エマオの二人
2020年7月5日、秋田福音集会
翻訳虫
ルカ
24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
[1]はじまり
今、読んでいただきました、ルカの福音書の最後の章には十字架で死なれたイエス様が三日後に復活した、その一日のあいだに起こった出来事が、三つの部分に分けられて、三組の人々の経験を中心に描かれています。初めの1節から12節は、イエス様の墓が空であることを見つけた女たち、次に、エルサレムからエマオへ歩いていた二人の弟子、そして、最後に、36節から後ろは、エルサレムに残っていた十一人の弟子たちであります。
その中で今日は、真ん中の13節から35節までの部分を中心にお話しします。長いので一部分のみ読んでいただきましたが、この部分は『エマオの旅人』の話と呼ばれるところです。
お読みいただきましたように、このはなしは、イエス様の十字架から三日後、墓が空になっていた日の夕暮れ時、二人の弟子、クレオパと名前の分からないもう一人の弟子が、エルサレムからエマオという村に向かて歩いているところから始まります。二人の横には影のようにイエス様が並んで歩いているのですが、二人はそのことに気付きません。
私はいつもこの『エマオの旅人』のはなしには、どこかとても物悲しく、寂しい雰囲気が漂っているように思えていました。
十字架にかかる前のイエス様は、力強く神の国について証しし、また、目を見張るような奇蹟の力を現しています。これに対して、エマオに向かう二人の弟子に現れた主は影か幽霊のように存在感がありません。
しかし、あらためて考えてみますと、この二人の旅人は、やはり、主を知ることなく、自分の思いだけにすがって生きてきた、かつての私たちの姿であり、いつも主がともにいてくださっていたことに気付かずに歩いてきた私たちの姿を映し出しているのではないでしょうか。
今日は、この二人が復活されたイエス様と出会い、希望を取り戻までの心の動きを追いながら、よみがえられた主と今を生きる私たちの交わりについても考えてみたいと思います。
そのために、エマオの二人の行動を表すことば、動詞を四個、抜き出して、このエマオの途上での出来事を考えてみます。それは、この短い時間における二人の弟子たちの変容が、今を生きる私たちが通ってきた、あるいは、これから通るべき心の変化をそのまま表していると思えるからであります。
[2]歩く
四つの動詞のひとつ目は、『歩く』です。もう一度、このことばが出てくる箇所をお読みします。
24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
イエス様の死に希望を失い、これからの人生をどう生きて行けばよいか、途方に暮れていた二人は、おそらくは、とぼとぼと、力ない足取りで歩いていたのではないかと思われます。
この二人は、神が臨在する都であるエルサレム、いずれは神の国の都となることが約束されていたエルサレム、また、三日前まで主が力強く福音を語っていたエルサレムに背を向けて、エマオへと歩いています。余談になりますが、いろいろ調べてみると、エマオという村は現在の地図でどこにあったのか分かっていないそうです。もしかすると、エマオとは、実際の地名ではなく、信仰を失ったまま生きる、希望のない日常生活を象徴する名前なのかもしれない・・・・そんな気もしてまいります。
さて、15節にありますように、イエス様が現れたときは、この二人がお互いの方を向いて、話し合い、論じ合っています。これは、主の方を向いて、直接、御心をうかがおうとせず、書物やネットの知識に目を向けたり、人間のことばの中に何かの説明を求める私たちの姿に通じるところがあるように思えます。
ここに、主『ご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いて』いたとあるように、主は、人の心が離れかけたときは、ご自身のほうへと引き寄せようとしてくださいます。しかし、落胆している二人の目はさえぎられていて、目の前にいる主を見失ってしまいます。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
大きな苦難に立たされて、希望を失った時の私たちも、主はもう消えてしまって、自分の声を聴いてくれない、答えてもくれないと考えてしまうことがあるかもしれません。しかし、真実は逆であって、絶望に沈み込んでいるときこそ、主は近くにおられるのに、自分の心のほうが主から離れてしまっているのではないでしょうか。神が近づいて来ても、自分の方が目をそらしたまま歩いている。その状態をこのエマオの二人に見ることができるのではないかと思います。
[3]立ち止る
二つ目の単語に移ります。力なくエマオへ向かう道すがら、ふたりにイエス様が話しかけます。
24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
イエス様に話しかけられた二人は、『立ち止り』ました。これが二つ目の動詞です。私たちも、主を知らず、この世と自分ばかりを見つめ、主に背を向けて歩いていた中、主のことばを聴いて、立ち止まった瞬間があったのではないでしょうか?
中には生まれたときから、立派な信仰を持った家庭に生まれ、一秒たりとも主から目を離したことのない方もいるかもしれません。しかし、私たちのほとんどは、主から離れて暗闇を歩いている中、生活の苦難や悲しみの中で希望を失なって、『暗い顔つき』でいるとき、何かのきっかけで主のことばにふれ、その言葉が心に入ってきたのではないかと思います。それが、私たちが主のことばに『立ち止った』ときなのではないかと思います。
この後の部分を少し詳しく見てみます。二人はイエス様と並んで歩き始め、その道すがら、イエス様の問いかけに対して、こう答えています。
24:19 ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。
24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。
『預言者でした』、『望みをかけていました』と過去形で語られているように、この二人は預言者はもういなくなった、かけていた望みも失われてしまった、そして、十字架の死で、全てが終わってしまったと思い込んでいます。しかし、キリストが墓からよみがえったことを信じることができない、この二人に対してイエス様は、教えを説きます。
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
聖書の一部分ではなく、『聖書全体』を解き明かされていることに、大いに注目すべきなのではないかと思います。
私たちも、神の大きな目的、御子の十字架とよみがえりを通して人類に救いをもたらすという主の大きな計画の全体像を見ることなく、ただその時々、慰めを与えてくれる聖句、耳に心地よい御言葉を探したり、断片的な知識で満足していることがあるのではないでしょうか?そのこと自体が、全て悪いとは言えないかもしれませんが、やはり主を信じる私たちは、聖書全体を見ることで、初めて明らかにされる神の壮大なご計画に常に心を向けておくことが必要ではないかと思います。
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
彼らを離れて先に進もうとする主に、二人は、『無理に願った』とあります。主の復活と言う真実を受け止める用意のできた二人でありますが、これからの人生を使徒として歩むためには、まだ何かが欠けていると感じたのかもしれません。
ここで思い出される聖句は、預言者としてのイザヤのことばではないでしょうか。
イザヤ
55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
主が何かを示してくださったと感じたら、先延ばしにせず、主を直ちに呼び求め、その啓示の意味を深く探ることが必要であり、二人の旅人も、先に行こうとする主に、『無理に願った』からこそ、次の部分では、目が開かれ、生きた主との交わりを経験することができたのです。
[4]座る
そして、『歩く』、『立ち止る』に続く三つ目の動詞として、主とともに『座る』、すなわち、ともに食卓に着くという言葉に目をとめてみたいと思います。
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
主とともに座る、主と食卓に着くというこの動作は、主の御言葉を外から聴いているだけではなく、主ご自身が、私たちの生活の中に入ってきた、主が人生の大きな部分となったことを表しているのではないかと思います。
また、イエス様は自らの手でパンを割いて渡されました。当時のイスラエルでは、パンを割くのは家の主人の役割だったそうであります。二人が主の裂いたパンを受け取ったことは、イエス様が二人の現実の生活をつかさどる本物の主となられた、二人が生活の中に、真の導き手としての主を受け入れたことの象徴ではないでしょうか。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
閉じられていた二人の目は開かれて、自分たちが今までイエス様とともにいたこと、主がずっとそばで導いていてくれたことにようやく気付きました。
深い絶望のあまり、ふたりの目は曇らされていましたが、今、その信仰が回復し、主のよみがえりを信じることができたことがわかります。世界から消えてしまったと思いこんでいた主が、現実の存在として、今も自分たちの生活の中にいることに、この二人は気付きました。
[5]戻る
さて、エマオの二人の変化を表す動詞の四つ目、『歩く』、『立ち止る』、『座る』につづく四つめの動詞は、『戻る』であります。
24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。
二人はエマオに向かう道から、反転してエルサレムに戻ってゆきました。初めの動詞は『歩く』でしたが、ここでは、『戻る』になっています。『戻る』という動詞は、ただ『歩く』のとは違って、はっきりした意図を持って、目的地へと進んでいく行動を表しています。しかも、その先は、ともに主に仕えた仲間たちが残っているエルサレムであります。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
二人は、主が今も生きておられ、十字架にかけられる前と同じように、自分たちとともに歩いていてくれることを認めました。『暗い顔つき』をしていた二人の旅人は、『うちに燃える心』を持って、エルサレムへ、かつてはともに主に仕えた仲間たちの元へと戻っっていったのであります。
[6]エマオのまとめ
以上みてまいりましたように、13節から35節に渡るこのエマオの旅人のはなしには、さみしい旅人であった二人が、復活された主との再会を通じて、主の雄弁な証し人に変わるという、大きな変化が描れております。
二人の目は、主の復活と言う大きな真実に対して閉じられていました。彼らの目は、途上の宿屋の席で突然、開かれましたが、これは彼ら自身の努力や奉仕や能力によったのではなく、主の一方的な哀れみによるものでありました。私たちの生活においても、失意や悲しみの中にある時、イエス様の姿は見えず、声も聞こえなくても、主は同伴者としてともに歩き、常に最善の方向へと導いてくださるという希望を持つことができるのではないかと思います。
[7]エルサレム
さて、ルカの福音書は、この部分に続きまして、エルサレムに駆け戻った二人が、残っていた十一人の弟子たちに自分たちの経験を告げたこと、また、その場にイエス様ご自身が再び現れてくださった様子が詳しく記録されています。24章の最期の部分をお読みします
24:50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。
エマオの二人とともに歩いてくださった主は、今度は、もっと多くの弟子たちとベタニヤまで歩いてくださいました。そして、今度は、主は弟子たちからも離れて、その姿は再び見えなくなりました。
しかし、エマオの二人も含めて弟子たちは、主の姿が消えても悲しんだり、嘆いたりすることはなくなっています。主が人間のかたちを取って目の前にいないことは問題ではありません。この一日の経験を通して、目には見えなくても、よみがえられた主が力強い同伴者として、ともに歩いてくださることを確信したのではないでしょうか。
復活された主が、天に帰られる前にこうして彼らの前に現れた目的は、主ご自身の言葉で明らかにされています。
24:46 次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。
このルカ伝の最後の章に出てきた三組の人々、すなわち、空になった墓を見つけた女たち、エマオの二人の旅人、そして、エルサレムに残っていた弟子たちは皆、この日、それぞれの場所で主のよみがえりを目撃しました。
十字架にくぎで打たれ、体を槍でグサグサ刺されて死んだ人が三日後に生き返って、話したり、歩いたりするなどと言うことは、とても信じられなくて当然であります。しかし、そのことが、自分たちの目の前で起こった。とても信じられなかったけど、主が言われていた通りに起こりました。
それならば、主が、これから起こると言われていることも、必ず実現するだろうと弟子たちは確信したでしょう。その、これから起こることとは、今、読んだ箇所に書いてありました、『その名――キリストの名――によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』こうして、弟子たちは、主のご計画を実現させる証し人として、これからの人生を生きることを決意したのではないかと思います。
彼らのよろこびは、ルカ伝の最後の二節に現れております。
24:52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。
この日から二千年後の世界に生きている私たちにとっても、主だけを信じる信仰を持つことができれば、復活したイエス様との真の交わりを持てることを、このルカ伝の最後の章は伝えてくれています。
こうして見てみてまいりますと、物悲しく寂しいはなしと見えたエマオの旅人たちの経験は、今に生きる私たちにも勇気を与えてくれる、生き生きとした希望の物語であると思えてくるのではないかと思います。
ありがとうございました。
0 件のコメント:
コメントを投稿