2015年3月23日、バンクーバー・キャンプ
ゴットホルド・ベック
詩篇
32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ
32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
32:9 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。
32:10 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
今、いっしょに歌いました歌の最後に、『主イエスのまなざし』という表現が出てきます。これを今日の主題にしましょうか。なぜならば、もっとも、大切なのは、主イエス様から目を離さないことです。離した瞬間、おかしくなります。
イエス様を見上げる必要性、大切さ、また、すばらしさについて、いっしょに考えてみたいと思います。イエス様を見上げるものは想像もしなかったほどの喜びを自分の者にすることができます。そして、イエス様を見上げる程度に従って、私たちは、その度合いに応じて、喜びを与えられます。
今、読んだダビデの書いた箇所は本当にすばらしい。
詩篇(口語訳)
32:8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。
32:9 あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。
聖書には、救われて神の子になっても、救いの喜びを失う可能性があると書いてあります。信仰が成長しない理由は、イエス様だけを見ないで、他人を見たり、悪魔の惑わしに耳を傾けたりするからに他なりません。イエス様を見上げないものは、間違った道に進んでしまいます。けど、いつかは必ず回復されると、聖書は言っています。すばらしい約束なのではないでしょうか。
ここに、ふたつの導き方について書いてあるんですね。すなわち、ひとつは、目を留めて諭す導き方であり、もう一つは、くつわや手綱をもって押さえて従わせる方法です。確かに、兄弟姉妹の中には、イエス様の目、あるいは、イエス様のまなざしによって導くことができない人々もいるのではないでしょうか。そのような人に対しては、主は、やむおえず、仕方がなくて、やむを得ず、くつわや手綱を持って従わせざるを得ないのです。
それは、苦しみや悩みを伴います。けれども、くつわや手綱を持って導かれる場合でさえも、主は捨てないと書いてあります。捨てないだけではなく、愛し続けてくださるお方です。それですから、いかなる状態にあっても、イエス様の愛を覚えることによって、信じるものは誰でも、喜んで感謝することができます。ですから、何があってもあきらめる必要はない、イエス様のひとつの名前は、望みの神です。望みの神が生きている限り、私たちは安心して前向きに生活することができます。
もちろん、ここで書かれているように、くつわや手綱を持って導かれる時には、あまりおもしろくない。苦痛を伴います。私たちの自己決定や自己支配を捨てて、イエス様だけを見上げて、信仰生活を歩む方が、どれほど苦痛を伴わず、簡単なものであるかわかりません。我々の見上げる目の方向によって、喜びに満たされる者になるか、あるいは、自ら墓穴を掘る結果となるかのどちらかです。
皆さん、ご存知ですけど、日光には見猿、聞か猿、言わ猿という三つの猿があります。すなわち、悪いものを見たり、聞いたり、話したりしなければ、安全に保たれるという教訓を意味しているでしょう。すなわち人間が、見たり、聞いたり、話したりすることのない状態に置かれた時、たとえば、めくら、おし、つんぼは、いろいろなことから守られます。
ただ目に見えるものだけに心を奪われて、イエス様を見失ってしまうときが、いちばん、危険なときです。イスラエルの経験について次のように書かれています。
民数記
13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
13:31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
13:32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
13:33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
遣わされた者は、イスラエルの人々に、次のように悪く言いふらしました。『私たちには自分がいなごのように思われ、また、彼らにもそう見えたに違いない。』結局、むり。あきらめたほうが良い。けれども、二人だけが違う態度を取ったんですね。ヨシュアとカレブは、『主にそむいてはなりません。また、その地の民を恐れてはなりません。主が私たちとともにおられますから。彼らを恐れてはなりません。』
この聖句から、私たちにもわかるように、確かに目に見える現実は、遣わされた使者が言ったとおりでした。けど、彼らは目に見えない現実を、見失ってしまいました。すなわち、主を見上げることを忘れた。けども、今、主を見上げる者は、想像しなかったほどの力を体験するとヨシュアとカレブは 経験しました。
有名な音楽家であるヨハン・セバスチャン・バッハという音楽家は、多くのカンタータを作ったのです。毎週、ひとつのカンタータを作ったそうです。普通の人には考えられない。毎日、いろいろな人に教えたりして、家族も多かった、子供が二十人いましたから、その時の彼は、あまり尊敬されていなかった。多くの信じる者は、教会の中に音楽は必要ない、やめろ!という態度を取ったんです。けれども、彼が作ったひとつのカンタータの言葉は、『主を見上げる者は、新たなる力を得、鷲のようになる。』言葉だけでもすごい。でも、音楽を聴くと踊りたくなるほど、うれしくてうれしくて仕方がない。主は、すばらしい。この主だけに頼りましょうよ、この態度を、彼はずっと、取ったのです。
確かに多くの信じる者は、鷲のような者ではなくて、もぐらのような者なのではないでしょうか。モグラのようになっているという意味は、自分のことだけを考えること、自分のことで、がんじがらめとなってしまうこと、主を見上げることができなくなっている状態に他なりません。
イエスのまなざしとはどういうものでしょう。まず、イエス様のまなざしとは、マルコ伝10章を見ると愛に満ちたまなざしですね。
マルコ
10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
10:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
10:20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで(・・・・その人を愛して・・・・)言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。
誰がもっと悲しんだのか。彼か、イエス様か、ちょっと分からない。イエス様は悲しんだ。どうして?この人が結局、メクラだったからです。イエス様は彼に目を留め、いつくしんで言われた、とありますが、この箇所を見ると、金持ちは少なくとも飢え渇きを持っていたのです。だから、求めたのです。いつまでも続くもの、永遠のいのちが彼は欲しかったのです。確かに、彼は、欲しいものは全部、持っていたでしょう。けれども、心は満たされていませんでした。というのは、彼には眼に見えるこの世のものが、移り行く、はかないものであることがよく解かった。だから、永遠のいのちについてきいたんです。
人間はすべて、永遠のいのちによってのみ、満たされます。永遠のいのちを得るために、自分の滅び行く状態を知って、救いの必要性を知ることは、どうしてもなくてはならないものです。その状態を示すために、イエス様はこの金持ちに、モーセの十戒を示されました。『殺すな。姦淫するな。盗むな。偽証を立てるな。欺きとるな。父と母を敬え。』すると、彼は、『それらのことは守っております』と答えました。すなわち、彼は、自分自身の心の本当の状態を全然知らなかったのです。自分自身の罪を知らないものは、当然、罪を告白することもできません。そして、罪を告白することができなければ、もちろん、罪の赦しを得ることもできません。さらに罪の赦しを得ない者は、永遠のいのちをも持っていません。
ヨハネ
3:36 御子(・・・・主イエス様・・・・)を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
確かに今日も、多くの人は、当時の人のように、『私は、すべての事を守っている、』結局、間に合っています。これは、ちょっとたいへんな状態です。黙示録の中で、ラオデキヤという町の兄弟姉妹に、主は言われましたちょっと、大変なことばです。
黙示録
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
イエス様は、当時の人の心の状態を見ておられ、彼が、悪魔によってめくらにされてしまっていることをよく知っておられましたが、決して、彼を見捨てることはなさいませんでした。詩篇の作者であるダビデは、良く主の偉大さについて、書いたのです。
詩篇
34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
147:3 主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。
ダビデの経験した救いととはそういうものでした。もちろん、旧約聖書の全体には、こういうふうに主の恵み深さ、主のすばらしさについて書いてあります。
イザヤ
57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ(る。)
66:2 主の御告げ。わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。
今、読みました当時の若者は自分自身の心の状態を全く知りませんでした。けど、主は、限りない愛をもって彼を見つめられたと書いてあります。その時、イエス様は、彼に向かって、『あなたには、いちばん大切なものが欠けている』と言われました。『もしも、あなたが、わたしに従って来たいならば、持っているものをみな売り払って、わたしの十字架を負って、わたしに従いなさい、』とイエス様は彼に答えました。イエス様は、この御許に来た人を心から愛しておられました。まことの深い愛が、すべてを売り払い、十字架を負って従うことを要求しておられます。
この金持ちに向けられたイエス様の深い愛のまなざしは、、言うまでもなく、我々に対しても向けられています。イエス様は、救おうとしておられるだけではなく、ご自分に従ってくるようにと招いておられます。罪を赦された者は、永遠のいのちを持ち、救われている者です。イエス様は、いつも我々のことを思い、最高の目的を指し示そうとしておられます。その意味で救われたから、後は大したことはない、もう充分だと思っている人がいるならば、それは大間違いです。
今、イエス様のまなざしについてちょっと考えたんです。もうひとつは、イエス様はまなざしとはどういうまなざしでしょうか。すなわち、希望のまなざしです。
ルカ
19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。・・・・
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
この5節ですね。ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』背景になっている場所はエリコという町でした。旧約聖書を見ると分かります。このエリコというのは祝福された町ではなかったのです。呪われた町でした。そして、ザアカイは、取税人のかしらで、金儲けに一生懸命になっていました。おそらく彼は、正しくない方法も使って金を貯めたことでしょう。しかし、彼は、豊かであるにもかかわらず、満足がなかった。
ザアカイは、どういうわけかイエス様によって、自分の満たされない心が満たされると思ったのです。だから、『イエスに会いたいと望んだのです。ここに、イエスは上を見上げたと書いてありますね。そこで桑の木に登っていたザアカイと視線がぶつかったのです。ザアカイは、イエス様のまなざしを見たとき、確信しました、すなわち、希望がある。あきらめてはいかん。必要ない。
ザアカイはイエス様が自分の名前を呼ぶのを聞いたとき、びっくりしたでしょう。会ったこともあないのに!そして、それと同時に、イエス様が自分に対して何らかの関心を持っていることも、もちろん、すぐに分かりました。しかも、イエス様はザアカイの家に泊まるとおっしゃり、意味は、ザアカイとの交わりをも提供してくださったのです。ザアカイは、イエス様を自分の家に受け入れる準備ができたのです。受け入れることとは、本当の意味で信じることです。
ヨハネ
1:12 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
ザアカイは、イエス様との出会いによって、もちろん、神の子、まことに救われたものとなったのです。
第一ヨハネ
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
原本を見ると、『はっきり確信するためである』とあります。イエス様の近くにいることは、大いなる祝福を意味しているということを、ザアカイは経験しました。イエス様に出会った者は、決して闇の中に留まる必要はない。なぜならば、イエス様は光であられるお方であるからです。ザアカイは罪を告白せざるを得なかったのです。そして、彼はイエス様の口から直接、自分の罪が赦されていることを聞かさました。このことはザアカイにとって、ひとつの大転換を意味していたのです。それまで、彼は自分中心の生き方をしました、欲のかたまりであり、がんじがらめになっていました。けど、今は、イエス様を喜ばせたい、イエス様に従って行きたいと切に望むようになりました。
我々も、イエス様の希望のまなざしを必要としています。将来のことを考えると、人間的には望みがなく、慰めのない状態のように思われるかもしれない。焦ったり、失望したり、落胆したりすることがあるかもしれない。その時には、イエス様を見上げましょう。そうすれば、ザアカイと同じように、主の希望のまなざしを見ることができます。イエス様の希望のまなざしは、私たちがイエス様と交わりを持つようにと招いておられます。
イエス様の交わりとは、イエス様が光の中を歩まれたように、私たちもイエス様とともに、光の中を歩むことを意味しています。イエス様との交わりは、いのちそのものであるイエス様以外に、拠り所を持たないことを意味しています。また、イエス様との交わりは、ただイエス様に喜ばれる者となりたいという心からの願いを持つことです。
イエス様のまなざしとは、どういうまなざしでしょうか。今、話したように愛のまなざしであり、希望のまなざしです。
もうちょっと短く、三番目。イエス様のまなざしとはいったいどいういうものでしょうか。すなわち、あわれみのまなざしです。
ルカ
7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。
7:12 イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。
7:13 主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。
7:14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。
7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。
この婦人は、いろいろと人生の重荷に耐えかねて、疲れ果てた気の毒な婦人かわいそうな人でした。まず、主人が前に亡くなられた悲しみを体験していました。それだけでなくて、やもめになった婦人はもうひとつのことを経験しなくてはならなかった。すなわち、ただひとつの喜びであり、また、支えであった一人息子も死んだんです。そして、イエス様は、この悲しみの婦人を見て、深い同情を寄せられました。
イエス様は、この婦人の所に来て、「泣かないでいなさい」と言われました。すると、この婦人は、涙ながらに、イエス様の顔を見上げました。その時、二人の視線が出会ったのです。深いあわれみに満ちたまなざしが、そこで出会ったのです。イエス様は、こまごましたことや慰めの言葉などを、くどくど仰ることはなさいませんでした。
イエス様は、死んだ若者に向かって、ただ一言、「若者よ、さあ、起きなさい。」と言われました。すると、死人が起き上がって、ものを言い出したとあります。この婦人は、イエス様のあわれみのまなざしを見るまでは、全く打ちのめさていました。絶望的な状態に置かれました。
そのようなわけで、葬式に行く途中、葬(ほうむ)りに出すところで、この婦人は全く望みのない状態の極限にまで追い詰められていました。人間的に見るならば、時すでに遅く、もうどうすることもできないところまで行ってしまったのです。けど、イエス様にとっては、決して決して遅すぎるということはない。
我々にとっては、終わりと思われる最悪の状態にあっても、イエス様は、もちろん助けることがおできになります。人間的に見るならば、もう人生もだめ、全部、滅茶苦茶になったと思うかもしれない。けど、そのような状態にあっても、イエス様にとっては、遅すぎることはない。
私たちが必要としているものは、イエス様のあわれみのまなざし以外の何ものでもないのではないでしょうか。苦しみがいかなるものであろうとも、イエス様の愛のまなざし、イエス様の希望のまなざし、そして、イエス様のあわれみのまなざしは、我々に対しても向けられています。
これだけ、考えると、安心して前向きに生活できるのではないでしょうか。
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