼しているのか、私たち自身が知るためです。神は、私たちの心を全て知っておられ、私たちに祈るようにと、頼るようにと、試練を与えられるのではないでしょうか。

このように、信仰の従順を通して与えられるものは、祝福であります。しかし、それは時に、試練を伴います。そして、このモリヤの山は、約二千年後、ゴルゴタ、あるいは、カルバリーと呼ばれるようになりました。実は、ここで主イエス・キリストは。アダム以来、犯し続けてきた私たち人間、全ての罪を贖ういけにえとして、御自分の命を捧げられたのです。主は、このモリヤの山に、本物のいけにえを供えてくださったのであります。

第一ヨハネ
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

アブラハムがしようとしたことは、実は、神がどのようにして、私たち人間を救うかを示しているのでしょう。神は独り子をお持ちです。その方とは、永遠の昔から、父なる神と共におられて、ご自身も神であるイエス・キリストです。イエス様は人のかたちをとり、人の前に現れてくださいました。そして、御父のご計画に従って、十字架の上で、私たちのために死んでくださいました。罪人である私たちに、無償の愛を注いでくださったのであります。

イサクが薪の木を背負いました。同じように、イエス様も十字架の木を背負われました。神は全人類の罪を贖うとき、犠牲の羊や他の動物を用いず、神のひとり子を用いられたのです。神ご自身が生贄となり、神ご自身が屠られて、血を流してくださったのです。

イエス様は、ご自分の十字架への道を止めることができる力を持っておられたことでしょう。全てを避ける力をお持ちだったにもかかわらず、あえて父のみこころに従順に従われて、ご自分を弱くされました。イエス様ご自身が信仰の従順を貫かれたと言えるのではないかと思います。

ヨハネ
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

ローマ
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

アブラハムがイサクを惜しまずに捧げようとしたように、父なる神ご自身は、ご自分の御子を罪人である私たちのために、死に渡してくださいました。イサクは実際には、死ななくてすんだのです。しかし、神は、本当に、実にそのひとり子をお与えになりました。実際に、イエス様を私たちにお与えになられました。よく知られているヨハネの三章十六節に、このように書いてあります。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

父なる神は、御子、キリストが十字架につけられて、死なれるのを見ておられました。もちろん、私たちには想像することもできませんが、そこには、御父の苦しみがあり、痛みがおありだったのではないでしょうか。ご自分の愛する子をこのような苦しみに合わせなければならないという、壮絶な悲しみを父なる神は味わわれたのではないでしょうか。その苦しみを共に分かち合いたいと思われて、神は、アブラハムにイサクを捧げよと命じられたのではないでしょうか。そして、今や救われた私たちも、キリストの苦しみの交わりに預かっているのであります。

けれども、私たちは、アブラハムのように、信仰の従順を貫くことのできないものではないでしょう。イエス様のようにご自身を捧げて犠牲となることなど、到底できないものではないでしょうか。そのような不完全な弱いものが、何をなすべきでありましょうか?

マタイ
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

ローマ
1:5 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。

マタイの福音書の最後にあったように、救われた者の使命は、福音を伝えることでありましょう。そして、パウロは、キリストによってそのような使徒の務めを受けたと書いています。彼ら使徒たちは、キリストによって選び分けられ、主のご目的のために送り出されたのであります。けれども、彼らとて、私たちと同様に、不完全なものでした。そして、与えられた使徒の務めの目的がどのようなものであったかも、そこに端的に示されています。それは、信仰の従順をもたらすためであります。

パウロが使徒の務めを与えられたのは、イエス・キリストの御名のためであり、ただキリストの栄光のためだけに働くように、新しい命を与えられたのであります。そして、使徒の勤めの目的とは、先ほども申し上げましたように、信仰の従順を、あらゆる国の人々に、もたらすためであります。つまり、福音を宣べ伝えることであります。

福音とは、神が御子イエス・キリストにおいて実現してくださった救いの知らせです。それはただ、キリストの恵みによって、与えられたものであり、私たちの努力や精進によって得られるものではありません。私たちの側のふさわしさによってではなく、ただ神の恵みによって、罪人でである私たちが赦され、救われたのであります。そもそも、神の救いを得るにふさわしい従順な人など、この世に存在しないということが根本にあります。だからこそ、御子である主イエス・キリストが人間となってくださったのです。そして、主イエス様は、私たちには決してできない神への従順を、私たちのために成し遂げてくださったのであります。それが十字架であります。

ピリピ人への手紙の二章、よく知られた御言葉であります。

ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

イエス様がへりくだって人間となり、十字架の死を引き受けてくださった。そこにこそ、父なる神への真の従順があります。従順であることができない私たちに代わって、イエス様が、神への従順を貫いてくださり、それによって、救いを与えてくださったのです。私たちに求められている信仰の従順とは、十字架の死に至るイエス様の従順がこの私のためだったと認め、その主イエス様の従順によって与えられた救いの恵みを信じて、受け入れることではないでしょうか。

信仰の従順とは、従順になることによって救いにふさわしいものとなることではありません。全く相応しくない、救われる資格のない私たちが、主イエス様のものとされることによって救われる――その主イエス様の恵みを従順に信じ、受け入れることなのです。神の召しを、従順に受け入れて、その救いにあずかりなさいと、イエス様は今も、語っておられます。私たちは、神に愛されており、キリストの恵みによる救いへと召されております。私たちのふさわしさによってでは、キリストの恵みによって、聖なる者、神に属するものとされているのだ。信仰の従順によって、その神の愛による召しを受け入れなさいと言うべきであります。

私たち、救われた者の務めとは、全ての人が真の神を知り、その神に喜び従い、その御名のために従順に仕えるようになることでありましょう。

最後に、御言葉を三箇所を読んで終わりにしたいと思います。

マラキ
1:6 子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。――万軍の主は、あなたがたに仰せられる。

ルカ
6:46 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。

ヨハネ
13:13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

信仰とは神に従うこと、神のみ言葉に聞き従うこと、信仰の根本に神への従順がなければならない――このことを本当に、私自身、しっかりとわきまえなければいけないと思わされます。従順をよそおって、習慣的に日曜日に礼拝に集い、様々な奉仕をしたとしても、真の信仰がなければ、全ては虚しいものであります。

神が求めておられるものは、心から湧き上がる従順であるということを、噛みしめたい思います。

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