2025年9月8日月曜日

イエス様のいばらの冠

イエス様のいばらの冠
2021年9月8日、国立谷保家庭集会
柿沼義一兄

ヨハネ
19:1 そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。
19:2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
19:3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。
19:4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」
19:5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。
19:6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」

19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
19:29 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

19:34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。

第一ヨハネ
5:6 このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。

それでは、ただ今、黒澤兄に長い引用聖句を拝読していただきました。進めさせていただきたいと思います。

前回、オリンピックは、小々馬兄がメッセージしてくださり、感謝でした。今回は、パラリンピックの時、一昨日、日曜日に閉幕式、閉会されて、祝福されていました。

『パラ』とは、競技者が支援を必要とする『並行』を意味する英語のパラレルからのようです。競技者の方々は、生まれながら、また、薬害、そして、事故などで、死の恐怖、激痛、絶望の最中を支えた方々の――初めはわずかな――励ましが、微かな希望の光となり、励まし合い、厳しい鍛錬に耐え、晴れてパラリンピックに選抜されました。選手どおしは、競技だけでなく、制約された患難(かんなん)を通った家族のように清々しさが溢れ、あらゆる方々に、はかり知れない生きる希望が与えられました。

初めは、ロンドン大会での車椅子アーチェリーからと聞きました。その後、先の東京大会から、パラリンピックが正式に開催され、名称はパラではなかったようです。

日本選手の中で以前、福知山線での悲惨な脱線事故がありましたが、今も多くの方々が覚えておられる大惨事でした。その時、通学のために、一両目に乗り合わせた女性が、脊髄の大怪我をされ、上半身にもハンデを抱え、車椅子アーチェリー競技で、銀メダルを受賞されたニュースを見ました。おごりのない清らかな喜びが伝わりました。

イエス様に救われているか分かりませんが、嬉しく、救いと祝福を、思わず祈りました。パラリンピックの選手の方々も支えられて、日々の社会生活が守られています。

しかし、真の幸せは、イエス様の救いを通して与えられる比類ない幸せです。私たち、集会に集う、イエス様に救われた信仰者も、イエス様に導かれていますが、御霊はひとつで、永遠のいのちです。依然、自分では対処できない患難を抱え、イエス様に救われた兄弟姉妹です。

さて救われるとは、断たれて主なる神の御霊が与えられた新しいいのちです。兄弟姉妹との交わりや、聖書の御言葉を通して、主なる神に罪を負ったアダムとエバの原罪を、私たちも負って生まれたことを知りました。

以前は、神を信じず、自我と自己愛と傲慢なものでした。全人類が罪を負って生まれているとのローマ書3章10節から18節は、救われた者には、まさにその通りと驚きました。

ローマ
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」
3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

しかし、日本人は、仏教伝来以降の倫理、道徳を中国から学び、清く正しく美しく、精神面で自分を律する修行、努力で成長すると信じ、歩んできました。そして、神社は神主、仏教は僧侶と、それぞれの願いを委ねる宗教で、自然と冠婚葬祭が行事化されて、皆、決まったとおりに、ことを進めれば、安心、横並びの儀式、行事の社会であり、自分が罪人などと思わず、法律を守り、協力し合えば、良い人とされ、歩んでいます。

生まれながらの罪人とは、聖書を知らない日本の多くの人々には受け入れがたい側面があります。しかし、私たち救われたものは、毎朝、祈りをもって、一日が始まります。イエス様の救いを知らない方に、長い人生の中で、『神様、助けてください』と、呟いたり叫ばざるを得ない時には、漠然とした神様ではなく、『主イエス様、助けてください』と、叫び願ってくださいと伝えられるように、自分自身を主に願い祈っています。

自分を罪人と知るのは、ただ自分が挫折、絶望した苦しみの時、『イエス様、助けてください』とすがり叫んだ時、イエス様の救い、御霊が流れ、救われました。イエス様ご自身が三十歳になられた時、宣教を開始するその時、バプテスマのヨハネから、洗礼をお受けになりました。

マタイ
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

このように、イエス様に対する父なる神の愛が示されました。この後、イエス様は、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて、荒野にのぼられ、四十日四十夜、断食されたと、聖書は語っています。

この後、イエス様は、サタンの試みを受け、そして、その試みと御言葉で戦って、本当に勝利をされ、そして、死の地と死の影に座っている人に、光がのぼったと宣教を開始され、『悔い改めなさい、天の御国が近づいたから』と、お語りくださいました。

第一コリント
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

このことを通して、私たちが日頃、多くの方々のことを、心から主に、その御救いを願い続けております。そして、そのお一人お一人が、何かの患難に出会ったときに、本当にイエス様に助けを願う、叫ぶ、そのように導いてくださるイエス様のご愛に、本当に私たち、救われたものは、感謝があふれています。

さて、私たちがこのようにイエス様の御霊によって導かれて、そして、救われたものに、この御霊が流れるということは、五旬節の日に救われた兄弟が祈っているときに、全く同じような聖霊が天から下って、兄弟の上に臨み、聖霊が与えられました、

まさに、イエス様と同じ天の父なる神の御霊が、私たちの救われた心に与えられたということです。この御霊は、本当に、先ほどの悔い改め、罪人のローマ書の通り、私たち罪人を本当に心からの悔い改めにお導きくださり、かつて、想像もできなかった永遠のいのち、よみがえりを通してイエス様が与えてくださったその真理の道へお導きくださっている――その事実を本当に、喜んで従う者へと変えてくださいました。

そして、私たちは救われて信仰の歩みの中に導かれ、多くの自分の罪を知り、また、悔い改めを通して、イエス様に近づく、その信仰の中を今でも導かれていることを、本当に感謝いたします。そして、信仰の中で私たちは、イエス様が語り続けてくださるこの救いの御業の私たちに対する罪からの悔い改めの一つ一つの中にあって、二つのことを考えてみたいと思います。

まずひとつ目は、よくご存知のヨハネの福音書の14章6節です。

ヨハネ
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

このイエス様の語ってくださった御言葉が、まず、本当に大きな土台であり、イエス様の道は、新しいいのちの者が導かれる道であり、そして、真理はイエス様の御霊であり、そして、そのいのち――私たちは本当のイエス様のよみがえりのいのちによって、永遠に主と共に歩むだけではなく、愛する兄弟姉妹、親族、家族と救われたイエス様の御許で再会して、守られ、歩むということです。

しかし、私たちは、この信仰の中で――あの賢い五人の娘と愚かな娘の例えがありますけれども――、私たちは、突然、思いもよらない患難が与えられる、そのような時があります。

イエス様は、その患難に対処できるように、本当に各福音書で、私たちの愚かさの中で、イエス様のその真理のすばらしさをお語りくださり、あらゆるものに打ち勝つイエス様に従うようにとおっしゃってくださっています。

しかし、私たちに突然、与えられた患難の時、また、それは、イエス様に救われながら、イエス様を第一とできない――そのような歩みをした時に、イエス様はどのように対処してくださるのでしょうか。

ヨナ書を拝読いたします。ヨナがどうであったかを拝読させていただきます。

ヨナ
1:1 アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。
1:2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
1:3 しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。
1:4 そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。
1:5 水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。
1:6 船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」
1:7 みなは互いに言った。「さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。
1:8 そこで彼らはヨナに言った。「だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、告げてくれ。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か。」
1:9 ヨナは彼らに言った。「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝しています。」
1:10 それで人々は非常に恐れて、彼に言った。「何でそんなことをしたのか。」人々は、彼が主の御顔を避けてのがれようとしていることを知っていた。ヨナが先に、これを彼らに告げていたからである。
1:11 彼らはヨナに言った。「海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか。」海がますます荒れてきたからである。
1:12 ヨナは彼らに言った。「私を捕えて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」

そして、続いて2章1節から拝読します。

ヨナ
2:1 ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、
2:2 言った。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。
2:3 あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。
2:4 私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』と。
2:5 水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。
2:6 私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。
2:7 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。
2:8 むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。
2:9 しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」
2:10 主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。

ここで、ヨナが本当に魚の中で悔い改めています。そして、このヨナの回心、今日、引用いたしましたイエス様のいばらの冠、イエス様が十字架につく前に、兵士の編んだいばらの冠をかぶらさせられました。そして、からかって、『ユダヤ人の王様万歳』と、彼に叫ばせました。

先ほどのお話の中で、第一は、私たちは、普段の信仰の中で、いろいろなことを悔い改め、赦してくださっています。そして、一歩一歩、イエス様の信仰に、自分の隠れていた罪が露見されて、示されて、新しくされていきます。

しかし、イエス様がこの地上で十字架につくまで、どれほど多くの人を救い、また、弟子たちに福音の言葉を伝えてきたか、それは聖書にはっきりと、しっかりと記されています。しかし、その中で、イエス様は最後に、このように、いちばん下級の兵士に、いばらで編んだ冠をかぶせられ、そして、このようなみじめな状態に置かれました。

私たちの日々の信仰の中で、本当に、愛する兄弟姉妹の中で、その暖かい御霊と、また、体験したことのなかった深い平安、それは、まさに永遠のいのちが与えられているイエス様ご自身の御霊の証しであります。

この最後にかぶられたいばらの冠、これは、このように創世記の3章17節から24節、アダムに主の語られた言葉が書かれています。

創世記
3:17 アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

このように、神からアダムは宣言をされてしまいました。まったく生きる希望もない、そのようなあざみ、そして、いばらの中、しかし、今日の引用聖句の中のイエス様にかぶせたその兵士のいばらの冠、これはまさに、イエス様が、『完了した』と最後に叫ばれました。

このようにイエス様を迫害し、痛いいばらで編んだ冠を頭にかぶせ、そして、本当に、イエス様を惨めな状況に置かれたように思いました。しかし、この兵士も、『ユダヤ人の王様、万歳』と叫んでいました。

本当にイエス様のご計画と、耐えられた忍耐の深さ、そして、与えられた真実の救いの恵み、私たちの肉の信仰のその惨めさを、よくイエス様はご存じです。そして、私たちの日々の信仰の中で、このヨナのように救われて全く、イエス様の目から逃げようとする――そのような心が救われてもあるということを、イエス様は示してくださいました。

(ヨナは)タルシシュまで7000キロぐらいある――日本がすっぽりと入る――地中海のもっと先へ逃れようとしました。しかし、ヨナは、悔い改めてニネベへ遣わされ、行きました。

ニネベは、陸路で千キロぐらいのところです。確かに、信仰の道は厳しく、私たちの想像を絶する試練が突然、与えられるかもわかりません。しかし、イエス様は、私たちにできないことも、この十字架の最後のイエス様が耐えてくださったこの試練も、すべてが完了する――悔い改めれば、すべてがイエス様の恵みにあずかることができるというこの大きな恵みを語って、十字架に架かる時に、完全に示してくださいました。

私たちは御言葉をいつも、いただいて語り告げます。しかし、その語り告げる御言葉が、本当に深く、私たちにとって、気づかないすべてが救われているというイエス様の約束は、完全であるということを、このイエス様の十字架のいばらの冠が、私たちに勇気と希望を与えてくださっています。

先ほど引用した、『わたしが道である』というイエス様の呼びかけの言葉、そして、最後に、ローマ書十一章三十六節、

ローマ
11:36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

とあります。まさに救われた者、パウロ、また、あらゆる弟子たちが、まさにこの御言葉の通りに従う、また、認めざるを得ない本当のイエス様の深い、決して裏切らない真実なイエス様の道を、私たちは導かれているということを、ヨナのこの体験を通しても、私たちは知ることができました。

神の私たちに言われた宣告、イエス様はそれを冠と変えて、完全な救いの成就が与えられているということを、私たちが体験することができましたから、本当に感謝いたします。どうぞ、救われた私たちも信仰の歩みが、イエス様の祝福にいつも満ち溢れますようにお祈りして終わらせていただきます。

どうもありがとうございました。

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