主は生きておられる、53号、2020年
ゴットホルド・ベック
前回、私たちは、人間の罪と主イエス様の血潮の価値について三つのことを学びました。第一に、主イエス様の血潮によって神と人との間を隔てている罪という名の壁は取り除かれ、人は神との交わりが可能になりました。これを深く知るなら、第二に、良心の呵責は消え、第三に、悪魔の訴えは効き目がなくなります。
今回は、私たちの「古い人」に対するイエス様の「十字架」の価値について考えてみたいと思います。
かつて私たちは、神を知らず、望みもなく、滅んでいかなければならない自分を見出した時、このように叫びました。「主よ、私は滅びなければならない罪深い者です。どうか赦して、救って下さい」と。その時、私たちは、主イエス様の流された血潮は、すべての罪を聖める力があるということを深く知りました。そして悔い改めて信仰に立った私たちですが、大部分の兄弟姉妹はさらにその先を経験しているのではないでしょうか。
つまり、私たちは罪を犯しただけではなく、自分自身が罪の本質を根深く持った「罪人である」ということを、認めるようになったのではないでしょうか。
私たちの内にはひとつの力があり、その力が働く時、罪を犯してしまいます。自分が欲していないのに罪を犯してしまいます。そして罪を犯した後で、私たちは主イエス様の十字架を仰いで、心から悔い改め、罪の赦しをいただきます。
ところが、その罪を赦された喜びもつかの間、またすぐに別の罪を犯してしまいます。繰り返し、繰り返し、同じ所を堂々巡りしている自分を見て落ち込みます。その姿はたとえて言えば、大人が、信心深い顔をして子供の遊園地に行き、回転木馬に乗って、ぐるぐる回っているようなものです。
罪を犯しては悔い改め、悔い改めてはまた罪を犯し、なかなか進歩、成長がありません。信仰の世界でいつまでも成長せずに子供のままでいるというのは、回転木馬に乗っている大人の姿と同じではないでしょうか。
前回申し上げたように、確かに私たちはいつどんな状態にあっても、十字架の上で流された主イエス様の尊い血潮をくぐって、聖である神の臨在の御前に出ることができます。主イエス様の血潮の価値は、どんな大罪をも覆って余りがあります。このイエス様の血潮は、私たちを神のみもとに贖い戻すため、つまり、私たちの犯した罪を赦すために、流されました。
ところが、血潮は、私たちの「罪の性質」を消し去ることができません。
私たちの「古い人」、つまり生まれながらの性質をどうにかしなければならないという問題は残るのです。そして、この「古い人」の問題を解決してくださるのも、やはり、イエス様以外にはおられないのです。私たちにどんな悩みがあっても、どんなに難しい問題であっても、それに対する神様の答えは、いつも御子イエス様です。御子イエス様は私たちの身代わりになって死なれ、永遠の贖いのみわざを成し遂げられました。私たちのために死なれたこのイエス様は、三日目によみがえられただけではなく、今も、私たちを自由にし、解放することを願って生きておられるのです。
パウロは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられる。」(ガラテヤ2・20)と言っています。これが私たちの内に事実となる時、初めて主イエス様は私たちの真の解放者となるのです。
いったい、私たちのいのちの支配者、生活の支配者は誰でしょうか。自分でしょうか、イエス様でしょうか。これに対する答えを聞けば、その人の信仰生活が前進しているか、それとも敗北に終わっているかがすぐにわかります。私たちは信心深い顔をして、回転木馬に乗っているような者にはなりたくないものです。
罪の重荷を背負ったまま、主の御前に出て、その赦しをいただいた人は本当に幸いです。けれども、その状態に留まったままでいてはだめです。「罪の力」から解き放たれること、生まれながらの性質から解放されること、「古い人」から自由になることが大切です。このためには、どうしても十字架が必要です。主イエス様が十字架で流された血潮によって、私たちは罪を赦され、贖われ、神との平和を回復しました。しかし、血潮は私たちの生まれながらの性質を「消し去る」ことはできません。十字架が必要なのです。
そこで、次の三つの点について、少しご一緒に考えてみたいと思います。第一番目は、アダムから受け継いだ罪の性質について。第二番目は、アダムのうちにあるのか、キリストのうちにあるのか。第三番目は、罪からの解放のための神の方法についてです。
1.アダムから受け継いだ罪の性質
これについて、おもにローマ人への手紙5章12節から21節に詳しく書き記されていますが、ここでは19節だけお読みします。
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。(口ーマ5・19)
この節の中で、御霊は二つのことを私たちに教えて下さっています。一つは、私たちはどういう者であるか、すなわち私たちは罪人であるということ。もう一つは、この罪はどこからやって来たのか、「最初の人」アダムから(ひとりの人の不従順によって)やって来たということを教えています。
私たちは、信仰生活の第一歩を踏み出してからも、自分がしたこと、また、することに気をとられています。御霊によって罪が教えられた時、そのあまりの恐ろしさに、恐れおののいたことですが、イエス様によって罪が赦されてから後も、行なったこと、行なうことに気をとられているのです。
たとえば、時々次のように考えるかもしれません。「私は大した者ではないが、聖書をよく読み、よく祈り、ご奉仕をよくする。だから立派なキリスト者だ」と。
しかし実際には、なかなか自分の願うような状態に自分がなっていきません。問題は外側に表れた祈りやご奉仕ではなく、私たち自身、私たちの魂がどうあるかが問題なのです。私たちは、心から主に喜ばれたいと願っています。そう真剣に願っています。けれども心の内を顧み、深く自らの魂を覗き見るなら、そこに何か主に喜ばれないものがあるのに気がつきます。謙遜でありたい。しかし自らを謙遜にさせない何かがあります。自分に強いてでも、相手を愛したい。しかし、愛せない何かがあります。これに気がつく時に「主よ、私のすることが罪であるばかりでなく、私自身が罪人です」と言わざるを得ないのです。いったい人間は、どうして罪人になったのでしょうか。
前のローマ人への手紙の5章19節には、アダムの不従順によって人間に罪が入ってきたと書いてあります。
たとえば、私はベックと申します。「ベック」というのは私が生まれた時に、自分で一生懸命、名前の本を調べ、これは良い名前だと思って付けたわけではありません。このベックという名は、私の父の父、そのまた父、ずっと昔の先祖が付けた名前です。私の行なったことではありません。私がたとえ、この名前をどんなに嫌ったとしても、変えることはできません。たとえ私が乞食になっても、大統領になっても、まぁ、ならないでしょうが、やはりベックです。
私たちはなぜ罪人になったのでしょうか。私たちのせいではありません。アダムのためです。私たちが罪を犯したから罪人なのではありません。アダムが罪を犯したとき、アダムの内に私たちがいたから私たちは罪人なのです。
アダムは「最初の人」です。全人類はアダムの子孫です。ですから、全人類はアダムにあって罪人なのです。
ひとつの例をとってみるなら、私の子供は私が結婚したので生まれました。私はドイツで婚約して、日本で結婚しましたが、もし私が日本に来る途中、台風で船が遭難し、死んでしまったなら、私の子供は生まれませんでした。生まれるはずの子供は、私とともに海の中に死んだはずです。そのように私たちも皆、アダムとともに、海の中にではなく、罪の中に死んだのです。
聖書は、アダムが罪を犯した時、私たちもアダムの中にあったため罪人となったと言っています。私たちはアダムの子孫です。子孫としてアダムの罪の性質を持っています。ですから問題は、私たちが何を行なうかだけではなく、私たちがどのような存在であるかという私たちの本質が問題です。
この罪の性質から解放されなければなりません。もし解放されないなら、信仰は成長することがありません。いつまでも信心深い顔をして、回転木馬に乗っていなければならないということになってしまいます。
私たちの生まれながらの性質は、罪の性質です。私たちは生まれた時に、もうすでに罪人という運命に決定づけられていたのです。
もう一つのたとえを話します。日本人がドイツで生まれたとします。彼は日本語を話せません。ドイツ人のようにドイツ語を話して生活したとします。けれども、日本人は日本人です。同じように、その人がたくさん罪を犯すか、少ししか罪を犯さないか、それは問題とはなりません。本質的に罪の性質を持っているということです。人間は罪の性質を持って生まれましたから、罪を犯します。
では、イエス・キリストを信じ受け入れて神の子になっても、相変わらず罪を犯すのは、いったいどういうわけでしょうか。それは、その人が罪の性質の問題を解決していないということです。
なぜ鳥は鳥なのでしょうか。鳥として生まれたから鳥なのです。鳥は飛ぶことができるから鳥なのではありません。病気になって飛べなくなった鳥も、鳥は鳥です。では、なぜ人間は罪人なのでしょうか。罪人として生まれたから罪人なのです。
続いて第二番目の点、「アダムの内にあるのか、キリストの内にあるのか」について考えましょう。
2.アダムの内にあるのか、キリストの内にあるのか
アダムの内に、またキリストの内に、と言うのはいったい何を意味しているのでしょうか。
アダムの内にあることは絶望を意味し、キリストの内にあることは希望を意味しています。前にも引用したみことばには、アダムのことばかりではなく、キリストについても書かれています。
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。(口ーマ5・19)
アダムによって罪がこの世に入り、罪によって死が入ってきました。アダムによって、全人類は望みのない罪人となってしまいました。
ところがこの暗闇の中に、ひとすじの光が差し込んで来たのです。それは「ひとりの従順によって多くの人が義人とされる」、すなわち主イエス様の従順が全人類を救うのです。
アダムの内にあるということは、罪人であるということ、また罪の性質を持っているということを意味しています。聖書からダビデ、ペテロ、ヨブ、そしてパウロの告白をお読みします。ダビデは次のように告白しています。
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみこもりました。(詩篇51・5)
ペテロは、イエス様のことば通りに従って大漁を経験したとき、「イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』と言った。」(ルカ5・8)と記されています。ペテロは「主よ。私のような者から離れてください」と叫んだのです。幸いなことに、イエス様はペテロから離れませんでした。イエス様は、ペテロの罪をすべて赦してくださり、それから彼をご自分の弟子としてくださったのです。
ヨブは、主が全能者であられることを見たとき、「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(ヨブ42・6)と告白しました。
パウロもまた、自分の内を見せられて次のように告白しました。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。(口ーマ7・21)
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。(ローマ7・18)
「アダムの内にある」ということは、罪人である、また罪の性質を持っているということを意味しています。彼らの告白を見てお分りになったことと思います。これに対して「キリストにある」ということは、神の子であること、神の性質を持っているということを意味しています。エゼキエル書を見てみましょう。
その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。――神である主の御告げ。――(エゼキエル16・14)
雅歌には、「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ。あなたの髪は、ギルアデの山から降りて来るやぎの群れのよう、…わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」(雅歌4・1、7)と書かれています。
そしてマタイの福音書には、「すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』と言うわれた。」(マタイ9・2)と記されています。パウロが諸教会へ宛てた手紙には、次のように書かれています。
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(コロサイ2・9~10)
あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(1コリント6・11)
このような箇所を見るとわかりますが、アダムの内にいることは絶望であり、キリストの内にいることは希望であります。私たちは生まれながらの性質から解放されなければなりません。
パウロは信者たちに向かって、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」(ローマ6・1)と尋ねています。「絶対にそんなことはありません」と続いて答えています。極みまで聖である神が、汚れた人間を良しとされるでしょうか。そのままで満足されるでしょうか。聖書は、語っています。
絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしよう。(口ーマ6・2)
それでは、主は、私たちが生まれながらの性質から解放されるために、備えをしてくださっているのでしょうか。私たちは性格的に弱い者です。けれども、その弱さの上に恵みが与えられました。神の強さと信仰が生きて、加えられました。
私たちの持っている最も弱い点が、強い点となり得るのです。
最後に、罪の力から解放されるための神の方法について、ご一緒に考えてみたいと思います。
3.解放のための神の方法
私たちが罪から解放される方法も、二つの点に分けて考えることができます。一つは、「最後のアダム」であるイエス様の死です。二つ目は、「第二の人」であるイエス様のよみがえりです。
これまで、人類はアダムの内にあって罪人となったという事実を学んで来ました。では、いったいどうしたら、アダムの内にいる私たちがそこから逃れ出ることができるのでしょうか。
主イエス様の十字架の血潮は、私たちの罪を赦し、贖いを成し、神との平和を与えてくださいました。しかしその知識があっても、アダムの性質、つまり罪の性質からは逃れ出ることができません。主イエス様の血潮ではアダムの内からは解放されません。では信者はどのような方法によって、罪から自由になることができるのでしょうか。
人は元々、アダムの性質に預かって生まれて来ます。そして死ねば、アダムの性質から逃れられます。死ぬことによってのみ、罪の性質から逃れることができるのです。
ですから問題は、いったいどうしたらアダムの内にある自分が死ぬことができるかということです。私たちは、自分で死のう、死のうと試みますが失敗に終わります。肝心なのは、私たちが自分で死のうと努力するかわりに、神様が私たちを罪の力から解放するために、何をなされたかを知ることです。ローマ人への手紙に次のように書いてあります。
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。(ローマ6・3)
ここに「私たちは・・・・その死にあずかるバプテスマを受けた」と書かれています。どうしたらイエス様の中に入って死ぬことができましょう。自分でどんなにもがいても、どうすることもできないのであります。ですから神が成して下さいました。私たちは、もうすでにイエス様の内にいるので、その心配は必要ないのです。主である神様があわれみにより、私たちをキリストの中に入れて、キリストの内においてくださったのです。聖書は語っています。
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(1コリント1・30)
ここに「あなたがたは・・・・キリスト・イエスのうちにあるのです」と書いてあります。私たちは間違いなく、確かにキリストの内にあるのです。私たちは、どんなふうにキリストの内に入ったのかを知りません。しかしもうすでにキリストの内にあることを、神のみことばによって、十分に知ることができるのです。
私たちは、幸いなことにもうすでに主イエス・キリストの内にいます。これは神のなされたみわざです。これは、私たちがそれを信じようが信じまいが、また、それを感じようが感じまいが、動かすことのできない神の事実です。主イエス様が十字架で死なれた時、私たちもイエス様とともに死んだのです。なぜなら、私たちはイエス様の内にいたからです。みことばは言っています。
私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。(2コリント5・14)
主イエス様が十字架におかかりになったその時、私たちも十字架にかかったのです。たとえば、私が今持っている本に一枚の紙をはさんだまま、仙台に送るとします。紙を送るつもりはなかったのですが、とにかく本の間に挟んであったので、この一枚の紙も本と一緒に仙台へ行ってしまいました。本だけが仙台に行って、この一枚の紙は広島に行くというようなことはあり得ません。
「あなたがたは・・・・キリスト・イエスのうちにあるのです」。主なる神は、私たちをイエス・キリストの内に入れてくださいました。ちょうど、本の間に紙が挟まっているように、私たちは主イエス様の内にありましたから、主イエス様が十字架にかかられた時に、私たちも十字架にかかり、主イエス様が死なれた時に、私たちもともに死んだのです。ですから、「十字架につけてください」と神様に願う必要はないのです。
主イエス様が亡くなられた時、私たちもともに死にました。ですから、私たちの死はもう終わったのです。これから死ぬ、ということはあり得ないのです。新約聖書のどこを開いても、私たちはもうすでに主イエス様とともに死んでしまっていると語っています。これに関連しているいくつかの聖書の箇所をお読み致します。次のローマ人への手紙6章で「私たちの古い人」というのは、私たちの生まれつきの古い性質のことを指しています。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。(ローマ6・6)
ここで「キリストとともに十字架につけられた」と過去形になっています。
次にガラテヤ人への手紙を読みましょう。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2・20)
ここでも同じように「私はキリストとともに十字架につけられました」と過去形が使われています。
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。(ガラテヤ5・24)
ここも過去形で「つけてしまったのです」となっています。
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ6・14)
ここでも過去形が使われています。これらの箇所を通して、ほんとうに、私たちはもうすでに主イエス様とともに死んでしまっていると、はっきりとわかるのです。
誰も、自分で十字架にかかって自殺することはできません。自分で自分の両手、両足に釘を打つことはできません。打つことができても、片手くらいです。これと全く同じように、私たちは、自分で自分の罪の性質を取り除くことはできません。神様が私たちを主イエス様の内に置きたまいましたから、主イエス様が十字架におかかりになった時、私たちもともに十字架につけられました。私たちも主イエス様とともに十字架につけられたということは、教えでもなく、理論でもありません。永遠に変わらない神の事実なのです。
また、主イエス様の死とよみがえりは、私たちの身代わりでした。主イエス様が十字架の上で亡くなられ、あの罪のない、しみのないご自分の体を私たちにお与えになったのは、あの尊い血潮を流されたのは、私たちの恐るべき罪を贖って、神の聖と義を満足させるためだったのです。
この救いの業、贖いの業は、主イエス様だけが成し遂げられたのです。いかなる人間と言えども、この業に加わることはできませんでした。聖書のどの頁を読んでも、私たちの血潮が主イエス様の血潮とともに流されたなどということは書いてありません。神の御前におけるこの蹟いのみわざを、主イエス様はおひとりで成し遂げられました。
しかし主イエス様は、ただご自身の血を流すためだけに亡くなられたのではありません。私たちもともに死ぬために、血を流して亡くなられたのです。主イエス様は、私たちの身代わりに亡くなられました。主イエス様の死に、あなたも、私も、含まれているのです。というのは、神が私たちを主の内に入れ、私たちは主イエス様とともに十字架で死んだからです。主イエス様の死の中には、あなたも、私も全人類が含まれています。全人類は、主イエス様とともに死にました。
そして、主イエス様の死ばかりではなく、主イエス様のよみがえりも、あなたと私を含んでいます。全人類は、主とともによみがえらされたのであります。
コリント人への第一の手紙15章に次のように記されています。
聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。・・・・第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。(1コリント15・45、47)
この中で、イエス様は「最後のアダム」と言われています。「第二のアダム」とは呼ばれていません。また、「最後の人」ではなく「第二の人」と呼ばれています。どうしてでしょうか?
「最後のアダム」としてのイエス様の中に、全人類は含まれています。また「最後のアダム」として、イエス様は、罪に堕落し、囚われの身となっている全人類とともに、裁きと死に服されたのです。
そして「第二の人」として、主イエス様は新しい人類のかしらとなられました。また「第二の人」として、主イエス様は新しい全人類とともによみがえられました。その中に私たちも含まれていたと聖書は告げています。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ6・5)
愛する兄弟姉妹よ。私たちは「最後のアダム」として主とともに死に、「第二の人」として、主とともによみがえりました。ですから、私たちをアダムからキリストの内に移したその力は、「十字架」にあったわけです。
ここまで、生まれながらの性質、古い人について考えて参りました。私たちは、この問題の生まれながらの古い人、性質は、主の十字架によって、もうすでに取り除かれていることを見て来ました。私たち、主イエス様を受けた者の内で支配しているのは、古い人アダムの性質ではなく、主イエス様のいのちです。そしてイエス様はご自分の栄光を、私たちの内に現わそうとなさるのです。これこそが罪の力からの解放です。
十字架はなぜ、私たちに必要なのでしょうか。イエス様がご自分のいのちをあなたの内に、また私の内に住まわせるために必要なのです。もう一度コリント人への第一の手紙1章を読みましょう。
あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(1コリント1・30)
「知恵」とは何でしょう。それは主イエス様です。
「義」とは、「聖め」とは、「贖い」とは何でしょう。それは主イエス様です。私たちが至るべきその聖は、主イエス様です。
あなたは、自分の高ぶりに気がつき、謙遜になりたいと思っておられるかもしれません。けれども謙遜を求めても、それは得られません。あなたが求めなければならないのは、主イエス様だけです。
神は、忍耐、愛、謙遜、柔和を一つ一つ分けてあなたに与えることはできません。しかし主である神様は、私たちにもうすでにイエス様を与えてくださっています。私たちが、主イエス様により頼み、イエス様を心に豊かにお迎えするなら、イエス様が私たちの謙遜であり、忍耐であり、愛となってくださいます。
主である神は、忍耐や愛や謙遜を売りさばく商人のような方ではありません。神は、私たちのいのちとなるように、主イエス様を私たちにくださいました。私たちは、無理にクリスチャンらしい生活をする必要はありません。ただ自分を主に明け渡して、主イエス様が私たちの内に住まれることを、許しさえすれば良いのです。パウロが書いています。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2・20)
パウロと同じように、私たちひとりひとりが「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」というこの堅い信仰の内に立ちたいものです。
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