2019年11月15日金曜日

イエスの救い(一)人間の罪とイエス様の血潮の価値[主は生きておられる52号]

イエスの救い(一)人間の罪とイエス様の血潮の価値
主は生きておられる、52号、2019年
ゴットホルド・ベック

聖書は私たちに理論や教えを伝えようとしているのではありません。事実を伝えようとしています。

聖書の中でもっとも大切な事実は、主イエス様のなされた救いです。私たちはこの事実を、頭の中に蓄えた知識として知っているだけでは駄目で、生活の中にその知識が満たされ、体験的に知っていなければなりません。このような知識は、頭の知識とは遠くかけ離れた知識であって、私たちの人格から切り離して考えることのできないほど内に深く浸透しているものです。

私たちは今、末の世の暗黒の時代に生きています。私たちには岩のように堅いしっかりとした土台が必要です。その土台とは、今述べたような生活の中にしみこんだ知識、聖書が伝える神の永遠に変わらない事実でなければならないと確信しています。


では、神の永遠に変わらない私たちに対するご計画とはいったいどのようなものでしょうか。ここでご一緒に考えてみたいと思います。

1.神のご計画

はじめにみことばを二箇所読みましょう。

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。(ヨハネ6・40)

みことばに「子(イエス・キリスト)を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つ」と書いてあります。良い行ないをして一生懸命努力する者が永遠のいのちを持つ、とは書いてありません。イエス・キリストの十字架における救いのみわざを見て受け入れる者が、皆、例外なく永遠のいのちを持つとイエス様ははっきり約束してくださったのです。それが神である「父のみこころ」だ、と言われました。また、神様のご計画のもう一つの面を考えなければなりません。パウロはガラテヤに住んでいるクリスチャンたちに次のように書き送りました。

私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(ガラテヤ4・19)

神様の私たちに対するご目的は、私たちが罪から救われること、そして神の子とされた者が、神のひとり子、すなわち主イエス様の御姿に似せられていくことです。

私たち一人ひとりは自分の強い点、また弱い点を知っています。あなたは信者となってから主のみこころに適う勝利の生活を願い、そのために祈ってこられたことでしょう。けれども、その結末は敗北に終わってしまっていませんか。一体どうしてでしょうか。まことの土台を持っていないせいでしょうか。聖書の知識が足りないせいでしょうか。

人間には多くの悩みや苦しみがあります。それに対する神の備えは、いつもご自身のひとり子である主イエス様です。英語でよく言われる、『Christ is the answer』です。それは私も知っている、とおっしゃるかもしれませんが、もしそれを知っているなら、なぜ、自分の力で勝利の生活を送ろうと努力するのでしょうか。主イエス様だけが、私たちに勝利の生活を送らせることがおできになります。

パウロは自分の信仰生活において、勝ち得て余りがあると証ししています。

私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8・37)

パウロは勝利の秘訣を握っていました。それは、ガラテヤ人への手紙にあるとおりです。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2・20)

私たちは自分自身で勝利の生活を送ることはできません。私たちの内に住み給うイエス様だけが、勝利の生活を送らせてくださるのです。ですから、私たちの内にイエス様の似姿が形造られてくるということが、本当に大切なことなのです。

あなたは、主はどうして私をこのような環境の中でお取り扱いになるのだろう、私にはどうしてこんなに悩みがあり、苦しみがあるのだろう、と思っていらっしゃるかも知れません。それは、あなた自身が死んでなくなり、あなたの内に主イエス様が生き給うという真の知識に達するよう、神様が導いておられるからです。

私たちはいろいろな願いをもっていますが、主である神はそれにお答えになるときに、「イエス様」をお示しになります。その他のどのような方法もおとりになりません。それでイエス様がどういうお方かを知るために、今から少しだけ「人間の罪の三つの側面」と、「イエス様の流された血潮の三つの働き」について考えてみたいと思います。もちろんこれらについても、やはり理論や教えは大切ではありません。事実が問題となります。神のことばは私たちの罪と主イエス様の血潮の価値を次のようにはっきりと述べています。

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(口ーマ3・25~26)

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(ローマ5・8~9)

2.人間の罪の三つの側面

まず人間の罪について考えるとき、罪には三つの側面があると言えるでしょう。それは、神も、人も、悪魔も、人間の罪の事実を認めているということです。

最初の人アダムが神に対して不従順であったために、神と人との間に隔たりができてしまいました。すなわち、不義と罪が、神と人との間を隔てたのです。聖書に明確にそう耆き記されています。

あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59・2)

ですから神が、全人類はことごとく罪の下にある、と言っておられるのです。ローマ人への手紙3章にも、次のように書かれています。

では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3・9~12)

これは、生きておられ、人間の心の奥底を完全に知っておられる神の判断です。また罪によって神に対して隔ての壁ができてしまっただけではなく、人間の内側に「良心の呵責」も生じてきたのです。罪を犯し、神との間に隔たりができたために人間には良心の呵責が生じました。神の霊、聖霊なる神が人の心に働くとき、人間はことごとく罪の下にあることを悟り、自分は罪を犯したと認めるのです。聖書の中で放蕩息子が次のように告白しています。

立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し.またあなたの前に罪を犯しました。」(ルカ15・18)

私たちは良心の呵責をもっています。悪魔はそれにつけこみ、人間に対して、お前は罪を犯した、駄目な罪人だと言います。

悪魔は訴える者、告発する者としてヨハネの黙示録に書かれています。

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また.神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」(黙示12・10)

このように神も、人間も、悪魔も、人間の罪の事実を認めています。ですから、私たちが真の自由を得るためには、これら三つ「神に対する罪」、「自分の内側にある良心の呵責」、「悪魔の訴え」のすべてを解決することが必要です。

では一体どうしたら、この三つの問題を解決することができるのでしょうか。解決はイエス様にあります。

3.主イエス様の血潮の価値

人間のあらゆる困難、苦しみに対する神の答えはいつもただ一つ、すなわちご自身の御子、主なる神、イエス・キリストにある、ということをはじめにお話ししました。今述べた罪の三つの問題も、もうすでに主イエス様によって、その犠牲によって、解決済みです。

神と人との間を隔てている罪という名の壁は、主イエス様の血潮によってもうすでに取り除かれました。隔ての壁は廃棄されたのです。それによって神のご臨在の中に入っていくことが可能になりました。神との交わりが回復され、人は再び神と交われるようになりました。ですから、イエス様の十字架の血潮の価値をよく知るならば、私たちの良心の呵責は消えてなくなり、罪の赦しを得た喜びと平安を自分のものとすることができます。さらに私たちが主イエス様の血潮の価値を深く知るなら、たとえ悪魔が訴えても、神が満足しておられるのですから効き目がなくなります。このように、主イエス様が十字架で流された血潮の力は、無限に価値あるものなのです。神に対し、内側の良心の呵責に対し、また悪魔の訴えに対して、十二分の効果を持っています。

私たちが霊的に進歩し、成長を遂げたいなら、どうしても主イエス様の血潮の限りない力を知る必要があります。主イエス様が十字架にお架かりになり、その時、流し給うた血潮の絶大な価値を知らなけれぱなりません。このみことばの知識なしには、イエス様にお従いすることはできないからです。それでは、この三つのことをもっと詳しく学んでみましょう。

・血潮は神の満足のために流された

第一番目、イエス様の流し給うた血潮は、まず、主である神様のために流されたということを知る必要があります。

もちろん主イエス様の血潮は、私たちの贖いのために流されました。私たちの罪が赦されて、私たちが主である神に仕えるように流されたのです。罪人である私たちが神にさばかれないためには、どうしても罪の赦しと贖いが必要です。この罪の赦しは、他の宗教、また理諭や教え、道徳的に良い行ないによっては得られません。ただ、主イエス様の流し給うた血潮の事実によってのみ、罪の赦しがなされます。

しかし、主イエス様の血潮はまず、主である神のために流されたのであり、私たちのためではありませんでした。もし、私たちが主イエス様の血潮の価値を知ろうとするなら、私たちは最初に、主である神がイエス・キリストの血潮をどのように考えておられるか、知らなければいけません。

もし私たちが、神がイエス様の血潮の価値をどのように考えておられるかを理解しないなら、イエス様の血潮が私たちにとってどんな意味があるかもわからないはずです。御霊様が、神が御子の血潮をどのようにお思いになっているかを私たちに教えてくださるときはじめて、私たちはイエス様の血潮の尊さを知ることができます。

旧約聖書を見ますと、「(ささげ物の)血」という語が百回以上出てきますが、どの箇所においても、この贖いの血は神のためのものだと言っています。

さて旧約時代における一番大切な日は、贖罪の日であったと思われます。レビ記16章は贖罪の日のことを詳しく伝えています。

アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。彼が贖いをするために聖所にはいって、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。(レビ16・15~17)

贖罪の日には、すべてのイスラエルの民が幕屋の前に集まり、自分たちの罪のために身代わりの子羊を殺します。その血潮は、大祭司が神の臨在し給う至聖所に携えて行き、それを『贖いのふた』の上と前に七度振り注いだと記されています。(『贖いのふた』の上の雲の中に神が現われるので、そこに勝手な時に近づくことは禁じられていました。)犠牲の子羊は幕屋の前庭ですべての民が見ている前で殺されます。しかし、その血を至聖所に携えて行くことが許されているのは、大祭司だけでした。大祭司は民の罪を贖うために、血を携えて主の御前に出て行きます。

この大祭司は主イエス様の雛形です。ヘブル人への手紙9章11、12節を見るとよくわかります。

しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度.まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル9・11~12)

大祭司が一人で神の臨在し給う至聖所に入ったと同じように、私たちの救い主イエス様も一人で十字架にかかり、血潮を流され、三日目によみがえり、天の父なる神のみもとに贖いの血潮を携えて行かれました。大祭司はきよめの血潮を携え、全会衆から離れて、まず、神の御前に出て行きました。神はその血潮を見て満足されました。これを見ても、血潮は第一に神のためのものであることがわかります。主の贖いのもう一つの雛形は、出エジプト記12章13節に見られます。

あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには減びのわざわいは起こらない。(出エジプト12・13)

エジプトを出るにあたり、イスラエルの民はみな傷のない子羊を殺してその血を家の二本の門柱と鴨居に塗らなければなりませんでした。神はその血を見て、その家に災いをくださず、その家を通り過ぎる、と言われました。イスラエルの民が家の入りロの見える所に血を塗ったのは、主である神がその血を見られるようにするためでした。神のさばきが過ぎるまで、人々は家の中で殺した羊の肉を焼いて食べていました。家の中にいる人々にはその血は見えませんでした。この出エジプト記の過ぎ越しに際し、イスラエルの民が殺した、傷もしみもない子羊は主イエス様の雛形です。

主である神は、極みまで聖であり、義であられますので、罪ある人間を贖うためには、罪のないものを罪あるものとする必要があったのです。血を流す、ということはいのちを与えるということです。なぜなら、いのちは血にあるからです。

ヘブル人への手紙9章22節には「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」と書いてあります。主イエス様がいのちを捨て、血潮を流されたとき、神はその御心を満足されました。「わたしは血を見るならば、災いをくださず通り過ぎるであろう。わたしはわたしの子、イエス・キリストの血潮を見るなら満足する」と、主なる神は言われます。これこそ、私たちが知らなければならない、主である神の永遠に変わることのない事実なのです。

・血潮によって良心の呵責は消え去る

主イエス様を信じて救われる前は、私たちの良心は曇って死んだようなものでした。けれどもキリスト者とされたいま、自分が神に不従順であるとき、それが罪として私たちの良心に敏感に響いてきます。そのようなとき、私たちは自分ばかりをみつめ、主イエス様の血潮の価値を忘れて、気落ちしてしまいます。私たちの罪がイエス様の血潮よりも大きいかのように、考えてしまっているからです。

私たちはどうしてそんな風になってしまうのでしょうか。私たちは、何かをこの身に感じたいのです。そしてその感じ方により、主イエス様の血潮の価値を判断したいと思っているのです。これは大変な誤りです。血潮はまず、主である神のために流されました。イエス様の血潮が主なる神にとってどれほど完全な価値を持っているかを知る必要があります。私たちの感じることは大切ではありません。神のことばを心の底から信じることが大切です。

私たちは主イエス様の血潮の価値を信じなければなりません。なぜなら聖書は次のように言っているからです。

ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1・18~19)

「あなたがたが…贖い出されたのは、キリストの尊い血によった」と書いてあります。主である神が、御子イエス様の血潮は人間のすべての罪を取り除くのに十分であるとみなされたことを悟ることが大切です。これによって、神と人とを隔ててきた罪の壁がまったく取り除かれていることを、信じることができるわけです。まず神がそうおっしゃったのですから、私たちはそう信じることができるのです。

私たちの信仰の土台は、神の言われるみことばです。神の御約束です。主である神は聖であり義であられます。その神が、イエス様の血潮はすべての罪をおおうために十分である、と言っておられます。この血潮の価値により、信者が神のご臨在に入ることが可能となりました。主イエス様の血潮の価値をよりよく悟るなら、私たちの良心の呵責は消えてなくなります。神は主イエス様め血潮に心から満足されました。このイエス様の血潮は私たちにとっても十分であるはずです。聖書は次のように言っています。

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10・22)

このみことばは、一体何を意味しているのでしょうか。いままでは、主である神と人を隔てていた罪という名の壁がありました。ですから絶えず良心に咎をおぼえて苦しんでいたのですが、いまや主イエス様の犠牲の血潮が流され、この罪の壁は取り除かれ、贖われ、良心の呵責は消え去ったのです。もし、私たちがこの永遠に変わらない事実の上に立つなら、私たちの良心の呵責は跡形もなく、消え去ってしまうのです。

信仰生活には、二つのことがらがいつも並行していなければなりません。それは、信仰に満ちた心と、咎めの消え去った良心です。もし、咎めの消え去った良心を常に持ち続けることができないならば、私たちの信仰生活は前進しません。ですから私たちは日々、時々刻々、イエス様の血潮の無限の尊さを味わい知らなければならないのです。

私たちは祈るとき、何を土台にして祈っているでしょうか。イエス様の血潮でしょうか。それとも他の何かでしょうか。私たちは聖さが必要であり、主イエス様の血潮をくぐって初めて、大胆に主である神の御前に近づくことができるということを、いつも考えているでしょうか。それとも、きょうは一日穏やかに過ごした、主のために何か行なった、満足だ、というところから祈り心が湧いてきて、そのような気持ちや気分を土台に祈るのでしょうか。もし、気分を土台に祈るなら、それは絶望への第一歩と言わなければなりません。なぜなら、気分の良い日は一週間にそんなにたくさんはないからです。良心の平和は気分の上に成り立つものでは決してありません、ただ、流された主イエス様の血潮を受けるときにのみ、良心の平安があるのです。このことを知ることは本当に大切なことです。ヘブル人への手紙10章19節にこう書いてあります。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」。血によって、大胆に主の御前に近づくことができます。

またあるときは、きょうは注意深く一日信仰生活を送った、いつもより多く祈り、多く聖書を読み、主の御前で黙想のときを長くもった、だから喜んで主の御前に近づくことができる、と思う人がいるかもしれません。またこんなこともあるでしょう。朝食のとき、家族と何かでいさかいをし、面白くないことがあったり、また朝、目を覚ましたとき気分がすぐれず、主イエス様との関係が何か思わしくないように思えて、きょうはよく祈れないということもあるでしょう。

愛する兄弟姉妹よ、私たちは何を理由に、何を盾に取って神に近づくのでしょうか。定まりのない、揺れ動く私たちの感情をもとにして主に近づくのでしょうか。それとも岩のように動かない土台、すなわち主イエス様は私たちの罪のために血潮を流された、神はそれを心から受け入れ満足し給うた、という永遠に変わらない事実に基づいて神に近づくのでしょうか。

私たちがいくらむきになり必死で祈っても、主は聞き入れ給いません。ただ、主イエス様の血潮をくぐって神に近づくときにのみ、主はその祈りを聞かれます。主イエス様の血潮は永遠に、そのカを失いません。ですから私たちはいつも主の血によってはばからずに、しかも喜びをもって神の御前に近づくことができるのです。私たちが何かやったからではなく、ただ、主イエス様の流された血潮のゆえに主なる神の御前に出ることができるのです。

たとえ私たちがおととい、昨日、きょう、どんなにすばらしい経験をしたとしても、それをもとに、神に近づくことはできません。ただ、流された主イエス様の血潮をくぐってのみ、主なる神の御前に出ることができるのです。きょうは良い日だった、昨日は良い日だった、というその気分によっては神に近づき得ません。主イエス様の贖いの血潮によってのみ、近づき得るのです。

私たちがイエス様を受け入れたとき、主の血潮を信じたとき、神との間を隔てていた罪の壁は取り除かれました。主イエス様の血潮によって、まったく取り除かれました。聖書に「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです」(エペソ2・13)と書いてあります。キリストの血によって、あなたがたは近い者とされたのです。しかし、キリスト者となったいまも、やはり、ただ一つの理由をもって、すなわち、イエス様の血潮のゆえに神に近づくことができるのです。

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10・19、22)

このエペソ人への手紙、ヘブル人への手紙のことばを見るとわかるように、信仰生活の第一歩はイエス様の血潮によって踏み出されますが、信仰生活の一歩み、一歩みもイエス様の血潮によってのみ歩むことができるのだということを、忘れてはいけないと思います。

これまで繰り返し、重ねてイエス様の血潮のことをお話しましたが、それは信仰生活の一番初歩のことだ、それはもうわかりきったことだ、信仰のABCではないかと言われるかも知れません。けれども、困ったことには、人間はその一番の基礎を忘れやすいのです。

愛する兄弟姉妹よ、本当に覚えていていただきたいことは、死に至るまで、やがて天に召される日まで、このイエス様の血潮によって歩み続けなければいけないということです。

主イエス様の血潮は流されました。父なる神はこれをまったく良しとなさいました。ですから、イエス様の血は私たちにとっても十分に価値あるものです。

私たちは弱い存在です。弱いところをたくさんもっています。けれども、その弱いところを見ているだけでは決して強くなれません。また、私たちは、この群れが祈りに乏しいと思うかもしれません。しかし、そう考えているだけでは何にもなりません。はばかることなく、恵みの御座に近づきましょう。そして主に、「イエス様、私は流された血潮の価値をよく知りません。それでもあなたは、それを良しとされました。ですから、血潮は私にとっても十分であるということを信じます。血潮をくぐって御前に近づきます」と言いましょう。このようにして主に近づくと、良心の咎は消え去ります。良心の咎が消え去ると、私たちの内には大胆さが湧き上がって来ます。

ヘブル人への手紙に「もしそれ(完全にすること)ができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです」(10・2)と書いてあります。「もはや罪を意識しない」とありますが、これは主イエス様の血潮の価値を深く体験してはじめて言えることばです。そんな人々にとって、主イエス様の血潮に対する知識は、各々のいのちとなっています。頭の中に蓄えた知識ではありません。このような人々はパウロやダビデと共に、「主が罪を認めない人は幸いである」(口ーマ4・8)と言うことのできる人です。最後にイエス様の血潮の価値の第三の点について、少し考えてみましょう。

・血潮は悪魔の訴えを無効にする

主イエス様の血潮によって、罪という壁は取り除かれ、良心の呵責は消えてなくなっただけではなく、私たちが主イエス様の血潮の価値を深く知るなら、悪魔の訴えは効き目がなくなります。兄弟を訴える者、つまり悪魔に対する主イエス様の血潮の勝利について、最後に考えて終わりたいと思います。

イエス様に属する者を訴えることは、こんにち、悪魔のする一番大切な仕事の一つです。私たちはどうしたら、いったい悪魔に打ち勝つことができるのでしょうか。

主イエス様の血潮によってのみ、悪魔に勝ち得ます。主イエス様の血潮はもうすでに流され、もうすでに神と人との間を隔てていた罪の壁は取り除かれました。そしていまや、神は人間の側に、味方となって立っておられます。ですからどんなに悪魔が訴えて来ても、その訴えは虚しいものです。もし私たちが主イエス様の血潮をしっかりと信じるならば、そうです。ヨハネの手紙第一にこうあります。

しかし、もし神が光の中におられるように.私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1・7)

このみことばは私たちの毎日の信仰生活にとって、なんと尊いみことばでしょうか。「すべての罪から」、各々の罪から私たちをきよめると書いてあります。「神が光の中におられるように」、私たちも主の光のうちを歩むならば、私たちの罪は大小にかかわらず、意識する意識しないにかかわらず、すべてきよめられていると言っています。ですから、悪魔は訴えても無駄です。サタンがどんなに訴えても無駄です。主イエス様の血潮のゆえに、いまや神が、私たちの味方となっているからです。ローマ人への手紙8章を読みましょう。

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(口ーマ8・31~34)

なんという素晴らしい真理でしょうか。愛する兄弟姉妹よ。血潮は神が完全に満足されたものである、という知識が必要です!

悪魔がやってきて訴えて言います。「お前は罪を犯した。主はもはやお前を用いないであろう」と。このようなとき、悪魔の訴えに耳を貸すと敗北に終わります。なぜ、私たちは悪魔のことばを信じるのでしょう。それは私たちが、まだ自分の内に何か良いものが残っていると考えているからです。私たちが自ら行なってできることは、罪ばかりです。それ以外の何物もなすことができません。これを深く知らなければなりません。この事実を認めるなら、サタンがやって来て「お前はまた罪を犯した!」と責めたとき、「それは前からわかっている。私の内にはなんの良いところもない。しかし、私のためには主イエス様の血潮がある。神様はこの血に満足しておられる。だから私ははばかることなく神の御前に祈ることができます」と言えるはずです。

もし私たちがこの主の血潮の価値を忘れると、悪魔が勝利を得て出しゃばってきます。主だけが、訴える者である悪魔に打ち勝つことができるのです。主はもうすでにイエス様の犠牲の死によって、打ち勝たれました。もし、私たちが主の血潮の価値を十分に知るなら、悪魔がつけこむ隙はまったくなくなるはずです。主の血潮を私たちの目の前から決して追いやってはいけません。主イエス様の血潮は神の満足なさったものであり、主イエス様の血潮は私たちの平安の源でもあります。この事実は悪魔の訴えを完壁に退けます。

愛する兄弟姉妹方よ、私たちの力と平安と喜びの源は、すべて、主イエス様の血潮の中に含まれています。主イエス様の血潮を深く喜び、主の血潮に心からの感謝を捧げて、さらに一歩前進したいものです。

0 件のコメント:

コメントを投稿