2015年1月13日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
詩篇
32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ
32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
32:9 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。
32:11 正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。
このような集会の前にいつも、心から叫びたいものです。来られた人々が、私のしゃべっていることを聞こうとしないように。あなたの言わんとしていることを、聞くことができるだけではなくて、受け入れることができ、それによって解放されますように。主は、どういうふうに、この祈りを聞いてくださるのか、ちょっと解らない。けれども必ず聞いてくださることを確信しています。
ダビデは、もうすでに三千年前に、今、読みましたように祈りました。主の御声として、
詩篇
32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
32:9 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。(・・・・そうなる可能性があります。・・・・)それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。
聞く耳を持つこと、主イエス様だけを仰ぎ見る大切さ、可能性、すばらしさについて、聖書の中でいっぱい書いています。
この間と同じように、主を見上げる必要性、大切さ、すばらしさについて、少し考えてみたいと思います。イエス様のまなざしとは、どういうまなざしなのでしょうか。この間、学んだのは、イエス様のまなざしとは、(一番目、)愛のまなざしであり、二番目、希望のまなざしです。
三番目、今日から学びたいところですけれども、イエス様のまなざしは、あわれみのまなざしです。
ルカ
7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。
7:12 イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。
7:13 主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。
7:14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。
7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。
もう最高の贈り物ではないでしょうか。人間は、プレゼントをあげるかもしれない。けど、このイエス様のなさったことを考えれば、すごい!としか言えません。
主は、この婦人を見て、深い同情を寄せられ、「泣かなくてもよい」と、言われました。
この婦人は、いろいろと人生の重荷に耐えかねて、疲れ果てたかわいそうな人でした。まず、主人が前に亡くなられた悲しみを体験していました。それだけでなく、闇の世にあった彼女のただ一人の喜びであり、また、支えであった一人息子も死にました。そしてイエス様は、この悲しみの婦人を見て、知らん顔をしたのではない。深い同情を寄せられたとあります。
イエス様は、この婦人の所に来て、「泣かないでいなさい」と言われました。すると、この婦人は、涙ながらに、イエス様の顔を見上げたでしょう。その時、二人の視線が出会ったのです。深いあわれみに満ちたまなざしが、そこにあったのです。イエス様は、こまごましたことや慰めの言葉などを、くどくど仰ることをなさらなかったのです。
死んだ若者に向かって、ただ一言、「若者よ、さあ、起きなさい。」と言われました。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたのです。この婦人は、イエス様のあわれみのまなざしを見るまでは、全く打ちのめされ、絶望的な状態に置かれていました。
そのようなわけで、葬式に行く途中、葬(ほうむ)りに出すところで、この婦人は全く望みのない状態でした。人間的に見るならば、時すでに遅く、もうどうすることもできないところまで行ってしまったのです。けど、イエス様にとっては、決して遅すぎるということはありません。
我々にとっては、終わりと思われる最悪の状態にあっても、イエス様は助けることがおできになります。人間的に見るならば、もう人生も滅茶苦茶になってしまっており、どうすることもできないところにまで来てしまっているかもしれないけど、その状態にあっても、イエス様にとっては、遅すぎることはありません。
意味は、あきらめてはいけない。主は、望みの神です。望みの神が生きておられる限り、安心して委ねることができ、助けを求め続けることができます。
私たちが必要としているものは、イエス様のあわれみのまなざし以外の何ものでもありません。私たちの苦しみがいかなるものであろうとも、イエス様の愛のまなざし、希望のまなざし、そして、あわれみのまなざしは、我々に対しても向けられています。
イエス様のまなざしとは、今、話したように愛のまなざし、希望のまなざし、あわれみのまなざしであります。けど、それだけではない。誤った者を正しい道に戻し、正しい道を教え諭す訓戒のまなざしでもあります。この訓戒のまなざしは、ペテロとの関係において、ひとつの姿を見出すことができるのではないかと思います。
ルカ
22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。
主はペテロを見つめられた。もう一箇所、今度はマタイ伝から読みましょうか。かつてペテロは、イエスの前で、自信に満ちた言葉をもって、次のように断言しているのです。
マタイ
26:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
彼は嘘をつこうとしなかったのです。本当にそう思ったのです。イエス様は、弟子たちに向かって、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と注意をなさいましたが、ペテロは、自信に満ちて、真剣には考えなかったのです。ペテロは、下役どもと一緒に座っていましたし、けれども彼らは、イエスを信じようとしている人々ではなく、反対に、イエス様を捕えようとしていた人々でした。そして、ペテロは、そのような連中と一緒になって、交わっていたのです。
ペテロのこのような態度の結果は、以前、自信に満ちていた時の状態とは全く変わった、臆病者のように、「イエス様は知らない!」と拒んだのです。マタイ伝26章の33節で、は(言っていました。)
マタイ
26:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
『イエス様、心配しないで。』けれども、イエス様は、「まことに、あなたに告げます。今夜、再来週ではない、半年先ではない、何時間か後でもない、今夜、後で鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」もちろん、ペテロは、『ああ、そうか、有り得るのではないか』などとは思わなかったのです。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは、決して言いません。」けど、このペテロは失敗しました。とんでもないことになってしまったのです。
マタイ
26:69 ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」
26:70 しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
26:71 そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」
26:72 それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。
26:73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。
26:74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
26:75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。
もうお終い、もう赦されない罪を犯してしまったと、思っていたでしょう。激しく泣いた。
ルカ
22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
悪魔の祈りが聞き届けられた!
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
ペテロは、自分はもうだめと思ってしまったのですけど、決してそうではなかったのです。イエス様のまなざしとは、結局、訓戒のまなざしでした。自信が強すぎると傲慢になり、心の目がくらまされてしまいます。その結果、ペテロはイエス様の警告を無視してしまったのです。
けれども、みことばの上に立たず、みことばだけを大切にしないと、悪魔の勝利になってしまいます。自信過剰から、みことばを無視すると、やがては、未信者と交わることも、もう一歩というところまで行ってしまったのです。ペテロの場合はそうでした。イエス様は、「心は燃えていても、肉体は弱い」と言いました。『悪魔の誘惑に用いられないように、目を覚まして祈りなさい』と、警告なさいました。
私はもう大丈夫だという自信過剰に陥ると、まもなく悪魔の罠に陥ってしまいます。これこそペテロの体験でした。人間的に見ると、この瞬間に、ペテロはもうだめになってしまったのです。
ルカ
22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
イエス様は、サタンがペテロを試練に合わせることを願って許されたため、ペテロの信仰がなくならないように、ペテロのために、イエス様は祈りました。ペテロがイエス様を知らないと言って、三度、拒んだ時、今、話したように、イエス様は、振り返ってペテロをじっと見つめられました。
この時のイエス様のまなざしこそ、正しい道から離れた者に、その道を指し示す訓戒のまなざしでした。このイエス様の訓戒のまなざしは、ペテロの心を貫き通し、悔い改めの心を起こさしめたのです。その時、ペテロは、未信者から離れて、ひとり外に出て、激しく泣いたとあります。
それからの三日間というものは、ペテロにとってすべてが暗闇であり、何を考えることもできなかったでしょう。ペテロは、イエス様を、遣わされた救い主、神の子を、拒み裏切る者になったということだけは、はっきりと解ったのです。イエス様のまなざしは、彼にとって忘れられないものとなり、いつも頭の中に刻み込まれていたのです。
婦人たちから、イエスの復活のことを聞いたペテロは、本当に墓が空であるかどうかを確かめるために、急ぎました。後でペテロだけが、イエス様と出会ったと言われています。その時、どのようなことが話されたかは、残念ですけど、記されていませんが、ペテロがイエス様の訓戒によって、正しい道を示されたことは確かです。
イエス様が、「わたしを愛するか」と、ペテロに三度も問われた時、ペテロは、「そうです」と、心から答えられました。使徒行伝や手紙を見ると、ペテロが後で完全に回復されたことが解ります。ペテロのしっかりとした錨は、主イエス様との持続的な結びつきに根差していたのであります。
彼の喜びは、イエス様に徹頭徹尾、より頼むところにあったのです。そして、彼の全生涯の特長は、完全な権威と力でした。イエス様を拒んだ臆病者であるペテロは、後で、死も恐れない、勇気のあるイエス様の証し人となったのです。
最後に、彼は、イエス様のために、殉教の死を遂げるようになりました。我々もペテロのように、自分自身により頼むことをせず、常にみことばの上に立って、妥協したり、未信者と一緒になることから、遠ざかるように注意しなければならないのではないでしょうか。
イエス様のまなざしとは、どういうまなざしでしょうか。今まで考えたのは、愛のまなざしであり、希望のまなざしであり、あわれみのまなざしであり、そして、訓戒のまなざしでありますが、もう一つ、イエス様のまなざしとは、良きとする、良きと認める、善認するまなざしであるとあります。
ヨハネ
1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」
このナタナエルという人間の特長は、何だったかと言いますと、真実、純粋、誠実でした。このような特長があれば、イエス様はその人を良しとするのです。自分自身を明らかにしてくださるのです。
今日、いったい真実、純粋、誠実は、どこにあるのでしょうか。今の時代の特長は、偽り、不真実、邪悪、不純など、およそ正反対の時代になってしまいました。けれども、そのようなナタナエルといえども、イエス様を直ちに信じたわけではなく、初めは疑っていたのです。「ナザレから何の良いものが出るでしょうか」と、彼は言ったのです。
けれども、彼が、イエス様は本当に神の御子であることを確信するために、イエス様は結局、彼のところに行ったのです。彼は、約束された救い主は、ベツレヘムから出ることを確信していたために、ナザレから出たイエスはメシアであるとは、とても信じられなかったのです。
けれども彼は、イエス様がナザレから出たか、ベツレヘムから出たかということにあまりこだわらず、直接、イエス様に会って、確かめてみようと決心しました。ナタナエルは、イエス様と出会って、イエス様が本当に神の子であることを知りました。確信するようになったのです。
出会う前までは、ナザレのイエスは神の子ではないと、彼は、100パーセント思っていたのです。しかし、出会った時に、イエス様が約束された救い主であり、神の御子であることを、100パーセント信じ確信するようになりました。このような真実、純粋、誠実な性質は、決して生まれつきのものではありません。
いかなる人間にも、多かれ少なかれ、偽りの気持ちがあるものです。けれども、イエス様との出会いによって、欺きや偽りの気持ちが、消えてなくなってしまうのです。正直な心がない場合には、本当の望みと祝福はありません。正直な素直な心を持っている者は、天が開かれるのを見ると、イエス様は約束してくださったのです。天が開かれるとは、上からの啓示によって、イエス様をより良く知る事を意味します。
あらゆる偽り、欺きからの解放は、ただイエス様の十字架によってのみ、成就されます。それですから、イエス様は、十字架を受け入れて、それを背負ってイエス様に従うことを要求なさったのです。
パウロは、まさに十字架を負って、イエス様に従う用意のできた人でありました。「私は、キリストとともに十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではなくキリストである」と、パウロは、喜んで言うことができたのです。
私たちも、イエス様と出会って、イエス様のまなざしを見る必要があります。深い愛に満ちたイエス様のまなざしは、明らかに十字架について語っているのです。イエス様の希望のまなざしは、ご自分との交わりに入ることを望んでおられます。私たちも、イエス様との交わりに入りたいという強い要求を持っているのでしょうか。
そのことに対して無関心な人は災いです。そして、あわれみに満ちたイエス様のまなざしは、死人をも生き返らせる力を持っているのです。イエス様は生きておられ、自分自身を明らかにしようと、心から望んでおられるお方です。このイエス様をより良く知りたいと切に望む者は、必ず、失望させられず、イエス様こそ私にとって、すべてのすべてであると認めざるを得なくなります。
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